佐々木喜善「聽耳草紙」 一三一番 あさみずの里
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]
一三一番 あさみずの里
此話は糠部《ぬかのぶ》の郡のアサミズの里にちなんだ、旅人の泊客《とまりきやく》が夜の中《うち》に殺されて、朝を見なかつたと云ふ話の群(ムレ)からとつた名である。此話の本場は、今の淺水の里にあつたと言ふ其話が元であらうが、それに類した話なら諸所にも多くあつたから、其一つを此所に記して見る。
或山奧に五六軒の村屋があつた。此所では旅人を泊めては其夜の中に殺して、其持物や金などを取つて、夫々《それぞれ》に分配することを習慣にして居た。或時旅の六部が來て泊つたが、夏のことだつたと見えて、其家では六部をキツの上に蓙(ゴザ)を敷いたヨウカに寢せた。もとより此のヨウカにはカラクリがしてあり、端の板を引けば上の人間はどんとキツの中に墜ちる仕掛けであつた。勿論そんなことは夢にも知らぬ六部はいゝ氣持ちで眠つてゐるところを、不意にキツの中に墜《おと》されて、上からすぐに蓋《ふた》をされ、其蓋の上には大石《おほいし》や臼などが幾つも幾つも積み重ねられた。しかし其六部は七日七夜も叫んだり泣いたり、どしんどしんと體を板に打《ぶ》ツつけて暴れ𢌞つたりして居た。それを村人が代り代りに來て立聽きをしながら、いやはや剛情な六部樣だ、まだまだ生きて居ると言ひ言ひ、六部が命(メ)を落すのを待つた。
金はいくら持つて居たか分らないが、衣物は其宿主が翌日から着て步いた。すると彼《あ》の人はいゝお客を取つて本當によい事をしたと言つてケナリ(羨まし)がつた。其村も家も分つて居るけれども今は言ふことを憚かる。斯う云ふ家には後世《ごぜ》までも罪バウゴウが殘つた。
又或所の大屋の家に、正月二日の夕暮時旅の六部が來て泊つた。この家では風呂桶《コガ》[やぶちゃん注:「桶」一字へのルビ。]へ入れて蓋をして蒸《む》し殺しにした。そして人に見られるのを恐れて、土間《には》の臼場《うすば》のほとりに埋めて素知らぬ振りをして居た。
村の人達は、その家へ夕方入つた六部の姿は見たが、朝立つ姿を誰も見た者がなかつた。それから大屋の土間には夜になると怪火《くわいくわ》が燃えてならなかつた。そして代々の主人は發狂した。現代の主人もさうである。
(第二の話は下閉伊郡刈屋にて、折口信夫氏とともに聽く。)
[やぶちゃん注:典型的な「六部殺し」(当該ウィキを参照されたい)の因果譚である。
「糠部の郡のアサミズの里」現在の青森県三戸(さんのへ)郡五戸町(ごのへまち)浅水(グーグル・マップ・データ)。而して、歴史的仮名遣では「あさみづ」となるはずであるが、「あさみずの里」はママである。なお、ちょっと脱線になるが、ウィキの「糠部郡」の「「戸」(へ)のつく現存地名」の項よれば、知られたこの岩手を含む広域地方の地名には、『四戸がな』く、『もしくは』あったが『消滅した理由として、「四」は「死」を連想するからとも言われる』とあり、『四戸については、青森県八戸市の櫛引と言う説がある。その根拠は、同地にある櫛引八幡宮のかつての別名が「四戸八幡宮」であったことによる。一方、青森県三戸郡五戸町浅水または同町志戸岸(いずれも浅水川沿岸)との説がある』とし、『浅水の語源は「朝を見ず(=死)」であるという。もし仮に五戸町浅水が四戸であったとすれば、旧陸羽街道沿いに一戸から五戸までが番号順に並ぶことになる(六戸も五戸と接しているが街道沿いではない。無論、陸羽街道の成立は後世のことである)』とあった。本篇冒頭の、他の条には、まず見られない、採取譚群の前振り、『アサミズの里にちなんだ、旅人の泊客《とまりきやく》が夜の中《うち》に殺されて、朝を見なかつたと云ふ話の群(ムレ)』の一つというそれは、佐々木が明らかに「四戸」が当時、既に存在しておらず、過去事実としても確定資料が伝わらないことから、「朝を見ずに六部が殺された呪われた村」の意味が「浅水」という地名には隠されているのではないかという俚俗の説を示唆しようとしたものと考えられる。しかも、佐々木が「あさみずの里」と標題を記したこと自体が、「淺水(あさみづ)」ではなく、「朝見ず」の意であると、どこかで信じているからこその確信犯の表記なのではあるまいか? 序でに、引用すると、「十戸」も現存しないが、一つ、『「十戸」にあたる地名が、「十和田」「遠野」であるとする説も存在する。また、青森県下北郡大間町の奥戸(おこっぺ)が「最も奥の戸」であるという説もある(一般にはアイヌ語とする説が有力)。殊に「遠野」については、近年の研究で「とおのへ遠野」と呼ばれていたことが明らかとなり、糠部に宗家としてあった「根城南部氏」が遠野へ領地を移されたことから一つの説とされている。しかし、一戸から九戸までの数字は順番であり』、『数量ではない。もし「十戸」があったとすれば、それは十番目を意味する「じゅうのへ」であって、数量を意味する「とお」ではないため、元々「十戸」は無く、場所も離れている「十和田」「とおのへ(遠い戸の意)遠野」説には無理があるとされている。秋田県鹿角郡十和田町(現鹿角市)や青森県南津軽郡浪岡町(現青森市)にも「十和田霊泉」と呼ばれる箇所があり、いずれの「戸」とも接していない』とあった。
「キツ」昔の東北方言で、水を入れる桶(おけ)。用水桶(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。
「ヨウカ」不詳。室内の薄い板敷、或いは、土間の擁壁のすぐ下の薄板を敷いた場所か。識者の御教授を乞う。
「罪バウゴウ」「罪暴業」か。「暴罪業」であれば、歴史的仮名遣は「ばうざいごふ」で、文字列に合わせると、「ザイババウゴフ」が正しくなる。「暴罪業」ならば、「度を越した重い罪の業(ごう)」を背負ったの意で躓かない。
「下閉伊郡刈屋村」現在の宮古市刈屋・和井内(わいない)に相当する(グーグル・マップ・データ。北に「和井内」)。]
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