佐々木喜善「聽耳草紙」 一三五番 老人棄場
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。「老人棄場」は「らうじんすてば」と読んでおく。]
一三五番 老人棄場
昔、六十になれば、デエデアラ野へやられたものだ。
ところが或所に大層親孝行な息子があつた。どうしてもデエデアラ野へ遣らなければならぬ老父を野へ棄てるのは忍びないと、密(ヒソ)かに根太場(ネタバ)へ入れて隱して養つて居た。
丁度其頃何の譯か知らぬが唐(カラ)の殿樣から技倆較(キリヨウクラ)べが來た。それは灰繩千束と、七曲り曲つた一本の木に穴を通して寄こせといふ難題であつた。日本の殿樣の御殿にはこの難題の解ける智惠者が無かつたので、これを解いた者には御褒美は望み次第と云ふ御布令《おふれ》を國々へ𢌞した。
そこで孝行息子は其事を隱して置いた老父に訊くと、あんたら其んなことは譯の無いことだ。灰繩千束は鐵の箱を作つて繩千束をその中さ入れ鹽を振りかけてから火をつけて燒けば出來るし、七曲り曲つた木には先端(サキハシ)に蜜蜂の蜜を塗つて置き、大赤蟻の腰にカンナ糸を結び着けてデド端(ウラ)(前方)から放して遣ると、自然に木へ穴を通して遂に向ふ端へ拔けて行くものだと敎へた。
其通りにして、日本の殿樣は技倆較べに勝つた。そして其男の望みは六十になつても老人をデンデアラ野に棄てぬといふ事であつたので、それからそんな事は沙汰止みにな た。
(村の話。デエデアラ野は村々にあり、棄老譚を傳へてゐる。)
[やぶちゃん注:工藤茂氏の論文「村田喜代子『蕨野行』考」(『別府大学国語国文学』第四十四・二〇〇二年十二月発行・PDF)によれば、「遠野物語」の「一一一、一一二 驚異のダンノハナ」の『文中にある《蓮台野》は「れんだいの」ではなく「でんでらの」と呼ばれている所で『注釈 遠野物語』』(後藤総一郎監修・遠野常民大学編著、九七年八月二〇日筑摩書房刊)『に《蓮台野の字は柳田があてたものと思われる》と注されている。柳田はハスのウテナ(仏の台座)の意を込めて蓮台の字を当てたのであろうか』。『鈴本案三編の「遠野物語拾遺」』の『二六六には〈青笹村の字糠前と字善応寺との境あたりをデンデラ野又はデンデエラ野と呼んで居る》とあり、次の伝承を記載している』として、当該部「二六六」、及び、「二六八」を引用された上(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一〇(一九三五)年郷土研修者刊の「遠野物語 増補版」のそれぞれの当該部)、本篇を紹介された上で、『遠野物語』の〈蓮台野〉は「レンダイ野」ではなく「デンデラ野」「デンデエラ野」あるいは「デエデアラ野」と呼ばれていたことが分かる』と述べておられる。則ち、柳田は勝手にありもしない「蓮台野」という京の風葬地名を宛がい、老人を遺棄した(正確には家から出して、その野原に住まわせ、日中は家に戻って仕事をして口を糊するという形態をとり、決して完全な「姥捨て」的なシステムではなかったから、「蓮台野」は如何にも相応しくないのである!)「デンデラ野」=「デンデエラ野」=「デエデアラ野」を出さず、私を含めた多くの後代の読者をあたかも、そうした場所が全く空間的に別個にあったかのように思わせ、民俗学者として、あってはならない名称捏造までしていたのであった。遺棄された老人が亡くなって、その遺体を埋葬したのが、「ダンノハナ」であったようで、「デンデラ野」に附属するようにあったものらしい。但し、「デンデラ野」と「ダンノハナ」はセットになったものであるが、附記で佐々木が言っているように、それらは複数の集落に同じセットになった二つが、複数、存在したのであった。「一一一、一一二 驚異のダンノハナ」の冒頭に従えば、六ヶ所を挙げてある。佐々木喜善の墓がある土淵町山口の「デンデラ野」と「ダンノハナ」(その入り口に佐々木の墓がある)の場合(グーグル・マップ・データ航空写真。附記の冒頭の「村の話」の村はここのことである)は、直線距離にして六百メートル弱である。死なせる場所と埋葬地との、この程度の距離は、別個な人の人生のターミナルの空間としては、連動したものであり、私には凡そ「別個」なのものとしては認識し得ないのである。
「根太場(ネタバ)」「根太」は通常は「ねだ」と読む。床構造の一部で、床を支える補強部材のことを指す。木造建築で、床板を張る下地の役割が主。「根太場」は、ここでは、床下の空間を指す。]
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