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2023/06/11

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 鷲石考(4) / 「附錄」の「○鷲石に關する一說」

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(本文冒頭部をリンクさせた)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 本篇は、やや長いので、ブログでは分割公開し、最終的には縦書にしてPDFで一括版を作成する予定である。実は、本篇は、今まで以上に、熊楠流の勝手な送り仮名欠損が著しい。私の補塡が「五月蠅い」と感じられる方も多かろう。さればこそ、そちらでは、《 》で挿入した部分を、原則、削除し、原型に戻す予定である。そうすると、しかし、如何に熊楠の原文章が読み難いかがお判り戴けることともなろう。

 なお、初回の冒頭注も参照されたい。]

 

○鷲石に關する一說 英語で書いた版本にn.d.というのがある。no date(日附けなし)の略字で、表題紙にも序文にも出板の年を記しおらぬ。是れはいつも新刊書とみせて客を釣るためで卑劣な行ひだ。チャーレス・デ・カイの「鳥神論」がその一例で、ニゥヨルク[やぶちゃん注:ニューヨーク。]のバーンス會社出板とだけ示して、其《その》年記なし。たゞ、表題紙裏に、細字で、一八九八年著者板權認可と出《だ》しあり、先《まづ》は其頃の著作か。根つから、素性のよくない本だが、鷲石のことを、一寸、論じあるから、こんな物さえ[やぶちゃん注:ママ。]買ふ人有《あら》ばこそ賣る人もあると、歐米崇拜家輩に、その議論の詰《つま》らなさ程度を示さう。その略に云く、フィンランドの古傳に、イルマリネンが鋼・鐵・焰の三物《みつもの》で鷲を作る。ポーヨラの醜婆、火の鷲をして、レムミンカイネンを呑《のま》しめんとした。エストニアの舊說に、島母《しまはは》が、海底よりかき上げた鷲卵《わしのたまご》を、晝は、日の熱、夜は、吾が身で、溫め、孵《かへ》した。印度の敎典には、金翅鳥王《こんじてうわう》は日神《ひのかみ》の馭者アルナと、一卵より、双生した等、鷲と、日や火を連ねた譚が、諸邦にある。扨、鷲が老《おい》て、動作、きかなく成《なつ》たを、みた人、なく、其死體を見た者、なし。數百年間、鳥類の王とし、統制した後ち、高く九天を凌いで、日輪の大光明中に入《いり》て、復た、見えず。それより、若返つて、海中に飛下《とびくだ》る。火に淨められて、二度めの生命を獲る事、ヘラクレスに異《こと》ならぬ。されば、古埃及人が日《ひ》の表章とし、火《ひ》の力で復活すと信じたフェニクスが鷲の事たるや、論を俟たず。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。附記の際に熊楠が行う仕儀。]

 フェニクスは、支那の「鳳凰」に當て譯したり、マルコ・ポロの「記行」や「千一夜譚」に見えたマダガスカルの「ロク」や、ペルシア書に出た巨鳥「シムール」や、ヒンズー敎・佛敎の經典にある「金翅鳥王」と混同された。ヘロドトスの「史書」第二卷七三章に、初めてフェニクスを記し、云く、『予は、此神鳥を繪で斗《ばか》りみた。實は、埃及でも希有の物で、ヘリオポリス(日都)人の說に、その老鳥が死んだ時、五百年に一度、此都へ來るといふ。繪でみた所ろ、羽毛、一部、赤、一部、金色で、形ちと、大きさは、殆んど鷲の如し。日都人の、この鳥の話はうそらしい。云く、此鳥の親、死したら、其尸《しかばね》を、全く、沒藥《もつやく》でぬりこめて、アラビアより日都へ將來し、そこに埋める。之を將來するに、先づ、自分が運び得る丈《だけ》の大《おほき》さに、沒藥を圓《まる》め、中を空にして、親の屍を納め、穴口を新しい沒藥で埋める、と。かうしない[やぶちゃん注:ママ。「選集」も同じだが、意味が通らない。「かうすると、」の誤記ではあるまいか?]内と正しく同重量となる。それを埃及に持來《もちきた》つて、日堂に納む。』と。プリニウスの「博物志」第十卷二章には、エチオピアと印度に、他に優れて、羽色多樣で、文筆の記述し能はざる鳥を產す。其第一は、フェニクス、是れ、アラビアの名鳥だ。全世界に唯《ただ》一羽、存し、屢《しばし》ば見える物でない。大さ、鷲の如く、頸のぐるりの羽毛、金色で、輝き、其他の諸部は、紫で、尾は碧色、其れに、桃色を雜《まぢ》えた長い羽あり。喉に垂囊《すいなう》、頭に、冠毛あり。精《くは》しく此鳥を初めて記載した羅馬人は議官マニリウス、此人は、敎師なしに博覽の高名を博した。其說に、此鳥、食事するを、見た者なく、アラビア人は「日の神鳥」と崇む。壽命は五百四十歲、老《おゆ》れば、カツシアと、香木の枝で、巢を作り、諸香を中に滿《みたし》て、之に臥して、死す。すると、其骨と、髓より、一疋の小虫、生じ、漸《やうや》く化して、小鳥となり、先づ、死鳥の葬禮を營なみ、彼《か》の巢を、そつくり、パンカイアに近い日都に運び、日神の壇に、之を、おく、と。「フィシヨログス」(動物譬喩譚)は、出處雜駁、或は、不明の怪しい物だが、中世、尤も廣く歐州で行《おこなは》れた。隨つて、其第七譬喩なるフェニクス譚は一番多く世間に傳播されて、今に、俗耳を鼓吹しおる[やぶちゃん注:ママ。]。云く、フェニクスは印度の鳥で、空氣を吸《すつ》て、五百年、生き、其後ち、翅に香類を載《のせ》て、日都に飛行《とびゆ》き、日神廟に入《いつ》て、壇上で、自《みづか》ら、焚《や》くと、翌日、其灰より、其雛、自《おのづか》ら生じあり。三日目に、翅、全く成《なり》て、祠官を禮し、飛び去る云々と。

[やぶちゃん注:一字下げは、ここで終わる。

「ヘリオポリス」(ギリシア語ラテン文字転写:Helioupolis/英語等:Heliopolis)は、当該ウィキによれば(地図あり)、『現在のカイロ近郊に存在した古代エジプトの都市。よく知られている都市の名はギリシャ人によって名づけられたもので、ギリシャ語で「ヘリオスの町=太陽の町」という意味である。古代名では「Iunu イウヌ」あるいは「On オン」と呼ばれていた』。『ヘリオポリスはヘルモポリス』(リンクは当該ウィキ)『と並んで、古代エジプトの創世神話の中心地として有名である』とある。

「沒藥」ムクロジ目カンラン科カンラン科 Burseraceae のコンミフォラ(ミルラノキ)属 Commiphora の樹木から分泌される赤褐色の植物性ゴム樹脂を指す。ウィキの「没薬」によれば、『スーダン、ソマリア、南アフリカ、紅海沿岸の乾燥した高地に自生』し、『起源についてはアフリカであることは確実であるとされる』。『古くから香として焚いて使用されていた記録が残され』、『また殺菌作用を持つことが知られており、鎮静薬、鎮痛薬としても使用されていた。古代エジプトにおいて日没の際に焚かれていた香であるキフィの調合には没薬が使用されていたと考えられている。 またミイラ作りに遺体の防腐処理のために使用されていた。ミイラの語源はミルラから来ているという説がある』とある。

『プリニウスの「博物志」第十卷二章には、エチオピアと印度に、他に優れて、羽色多樣で、文筆の記述し能はざる鳥を產す。其第一は、フェニクス、是れ、アラビアの名鳥だ。全世界に唯《ただ》一羽、存し、屢ば見える物でない』当該部は、所持する雄山閣の全三巻の全訳版(中野定雄他訳・第三版・平成元(一九八九)年刊)で確認した。ただ、言っておくと、このフェニックス(不死鳥)の話の冒頭では、プリニウス自身が、『(これはたぶん架空な話と思うが)』と初めにしっかり附言している。

「喉に垂囊」この熊楠の謂いは、あたかも砂嚢を想起させるが、前記の訳では、『喉にはところどころ毛の房があり』で、印象が異なる。]

 鷲は、火に因て、自《みづから》再生するのみならず、又、實に、火に試されて生存を始む。蓋し、鷲、子を生み、其子、日を視て眴(ましろ[やぶちゃん注:「まじろく」「瞬(まじろ)ぐ」の古形。「またたく」の意。])げば、鷲として生活するに堪《たへ》ぬ者として殺し了《をは》る、と云ふ。鷲の巢より見出さるゝ鷲石は、二百年前迄、種々、奇効ありとて貴ばれた。酸化鐵にさび付《つか》れた粘土質の小石、又、圓い石で、其腹空しき内に、石、又は、結晶が離れあり、明らかに火の作用に基づくを示す。惟《おも》ふに、古人は、鷲が此石を、日、若《もし》くは、火山より持《もつ》て來た、と考えた[やぶちゃん注:ママ。]のだ。何にしろ、鷲石は、眼病を治し、難產を救ひ、又、奇な事には、盜賊を露はす功あり、とされた。多分、日より出たもの故、盜人がいかに匿《かく》すも、日の照覽をゴマカシ得ぬてふ譯だろう[やぶちゃん注:ママ。]。鷲は、其卵を速く孵すため、此石を巢に納《をさめ》ると云ふのも、亦、此石は日の熱を享《う》け持ちおる[やぶちゃん注:ママ。]としたからだ、と。

 デ・カイ氏は、種々の話を並べ立《たて》て、其出所を明示せず。是亦、庸人《ようじん》[やぶちゃん注:一般人。]を驚かし、學者を馬鹿にしたやり方で、見やう見まねに、近來、本邦にも、こんな著書や立論が大流行だ。「鷲が老《おい》て、動作、きかなく成《なつ》たを、みた人、なく、其死骸を見た人、なし。」とは、プリニウスの「博物志」第十卷四章に「鷲は、老と、病と、餓《うゑ》で、死なず。たゞ久しく生きると、上嘴《じやうし》が長く伸び、且つ、甚だしく曲つて、口を開く能はずして、死ぬる。」(熊楠謂ふ、そんなら、矢張、老と餓に殺されたのだ)とあるを、小刀細工したので、「數百年間、鳥類の王として云々」と冒頭して、鷲が日の大光明中に入《はいつ》て見えなくなり、其より、若返つて、海中に飛び下る云々、と云《いつ》たは、例の「フィシヨログス」の第六譬喩に、鷲、老ゆれば、日光にあたり、扨、噴泉に浴して、若返る、と有るを、デ・カイ自身が、其書の八章の初めに述た通り、米國東海岸で、米國產の鷲が、海から飛《とん》できて、山を踰《こ》え去《さつ》た景觀から思ひ付《つい》て、『日光に當《あた》り』を、日輪に直入する如く、吹き增し、『噴泉』を『海中』と改作したので、自論を翼《たす》けんとて、虛構・假說を、何か確かな古書に載りある樣に書立《かきたて》た、誠《まこ》とに、恥なきの至りである。

 扨、「フェニクスが鷲の事たるや、論を俟《また》ず。」とは、是れ亦、不實で、人を欺むかんとする者だ。「大英百科全書」十一板二十一卷、「フェニクス」の條に、『ホラポルロン(五世紀の初頃《はじめごろ》)とタキツス(紀元五五年頃―一一七年頃)は、明かに、フェニクスを日の表章と云た。今、吾人は、埃及の諸古文より、ベヌなる水鳥が日都鎭座の神の表章の一で、又、旭日の表章たり。隨《したがつ》て、日が、每旦《まいあさ》、復活するを標示し、曰神ラの魂、又、新たな日の心臟と稱せられた、と知る。去《され》ば、旭日が東方に出るを、ベヌが東方より諸香を持來《もちきた》るとしたので、埃及語で「ベヌ」、希臘語の「フェニクス」、何《いづ》れも鳥の名で、或る椰樹の名を兼《かね》たのをみると、どうも、「ベヌ」の「フェニクス」たるを疑ふ可らず。扨、プリニウスが記した、紫がちの羽色なフェニクスに最も恰當《かふたう》[やぶちゃん注:過不足のないこと。ぴったりしていること。]する埃及の水鳥は、アルデア・プルプレア(紫鷺《ムラサキサギ》)だ。ヘロドトスが、フェニクスの形ちも、大きさも、殆んど鷲のごとしと云《いつ》たは、全く記臆の失《しつ》だろう[やぶちゃん注:ママ。]、」と論じある。「紫鷺」は、中南歐州より、南阿、又、印度より、支那、呂宋《ルソン》に產す(「劍橋《ケンブリツジ》動物學」第九卷九三頁。バルフォール「印度事彙」、「アルデア」の條)。モレンドルフ說に、支那名「天果鳥」、天津で「花窪子《くわわし》」といふ由。和名「ムラサキサギ」とて、石垣島に來《きた》るは、同屬別種らしい(『皇立亞細亞協會北支那支部雜誌』第二輯第十一卷百頁。故小川實氏「日本鳥類目錄」三四四頁)。一九〇四年板、バツヂの「埃及神譜」第二卷三七一頁には、『ベンヌは、自《おのづか》ら生《うま》れ、日都の神木のペルセア樹の頂に燃《もゆ》る火より、出で、生來の「日の鳥」で、「旭」の表章で、又、死んだ日の神オシリスより生ずるから、其《それ》、神鳥たり。每旦、新生する旭を表わすのみならず、夙《つと》に、「人間再活」の象徵たり。昨日の沒日《いりひ》より、今日の旭日が生ずる如く、物質的の人尸《じんし》より、精神的の人身が、生ずるからだ。此鳥は、オシリスの心臟より生じ、最も神聖な鳥で、墓内《はかうち》の一室の、側に生《はえ》た木に、宿つた體に、畫《ゑが》かる。」と有《あつ》て、何の種と明言せぬが、鷺の一種と、しある。一八九四年板、マスペロの「開化の曉」一三六頁には、ヘロドトスが、形と大《おほき》さが鷲の如し、と明記せるより、フェニクスは、決して、鷺類でなく、金色の雀鷂(つみ)で、本《も》と、若日神《わかひのかみ》ホルスの現身だ、と云た。然るに、バッヂは、所謂、金色の雀鷂、乃《すなは》ち、ベンヌに外ならぬを證した(「埃及神譜」第二卷三七三頁)。だから、フェニクスは、雀鷂だつたて[やぶちゃん注:「だったって」の意か。]、鷲と別鳥で、紫鷺だつたら、一層、別鳥だ。

[やぶちゃん注:「アルデア・プルプレア(紫鷺)」ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属ムラサキサギ Ardea purpurea 当該ウィキによれば、『アフリカ大陸、ユーラシア大陸、インドネシア西部、シンガポール、スリランカ、日本、マダガスカル』に分布し、『夏季にユーラシア大陸西部』、中国『北東部などで繁殖し、冬季になると』、『アフリカ大陸などへ南下し』、『越冬する。ユーラシア大陸南部、マダガスカルなどでは周年生息する。日本では、亜種ムラサキサギ』 Ardea purpurea manilensis 『が八重山列島に周年生息する(留鳥)が少ない。西表島、石垣島で繁殖記録がある他』、二〇〇三年には『池間島の池間湿原で繁殖が記録された』、『また』、中国『北東部などで繁殖すると考えられるものが、春・秋の渡りの時期に、主に西日本で見られることがある』。全長は七十八~八十センチメートル、翼開長は一・二~一・七メートル、体重は五百グラムから一・二キログラムある。『頭頂から後頭は黒い羽毛で被われ、後頭の羽毛』二『枚が伸長(冠羽)する。顔や頸部、胸部は褐色の羽毛で被われ、顔から頸部にかけて黒い筋模様が入る。頸部上面や胴体上面は灰黒色の羽毛で被われる。また』、『青みがかった灰色や赤褐色の長い羽毛が混じり、紫みを帯びる。体側面や脛は紫がかった赤褐色の羽毛で被われる。種小名purpureaは「紫の」の意で、和名や英名と同義。腹部や尾羽基部下面(下尾筒)は黒い羽毛で被われる。雨覆の色彩は灰褐色で、初列雨覆や風切羽上面の色彩は灰黒色』。『嘴は細長い。嘴の色彩は黄褐色で、上嘴は黒い。後肢はやや短い。後肢の色彩は黄褐色で、趾上面は黒い』。『卵は長径約』五・七センチメートル、『短径約』四・一センチメートル。『幼鳥は全身が黄褐色や赤褐色の羽毛で覆われる。後頭に冠羽が伸長せず、顔から頸部にかけて入る筋模様が不明瞭』とある。但し、熊楠は『支那名「天果鳥」、天津で「花窪子」』と記すが、検索をかけても、この漢名は今に生きていない。

「ペルセア樹」クスノキ目クスノキ科ワニナシ属 Persea がある。英文ウィキの「ワニナシ属 Persea」のページを見ると、本属が暁新世の西アフリカに起源を持つこと、今日でも多くの種がアフリカに生き残っているとあるので、エジプトにあってもおかしくない。なお、すっかり本邦でもおなじみとなったアボガド( Persea americana )は、御覧の通り、本属である。

「金色の雀鷂(つみ)」タカ目タカ科ハイタカ属ツミ Accipiter gularis 。本邦にも棲息する猛禽類である。詳しくは当該ウィキを見られたい。]

 次に、鷲、子を產んで、その子、日を視て、目がくらめば、鷲の生活に適せず、として、自《みづか》ら、其子を殺す、という話は、西曆二世紀に書いたエリアヌスの「動物の天性」第二卷二六章に出づ。

 成る程、かく列し來《きた》れば、鷲と、日、又、火を連ねた話は、隨分多い樣だが、是は、故《こと》さらに、鵜の目鷹の目で、大穿鑿をしたからで、凡て、火と、日は、熱の根本で、熱が有《あら》ゆる動植物の生存に、必要、大なれば、何の生物でも探索すれば、必ず、多少、日や火に聯《つら》ねられた譚は、ある筈。而して、日や火に、尤も顯著な關係あり、と見えたフェニクスが、デ・カイ氏の所見と違ひ、全く、鷲でないこと、埃及學專門の大先生共の口から揚《あが》つた以上は、鷲と、日や火の關係を、喋々《ちやうちやう》して、鷲石の諸功驗を、日や火に歸する論は根據を失ふ。而して、鷲石は、いかにも酸化鐵より成るが、上に第一篇に引いたスブランとチエルサンの「支那藥材篇」に云《いつ》た通り、鷲石の酸化鐵は、「沼鐵《せうてつ》」抔いふ水酸化鐵で、磁石如き純酸化鐵でない。其を、明《あきら》かに火の作用に基《もとづ》くを示す抔いふは、輕擧も、又、甚だしい。「本草綱目」十に、時珍曰、按别錄言、禹餘粮生東海池澤及山島、太一餘粮生太山山谷、石中黄出餘粮處有ㇾ之、乃殼中未ㇾ成餘粮黄濁水也、據ㇾ此則三者一物也。〔時珍曰はく、按ずるに「別錄」に言ふ、『禹餘粮は東海の池澤及び山島に生ず。太一餘糧は太山の山谷に生ず。石中黃は餘粮を出だす處に、之れ、有り、乃(すなは)ち、殼中の未だ餘粮と成らざる黃濁水なり。』と。之れに據れば、則ち、三者は一物なり。〕三物、みな、鷲石だ。そして、海・池澤・山島・山谷、黃濁水、何れも、水に緣なきは、なし。「大英百科全書」十一板第十六卷にも、鷲石は水酸化鐵の由、見ゆ。去《され》ば、鷲と、日や、火を連ねた談が多いからとて(和漢等に、そんな談、無く、印度には上に引た、金翅鳥王が日神の馭者と共に、一卵より生まれた譚あるのみ。それも精しく言《いへ》ば、金翅鳥は鳶に近い者で、學名ハリアスツル・インヅス、英語でブラーミニ・カイト、又、ボンヂチェリ・イーグル、鷲とも、鳶とも、見えるのだ。眞の鷲族の者でない)、鷲石を、『鷲が日から持つてきたと古人が信じ』抔は、丸つきりの妄斷ぢや。

[やぶちゃん注:『「本草綱目」十』は、「禹餘粮」(以前に述べた通り、「粮」は「糧」に同じ。以上の本文でも、「糧」ではなく、同書原本の表記で示した)の項ではなく、そのすぐ後に続いて載る「太一餘粮」の項の「集解」の一部である。「漢籍リポジトリ」のこちら[032-13a]の影印画像で校合した。

「ハリアスツル・インヅス」タカ目タカ亜目タカ上科タカ科トビ亜科シロガシラトビHaliastur indus 。英名“Brahminy kite”(インドのカーストの最上級に位置する「バラモン階級所縁の鷹」の意)、古い言い方で“"Pondicherry eagle”(インド南部の地方「ポンディチェリの鷲」の意)も英文サイトで見つけた。]

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