「新說百物語」巻之三 「親の夢を子の代に思ひあたりし事」
[やぶちゃん注:書誌・凡例その他は初回の冒頭注を参照されたい。
底本は「国文学研究資料館」のこちらの画像データを用いる。但し、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載る同作(基礎底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていない)にある同書パートをOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
今回はここから。本篇には挿絵はない。この篇も濁音脱落が多い。ママ注記が五月蠅いが、悪しからず。]
親の夢を子の代に思ひあたりし事
敦賀(つるが)に壱人《ひとり》の日蓮宗の老人ありけるか[やぶちゃん注:ママ。]、代々の日蓮宗にて、殊の外の信者なり。
あるとき、我が子にかたりていふやう、
「ゆふへ[やぶちゃん注:ママ。]、ふしき[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]なる夢を見たりける。所は、いつかた[やぶちゃん注:ママ。]ともおほえす[やぶちゃん注:総てママ。]、たゝ[やぶちゃん注:ママ。]もくねんとして居たりけるが、異香(いかう)、四方に薰(くん)じ、音樂など、聞へけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、
『ふしきなる事かな。』
と思ひける所へ、六尺はかり[やぶちゃん注:ママ。]の、あみた如來[やぶちゃん注:ママ。]後も同じ。、まさしく目前に來迎(らいかう[やぶちゃん注:ママ。])あり。
『我は、是れ、戒光寺の仏《ほとけ》なり。なんぢ、おこたらず、御經を、とくじゆすること、奇特(きどく)なり。それによつて、來世は、極樂世界にいたらむ事、うたかひ[やぶちゃん注:ママ。]なし。』
と、の給ひて、そのまゝ、姿は見へ給はす[やぶちゃん注:ママ。]。扨々、ふしきなる夢を、見ける。」
と、かたりける。
それより、一兩月過《すぎ》て、此老人、不食《くはず》になり、十日ばかり、いたはるけしきにてありけるが、
「あれあれ、又々、戒光寺のあみた如來、御出《おいで》なり。」
と、手をあはせ、おかみ[やぶちゃん注:ママ。]、そのまゝ、息たへ、あひ果てける。
そのゝち、三年もすきて[やぶちゃん注:ママ。]、その子、用事ありて、京へ上りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、次手《ついで》に、都の名所など、たつねめくり[やぶちゃん注:総てママ。]、泉涌寺《せんゆうじ》にまふてけるか[やぶちゃん注:総てママ。]、ある寺の佛を拜みけるか[やぶちゃん注:ママ。]、前かた、親のはなしに、くはしくきゝし御仏《みほとけ》に少しもたかはす[やぶちゃん注:総てママ。]。
『是れは。ふしきなる事かな。』
と、おもひて、其寺の名をたつねしかは[やぶちゃん注:総てママ。]、戒光寺と申しける。
あまりの事の、ふしきにも、有難く、又、親のことなと[やぶちゃん注:ママ。]おもひ出《いだ》して、淚を流し、下向いたしけるか[やぶちゃん注:ママ。]、
「世には、ふしきなる事も、あり。」
と、井関《ゐぜき》氏の人、かたられし。
[やぶちゃん注:「戒光寺」滋賀や、近場の京都で、日蓮宗の、この寺名を調べ得なかった。しかし、後で、息子が、真言宗泉涌寺派の総本山泉涌寺に詣でた序でに、その近くの(推定)「ある寺の佛を拜」んだところが、生前の「親のはなしに、くはしくきゝし御仏に少しも」違わなかったので、不思議に思い、その「寺の名を」尋ねたところが、「戒光寺」であったとあるのは、これ、泉涌寺の塔頭(正保二(一六四五)年に後水尾天皇の発願により現在地に移転し、泉涌寺の塔頭となっている。山号は東山。本尊は釈迦如来。正式名称は「戒光律寺」であるが、「丈六さん」(本尊の敬愛称)とも通称される)である戒光寺(グーグル・マップ・データ)としか思われないのだ。しかし、同寺の公式サイトを見ても、少なくとも現在、仏像の中に阿弥陀如来像はないのである。しかも、この親は、「代々の日蓮宗にて、殊の外の信者」であったとあるので、ちょっと不思議である。「少なくとも、息子は、この奇特で、日蓮宗から真言宗に改宗しないとおかしいだろ!」と突っ込みたくなったのである。話者の「井関」なる人物が、この戒光寺の檀家だった可能性はあろうか。]
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