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2023/06/01

佐々木喜善「聽耳草紙」 九八番 鮭の大助

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   九八番 鮭の大助

 

 同郡[やぶちゃん注:前話を受けるので旧「氣仙郡」。]竹駒村の相川と云ふ家に殘る昔話である。此家の先祖は三州古河ノ[やぶちゃん注:カタカナはママ。]城主であつたが、織田信長との戰《いくさ》に負けて、遙々と奧州へ落ちのびて其所に棲まつて居た。或日多くの牛を牧場に放して居ると、不意に大きな鷲が來て子牛を攫《さら》つて飛び去つた。主人は大《おほい》に怒つて、如何《どう》しても彼《あ》の鷲を捕へなくてはならぬと言つて、弓矢を執り、牛の皮を被(カブ)り、牧場にうづくまつて鷲の來るのを五六日の間待つて居た。其《その》中《うち》に心身が疲れてとろとろつと睡《ねむ》ると、やにわに猛鷲《もうしゆう》が飛び下りて來て、主人をむんずと引つ提げたまゝ、杳冥《えうめい》遙かと運んで行つた。

[やぶちゃん注:「杳冥」 奥深く暗いさま。暗くてはっきりしないさま。]

 主人はどうとも爲《な》す術《すべ》がないので體を縮め息を殺して、鷲のする通りになつて居ると、遠くの海の方へ行く。そして或島の巨きな松の樹の巢の中へ投げ込んだまゝ、また何處ともなく飛去《とびさ》つた。

 主人は鷲の巢の中に居て、はて如何《どう》かして助かりたいものだと思つて、周圍《アタリ》を見𢌞すと、巢の中に鳥の羽がたくさん積まれてあつた。そこで其を集めて繩を綯(ブ)つて松の木の枝に結びつけて漸(ヤ)つと地上へ下りたが、それからは如何する事も出來ぬから、其の木の根元に腰をかけて、思案に暮れて居た。

 其所へ何處から來たのか一人の白髮の老翁が現はれて、お前は何處から此所へ來たのか、何の爲に來られたか、難船にでもあつたのなら兎も角にこんな所へ容易に來られるものではない。此所は玄海灘の中の離れ島であると言つた。主人は今迄の事を物語つて、如何かして故鄕へ歸りたいが、玄海灘と聞くからには既に其望みも絕えてしまつたと歎くと、老翁は、お前がそんなに故鄕へ歸りたいなら、俺の背中に乘れ。さうしたら、必ず歸國させて遣らうと言つた。主人は怪訝(ケゲン)に思つて、それではお前樣は何人《なんぴと》で、また何處へ行かれるとかと訊くと、俺は實は鮭ノ[やぶちゃん注:カタカナはママ。]大助である。年々十月二十日にはお前の故鄕、今泉川の上流の角枯淵(ツノガンブチ)へ行つては卵を生む者であるとのことであつた。そこで恐る々々其の老翁の背中に乘ると、暫時(シバラク)にして自分の故鄕の今泉川に歸つてゐた。

 斯《か》う謂ふ譯で、今でも每年の十月の二十日には禮を厚くして此羽繩《はねなは》に、御神酒《おみき》供物を供へて今泉川の鮭漁場《さけりやうば》へ贈り、吉例に依つて鮭留《さけど》め數間《すうけん》を開けることにすると謂ふのである。

  (末崎《まつさき》村及川與惣治氏より報告。
   大正十四年冬の頃。)

[やぶちゃん注:「竹駒村」現在の陸前高田市竹駒町(たけこまちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「三州古河ノ城主」尾張国海西(かいさい)郡、現在の愛知県愛西市森川町村仲のここにあった「古木江(こきえ)城」の別称は、調べたところ、「古川城」ではある。しかし、ウィキの「古木江城」によれば、『永禄年間』(一五五八年~一五七〇年)『に織田信長の』四『番目の弟』『織田彦七郎信興』(のぶおき)『によって築かれたとされる城で』、『伊勢長島の一向宗の抑えとして置かれた』が、元亀元(一五七〇)年九月、『本願寺と信長との間で石山合戦が始まると、長島でも門徒勢が蜂起。長島城を落した門徒勢は』十一月十六日、『古木江城を襲撃した』。『信興は信長や』、『桑名城の滝川一益』(かずます/いちます)『に援軍を要請したが、信長は浅井長政・朝倉義景の軍勢と延暦寺の僧兵によって大津に足止めされており』(「志賀の陣」)、『一向宗に攻められて籠城していた一益も援軍を出すことができなかった』ため、六日後の十一月二十一日、『古木江城は落城』した。「信長公記」によれば、『信興は櫓に上って自害したとされるが、地元では城外で討たれたと伝わっている』。『その後、城は廃城となった』とあって、本文の「織田信長との戰に負けて」落ちのびたというのと一致を見ない。ただ、別名を確認した成田三河守氏のサイト「城郭写真記録」の「尾張 古木江城」には、『信長は岐阜から津島へ出陣し、城を奪回するが、その後も一向宗徒との対立は続いた』とあるので、その僅かな間の一向宗側の城主であったものか。ところが、また、ウィキの「異説」を見ると、宝暦二(千七百五十二)年板の「張州府志」では、『彦七郎の居城を「古川城」と記しており、古木江城とは別の城であった』(☜)『としているが、天保』一五(一八四四)年板の「尾張志」ではこの説を否定している』とあり、さらに、『愛知県教育委員会の資料では大森村(現在の愛西市森川町村仲)にあった城が下古川城(小木江城)』で、そこから少しだけ東にある『下古川村(現在の愛西市森川町下古川)』(ここ)『にあった城を古川城としている』とあって、錯綜している。まあ、落ち武者の言い伝えに過ぎないのだから、どうでもいいことではあるのだが。

「玄海灘の中の離れ島」「玄海灘」はここ。離れ島として知られる大きな島は「壱岐島」である。この民話、特異的に語りのロケーションが南北に超ワイドである。

「今泉川の上流の角枯淵(ツノガンブチ)」前話に出たが、そこでは「すのがしぶち」と読んでおいた。その淵の位置は具体には判らないが、旧気仙郡であることは確かである。しかし、旧気仙郡には「今泉川」は現認出来ない。但し、気仙郡であった現在の陸前高田市気仙町の中心部の今泉地区は気仙川の河口の右岸(高田町の対岸の気仙町愛宕下附近)にあり、しばしば見られる河川の異名か、気仙川の河口附近での別称の可能性が高いように感じられる。だから「上流」が有意に利いてくるとも言えるのではなかろうか。

「鮭留め數間」(一間は約一・八二メートルであるから、六掛けで約十一メートル弱)「を開ける」本話では「鮭ノ大助」の遡上を妨げないための部分開口となっているのだが、これは、本来は仏教徒の部分的な殺生忌避、所謂、施餓鬼供養が元であろう。

「末崎村」旧気仙郡末崎(まっさき)村。現在の大船渡市末崎町(まっさきちょう:グーグル・マップ・データ)。但し、「ひなたGPS」の戦前の地図を見るに、古くは現在よりももっと西にも延びている広域である。]

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