佐々木喜善「聽耳草紙」 一二七番 土喰婆
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。標題は「つちくひばば」と訓じておく。]
一二七番 土 喰 婆
昔、野中に一軒の百姓家があつた。其家には老母と息子とが居て、息子は每日外へ出て働いては老母を養つてゐた。
或年大阪に戰爭があつて、息子はそれに召出されて行つたので、年寄一人が殘つてしまつた。息子は何年たつても還つて來なかつた。村の人達も初めのうちは氣にも止めずに居たが、何年經つても婆樣が食物を求める風がないので、如何《どう》して居ることかと思つて行つてみると、其老婆は土を喰つて生きて居た。
それで婆樣の死んだ所へ御堂を建てゝバクチと呼んで地神樣に祀つた。現在も栗橋村字太田林、前ケ口の畠中の大きなモロノ樹の根下に其祠がある。
(昭和三年の冬頃、菊池一雄氏御報告の一三。)
[やぶちゃん注:「大阪に戰爭があつて」慶長一九(一六一四)年の「大坂冬の陣」或いは翌年の「大坂夏の陣」(おおさかなつのじん)か。
「土を喰つて生きて居た」これはもし、本当に食べられる土であるとするなら、恐らく、長野県小諸市で天然記念物に指定されている「テングノムギメシ(天狗の麦飯)」の類と似たような、土ではなくて、藻類の塊りなのではないかと私は思う。詳しくは、「諸國里人談卷之三 土饅頭」の私の注の冒頭を参照されたい。
「栗橋村字太田林、前ケ口」「栗橋村」は岩手県の旧上閉伊郡にあった村で、現在の釜石市栗林町及び橋野町に相当する。「太田林」は「ひなたGPS」のこちらで戦前の地図と国土地理院図の双方で確認出来る。橋野町太田林。グーグル・マップ・データ航空写真でこの附近だが、「前ケ口」は不詳。「祠」も現存するかどうかは、確認出来ない。
「モロノ樹」裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ビャクシン属ネズ Juniperus rigida の異名。]
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