「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 鷲石考(2) / 「第二篇 禹餘糧等について」
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(本文冒頭部をリンクさせた)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。
本篇は、やや長いので、ブログでは分割公開し、最終的には縦書にしてPDFで一括版を作成する予定である。実は、本篇は、今まで以上に、熊楠流の勝手な送り仮名欠損が著しい。私の補塡が「五月蠅い」と感じられる方も多かろう。さればこそ、そちらでは、《 》で挿入した部分を、原則、削除し、原型に戻す予定である。そうすると、しかし、如何に熊楠の原文章が読み難いかがお判り戴けることともなろう。
なお、初回の冒頭注も参照されたい。]
第二篇 禹餘糧等について
支那の本草に、歐人の所謂、「鷲石」を、「禹餘糧」等《とう》に分類せる其區劃、諸家各《おのおの》說を異にして、判然せず。小野蘭山が「本草啓蒙」に說くところ、尤も分明と見受《みうけ》る。左に「和漢三才圖會」六一に「本草綱目」に出た諸家の說を折衷合考して摘要した文と、「重訂本草啓蒙」卷六なる蘭山の說を寫し出す。
[やぶちゃん注:『小野蘭山が「本草啓蒙」に說くところ』『「重訂本草啓蒙」卷六なる蘭山の說』事前に『小野蘭山述「重訂本草啓蒙」巻之六「石之四」中の「禹餘粮」・「太一餘粮」・「石中黃子」』として電子化しておいた。
『「和漢三才圖會」六一に「本草綱目」に出た諸家の說を折衷合考して摘要した文』こちらも、先行して『「和漢三才圖會」卷第六十一「雜石類」の内の「禹餘粮」』として電子化しておいた。なお、以上の二つで注したものは、ここでは、原則、省略するので、必ず、それらを見られたい。]
本綱、禹餘粮、會稽山中多出、彼人云、昔禹王會二諬于此一、棄二其所ㇾ餘食於江中一、而爲ㇾ藥、則名二禹餘粮一(蒒草亦名二禹餘粮一、乃草實也、同名異物也。)生二池澤及山島一、石中細粉如ㇾ麪、黃色如二蒲黃一、其堅凝如ㇾ石者名二石中黃一、其未ㇾ凝黃濁水名二石中黃水一、而三者一物。〔「本綱」、『禹餘粮は、會稽山(くわいけいざん)の中に、多く出づ。彼(か)の人、云はく、「昔、禹王、此に會稽して、其の餘(あま)る所の食を、江中に棄(す)つ。而して、藥と爲(な)る。」と。則ち、「禹餘粮(うよらう)」と名づく。(「蒒草(しさう)」も亦、「禹餘粮」と名づく。乃(すなは)ち、草の實(み)なり。同名異物なり。)池澤(ちたく)及び山島(さんたう)に生ず。石の中の細粉(さいふん)、麪(むぎこ)のごとく、黃色にして、蒲黃(ほわう)のごとし。其の堅く凝(こ)りたるごとくなる石の者を「石中黃」と名づく。其の未だ凝らざる黃(き)なる濁水を「石中黃水(せきちゆうくわうすい)」と名づく。而して、三(みつ)の者、一物なり。』と。〕
蘭山曰く、『禹餘糧、和名イシナダンゴ、ハッタイイシ、ハッタイセキ、コモチイシ。舶來和產共にあり。舶來のもの、大《おほい》さ、一、二寸。殼の厚さ、一、二分ばかり。甚だ硬く、黃黑褐色にして、打破《うちやぶ》れば、鐵色あり。其内、空虛にして、細粉、盈《み》てり。又、内に數隔ある者あり、藥には、此粉を用ゆ。所謂、「糧」也云々、其粉、白色或は靑白色を良とす。又、黃色・黃白色なる者あり。和產は、和・能・甲・泉・日・薩・但・江・作諸州、筑前・越中、其餘、諸國にあり。
本綱、太一餘糧、又名二石腦・禹哀一、生二太山山谷一、其石形、片片層疊、深紫色、中有二黃土一也、其性最熱、冬月有二餘粮一處其雪先消。〔「本綱」、『太一餘糧、又、「石腦」・「禹哀」とも名づく。太山の山谷に生ず。其の石、形は片々として層疊をなし、深紫色なり。中に黃土有りて、其の性、最も熱す。冬月、餘糧の有ある處、其の雪、先づ、消ゆ。』と。〕
蘭山曰く、『太一餘糧、イワッボ、ツボイシ、ヨロイイシ、オニノツブテ、フクロイシ、タルイシ、スズイシ。舶來、なし。和產、諸國にあり。形狀、大小、一《いつ》ならず。大《だい》なる者は斗《と》の如く、小なるものは桃栗の如し。禹餘糧の形に似て、外面、黃黑褐、雜色、質、粗くして、大小の砂礫、雜《まぢ》はり、粘《ねん》する事、多し。「雲林石譜」に『外多粘二綴碎石一』〔外に多く碎(くだ)ける石を粘綴(ねんてつ)す〕と云ふ、是也。其殼、堅硬、打破《うちやぶ》る時は、鐵の如く、光、有り。裏面は栗殼色《くりのからいろ》にして滑澤也。殼内は、空しくして、粉あり。黑褐色なる者、多し。又、黃褐色なる者もあり。全きものを用ひて、一孔を穿ち、粉を去《さり》て、小なる者は硯滴《みづいれ》となし、大なるものは花甁《はないけ》となす。凡そ禹餘糧・太一餘糧、共に、初めは内に水あり、後《のち》、乾いて、粉となり、久《ひさし》きをへて、石となる。其《それ》、桃・栗の大きさにして、内に石ある者、此《これ》を撼《うご》かせば、聲、有《あり》て、鈴の如し。故にスヾイシと云ふ。太一餘糧は、泉・紀・讃・和、諸州、城州・木津邊の山にあり。其中《そのうち》、和州生駒山に最も多し。名產也。
「本草綱目」卷十に、斆曰、石中黃幷卵石黃、二石眞相似、其石中黃句裏赤黑、黃味淡微跙、卵石黃味酸、个箇卬卬、内有二子一塊一、不ㇾ堪ㇾ用、若誤餌ㇾ之令二人腸乾一。〔斆(こう)曰はく、『石中黃(せいきちゆうわう)幷びに卵石黃(らんせきわう)は、二石、眞(まこと)に相ひ似たり。其の石中黃は、句裏(くり)[やぶちゃん注:区切られた内部の意か。]は赤黑黃にして、味、淡く、微(かす)かに跙(しよ)なり[やぶちゃん注:意味不明。]。卵石黃は、味、酸(す)く、个箇(ここ)に卬卬(こうこう)として[やぶちゃん注:意味不明。性質が高ぶっていることか。]、内に子(こ)の一塊、有れば、用ふるに堪へず。若(も)し、誤りて之れを餌(くら)へば、人をして、腸を乾(かは)かしむ。』と。〕
蘭山曰く、『卵石黃は「饅頭イシ」・「ダンゴ石」・「ダンゴ岩」・「土ダンゴ」。形、圓《まどか》にして、大抵、大きさ、五、六分より、一寸許りに至る。又、長き者もあり。外《そと》は黃白色にして、細土を固めたるが如く、柔かにして、碎け易し。中心に黑紫色の餡《あん》ありて、鰻頭を破《やぶり》たる狀《かたち》の如し。豐前中津・房州・氷上《ひかみ》郡・防州・豫州・奧州津輕・伯・能・武、諸州、甲州・荒井村、其他、諸州に產す。
雜とこんな者だが、蘭山說も、一寸、解しにくい所なきに非ねば、熊楠、古人が集めた標本を多く藏するに、見比べて、蘭山說を槪要して申さば、禹餘糧は、全體を通じて、同質の堅い石で、太一餘糧も堅いが、多くの小石と砂粒が混在せるもの故、全體、同一質でない。卵石黃は、上述、田邊附近、岩屋山の「饅頭石」等で、石が柔らかく、脆《もろ》くて、固まつた細土の如く、中に黑紫色の餡あり。禹餘糧も太一餘糧も、未成の物は中に黃みを帶びた濁水あり、之を「石中黃子」と名づけ、三升迄、のむと、千年まで生き延びる、と「抱朴子」十に出づ。其水、おひおひ、砂、又、細土となるを、「石黃」と名づける。彩色に「石黃」といふは是れか。其後、益《ますま》す固まつて石となり、外を包んだ石と離れて、外の石をふれば、ガラガラ、鳴るを、日本で「鈴石」と名《なづ》く。「譚海」九に、駿州富士郡傳法《でんばふ》村住《ぢゆう》、吉川氏の先祖は、富士の牧狩《まきがり》に賴朝に供奉したそうで、百五十年程前、大風が、宅後の大木の楠を吹倒《ふきたふ》した。其跡より出た石槨《せつかく》を開くと、徑《わたり》七、八寸ほどの石のみあり。其石、眞中に、穴、有《あり》て、内に丸い石を含み、ふると、鈴の音に違《たが》はず、「鈴石」と號し、秘藏し、事ある每に、祈れば、驗《しるし》あり。近年は、石の靈、漸く薄らいだ物か、驗、稀に成《なつ》た、とあり。惟《おも》ふに、昔しは、鈴石の、よくなるものを、鈴の代りに、神前抔で用ひ、年久しく成て、アフリカ人のフィチシュ如く、靈、有《あつ》て、人を助く、と信じたところも、日本に有たらしい。
[やぶちゃん注『「譚海」九に、駿州富士郡傳法村住、吉川氏の先祖は、……」同篇は事前に「譚海 卷之十一 駿州吉川吉實家藏鈴石の事 /(フライング公開)」しておいた。前に同じくそちらで注したものは、ここでは、省略するので、必ず、それらを見られたい。
「フィチシュ」音写が不審だが、英語の“witch”で「女魔術師」「シャーマン」のことか。]
禹餘糧、太一餘糧、共に、夏の禹王と其師太一が食ひ殘した穀粉《こくふん》の化石と見立《みたて》ての名だ。石の中にある砂や土が、穀の粒や粉に似居《にを》るからだ。他に草をも禹餘糧と名づく、とある。蒒草《しさう》は、本邦の本草家が海濱に多いフデクサ、一名ハマムギに當《あて》るが、當否を知らず。凡そ諸邦に、或る箇人《こじん》の飮み食ひの殘分《ざんぶん》が、化石し、若くは、不斷、ふえ增し、嫩くは常存《じやうぞん》し、又、代々、相嗣《あひつ》ぎ生《しやう》じて亡びないと信ぜらるゝ例、多し。少々述《のべ》てみやう[やぶちゃん注:ママ。]。
[やぶちゃん注:「蒒草は、本邦の本草家が海濱に多いフデクサ、一名ハマムギに當るが、當否を知らず」『「和漢三才圖會」卷第六十一「雜石類」の内の「禹餘粮」』で注したが、これは言っておくと、誤りである。これは単子葉類植物綱カヤツリグサ科スゲ属コウボウムギ Carex kobomugi の異名であり、「筆草」(フデクサ)はコウポウムギの異名である。而して、イネ科の多年草である「ハマムギ」は、単子葉植物綱イネ科エゾムギ属ハマムギ Elymus dahuricus var. dahuricus であって、全くの別種である。]
一八五二年カルカッタ刊行、『ベンガル皇立亞細亞協會雜誌』第廿卷二四四頁に、ヰルフォード大佐曰く、印度、タムラチレー山に、最大種の稷《きび》の大きさな細石、多く、麁挽《あらび》きの小麥粉に似おる[やぶちゃん注:ママ。]。土俗、傳へいふ、昔し、大天、十二年の不在中、天妃、每日、食を調のへて、一年、俟《ま》つても、まだ見えぬ、十年、俟つても、まだ見えぬ、と、きたので、每夜、捨て續けたのが、此石と化した、と。之を硏《と》ぎ、穴あけ絲を貫いて、千粒、一ルピーの割で、賣り、薄黃色だから、タムラ(眞鍮)と呼び、巡禮の輩、至つて之を尊《たつと》ぶ、と。支那では、建中の石粟《いしあは》は、諸葛武侯が馬を飼つた殘りの粟の化《か》するところといひ、江西の洞中の石田にある石稻も似た者らしい(「淵鑑類函」二五。「大淸一統志」二〇六)。日本には「播磨風土記」に、天日槍命(あまのひぼこのみこと)、韓國《からくに》より來り、到二於宇頭川底一而乞二宿處於葦原志擧乎命一云々、志擧乎卽許二海中一、爾時客神以ㇾ劍攪二海水一而宿ㇾ之、主神卽畏二客神之盛行一、而先欲ㇾ占ㇾ得ㇾ國、巡上到二於粒丘一而飡ㇾ之。於ㇾ此有二口落粒一、故號二粒丘一、其丘小石皆能似ㇾ粒。〔宇頭(うづ)の川底(かはじり)に到りて、宿處(やどり)を葦原志擧乎命(あしはらのしこをのみこと)に乞ふ云々、志擧乎、卽ち、海中に許す。其の時、客の神、劍を以つて、海水を攪(か)きて、之れに宿る。主(あるじ)の神、卽ち、客の神の盛んなる行ひを畏(かしこ)みて、先に國を占めんと欲し、巡(めぐ)り上(のぼ)りて「粒丘(いひぼのをか)」に到りて、之れを飡(くら)ふ。此に於いて、口より、粒(いひぼ)、落つ。故(かれ)、「粒丘」と名づく。其の丘の小石、皆、能く、粒に似たり。〕粒丘はイヒボノヲカと訓《よ》む。神の口より落《おち》た飯粒《めしつぶ》が化石したのだ。「諸國里人談」三には、周防の氷上山《ひかみさん》は、昔し、每年二月十三日、「北辰尊星の祭」有《あり》て、千種百味を備え[やぶちゃん注:ママ。]、日本第一の靈驗ある大祭だつた。「運の祭り」とて、多々良家、千餘歲續き祭つた内は、年每《としごと》に、星が降つた。天文十八年より、降り已《や》み、(二年後に)義隆、亡び、祭は斷絕した。昔しの祭供、土石と成《なり》て、地に埋《うづ》もり、米石餠・土饅頭あり。掘出《ほりいだ》して、流行病《はやりやまひ》を防ぎ、瘧《おこり》を落《おと》すに妙なり、と見ゆ。伊賀の淨福寺邊に、大きな集合岩あつて「御飯石」と呼《よば》れ、異僧が炊《かし》いだ飯の化石といふ。信濃飯綱山《いひづなやま》近く、黴菌土《ばいきんど》あつて、味、麥飯《むぎめし》の如く、食用すべし。「餓鬼の飯」と呼ぶ。越中新川《にいかは》郡の糟岩《かすいは》は、昔し、長者、酒糟を捨たのが、此岩と成たとて、神と崇め、祭禮の時、「南無糟明神」と唱ふる由。(藤澤君の『日本傳說叢書』伊賀の卷、二三一頁。同、信濃の卷、五九頁。「越中舊事記」上)。
[やぶちゃん注:「建中」後の対表現から地名としか思われないので、調べたが、この地名は見つからなかった。そこで「漢籍リポジトリ」で「淵鑑類函」の第二十五巻を調べたところが、熊楠の誤りであることが判った。「洞一」の[030-28a] 及び[030-28b]の箇所を見られたいが、『黔中郡南石厓屹立傍有石洞深數丈相傳諸葛亮征九溪蠻嘗過此留宿洞中設一牀懸粟一握以秣馬後遂化為石牀石粟至今』で、「黔中」が正しい。現代仮名遣で「けんちゅう」と読み、もと、戦国時代の楚の町の名で、後の秦代になって「黔中郡」が置かれた。 沅江中流に位置し、現在の湖南省常徳市(グーグル・マップ・データ)の西に相当する。
「イヒボノヲカ」底本では「イヒホノオカ」であるが(「選集」は歴史的仮名遣を廃しているため「イイボノオカ」で話にならない)、所持する岩波文庫「風土記」(武田祐吉編一九八七年刊)の「播磨風土記」に拠って特異的に訂した。
『「諸國里人談」三には、周防の氷上山は、……』「諸國里人談卷之三 土饅頭」は既に二〇一八年に電子化注しているので、見られたい。
「伊賀の淨福寺」三重県伊賀市古郡にある真言宗豊山派の寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「餓鬼の飯」飯綱山はここ(グーグル・マップ・データ)だが、これは、長野県小諸市御幸町の天然記念物「テングノムギメシ」として知られるものと同じ。前注した「諸國里人談卷之三 土饅頭」の私の注を参照されたい。]
後魏の楊衒之の「洛陽伽藍記」五に、宋雲と惠生と正光元年(西曆五二〇年)乾陀羅《けんだら》國に入り、肉を割《さい》て鴿《はと》を救ふたで、名高い尸毘王《しびわう》の倉の燒阯《やけあと》をみるに、焦《げ》た粳米《うるちまい》、今に在り、一粒を服《ぶく》すれば、永く瘧《おこり》を絕つ。國民、禁日を須(まつ)て之を取る、とあり(一九〇六年板、ピール「佛徒西域記」、第一卷一二五章)。印度より、支那を經て、日本に傳へた者か、日本、亦、昔し、燒けた倉趾《くらあと》から出る燒米石《やきまいいし》が熱病を治すという處あり(『鄕土硏究』第四卷第三號、中川氏の「白米城の話」)。
「山州名跡志」六に云く、每歲六月十九日の夜、鞍馬寺の法事を左義長谷《さぎちやうだに》で行なふ。古《いにしへ》は、正月、左義長の如く、竹を立《たて》て燒《やき》たり。中頃より、松明《たいまつ》の如くして、燒く。傳《つたへ》て云ふ、多門天は、人道の衆生に福を授くる誓ひ有《あつ》て、其福、滿足せり。然し、衆生、諸煩《しよぼん》に遮られて得るに由なし。故に、徒《ただ》に朽《くつ》るを以て、燒亡《やきほろぼ》し給ふ。其相《さう》を擬して、衆生にみせしむ云々。大和志貴山《しぎざん》、亦、此天の燒き玉ふとて、土中に燒米《やけごめ》あり、そこを米尾《こめのを》といふ、と。
[やぶちゃん注:『「山州名跡志」六に云く、每歲六月十九日の夜、……』国立国会図書館デジタルコレクションの『京都叢書』第十九巻(増補・昭和一〇(一九三五)年刊)のこちらで当該部が視認出来る(右ページ下段の「左義長谷(サギチヤウダニ)」の項)。上野本文中の読みは、一部をそちらの記載とルビに従って変更・補塡した。
「左義長谷」前注のリンク先の本文の頭にこの谷の位置を「樓門に向ふ巽の嶺に在り」(以上の原本では漢文訓点附き)とあるので、グーグル・マップ・データ航空写真で、この中央から南東に延びる谷ということになるか。]
唐の末、兵起つた時、山西の趙氏の女が嫂(あによめ)と共に遁るゝ折から大旱《おほひで》りで、久しく行く内、喉が渴した。或人、見かねて米の洗ひ水を吳《くれ》たのを、嫂は飮《のん》だが、其夫の妹は受けず。溝中に、ぶちあけて、渴死《かはきじに》した。その溝の水は、今に、しろ水の樣に白いから、「漿中溝《しやうちゆうこう》」と名づく。日本でも、若狹の大飯《おほい》郡音海《おとみ》村の山下に、三の岩穴、各《おのおの》、常に水あり。一つは酢、一つは酒、一つは醤油の味、あり。野菜・海藻などに和して食へば、造釀のものと異《かは》らねど、魚・鳥を煮ると、味、必ず變《かは》る。弘法大師、こゝえ[やぶちゃん注:ママ。]來たり、修行の時、造つたそうで[やぶちゃん注:ママ。]、「大師洞《だいしがうろ》」と稱へる由(「大淸一統志」一一〇。「若狹郡縣志」三)。故高木敏雄氏の「曰本傳說集」二一〇頁に、飛驒の益田郡中原村の「孝行水」てふ小池は、路傍にあり。昔し、瀕死の父が、若い時、琵琶湖の水を飮んで旨かつたと思ひ出し、今一度、あの水を飮《のん》で死にたいと云《いふ》た。其子、孝心、篤く、直ぐ、出で立つて、琵琶湖え[やぶちゃん注:ママ。]急行し、其水を持來り、見れば、父は死んで居《をつ》た。大いに失望して、水を、器に盛つたまゝ、路傍に落《おと》し、そこが、忽ち、池となり、今に、增減・澄濁、みな、かの湖に應ずと云ふ。
[やぶちゃん注:「若狹の大飯郡音海村」若狭湾湾奥の西部分の岬の先端に福井県大飯郡高浜町(たかはまちょう)音海(おとみ:グーグル・マップ・データ航空写真)がある。ずっと以前からお世話になっている斉藤喜一氏のサイト「丹後の地名」の「音海(おとみ) 福井県大飯郡高浜町音海」のページで、この「大師洞」が岬の北の本当の先っぽの「音海断崖」(同前)にあることが判った。そこの「音海断崖」に、『内浦半島の突端にあり、北向き海岸で船で外海へ出ないことには見えない。壮大な海食崖という。「若狭国志」に「巌壁高サ数十丈、鷹鳥巣ヲ為ル。其下ニ巌洞有リ、大師洞卜称ス。広大宛モ大堂ノ若シ」とあるように、押回鼻と今戸鼻の間約2㎞にわたって最高260mの断崖が続く。安山岩質の岩石海岸が荒波により浸食されたもので、崖下には大師洞・十二艘洞など海食洞も多い。中でも十二艘洞は巨大で、高さ20m ・ 奥行60mもあるそう』とあって、「高浜町誌」から引いて、『押回鼻には洞穴があり』、『大師洞という。洞中に三つの岩壷があって醤油壺、醋壷、酒壷と海水の味がかわり泰澄大師が祀ってある』とあった。ただ、これが現存するかどうかは、ネットで調べたが、場所が場所だけに、よく判らない。
「若狹郡縣志」国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本地誌大系』第十三冊(大正六(一九一七)年刊)所収の同書を確認、ここの左ページの下段に「大師ヵ洞(ウロ)」とあるのがそれ。
『高木敏雄氏の「曰本傳說集」二一〇頁』国立国会図書館デジタルコレクションで原本(大正二(一九一三)年刊)の当該部が視認出来る。附記もあるので、是非、読まれたい。]
一向宗徒は、越後の八房の梅を祖師の靈驗と崇む。親鸞聖人、鳥屋野《とやの》に宿つた時、亭主馳走して鹽漬の梅を獻じた。聖人、食つて、核《たね》を取り、庭に投《なげ》て、「我が敎ゆる法《ほふ》が繁昌するなら、この核より、梅の木が生ぜよ。」と言《つ》た。後ち、果して、生え、其梅、千葉の紅花で、一朶に八顆あり、味ひ、やゝ鹹《しははゆ》しといふ(「和漢三才圖會」六八)。「本草圖譜」五八に圖、白井光太郞博士の「植物妖異考」一に說明あり。「三度栗」、亦、「親鸞の靈驗」と云ふ。聖人、分田《ぶんだ》村を過《すぐ》る時、一婦、燒栗を持つて餽《おく》つた。上野の原で休む時、之を食ひ、餘りを、地に埋めて、「我法、後世に昌《さか》えなば、此燒栗、再生すべし。」と言た。不日に、芽を出し、今は林となり、歲に、三度、實のる、と(「和三」其他同前)。天武天皇にも同樣の話あり、「宇治拾遺」に出づ。伯耆の後醍醐帝の「齒形栗」も同類異話だ。常陸鹿島の社の側の栗林も、神の食ひ殘しの燒栗より、生えた由(加藤咄堂「日本風俗志」三、新松氏「神道辯草」)。
[やぶちゃん注:『「和漢三才圖會」六八』の親鸞の事績二つは所持する原本の当該部(「越後」地誌パート内の「當國 神社佛閣名所」の一節)から訓読(送り仮名や読みの一部は私が加えてある)したものを以下に示す。そもそも、この二つは、並置さえれてある。なお、標題は原本では一行目冒頭からで(△もこれのみ、第一字目位置にある)、本文は全体が一字下げである。
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八房(やつふさ)の梅 同郡白川の庄(しやう)小島村に在り。
親鸞聖人鳥屋野(とやの)に止住(しぢゆう)ある時、民家に入り、亭主、饗應し、且つ、鹽漬梅を獻(けん)ずる。師、之れを吃(きつ)して、核(たね)を採りて、庭園に投じて曰く、「敎ふる所の法(ほふ)、如(も)し、宜しく繁昌すべくば、乃(すなは)ち、此の核、當(まさ)に活生すべし。」と。果たして、言ふごとくに生へて、而も、其の梅、千葉(せんえふ)の紅花、一朶(ひとえだ)に八顆(やつふさ)有りて、味、稍(やや)、鹹(しはゝゆ)く、人、以つて、奇と爲す。俗、之れを「八房の梅」と稱す。其の末孫(ばつそん)、「小島の佐五助」と名づく。其の家、相ひ續く。
三度栗 同郡上野(うはの)が原に在り。
相ひ傳ふ、親鸞聖人、分田(ぶんだ)村を過(よぎ)る時、一婦、有り、燒栗(やきぐり)を持ちて、塗(みち)に[やぶちゃん注:道中に。]饋(を[やぶちゃん注:ママ。])くる[やぶちゃん注:「貴人に食事をすすめ供する」の意。]。安田村に至り、六字の名號を書きて、之れを賜ふ【其の名號、今、安田川の孝順寺に在り。】。休息し、彼(か)の燒栗を吃し、餘る所を以つて、地に埋めて曰く、「我が法、後世(こうせい)昌(さかん)ならば、乃(すなは)ち、燒栗、再生すべし。」と。不日(ふじつ)に、芽(め)を生(しやう)じ、果して、今、栗林と成る【長さ八町[やぶちゃん注:厄八百七十三メートル。]、横十五町[やぶちゃん注:約一・六三六キロメートル、]許(ばか)り。】。而も、毎歳(まいとし)、三度、子(み)を結ぶ云云(うんぬん)。
△按ずるに、常州、西念寺の前にも亦、此のごときの栗の林、有り。恐らくは、共に、是れ、後人の附會ならん。信州・總州・紀州熊野の山中に、栗、有り、俗、之れを「芝栗」と謂ふ。其の樹(き)、甚だは喬(たか)からず、其の子(み)、薄匾(うすひらた)に、小さくして、糓[やぶちゃん注:「穀」の異体字だが、「殼(から)」の誤刻であろう。]、焦黑色(こげくろいろ)を帶ぶ。「本草」に所謂る、「栭栗(ささぐり)」【一名「茅栗(しばぐり)」。】の類、是れならん。鸞師、嘗て鎌倉の選擧(せんきよ)に因(よ)りて、「一切經」を校合(きやうがふ)し、數千卷(すせんくわん)を紬繹(ちうえき)して、悉く、大意を諳(そら)んず。其の智德、以つて知るべし。而(しか)も自(みづか)ら「愚禿(ぐとく)」と称す。豈に華言(くわげん)を喜ばんや。然(しか)と雖も、億兆の祖と爲(な)る。皆、必ず、天性の妙、有り。故に其の餘(よ)の靈異は、悉く、詰(なじ)るべからず。
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この後者の「三度栗」は、「譚海 卷之二 同國宿運寺古錢土中より掘出せし事幷小金原三度栗の事」、及び、「北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート6 其五「冬雷」・其六{三度栗」・其七「沖の題目」)}(そこでの私の注が本篇に最も合う。「八房の梅」も出てくる)、『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「六」』では紀州熊野のそれへの言及がある。
『「本草圖譜」五八に圖』江戸後期の本草家岩崎常正(天明六(一七八六)年~天保一三(一八四二)年:号は灌園(かんえん)。幕府の徒士(かち)の子で江戸下谷三枚橋に生まれた。文化六(一八〇九)年に幕府に出仕した。本草学を、かの小野蘭山に学んだ)が文政一一(一八二八)年に完成させた一大図譜で全九十六巻九十二冊。天保元(一八三〇)年から没後の弘化(一八四四)年にかけて出版した。外国産も加えた実に約二千種もの植物を収載する江戸時代最大の彩色植物図鑑である。モノクロームであるが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここが当該種。筆頭標題は「重葉梅(ちようえふばい)」とあって、以下に「ざくんばい」「やつうめ」「やつぶさ」とあって、『越後の国の名産也。花千葉淡紅色。良香あり。一蒂』(ひとへた)『に初メよりは九実を結び、熟するに随て、二、三、実、残る』(句読点は私が振った)とある。
『「植物妖異考」一に說明あり』国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該部を見られたい。九ページに及ぶ記載で、後半は植物学上の比定と学術的記載となっている。
「和三」「和漢三才図会」。
『天武天皇にも同樣の話あり、「宇治拾遺」に出づ』「宇治拾遺物語」の巻十五の第一話「淸見原天皇與大友皇子合戰事」(淸見原天皇、大友皇子と合戰の事)を指す。「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、電子化されたもので読める。
『伯耆の後醍醐帝の「齒形栗」』「米子市」公式サイト内の「安養寺の歯形栗」を見られたい。]
ナスロルラー・セムマンドは網打ちに長じ、沙漠の砂上に網打つても必ず魚を獲《とつ》たといふ。予、曾て、ダマスクスより緣玉井(ペール・ゼムロッド)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]に到つた時、巡禮輩、沙原中より、大小の魚、夥しく集め持ち來り、煮て食ひ、昔し、囘祖が、ナスロルラー・セムマンドに、砂中に網打《うつ》て取《とら》しめた魚の殘りだと云《いつ》た、と、エヴリア・エッフェンジが言《いつ》た。或るマレー人は、ザンノイオは、囘祖が豕《ぶた》を食ふを禁ぜぬ内、食ふた豕の殘肉より生じたといふ。熊楠言く、是は、肉味が似たより言ふのだ。又、シサ・ナビ(囘祖の殘食)てふ鰈(かれ[やぶちゃん注:ママ。])は、最初、體の兩側に、等量の肉、あつた。その一側を、囘祖が食つて、殘りを海に投入《なげいれ》ると、蘇生して、今迄、繁殖したが、一側の肉、他側より多くて、扁魚と成り了《をは》つたといふ。西曆五世紀にカムボジアで活動した暹羅《シャム》[やぶちゃん注:タイ王国の旧名。]人ネアイ・ルオングが、クラン魚を食ふて殘した頭と背骨斗り、それが、復活して、今に生きおる[やぶちゃん注:ママ](一八七六年、ワーター編纂、サウゼイ『隨得手錄』二輯五二一頁。一九〇〇年板、スキート「巫來《マレー》方術」三〇六頁以下。一八八三年、パリ板、ムラ「柬埔塞《カンボジア》王國誌」二卷一三頁)。支那では、吳王、江を渡る船中で、鱠《なます》を食ふた殘りを、中流に棄てたのが、鱠片《なますへん》のやうな魚に化《くわ》し、今にあり、「吳王鱠餘《ごわうくわいよ》」とも「鱠殘魚」とも「王餘魚」とも名《なづ》く。和漢とも、「王餘魚」を「鰈(かれ)」と心得た學者、あり。予は、その何書によつて立說したかを知《しら》ねど、支那の一部、亦、巫來《マレー》人のシサ・ナビ同樣、鰈を某王の殘食と云傳へる所があるのだ(「和漢三才圖會」五一。「閩書南產志」二)。「筠庭雜錄《いんていざつろく》」上に、陸次雲の「纖志志餘」に、半面魚、相傳、越王食ㇾ魚未盡、半棄二海中一、故其種止具二半面一。〔半面魚。相傳ふ、「越王、魚を食(くら)ひて、未だ盡さざるに、半ばを海中に棄つ。故に、其の種は、止(た)だ、半面を具(そな)ふるのみ。」と。〕但し、吳王、越王、又、寶誌和尙がことなり、とも、さまざまに言《いへ》り、と。寧國府、琴溪に、一種の小魚あり。仙人琴高、藥滓《やくし》を投じて化した、とて、「琴高魚」といふ。每年、三月に、數十萬、一日に來り、集まるを、網で取《とり》て、鹽漬にし、乾し、土冝《みやげ》[やぶちゃん注:「冝」は「宜」の異体字。]となす、と(「琅邪代醉編」八)。
[やぶちゃん注:「ザンノイオ」話の流れから、食べた魚の一部を「残」して水中に投げ入れて生じたたところ「の魚」などととっては誤りなので、注意が必要である。これは本邦での「人魚」の正体の第一番にモデル候補とされる、インド洋・西太平洋・紅海に棲息する哺乳綱海牛(ジュゴン)目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon の本邦の生息域である奄美群島から琉球諸島にかけての方言。ウィキの「ジュゴン」によれば、『英名』Dugong『はマレー語 の『duyung が』、『フィリピンで使われているタガログ語経由で入ったもので、「海の貴婦人」(lady of the sea)の意味だという』。なお、漢名「儒艮」はその音の当て字である。本邦の同地域で、『「ザン」、「ザンヌイユー」・「ザンノイヨ」・「ザンノイユ」(ザンの魚)、「アカンガイ」・「アカングヮーイュー」(アカングヮーは赤ちゃんで、イューは魚という意味)』『などと呼ばれる』。『なお、「ザンヌイユー」を大和言葉化した「ざんのいを」の語形もあって、「犀魚」の字をあてることもあるとされる』。『また、宮古列島には「ヨナタマ」・「ヨナイタマ」、八重山列島の新城島』(あらぐすくじま)『には「ザヌ」、西表島には「ザノ」の方言名があり』、『琉球王府公用語では「ケーバ」と呼ばれた』とある。辞書によっては、南西諸島方言に「ザン」は動物の「サイ」(奇蹄目有角亜目Rhinocerotoidea上科サイ科 Rhinocerotidaeのサイ類。現生種は五種)の意と断定しているものが殆んどであるが、いかがなものか? この場合の「犀」とは、中国から琉球王朝に入った書籍や談話から想像された実際には見たことがない「サイ」から転じた、自由な仮想獣「犀」の比喩モデルとすべきであるように私には思われる。無論、当時の日本本土の本草学者らは、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犀(さい) (サイ)」を見るまでもなく、実際の「サイ」を情報としては知っていた。しかし、それを無批判に南西諸島のジュゴンを指す「ザン」と同じだというのは、寧ろ、安易で、非科学的であるように思われる。母音の口蓋化が起こる南西諸島で「サイ」を「ザン」と転訛するというのも、私には頗る怪しい気がしてもいるのである。私にも「ザン」の本来の意味は分からないが、少なくとも「犀」の音変化説には全く組み出来ないのである。
「鰈」北極海・太平洋・インド洋・大西洋の沿岸の浅海(種によっては汽水域も棲息可能)から水深千メートルの深海までに棲息する魚上綱硬骨魚綱カレイ目カレイ科 Pleuronectidaeのカレイ類だが、昔の一般人が太平洋西部(千島列島、樺太、日本、朝鮮半島などの沿岸から南シナ海まで)に棲息するカレイ目カレイ亜目ヒラメ科ヒラメ属 Paralichthys を識別していたとは到底思われないから、それも含むとしておく。
「クラン魚」現在の当該種不詳。識者の御教授を乞う。
『「和漢三才圖會」五一』私の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「しろいを 鱠殘魚」を見られたい。そこで私はこれを、キュウリウオ目シラウオ科 Salangidaeに属するシラウオ類と比定している。なお、同巻の「かれゑひ かれい 鰈」も一緒に参照されたい。そこにも「王餘魚は、乃(すなは)ち膾殘(しろうを)なり。」という一文が出るからである。
「琴高魚」現在の当該種不詳。識者の御教授を乞う。]
日本では「筠庭雜錄」上に、吉野山藏王權現の堂より左の方、道程二十町[やぶちゃん注:約二・一八二キロメートル。]斗り行けば、谷間に亘《わた》り、十餘間[やぶちゃん注:二十メートル弱か。]の池あり。其内の鯉は、身、瘦《やせ》て扁《ひら》たし、と。土人云く、昔し、義經、片身《かたみ》食ふて、池に放ちたるとぞ、と出づ。義經の兄賴朝は、江州淺井《あざゐ》郡高山村の安明淵で、鯉をとり、片身の鱗をふき放せしに、今に草野川に存す、と。高野山蓮金院《れんこんゐん》の覺弘の兒童、前なる池の魚をとり、焙《あぶ》つて奉りしを、加持すると、傍ら、焦げ乍ら、蘇り、池に放てば、本の如く泳ぎ、子孫、みな、半身、焦《こげ》た樣《やう》だ、と。或る東土旅行家の、カウカススより、黑海に流るゝ川の記に、此所え[やぶちゃん注:ママ。]、每歲、無數の魚來《きた》るを、土民、捕へて、其片かわ[やぶちゃん注:ママ。]の肉を切り取り、食ひ、魚を放つと、明年、魚、復た、來つて、他の側の肉を捧ぐるをみるに、去年、切り取られた跡に、復た、肉を生じあり、と。行基大士、曾て、自分の生れた村にゆくと、村人、池の傍らに飮みおり[やぶちゃん注:ママ。]、鮒の鱠《なます》を、上人に奉つた。上人、齟《かん》で、池へ吐くと、夥しい小鮒と成《なつ》て、數百年、繁殖したが、眼、一つ、なかつたと云ふ。其譯を知らぬ。播磨の腹辟沼(はらさき《ぬま》)は、上古、花浪神《はななみのかみ》の妻淡海神《あふみのかみ》が、夫を追つて、爰迄、來ても、埒《らち》明《あか》ず、怨み怒つて、自ら屠腹して、此沼に沒した。其から、沼中《ぬまうち》の鮒に、五臟、なし、と傳へた。熊楠、謹んで案ずるに、近松門左、元祿十三年[やぶちゃん注:一七〇〇年。]作の「長町女腹切《ながまちをんなのはらきり》」は、其頃、大阪長町の伽羅《きやら》細工師甚五郞の妻、其甥柄卷屋《つかまきや》半七がお花てふメテレツ[やぶちゃん注:「女天烈」か。「女の奇天烈なる者」の謂いか。]に打込《うちこん》で起こつた椿事を苦にし、み事《ごと》、男のする切腹を、女の身でした始末を演《やつ》た。それより二百八十三年前、應永二十四年[やぶちゃん注:一四一七年。]正月、上杉禪秀、敗軍して、鎌倉雪下で自殺の後、其妻、之を聞《きい》て、住國(甲斐か)藤渡の河邊で、守り刀で、腹、十文字に切つて、水中に沈む。女、腹切る事、古今不思議に聞えし。辭世の歌に「さなきだに五つの障りありときく 親さへ報ふ罪いかにせん コラサイ」と。熊楠、又、案ずるに、此夫人の父武田信滿は婿禪秀に加勢し、敗軍して、甲斐に歸り、上杉憲宗に伐たれ、衆寡、敵せず、同年二月、自殺したから、娘が親さへむくふ、と詠んだのだ。然し、此上杉夫人より、ズットむかし、神代、既に、淡海神が切腹した上、五臟を摑み出したればこそ、此女神が、沈んだ沼の鮒は、後世まで、五臟なし、と云ひ傳えた[やぶちゃん注:ママ。]ので、逈《はる》か下つて、九郞判官や、佐々成政が、割腹して、腸《はらわた》を繰出《くりだ》し、三好海雲が顯本寺の天井に、腸を投げつけて死んだ等より、大分、ツリを取らねば成《なら》ぬ。だから、世に多い自殺ずきの男や、りんきで「死ぬ死ぬ」言通《いひとほ》す女共は、專ら、此女神を開祖と仰ぐべしだ。扨、越中礪波郡やち川のざこに、腸、なし。親鸞、京都で寂した後ち、此邊に在《あつ》た俗弟が、偶《たまた》ま、ざこの腸を拔居《ぬきを》つたが、此報に愕《おどろ》き、ざこを、此川へ捨てたから、今に腸なし、といふ(「近江輿地誌略」八六。「高野山通念集」六。一八九一年板、コプレイ「奇異な迷信」一七頁。「行基年譜」。「元亨釋書」一四。「播磨風土記」。「兩武田系圖」。「野史」一一一、一一五、一五二。「義經記」八。「川角太閤記」三。「越中舊事記」下)。
[やぶちゃん注:「吉野山藏王權現」吉野山金峯山寺の秘仏金剛蔵王大権現を祀る蔵王堂(グーグル・マップ・データ)。
「十餘間の池」方向と堂からの距離からすると、この「菅原池」か(グーグル・マップ・データ航空写真)。但し、今はずっと大きい。
「江州淺井郡高山村の安明淵」「草野川」現在の滋賀県長浜市高山町(グーグル・マップ・データ)。同町内北部に、東㑨谷川(ひがしまたたにがわ)と西㑨谷川が流れ、それが南部で合流して草野川となる(同拡大図)。「安明淵」は不明だが、「草野川」に現存すると言っており、通常、淵が出来そうなのは、まず、上流二川の合流点、及び、そこを下る直下部分であろう。そのすぐ下流には、堂來清水(白龍神社)と白竜神社があり(グーグル・マップ・データ航空写真)、何となく、それっぽい雰囲気はある。
「高野山蓮金院」ここ(グーグル・マップ・データ)。
「兒童」僧附きの稚児。
「カウカスス」コーカサス。コーカサス山脈の中央附近(グーグル・マップ・データ)。
「行基大士」別な場所での行基の逸話に、「諸國里人談卷之五 片目魚」(私のブログ電子化注)がある。なお、余りに多過ぎるので、逆に示し難いのだが、既に分割で電子化注を終えている柳田國男(リンク先は私の彼のブログ・カテゴリ)の「一目小僧その他」の「一つ目小僧」の中には、夥しい片目の魚の話が語られてある。例えば、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十一)』の後半を参照されたい。
「自分の生れた村」行基の生地は河内国大鳥郡で、現在の大阪府堺市西区家原寺町(いえばらじちょう:グーグル・マップ・データ)である。
「播磨の腹辟(はらさき)沼」信頼出来る資料によれば、兵庫県小野市三和町に嘗てあった沼らしい。
「花浪神」「妻淡海神」サイト「神魔精妖名辞典」のこちらによれば、『「播磨国風土記」に見える神。同訓で「花波之神」とも記す。近江の国の神とされ、花波山はこの神が鎮座するが故にそう称するという。妻は淡海神で、淡海神は花浪神を追って来たが』、『遂に』『会えず、自分の腹を割き』、『沼に身を投げて死んだと伝わる。兵庫県多可郡多可町』(たかちょう)『にある「貴船神社(きぶねじんじゃ)」』(グーグル・マップ・データを見ると同町内には分祀されて四ヶ所ある)『は現在』、『高龗』神(たかおかみのかみ:「日本書紀」にのみ出る水神で、伊邪那岐命が妻の死の原因となった火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を怒って斬った際、その飛び散った血から生まれた神の一柱とされる)『を祭神とするが、古来は「花の宮」と称し』、『花浪神を祀っていたとされる』とあった。
「三好海雲」)戦国武将三好元長(文亀元(一五〇一)年~享禄(きょうろく)五(一五三二)年)の法名。三好之長の孫。阿波の国人。大永(たいえい)六(一五二六)年、細川晴元を補佐して挙兵、翌年、管領細川高国を京都から追い出し、足利義維(よしつな)を立てて、和泉国堺に公方府を開いた。享禄四年、再起を謀った高国を滅ぼしたが、忠誠心を疑った晴元の策謀により、本願寺の一揆軍に包囲され、堺で自害した。
「顯本寺」大阪府堺市堺区宿院町(しゅくいんちょう)に現存する法華宗本門流の常住山(じょうじゅうざん)顕本寺(けんぽんじ:グーグル・マップ・データ)。
「越中礪波郡やち川」富山県砺波市寺尾谷内(やち)の直近を流れる谷内川。「ひなたGPS」の戦前の地図の方で「谷内」の読み「ヤチ」が、国土地理院図で川名が確認出来る。]
高野山御廟橋は、有罪者、渡り得ずとか。處が、大正十年十一月、予、爰で見居ると、殺生、犬をつれ、鐵砲を肩にし、橋の上で、屁《へ》を、三つ、放つて、行く者を見、其體《てい》を畫いて、座主に覽《み》せた。此橋の下に住むハエは、みな、背に孔ある、といふ。昔し、此魚を捉え[やぶちゃん注:ママ。]、燒きおる[やぶちゃん注:ママ。]處え[やぶちゃん注:ママ。]、弘法大師が來て、其惡業たるを諭《さと》した故、放つたら、串の跡が殘つたとか。實はジョルダンとトムソンが、學名をレンキスクス・アトリラツスと付《つけ》た者で、此田邊附近にも、どこにも、多く、特に色付《いろづけ》られた背鰭が、孤立して、水中で孔のやうにみえるのだ。
[やぶちゃん注:「高野山御廟橋」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真。サイド・パネルで橋の画像が見られる)。
「座主」熊楠とはロンドンで際会以来、親しかった土宜(どき)法龍。
「此橋の下に住むハエ」(「ハヤ」に同じ)「レンキスクス・アトリラツス」何度もいろいろな記事で述べているが、再掲しておくと、そもそも「ハヤ」という種は存在しない。「大和本草卷之十三 魚之上 ※(「※」=「魚」+「夏」)(ハエ) (ハヤ)」をを見られたいが、そこの私の注から転写すると、本邦で「ハヤ」と言った場合は、これは概ね、
コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis
ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri
アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi
コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus
Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii
Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii
の六種を指す総称である。この内、熊楠の属名の音写「レンキスクス」はアブラハヤ属Rhynchocypris の綴りに似ているように見える。しかし、学名の命名者の中にしばしば見られる連名の“Jordan & Thompson”と“synonym”、及び、それに“Rhynchocypris”を加えたフレーズ検索を何度もかけて、海外サイトの学名のシノニムの記載一覧を見たものの、「レンキスクス・アトリラツス」に相当する種自体が見当たらなかった。私は淡水魚は、守備範囲でないため、熊楠の言っているこれ以上は何とも言えない。識者の御教授を乞うものである。二種の幾つかの画像を見ると、熊楠の言う色づいた背鰭で孤立しているというのは、印象的には、アブラハヤっぽい感じはした。]
「本草」に所謂、「卵石黃」は、卵に黃みあるに似たよりの名で、前篇に述《のべ》た田邊近所、岩屋山の「饅頭石」は、之に屬す。甲州の團子山邊を、昔し、弘法大師が通ると、婆が團子を作り居《をつ》た。一つくれ、といふを、斷《ことわ》つたので、大師、大《おほい》に立腹し、呪して、悉く、石にしたから、婆は、之を、宅後の山に捨てた。石は鷄卵の大《おほき》さで、人工が及ばぬ程、よくできおり[やぶちゃん注:ママ。]、雪程、白く、すこぶる滑《なめら》かで、破つて見れば、赤い米粒樣の物、滿つ。外用すれば、疱瘡を治すといふ。柳里恭《りうりきよう》[やぶちゃん注:柳沢淇園の唐風名。]、其粉を水飛《すいひ》して、畫料とし、よい色がでたが、膠水《にかはすい》に和し惡《にく》かつた由。常陸の足高《あだか》で、坂の兩側の崖の砂中から、石饅頭を出す。眞圓《まんまる》くて、中空、普通のモナカの大《おほき》さで、表の眞中に、小孔、あり。その周りに六角の花形、現はる。掘出《ほりだし》た時は、至つて脆いが、空氣に觸れると、瀨戶燒の如く、固まる。昔し、此邊、泥海だつた時、足高觀音堂の門前の小屋で、饅頭を賣る翁あり。或暮方、乞食、來つて、「一つ施こせ。」といふと、「石饅頭だ。食《くは》れない。」と云た。「然らば、眞實《まこと》の石に、してやらう。」と言《いつ》て、乞食が去《さつ》た跡で、饅頭、皆な、石となり、幾ら造つても、亦、石となる。據ろなく、之を棄てて、店を止めた。其時の饅頭が、今、砂から出るのだ、と。そして件《くだん》の乞食は、弘法大師だつた相《さう》な(柳里恭「獨寢」。高木氏「日本傳說集」二一三頁)。こは「劍橋《ケンブリツジ》動物學」一卷二四一圖にみえる北米產サンド・ダラー如き蝟狀動物(本邦でタコノマクラ、サルノマクラ抔いふ類《るゐ》)の化石だらう。
[やぶちゃん注:「甲州の團子山」サイト「YAMANASHI DESIGN ARCHIVE」の「団子石」のページに、この弘法大師のエピソードが載るが、そこでは『茅ケ岳の麓』をロケーションとしている。茅ケ岳(かやがたけ)は国土地理院図で示すと、ここである。記載された当該場所はズバリ、甲斐市団子新居(だんごあらい)字団子石(だんごいし:グーグル・マップ・データ)である。
「水飛」「水簸」とも書き、水中での固体粒子の沈降速度が、粒子の大きさによって異なることを利用し、粒の直径を二種以上に分離する操作を言う。陶土を調整したり、砂金から金を採取したりする際に行なう(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。
「常陸の足高」現在の茨城県つくばみらい市足高(グーグル・マップ・データ)であるが、「觀音堂」はそこから八キロ西北西の、つくばみらい市鬼長(おにおさ)にある「観音堂」のことか(同前)。
「蝟狀」(いじやう/はりねずみじやう)「動物」「タコノマクラ、サルノマクラ」後の「タコノマクラ」「サルノマクラ」は棘皮動物門海胆(ウニ)綱タコノマクラ目タコノマクラ科タコノマクラ属タコノマクラ Clypeaster japonicus を指す。英語の“Sand dollar”も同種の英名である。熊楠の言っているのは、本種を指していると考えてよいが、江戸時代以前の「タコノマクラ」は実は、タコノマクラ目ヨウミャクカシパン科ハスノハカシパン属ハスノハカシパン Scaphechinus mirabilis 等の仲間を指して言っているケースが多く、逆に現在のタコノマクラをそう呼称しているケースは殆んどないので、本草書に出る場合は注意が必要である。例えば、私の『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海盤車・盲亀ノ浮木・桔梗貝・ヱンザヒトテ・タコノマクラ・海燕骨(キキヤウカイ)・総角貝 / ハスノハカシパン』を見られたい。]
或る食物、又、其持主や作り手を惡《にく》んで詛《のろ》ふてより、其食物が廢物となつて今にありてふ信念も、大《おほい》に弘《ひろ》まりおる[やぶちゃん注:ママ。]。例せば、弘法大師が、食ひ能はず、海の方へ投げた蕨《わらび》が、石と成《なつ》て、夥しく、阿波の或《ある》海岸に群がりあるといふ。之と反對な話は、羽州黑崎附近に、「黑崎の白蕨」てふ特異の物、生ず。昔し、法師に宿かした女が、海、荒《あれ》て、和布《わかめ》を取り得ず、何を汁種《しるだね》にして旅僧をもてなすべきと思ひ煩ふをみて、僧云く、「爰へ來る路に、蕨、多かつた。あれで十分だ。」と。女、笑ふて、「蕨は、灰汁《あく》で、先づ、煮て、ぬめりを去《さら》ずば、食へず。中々、手のかかる物。」といふと、坊主、「そんな事は、ない。」と云て、山へ行《ゆき》て、一握《ひとにぎり》、採り來たり、「灰を入れずに、すぐ、煮よ。」といふから、不審乍ら、煮ると、甚だ旨《うま》かつた。「斯《かか》る珍品を敎示し玉ふは、弘法大師に相違なし。」と、人、專ら云た。それから今に、所の者が汁菜とする程の、灰汁入らずの蕨が生えるとの事。藝州新庄村と佐東村の界《さかひ》に、大木の桃一樹あり。南は新庄、北は佐東なり。この桃の南枝の果は、苦く、北枝のは、甘し。昔し、弘法大師、佐東で桃を乞ふに、「苦くて食へない。」と欺むいた。新庄の人は「甘い。」と言つて進呈した。故に一木乍ら、甘苦の果を分ち生ず、と。この田邊町より遠からぬ富田《とんだ》地方は、土地、豐饒だが、豌豆《えんどう》を栽《うゑ》ず。栽ると莢の中に、蟲、自づと、生じ、食盡《くひつく》すから、物に成ぬ。大師、豌豆を乞ひしに與え[やぶちゃん注:ママ。]なんだ罰といふ。又此邊で、「ズバイ桃は、毛桃より變成した。」といひ傳ふるは、今日、科學者の意見によく合ふ。だが、變成の道筋が甚だ非科學的に說かれおり[やぶちゃん注:ママ。]、弘法が來て、少しの毛桃を乞ふと、「あれはツバキの實だ。桃なものか。」と嘲り拒んだので、大師、「しからば、眞《まこと》のツバキの實にしてやらう。」と言つて、去ると同時に、桃の毛、盡《ことごと》く落ちて、ツバキの實の樣に成つたと云ふ。桃に取《とつ》ては、毛を亡《うし》なふて、大損だが、毛桃が、ズバイ桃に成《なつ》たつて、作り主に、何程の損になるか。其頃のズバイ桃は、全く食へぬ物で有《あつ》たのか。一寸、分らぬ。何にしろ、無毛の桃は、ツバキの實の樣だから、ツバキ桃、それから、ズバイ桃、扨は、ズンバイ抔いふに至つたは爭はれぬから、此村民の傳說は、道理に外《はづ》れ盡しおらぬ[やぶちゃん注:ママ。](藤澤氏「日本傳說叢書」阿波の卷、三八三頁。「眞澄遊覽記」「小鹿の鈴風」の卷。「諸國里人談」四。ド・カンドル「栽培植物起原」一八九〇年紐育《ニューヨーク》板、二二七頁。「塵添壒囊抄」五の二三。「箋注倭名類聚抄」九)。
[やぶちゃん注:「弘法大師が、食ひ能はず、海の方へ投げた蕨が、石と成て、夥しく、阿波の或海岸に群がりある」最後の参考文献に挙げてある『日本伝説叢書』の「阿波の巻」(藤沢衛彦編・大正六(一九一七)年)の国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここの「蕨石(わらびいし) (郡賀郡見能林村大字中林)」で視認出来る。そこに、このロケーションを、『中林村(なかばやしむら)』とし、割注で『今の見能林〔ミノバヤシ〕村大字中林の地』とあり、続けて、その村『の内、南林の高岳(たかをか)の東北の海岸に』その「蕨石」と呼ばれる『蕨の並び生へたやうになつてゐるもの』がある、とある。ここは、現在は徳島県阿南市中林町(なかばやしちょう)で、ここである(グーグル・マップ・データ)。
『羽州黑崎附近に、「黑崎の白蕨」てふ特異の物、生ず』これは、同前の菅江真澄五十七歳の折りの男鹿半島に逗留した際の紀行文「小鹿の鈴風」文化七(一八一〇)年刊)が直接の出所である。国立国会図書館デジタルコレクションの『秋田叢書 別集』第一の「菅江真澄集 第一」(昭和五(一九三〇)年)のここで当該部が視認出来る。なお、ネットの複数の記事を見るに、旧「黒崎の大明神崎(おおもつざき)」、現在の秋田県男鹿市北浦西黒沢地区にある岬が、このロケーションに比定されているようである。「ひなたGPS」のここ。
「藝州新庄村と佐東村の界」広島県広島市西区新庄町と広島市安佐南区の間と思われる。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。この話は既に電子化注してある私の「諸國里人談卷之四 枝分桃」を参照されたい。
「富田地方」現在の和歌山県西牟婁郡上富田町(かみとんだちょう)及びその南・東・西部分。「ひなたGPS」のこちらを参照されたい。東西南北を頭に附した広域の旧富田村域が確認出来る。
「ズバイ桃」双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科モモ属モモ変種ズバイモモ Amygdalus persica var. nectarina 。ネクタリンの標準和名。原産地は中国南部のトルキスタン附近で、 桃の表面のうぶ毛が退化した変種で「油桃(ゆとう)」とも呼ばれ、本邦では、山梨県・長野県を中心に生産されている。桃よりもしっかりとした果肉で、酸味があるのを特徴とする。
「毛桃」モモの在来品種であるバラ科モモ亜科スモモ属モモ Prunus persica の異名。]
僧に物を乞《こは》れて與へなんだ話は、古くより有り。西行「撰集抄」に、延喜帝の末年、仲算大德《ちゆうざんだいとく》、旱天に、近江の山中で、女が淸水を汲んで、頭に戴き行くを見て、少しを乞しに、「聖僧、自《みづか》ら、水を湧出せしめて、飮め。遠路を汲み來た者を、煩はし玉ふな。」と云《いつ》た。仲算、「誠に。さうだ。」と云て、劍で、山の鼻をきると、醒井《さめがゐ》の淸水が湧出《わきいで》た、と載す。この仲算の仕方は、弘法より、遙かに殊勝で、怨みに報ゆるに、直《なほ》きを以てした者だ。
[やぶちゃん注:以上は、「撰集抄」の巻七の「第五 仲算佐目賀江ノ水掘出ス事」である。所持する岩波文庫版(西尾光一校注一九七〇年刊)を参考に電子化する。
*
第五 仲算佐目賀江ノ水掘出ス事
延喜[やぶちゃん注:九〇一年から九二三年まで。]の御代の末つかたの比(ころ)、此仲算大德、同朋、あまたいざなひて、あづまのかたへ、修行したまひけるに、天(あめ)が下、日照りて、すべて、絕えせぬ淸水(しみづ)なども、皆、干(ひ)かわきて、飢ゑつかるゝ物、おほく侍り。
しかあれど、佛・菩薩のおたすけにや侍りけん、近江の國、ある山中に、淸水のありけるを、はるかの遠(とを)き所よりも、あつまり、汲みける也。
ある女の、水をいたゞきて行(ゆき)けるを、仲算大德、
「つかれ侍り。ちと、喉(のど)、うるゑん。」
と、あるに、此女、云(いふ)やう、
「貴(たうと)げなる聖(ひじり)の、水をも、わかして、飮み給へかし。われわれが、はるばるの所より、からくして、汲たる物を、乞ひ給ふべき理(ことわり)、なし。」
と、こたへければ、此大德、
「さらなり。さらば、水をわかして、飮みなん。」
とて、山の岸(きし)[やぶちゃん注:崖。]にはしりよりて、劍(けん)をぬいて、山のはなを切り給ひたりければ、まことにつめたく、淸き水の、瀧のごとくにて、ながれ出(いで)侍りけり。「さめがへの淸水」といふは、是なり。
さて、その里の物ども、目も、めづらかに覺えて、あさみ、のゝしるわざ、事も、なゝめならず。
そののち後は、いかなる日照りにも、絕えずぞ侍りける。
さて、その、四、五日へて、淨藏貴所の過ぎられけるが、此淸水の事をきゝ給ひて、
「われも、さらば、結緣(けちえん)せん。」
とて、又、そば[やぶちゃん注:「岨」。崖。]をきられたりければ、さきのよりは、すくなけれども、淸水、わき、ながれけり。「小さめがへ」と云(いふ)は、是にぞ侍る。
あはれ、目出いまそかりける人々かな。たゞし、此仲算大德は、箕尾(みのを)にて、千手觀音とあらはれて、瀧に、つたひて、登り給ひし後は、又も、見え給はずと、傳には、しるせり。されば、久遠正覺の如來にていまそかりければ、かやうの不思議も現(げん)じ給ふわざならずしも、驚き騷ぐべきふしも侍らず。淨藏、善宰相のまさしき八男ぞかし。それに八坂(やさか)の塔のゆがめを、なほし、父の宰相の此世の緣、つきて、さり給ひしに、一條の橋のもとに行きあひて、しばらく、觀法して、蘇生し奉られけるこそ、つたへ聞くもありがたく侍れ。さて、その一條の橋をば、「戾り橋」といへる、宰相のよみがへる故に、名づけて侍り。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]
「源氏」の「宇治」の卷に、『行くは歸るの橋なり』と申たるは、是なりとぞ、行信は申されしか。「宇治の橋」と云(いふ)は、あやまれる事にや侍らむ。
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この仲算(生没年不詳)は、当該ウィキによれば、平安中期の法相宗の僧。奈良興福寺の空晴に師事。応和三(九六三)年の法華経講論では、南都仏教側の代表として、北嶺天台宗の代表良源を屈服させた。安和二(九六九)年、熊野の那智に赴き、その年に没したとも、貞元元(九七六)年に没したとも伝えられている、とあった。]
弘法大師は、又、食用の芋を全く食へないクハズ芋に變じ、又、屋島の、或る梨の實を食へなくした(「葛飾記」下。「日本傳說集」二一二頁。「日本風俗志」三卷三五〇頁。『日本傳說叢書』「信濃之卷」、三二七頁。「本草圖譜」四七卷一六-一七葉。『日本傳說叢書』「讃岐之卷」、二八四頁。寺石正路氏「南國遺事」一四二頁)。較《や》や是等に近きは、鷄頭豆の話だ。其圖は「本草圖譜」四〇卷八―九葉にあり。その傳說は山中笑《ゑむ》氏が『鄕土硏究』第一卷第五號に出された。大要は、往時、駿州吉原町附近石坂てふ小村に、老夫婦あり。夫は、鷄冠花(けいとう)と豆を、年々、畑に蒔《まい》て樂《たのし》み、妻は、「鷄冠花抔、何の用に立つ。」と、每々、罵る。或年、夫、豆をまくを忘れ、ケイトウ斗り、まいた。秋に及び、畑一面に、ケイトウが眞赤に咲いた。老婆、之を見て、火の如く怒り、「鷄頭が、味噌になるか。」と罵る。其時、戶に佇《たた》ずんだ老僧、「そんなに怒るな。鷄頭が豆を生ずることも、ある。」と云ひ、老婆は、「役に立《たた》ぬ草から、豆が取れるか。」と罵る。法師、「いや。畑へ往《いつ》て見られよ。」と言たきり、行方しれず。婆、夫を罵り、熱く成り、風に當りに、畑へ行けば、鷄頭畑は、花をおさめて[やぶちゃん注:ママ。]一面の豆となり居り、夫は、例年の通り、入用だけを自家え[やぶちゃん注:ママ。]取て、餘分を上納し、官より、褒美さる。件の法師は弘法で、老夫の正直を賞し、老妻の邪見を誡めんと、此奇特を見せた、と。
一八二一年パリ板、コラン・ド・プランシーの「遺寶靈像評彙」一卷二七〇頁に云く、聖地のカールメル山に深穴あり、「エリア窟」と稱《とな》ふ。エサペルの追究を避《さけ》て、この豫言者が隱れた處といふ。そこから二里に、エリア園てふ所あり。エリア、爰を過《よぎ》るに、疲れ、又、渴した。そこに、園人、有て、甜瓜《まくはうり》、多くある畑に息《いこ》ふをみて、「一つ、くれ。」と望むと、「お氣の毒だが、是は、石だと知らないか。」と云たので、エリア、「石なら、石にしておかう。」と云た。それと同時に、甜瓜が、少しも形をかえず[やぶちゃん注:ママ。]、皆、石に成て了つた。爾來、今日迄も、甜瓜と間違ふ程、似た石を、爰で見出す、と。伊人ピエロッチの「パレスチナ風俗口碑記」(一八六四年劍橋《ケンブリッジ》板)七九頁に、この甜瓜形の石は、石灰質で、中、空しく、殼の裏が、多くの(石灰)結晶で被はれた地形石(ジオード)、英國でポテートー・ストーン(ジャガイモ石)てふ物だ、と云た。
[やぶちゃん注:「カールメル山」イスラエル北部のハイファ地区ハイファにある山。南北三十九キロメートルに亙って広がる丘陵地。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「エリア」「旧約聖書」に登場する預言者。ユダヤ教では、モーセ以後、最大の預言者と見做された。
「エサペル」「旧約聖書」の「列王記」に登場する古代イスラエルの王妃。フェニキア人で、イスラエル(ユダヤ)人にとって異教であるバアル信仰を、イスラエルの宮廷に導入し、ユダヤ教の預言者たちを迫害したことで知られる。
「石灰質で、中、空しく、殼の裏が、多くの(石灰)結晶で被はれた地形石(ジオード)、英國でポテートー・ストーン」(potato stones)「(ジャガイモ石)とてふ物」晶洞(しょうどう)。当該ウィキによれば、『堆積岩や、火成岩玄武岩内部に形成された空洞の事で、鉱山などでは俗称で〈がま〉ともいわれる』。『ギリシア語で「大地に似た」を意味する語』『に由来する「ジオード(英:Geode)」との呼称が』、『国内外で一般的である』。『内部には熱水や地下水のミネラル分によって、自形結晶が形成される』とある。]
豫言者エリアは、神力、殆んど、弘法大師に匹敵したとみえ、囘敎所傳に、次の話がある。云く、イスラエルの諸子の時、上帝に好愛された善信の囘敎徒エリツス、一名エリアスなる人あり。上帝、正道を踏違《ふみたが》へた輩を本復せしむる爲、此人を予言者たらしめんとて、彼に告《つげ》たは、「起《た》つて、眞道を說敎せよ。而して、此等の頑冥な罪人共が、汝の言を信受し得る様に、汝が足で踏む所は、どこでも、綠草と、美花、生じ、決して乾き荒(すさ)まざらしむべく、汝が、枯木の下に坐らば、其が、葉を生じて、再び、緣(ケデール)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]なるべし。」と。それより、エリアスが諸國を巡つて上帝の語《ことば》を宣《のぶ》る内、ケデール村に、强勢の村老、あつて、猛威、四隣を壓した。此人、「エリアスの說敎に、少しも隨喜する望みなし。だが、エリアスの働きを用ひて、己れを、利せん。」と欲し、エリアスがソロモンの開いた池に近づく處を、捕え、自宅へつれ來らしめた。「汝の足は、神力を、もつと、聞く。予の領地を步いてくれ。明日、予が案内せう。一旦、予につかまつた者は、上帝でも、取り離すことはできぬ筈。」と惡《にく》さげに言放つて、其夜を、狹い土牢中に過《すご》さしめ、明旦、エリアスを、重い鐵鏁(てつくさり)で括《くく》つて引出し、鏁の一端を自分が執《とつ》て、件の池の方へ步かせた。扨、エリアスがあるき出す。一步每に、草も、木も、穀類も、萎《しぼ》み枯れた。爾來、此地、永く荒廢し、草木、生ぜず。村老、かくと見て、大に怒り、エリアスを、池に沈めうと惟《おも》ふ内、エリアス、喉、乾いて、「池に入つて、水、飮まん。」と乞《こふ》た。村民、之を許し、逃がさぬように鏁を離さず[やぶちゃん注:主語は「村老」。]。所が、エリアス、池の底に到ると、狹い水道、忽然、開いて、よき通路となり、鐵鏁は、果てしなく伸び行くから、エリアス、思ひの儘に、進み步く。數步の後ち、水をのむと、鏁附きの足械《あしかせ》が外れ、岩、忽ち、彼の後ろを塞いで、村老と、係累を絕つた。それより、エリアスの形ち、人の眼に見えずに、世界中を步き𢌞り、到る處、草木、綠に茂らせ續ける内にも、年に一度は、ミノよりメッカへの巡禮を缺《かか》さない。惡性の村老は、エリアスが雲隱れとなるをみて、發狂し、まもなく死んだそうな[やぶちゃん注:ママ。](上に引たピエロッチの書、七二―七四頁)。
又、聖地の雛豆(チツク・ピース)畑について、イサベル・バートン著「シリア内部生活」二卷一七八頁に云く、基督、爰で、雛豆をまく男に、「何を、まくか。」と尋ねると、「石を、まく。」と答へた。基督、「汝は、石を收穫すべし。」と云た。扨、此人の收穫となつた時、雛豆は、ならず、其形した石ばかり有た、と。ピエロッチ說に、之を、聖母の所爲《しわざ》とし、此所の石灰石が雛豆塊の如くみえるから、此話を生じた、と解《とい》た。ピエロッチ、又、死海に近いビルケット・エル・カーリル(アブラハム池)の緣起を記す。云く、アブラハムは、アラビア語でエル・カーリル(上帝の友)と云《いは》れ、ヘブロンに住《すん》だ。此池は、其東にあり、住民、そこで鹽を集め賣《うつ》た。アブラハム、一日、騾《らば》を牽《ひい》て、鹽を求めに來ると、製鹽工夫が、多量の鹽を擴げおき乍ら、「賣るほど、鹽がない。」と言た。すると、アが、詛《のろ》ふて、「今後、爰に、鹽も、出でず、爰から、ヘブロンへゆく道も、絕《たえ》よ。」と云た。其れと同時に、鹽、殘らず、石に化し、姿のみは、鹽、其まゝ、又、ヘブロンへの道も、丸で步かれなく、嶮岨に成た、と。
弘法大師や基督が、氣に食《くは》ぬやつの、芋や豆を石にしたは、大分、茶目氣がある。アブラハムが鹽を賣て吳《くれ》ぬを憤つて、之を化石せしめた上に、萬人の通路を廢絕せしめたに至つては、過酷も、甚だし。但し、アフリカにも同樣の話あり。デンネットの「黑人の心裏」、一九〇六年板、一五二頁に、カコンゴで、子を負《おふ》た老女が、畑を栽《うゑ》る女に、水を乞ふと、「爰は、水、遠く、自分飮むだけ有て、人にやる程、ない。」と答へた。老女、又、行つて、椰樹《やしのき》の汁をとる男子に乞ふと、快く、椰子酒を飮せた。老女は、其靑年を褒賞し、水を吝《をし》んだ女の畑を、湖に化した、と載す。
「酉陽雜俎」二に、衞國縣の西南に瓜穴《くわけつ》あり、冬・夏、常に水を出《いだ》し、之を望めば、練(ねりぎぬ)の如し。時に、瓜葉《うりのは》、あつて出《いづ》る。相傳ふ、苻秦《ふしん》の時、李班なる者あり、頗る、道術を好む。其穴に入《はいつ》て、三百步程、行くと、宮殿あり、牀榻《しやうたふ》[やぶちゃん注:現代仮名遣「しょうとう」。寝台。]上に、經書あり、二人、對坐して、鬚髮《しゆはつ》白きを見た。班、進んで、牀下に拜すると、其一人が、「早く還れ。」と、いふ。穴口迄出ると、瓜、數個あり。取《とら》んと欲すれば、乃《すなは》ち、石と成《なつ》た。家へ還ると、四十年立《たつ》て居たといふ、とあり。「大慈恩寺三藏法師傳」四には、贍波《せんば》國の南の大山林中に、牛を放ち飼《かつ》た男が、牛の往き處を尋ねて、岩穴に入り、金色の香果を取り還るを、鬼に取戾《とりもど》され、再び、往つて、口に入《いれ》て出る處を、鬼に、喉をつまゝれ、呑んでしまふと、其人の身が、大きく成り、首は、穴から出たが、體は出ず、漸々、化石し終つた話を出《いだ》す。
[やぶちゃん注:「衞國縣」後漢の時に置かれた衛県。後の北魏の時、衛県に改められた。故城は山東省の旧観城県の西にあった。現在は聊城(りゅうじょう)市の一画。この附近(グーグル・マップ・データ)。所持する平凡社『東洋文庫』の今村与志雄訳注を参考にした。
「苻秦」符秦の支配した前秦王朝(三五〇年~三九四年)を指す。同前。
「贍波國」チャンパーナガラChampānagara。紀元前六〇〇年頃、北インドに栄えた十六大国の一つであるアンガ国の首都チャンパーChampāの遺址とされ、マガダ国による占領後の釈迦の時代にも、インドの六大都市の一つとして栄えた。七世紀前半に玄奘がここを訪れ,瞻波(せんば)国として「大唐西域記」に記している。現在の、この附近に当たるようである(主文は平凡社「世界大百科事典」の「バーガルプル」の記載に拠った)。]
話がこう長くなると、讀者のみかは、熊楠自身も何だか跡先が分からなくなる。因て、再讀、校字を兼ねて、始終を見通し、結論と出かけよう。
西洋で鷲石といふは、褐鐵鑛、又、それより成た岩石が、多少、圓くて、中空、そして空處に、土や砂や小石を藏した者で、地方により、其產地近く、鷲が住み、其の鷲の巢から、此石を見出し、氣を付て見れば、多少、母胎に子を藏するの狀あるより、鷲が同感作用を心得、自分の卵を安全に孵《かへ》す爲に、此石を、其巢に納めたと判じ、鷲が卵を孵すも、母が子を產むも、同じ事ゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、鷲にきく物は、人にもきく筈と、試し見ると、三度に一度は、よい加減に、効あり。由て、之を、安產催生の靈品とした。それから敷衍《ふえん》して、種々の効驗あると見立《みたて》て信じた次第を、第一篇に專ら述た。
鷲石は、鷲が巢内に持ち込んで、其の孵化を助くるといふ信念は、東洋に、ない。しかし、鷲石、その物は、和漢共に、有り。「太一禹餘糧」抔呼び、其形が、母胎に子を藏するに似るを見て、西洋人と齊《ひと》しく、矢張、催生安產の靈物とした。又、西洋とちがひ、此石の中にある砂土が、穀物の粉に髣髴たるより、之を、古聖賢が食ひ殘した糧食と信じ、追ひ追ひ、之を食へば、長生して、仙人になり得、と信じた。それから、其成分の鐵等が、相當に働らくより、之を藥用して、甘寒無毒、牡丹爲二之使一、伏二五金一制二三黃一、主治欬逆寒熱煩滿、下二赤白二、血閉癓瘕大熱、鍊餌二服之一不ㇾ饑、輕ㇾ身延ㇾ年、療二小腹痛結煩疼一、主二崩中一、治二邪氣及骨節疼、四肢不仁、痔瘻等疾一、久服耐二寒暑一、催ㇾ生固二大腸一。〔禹餘糧は、甘、寒。無毒。牡丹、之れが使(なかだち)と爲(な)り、五金を伏し、三黃を制す。主治は欬逆(かいぎやく)・寒熱・煩滿(はんまん)なり。赤白・血閉・癥瘕(ちようか)・大熱を下(くだ)し、鍊りて、之れを餌服(じぶく)すれば、饑ゑず、身を輕くし、年を延ばす。小腹痛・結煩疼(けつはんとう)を療す。崩中(ほうちゆう)を主(つかさど)り、邪氣及び骨節疼、四肢の不仁、痔瘻等の疾(やまひ)を治(ぢ)す。久しく服すれば、寒暑に耐へ、生を催(うなが)し、大腸を固(つよ)くす。〕又、太一餘糧、甘平無毒、杜仲爲二之使一、畏二貝母菖蒲鐵落一、主治欬逆上氣癥瘕血閉漏下、除二邪氣一、肢節不利、久服耐二寒暑一、不ㇾ饑輕ㇾ身、飛行千里、神仙、治二大飽絕力身重一、益ㇾ脾安二臟氣一、定二六腑一鎭二五臟一。〔太一餘糧は、甘、平。無毒。杜仲、之が使と爲る。貝母・菖蒲・鐵落を畏る。主治は欬逆・上氣・癥瘕・血閉・漏下なり。邪氣・肢節の不利を除く。久しく服(ぶく)すれば、寒暑に耐へ、饑へず、身を輕くし、千里を飛行(ひぎやう)して、神仙となれり。大飽・絕力・身重を治す。脾(ひ)を益(えき)し、臟氣を安んず。六腑を定め、五臟を鎭(しづ)む。〕と「本草綱目」に見ゆ。是等、半分に聞いても、多少、據《よりどこ》ろある法螺《ほら》で、諸方に出る、禹餘糧・太一餘糧を、至細に分析でもしたら、實效ある藥物學上の發見もなる事だろうが[やぶちゃん注:ママ。]、自分、其方は、あんまりときてゐるから、立ち入らぬが、無手勝流の卜傳《ぼくでん》だ。
[やぶちゃん注:「本草綱目」は「漢籍リポジトリ」の同書の「卷十」の「金石之四」の「禹餘粮」([032-10a])と、続く「太一餘粮」([032-12a])の影印本画像と校合した。熊楠は、続けてソリッドに引用しているのではなく、パッチワークであるので注意されたい。なお、「粮」は「糧」に同じで、ここでは混乱を避けるため、熊楠の表記に従った。なお、症状名は、私も熊楠同様、「其方は、あんまりときてゐるから、立ち入らぬ」こととする。悪しからず。]
扨、第二篇には、太一禹餘糧の外にも、古人の食ひ殘した物が、石に化して、今にありてふ現品と傳說は、諸邦に存し、甚しきは、飮み殘した「しろ水」[やぶちゃん注:穀類の研ぎ水。]や、酒・醤油・酢、又、よそから運んだ水迄も、その儘、其所に續出するてふのも、諸處にあり。又、古人が食ひ殘した物が、化石せず、復活して、今に相續《あひつづき》蕃殖《はんしよく》しおる[やぶちゃん注:ママ。]ちふ、現品と傳說も、多くある由を述べ、次にはたゞ食ひ飽《あき》たり、好かなかつたりで、殘した物が、石に成《なつ》た外に、或る食物や、其《その》持主《もちぬし》、又、作り手を、嫌ひ、惡《にく》んで、之を、石にしたり、廢物にしたりしたのが、今に存するてふ信念も、諸邦に少なくない次第を例示し、己れの望む物を、くれなんだ奴の生產地を、全く、不生產にする事も出來るてふ信念に說《とき》及び、終りに、自分の愛惜する物を、他人が取ると、忽ち、石となし、又、其人を石となした昔話を、引出《ひきだし》たのである。
[やぶちゃん注:恐らく、今までの南方熊楠の電子化注で、最も時間を費やさねばならなかったパートである。「読みと注にほとほと疲れた」と呟くこと頻り、である。]