佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「川ぞひの欄によりて」鄭允端
[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]
川ぞひの欄によりて
近 水 人 家 小 結 廬
軒 窗 瀟 灑 勝 幽 居
凭 欄 忽 聞 漁 榔 響
知 有 小 船 來 賣 魚
鄭 允 端
川ぞひの小家のかまヘ
窻ゆかしよき庵よりも
立ちよれば櫓の音ひびき
小船來て魚を買へとぞ
※
鄭 允 端 十二三世紀。 吳中の施伯人の妻である。 その著を肅雝集といふ。 今は傳はらない。
※
[やぶちゃん注:巻末の原作者の解説では、『その著を肅雝集といふ 。今は』(後の字空けが、その分、ない、のである)と誤植しているので、訂した。「肅雝集」「しゆくようしう」或いは「しゆくゆしう」と読む。この「雝」の字は恐らく「鳥の声が和(なご)やかなさま・心地よいさま」の意であろう。しかし、この解説は致命的に誤っている。彼は元代末の女流詩人である(「十二三世紀」では合わない)。「維基文庫」にも彼女のページが存在し、それによれば、字は正淑で、一三二七年に生まれ、一三五六年に数え三十歳で病没している。元代の女性詩人の中で最も多くの詩を残したともある。彼女の五代前の鄭清志は南宋の宰相であった。浙江省殷県出身であるが、呉君(現在の江蘇省蘇州)に移り、蘇州を出身とした。学者の家庭に生まれ、父も兄も儒教の古典を教えており、蘇州では有名な人物であった。彼女は、幼い頃から書道を学んだ。後に同郡出身の施伯仁と結婚した。彼女の死後、夫は遺作集として施伯仁「肅雍集」(「雍」の字は「雝」と上記の義で通用されるので、「維基文庫」の表記は誤りではない)を編纂している。しかもこの書は、ちゃんと伝わっており、現在、残っている。佐藤の「今は傳はらない」も誤りなのである。なお、日本中国学会の「第四十五回大会要項」(一九九四年十月発行・PDF)の小林徹行氏の論文「元の閨秀詩人鄭允端の文学―特に女訓的な詩を中心にして」のレジュメによれば、『元末に平江(現在の江蘇省蘇州)に居を構えていた施伯仁の妻で、短命であったにも拘らず、意欲的に古詩や近体詩に取組み、独自の見解と作風とを世に問うた女流詩人の一人と言える』と述べておられる。
なお、本詩の標題は「中國哲學書電子化計劃」の「元詩選」のここによって、「水檻」であることが判った。
・「欄」は「おばしま」と読みたい。
・「瀟灑」(せうしや(しょうしゃ))まずは「さわやかなさま・さっぱりとしてきれいなさま」を言い、また、「俗っ気がなく淡泊なさま・あっさりとして物に拘らないさま」をも言う。両意を含んでよかろう。
・「漁榔」「榔」は音「ラウ(ロウ)」。狭義にはヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus の一種を指すが、国立国会図書館デジタルコレクションの『和漢比較文学』(一九九二年十月発行)の小林徹行氏の論文「『車塵集』考」のここの解説によれば、「肅雝集」所収の本篇では『「鳴榔響」に作る。「鳴榔」は「鳴桹」に通じ、船べりを桹(長い木の棒)で鳴らして魚を驚かし、網の中へ追い立てる漁猟をいう。「漁榔」も同義。』(中略)『「桹」は『説文解字』に「桹、高木也」とあり、』(中略)『一般に背の高い木・長い棒の意である』とあった。
以下、推定訓読を示す。
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水の檻(おり)
水に近き人家あり 小さく 廬(いほり)を結ぶ
軒の窗(まど) 瀟灑(せいしや)にして 幽居するに勝(まさ)れり
欄(おばしま)に凭(もた)るれば 忽(たちま)ち聞く 榔(らう)もて漁(すなど)るの響きを
知れる小船の有りて 來たり 魚を賣る
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