佐々木喜善「聽耳草紙」 一〇二番 鰻の旅僧(二話)
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]
一〇二番 鰻の旅僧 (其の一)
昔、瀧澤と鵜飼との境に、底知れぬといわれた古沼があつた。或時この沼の近所の若者達が七八人でカラカを作つて、一生懸命に臼で搗いて居ると、其所へ何處からか一人の汚い旅僧《たびそう》が來て、その木ノ皮の粉は何にするもんだと訊いた。若者達はこれは細谷地の沼へ持つて行つて、打ツて見る算段だが、さうしたら鯉だの鮒だの鰻だのが、なんぼう大漁だか、お前達にも見せてやりたいほどだと言つた。すると其お坊樣は悲しさうな顏をして、さうか、だが其粉を揉《も》まれたら、沼の中の魚は大きいのも小さいのも有るも無いも皆死ぬべが、親魚だらともかく一寸下《いつすんした》の小魚などでは膳の物にもなるまいし、又、生物《いきもの》の命を取ると云ふことは、なんぼ罪深いことだか知れないから、早く思ひ止《とど》まりませと言つて賴んだ。
すると若者達は口を揃へて、何この乞食坊主が小言《こごと》をぬかせや、今日は盆の十三日だ、赤飯をケルから、それでも喰らつて、早くさつさと影の明るい中《うち》に何所さでも行きやがれ。そして同じクタバル(死ぬ)なら俺が領分でおんのめるな。後片付《あとかたづ》けに迷惑するからと云つた。すると旅僧も何も云はずにその小豆飯《あづきめし》を貰つて食つて、其所を立ち去つた。
翌日若者達は、沼へ行つてカラカを揉んだ。するとあてにして居たやうに、しこたまの大漁であつた。泥を搔き分けて行くと、最後にひどく大きな鰻を捕つた。體が胡麻《ごま》ぽろで、まわりが一尺長さが六尺もあつた。あんまり珍らしいものだから仲間して人數割に、ズブギリ(輪切り)にして分配することにした。そして腹を割つて見ると中から赤飯が出た。そこで初めて昨日の旅僧が此沼の主であつたことが分つた。
(岩手郡瀧澤村字瀧澤、細谷地の沼。カラカとは山村でよくやる山椒の木の皮を天日に干して、細かに切り、臼で搗いて粉にし、それに灰を交ぜて、川沼で揉み魚を捕るもの、地方によつてはナメとも云ふ。昭和二年十月十六日、大坊直治翁來翰其の三。)
[やぶちゃん注:附記は全部引き上げて同ポイントで示した。さても、これは一読、
「想山著聞奇集 卷の參 イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」
と同源の話で、そのさらに原拠である、
も既に電子化注している。而して、この原拠「老媼茶話」(三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ)は本話の直接の原話の有力な一つと考えてよいであろう。その板行は寛保二(一七四二)年(吉宗の治世)である。また、類話として江戸をロケ地とした、
もあるので、読まれたい。なお、「毒揉み」もそれらで注してあるので、そちらを見られたい。無論、現在は禁じられている漁法である。
「岩手郡瀧澤村字瀧澤、細谷地の沼」岩手県滝沢市鵜飼細谷地(うかいほそやち)のこの中央に池沼が確認出来る(グーグル・マップ・データ航空写真)が、ここかどうかは、判らない。]
(其の二)
この鰻の旅僧の話は他にもあつた。和賀郡黑澤尻驛《くろさはじりえき》近くに見える和野と云ふ所の田圃の中に、こんもりとした森がある。これを浮島と云ふのである。
[やぶちゃん注:「和賀郡黑澤尻驛」現在の北上駅の旧称。明治二三(一八九〇)年十一月一日に日本鉄道の黒沢尻駅として開業、北上駅に改称したのは敗戦後の昭和二九(一九五四)年十一月十日。
「和野」「浮島」調べたところ、広報誌かと思われる『きたかみ』第四百四十号の抜粋(PDF)で、「北上の清水を歩く」という特集記事が読め(ダウン・ロード可能)、その「すずにまつわる伝説・伝承」(当地には約二百カ所もの清水が湧き、それを「すず」と呼称する)のパートに、『帰帆場(きはんじょう)公園(幸町)の南約70㍍から80㍍の所に「和野浮島」があります。豊富なわき水に恵まれていた和野は、江戸時代からセリ栽培が盛んな場所でした。その和野には、次のような伝説が伝えられています。』として、以下のようにあった。
《引用開始》
『和野の浮島伝説』
和野には、源義経が東下りする際の側近、片岡八郎経春が逃げ隠れ、館を建てて住んだ田中浮島屋敷があった。ある年のお盆のくだんの日、旅から旅へと仏を拝んでまわって歩く六部(ろくぶ)が田中浮島の家に来て、家の中に入って仏様を拝んだ後、主人に何か食べ物を報謝してくれと頼んだ。主人が炊きたての赤飯を差し上げると六部はおいしそうに何杯もお代わりをし、あっという間におひつ一つをたいらげてしまった。六部は主人に向かってお礼し、「今、この家に来るときにお宅の若者たちが大きなウナギをつかまえて料理しようとしていました。もしあのウナギを殺すような事があれば、この家も日ならずして滅びてしまうでしょう。早く行って止めさせなさい」と言うやいなやその家を立ち去った。主人は急いで向かったが、ウナギはすでに若者に殺され、腹からは六部に食べさせた赤飯が出てきた。それから後、ウナギの供養をし神仏の加護を祈ったが、災難に見舞われ、屋敷も見る影もなくなってしまった。
今も片岡一族の末孫は正月と盆の16日はウナギはもちろん、酒ともちを口にしない家が多いといわれる。
(「北上の清水物語」より)
《引用終了》
現在は岩手県北上市幸町の町内で、北上川右岸の住宅地の一画の少し盛り上がった木草の茂った空き地であるが、ストリートビューで発見した(「ひなたGPS」で戦前の地図を見たが、残念ながら既に市街化していた。現行、既に「森」ではない)。グーグル・マップ・データのこの中央のT字路の辻の西北寄りに、同前の画像で「和野浮島」とある指示板を確認出来る。
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以上の記事には、その指示板のある場所の写真も載り、そのキャプションとして、『和野の浮島。昔、北上川が洪水をおこしても、この場所だけは沈まずに浮いていたことから名付けられたという』とある。]
昔この和野に長者があつた。極めて貪慾無道な人であつて、財寶が家倉に積み餘つてゐるくせに多くの下男下女をこき使ふ事が甚しかつた。雨降りの日などにはお前達は今日は働かないから、これでいゝとて、アメた飯や腐つた魚看を食はした。
[やぶちゃん注:「アメた飯」岩手方言で、食物が完全に腐る所までいっていないが、その手前の、いたんで、粘りや臭いが出て、腐りかけている状態を指す語である。]
然し長者は、館の前に、多くの金をかけて大きな池を造つて、その池の四季の景色を眺めて樂しんで居た。或時いつものやうに池を眺めて居ると、門前へ貧乏たらしい旅僧が訪れて來て、何か食物(タベモノ)をタモれやと乞ふた。長者はお前にはこれが恰度《ちやうど》よいと云つて、猫の食ひ殘しの汚飯《おはん》を投げ與へた。
然しその旅僧は、そんな汚い飯をさも甘(ウマ)さうに食べ了《を》へてから、さてさて長者殿の家もあと一年の運だなアと嘆いて、すごすごとそこを立ち去つた。
果して一年經つと、門前の池の水が涸れて一滴も無くなつた。その時不思議にも口中に飯粒を一杯入れた大きな鰻魚《うなぎ》が死んでゐた。それからと云ふものは長者の家は災難續きで、段々と貧乏になり、遂に跡形なく滅びてしまつた。
今ある浮島の森は、その池の中にあつたものだと謂はれてゐる。
(村田幸之助氏の御報告の分。黑澤尻中學の二年生、
高橋定吉氏の筆記摘要。)