佐々木喜善「聽耳草紙」 一〇一番 鰻男
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]
一〇一番 鰻 男
或時、雫石村の或所に美しい娘があつた。齡頃(トシゴロ)になると、每夜何處からか一人の男が娘のもとへ通つて來た。娘も不審に思つて、お前は何處の何と云ふ人だごやと訊いても、物も言はなかつた。親達もそのことを不思議に思つてゐた。
或夜親達は家の軒下で何か囁く聲がするので、そつと近寄つて聽耳を立てゝゐると、その聲が、己(オレ)も永年の間、心がけて居た望みがかなつて人間の胎内に子種を下《くだ》したと言つた。すると又別の聲がして、それはよかつた。けれども若《も》しお前の素性が知れたら墮胎(オロ)してしまうべかもわからないと言ふと、いや大丈夫だ、誰にそれが分るものかといふ、いやいや人間と謂ふものは智慧のあるもんだから五月節句の五色(イツイロ)の藥草を煎じて飮まれたら、腹の中の子供は自然に水になる、それが至極なさけないと言つた。兩親はその話聲をはツきりと聽いた。そして驚いて娘にそれらの藥草を煎じて飮ませた。そのおかげで娘は何事もなかつた。
夜々娘のもとに通うて來た男は、近くの沼に棲む古鰻であつた。後で見れば戶の棧に鰻の脂肪(アブラ)がついてゐた。
(此話は岩手郡雫石村のヌマガエシと云ふ所の
出來事の樣に聽いた。昔此邊に沼があつたと
謂ふ。尙此話には縫針のミズもなく、又鰻男
が死んだとも話されてゐない。昭和二年十月
十六日同村の大坊直治翁の御報告の二。)
[やぶちゃん注:「岩手郡雫石村のヌマガエシと云ふ所」現在の岩手県岩手郡雫石町(しずくいしちょう)沼返(ぬまがえし:グーグル・マップ・データ)。小岩井農場の入り口にごく近い。拡大すると、小さな池沼が見える。その大きい方の近くに広がるメガ・ソーラ・パネル地区も何だか怪しい感じはする。ただ、「ひなたGPS」の戦前の地図でも、変わらない感じなので、例えば、広い沼があったとしても、近世以前であったようだ。
「縫針のミズ」正体を調べるための仕掛けである。何度か出ているが、初回の「五四番 蛇の聟」を参照されたい。]
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