佐々木喜善「聽耳草紙」 一一六番 髮長海女
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。本文に従い、標題は「かみながうんなん」と読んでおく。]
一一六番 髮長海女
閉伊郡の宮古濱、長崎のシタミヨウと云ふ家の娘が、或年の三月三日の潮干《しほひ》へ行つたまゝ遂に歸らなかつた。家では嘆き悲しんで家出の日を命日と定めて型の如くに葬式も濟ませて、後生《ごしやう》を弔ふて居ると、それから三年目の同日に其娘が懷姙して歸つて來た。腹の子の父親は何處の何者だとも娘は語らなかつた。
それから十月充ちて女の子を安產した。其子は生れながらに髮の毛が八寸ばかりも伸びてゐた。十七八の美しい娘になると其髮がいよいよ伸びて七尋《ななひろ》三尺[やぶちゃん注:約十三メートル五十一センチ。]あつた。
京都の時の帝が或日右近の櫻と云ふ名木の花を御覽になつて居られると、其枝に三尋《みひろ》[やぶちゃん注:五・四メートル。]に餘るほどの長い髮の毛が三本引つ懸つてをつた。これは何者の髮の毛かと言つて安部《あんべ》の晴行《せいぎやう》と云ふ博士にうらなはさせると、これは人間の髮に相違ないと卜《うらな》ひを立てた。然からば其女を探し出せとの御命令で、卽時に猿樂と云ふものを仕立てゝ京の東と西へ分けて出させた。
東の國々を𢌞《めぐ》つて居た猿樂の一組が𢌞り𢌞つて、奧州は閉伊ノ郡《こほり》、山田の港の近くの小山田と云ふ里に差《さし》かゝり、ある小山の峠の上で猿樂と云ふものを行ふ由の觸れを出した。但し見物人は女人《によにん》に限ると云ふのであつた。其日になつて其里の老若《らうにやく》の女子《をなご》どもが、われもわれもと其峠へ見物に押し寄せて行つた。其中にシタミヨウの母娘も交つてゐた。
娘は其七尋三尺といふ長い髮をば桐の箱に入れて背負つて、舞ひを見物に行つた。猿樂は直ちに中止されて、娘は京へ連れていかれた。後で此女は、土地の海女神(ウンナン《がみ》)と祀られた。
ウンナン神は濱の方々にあると謂ふ。都の人達が猿樂を舞つた峠は、今の猿樂峠であるさうだ。
(昭和五年九月二日の夜、折口信夫氏と共に下閉
伊郡刈屋村で佐々木恂三翁から聽く。)
[やぶちゃん注:「閉伊郡の宮古濱」宮古市の海浜部はここだが、特に現行、「宮古浜」と呼称する浜はないので、特定は出来ない。但し、「宮古濱」と称しているからには、宮古市街に近い宮古湾内、或いは、その開口部の北西にある浄土ヶ浜辺りが相当するか(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「長崎のシタミヨウ」このカタカナの名には、漢字が想起出来ず、何か特別な意味が隠されている感じがしてならない。「長崎」は現行では宮古に地名としてはないようだが、海浜であるから、旧通称とすれば、あっておかしくはない。
「安部の晴行」陰陽師であることは姓名から判るが、不詳。
「猿樂」語り出すと大変なので、当該ウィキを見られたい。
「閉伊ノ郡、山田の港の近くの小山田と云ふ里」「山田の港」は現在の岩手県下閉伊郡山田町山田のここであるが(ちゃんと「山田漁港」がある)、宮古からは十六キロ以上も離れてはいる。都市街地に「小山田」はあるが、そもそも語り手はわざわざ「山田の港の近くの」と冠して「小山田」と述べているのだから、宮古のそれと誤る可能性は零であり、だいだいからして、この宮古の「小山田」は閉伊川河口近くの右岸で、設定である峠に合わないから絶対に違う。以下で、「其日になつて其里の老若の女子どもが、われもわれもと其峠へ見物に押し寄せて行つた。其中にシタミヨウの母娘も交つてゐた」とある。京都の猿楽一座がやって来て、女人限定で興行するとなれば、この程度の距離はなんでもない。されば、やはり、郡山田町山田である。「猿樂峠」は見当たらないが、一つ、宮古方向から越える峠で、山田町内に「祭神峠(さいのかみとうげ)」を認める。この「祭神」を別に読むと、「さいがみ」とも読め、「さるがく」と似てはいる。位置的にも、これが「猿樂峠」の候補として挙げてよいようにも思える。「ひなたGPS」のその峠をリンクさせておく。
「ウンナン神」平凡社「世界大百科事典」の「ウナギ(鰻)」の解説中に(コンマは読点に代えた)、『旧仙台藩領に特徴的に分布するウンナン神』(がみ)『はウナギ神で、近世初期の新田開発と洪水の頻発から、ウナギは洪水を起こすものとして、これを慰撫(いぶ)、祭りこめたものと考えられる。ウンナン神社の多くは』、『湧水地や水流の近く,さらに落雷の跡に祭られるなど水神、作神的性格が強い』とあった。
「下閉伊郡刈屋村」現在の宮古市刈屋・和井内(わいない)に相当する(グーグル・マップ・データ。北に「和井内」)。
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