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2023/07/16

梅崎春生「つむじ風」(その12) 「雨降る」

 [やぶちゃん注:本篇の初出・底本・凡例その他は初回を見られたい。]

 

     雨 降 る

 

 その日曜日は、朝から雨が降っていた。数百年前から降っているぞといった風情(ふぜい)で、雨は実に平然としとしとと降っていた。

 朝眼を覚ました頃から、猿沢三吉の気持はどんよりとうち沈み、またいらいらといらだっていた。三吉の高血圧体質が湿気を忌むゆえでもあったが、いらだちにはもう一つの原因があった。

 実はその日、真知子を同乗して、多摩川べりにドライブの約束がしてあったのである。いうまでもなくハナコには内緒でだ。ハナコに対しては、近所の同業者と一緒に自動車の披露かたがた、どこか気晴しのドライブに出かけるということにしてある。近所の同業者といっても、いきがかり上泉湯は入らない。

 自動車だから、雨が降ってもよさそうなもんだが、つまりドライブだけでなく、真知子手づくりの弁当持参で、堤の芝生かどこかでのどかにぱくつこうという予定だったから、雨降りではやはり困るのである。

 で、眼を覚ました瞬間、雨の音が耳に飛び込んできたので、三吉はムッとしたふくれっ面で飛び起きた。

「何でえ。今日は晴だという予報じゃなかったか。気象台のウソツキ野郎め!」

 縁側から天をにらみつけながら、三吉は腹立たしげにつぶやいた。

「よりによって、今日みたいな日に雨を降らせやがって。農林省といい気象台といい、近ごろの役人どもはクズばっかりじゃないか。もう税金は払ってやらないぞ!」

 農林省と一緒くたにされては、気象庁も迷惑というものだろう。

[やぶちゃん注:微妙だが、本篇が連載された昭和三一(一九五六)年六月五日に農林省の農業共済団体に対する補助金使い込みを巡る、莫大な横領事件、所謂、「多久島事件」が発覚している。サイト「幻冬舎ゴールドライフオンライン」の『1200万円のはずが…?巨額横領「多久島事件」恐ろしい結末』を見られたい。実際の農林事務官多久島貞信(当時二十六歳)の横領額は当初の農林省の記者会見の金額と異なり、最終的には九千万円を超え、一億円に近いことが判ったとあり、同記事を書かれた記者の実感換算では、現在の十億円相当としておられる。]

 洗顔終って、朝食。

 泉湯とちがって、こちらの家族は大人数だから、食卓もにぎやかである。ハナコ以下四人の娘たちも食欲旺盛で、さかんにかっこむ。

 主食は七三の麦飯で、おかずも普通ありきたりのものばかりだが、家長の三吉のだけはハナコによって特別の配慮がしてある。

 すなわち三吉の朝のおかずは、血圧が高いという関係上、主として海草をもって構成されている。

 血管が硬化するのは、血液中にコレステロールというものがたまるからで、コレステフールがたまるのは、甲状腺ホルモンが欠乏するからで、甲状腺ホルモンを欠乏させないためには、海草を大いに食べる必要がある。つまり海草のヨードは甲状腺ホルモンの原料ということになっている。

 ワカメのみそ汁、コブのつくだ煮、ノリのつくだ煮、焼ノリ、ふりかけノリ、ヒジキ油揚煮付、それに食後にはコブ茶が出るのである。

 毎朝毎朝がそれだから、原則として三吉は朝は食欲が出ないのであるが、ことにこの日は食い気が出なかった。斜めに天をにらみながら、一向に箸が動かない。ハナコがそれを見とがめた。

「御飯をめし上らないで、何をぶつぶつつぶやいていらっしゃるの?」

「いや、なに」

 三吉はあわてて箸をもそもそと動かした。

「こんな天気じゃ遠乗りもとりやめだな。房湯や勝湯たちもがっかりしてるだろう」

「ほんとねえ」

 ハナコも憂わしげに斜めに空を見上げた。

「でも、房湯の且那はオッチョコチョイだから、そんな約束忘れてしまってるわよ。勝湯の且那は禿頭だから、こんな放射能雨にはとてもねえ」

 

 にぎやかな朝飯がすむと、娘たちは口々に、

「ごちそうさま」

「ごちそうさま」

 とあいさつをして、座を立って行く。今日は日曜だから、三根(みね)も五月(さつき)も学校には出かけないでいいのだ。

 茶の間は三吉夫妻のみになった。三吉はつまようじを使いながら、にが虫をかみつぶしたような顔で、コブ茶をまずそうにすすっている。多摩川行きがおじゃんになったのが、残念でたまらないのである。

「はい、お薬」

  ハナコの差出したルチン剤を、蛙のようにぱくりと吞み込み、コブ茶で腹中に流し込んだ。すっかり吞み込んだところを見はからって、ハナコは身体ごとぐいと三吉に向き直った。[やぶちゃん注:「ルチン」(Rutin)は蕎麦や無花果に特徴的に含まれるポリフェノールの一種で、血管強化作用や抗酸化作用がある水溶性ビタミン様物質。]

「ちょっと重大なお話があるんですけどね」

「お話?」

 三吉はぎょっと緊張した。ハナコに開き直られると、若い時から三吉はぎょっと緊張する癖があるのだが、真知子を囲って以来、ことにその傾向がはなはだしいのである。

 亢奮したり、恐怖や不安におちいることが、高血圧症にはもっともわるいとされているが、その点でハナコの開き直りは、折角の朝の海藻食の効果を減殺して余りあった。

「お話とは何だい?」

「なにもあたしが開き直ったからといって」

 ハナコは探るような眼で三吉を見た。

「そんなにびくつかなくてもいいじゃないの」

「びくついてなんかいやしないよ」

 三吉は平気をよそおって、コブ茶の茶碗をとりあげた。

「わしがびくつく理由がないじゃないか。考えごとしていたのに、突然話しかけられたから、ちょっと動揺したんだ」

「何を考えごとしてたの?」

「も、もちろんそれは、判ってるだろう」

 三吉はわざと声を高くした。

「金だよ。建築の費用だよ」

「それはおつらいでしょうねえ」

 単純なハナコはもうそれでごまかされて、声をやさしくした。

「実はねえ、一子(かずこ)のことなのよ」

「一子? 一子がどうかしたのか」

「どうかしたというんじゃないんですがね」

 ハナコはまた三吉に、コブ茶をあたらしく一杯つくってやった。

「どうも様子が変なんですよ」

「どういう具合に変なんだ?」

「今朝だって、あんなおてんば娘が、あまりおしゃべりしないでしょ。その上御飯ときたら、たった三杯――」

「三杯食えば結構だよ」

「だってあの子、この間までは、たいてい朝は六杯か七杯食べてたんですよ。それがこの頃は、たった三杯なんて、どうもおかしいの。何かあるんじゃないかと思うのよ」

「何かって、何が?」

「あたしにも判らないんですよ」

 ハナコも自らコブ茶をすすりながら、

「でも、若い女の子がメシをあんまり食べなくなるのは、大体原因がきまってるわ。あたしも経験がある。恋わずらいよ」

「恋わずらい? あんな子供が」

 三吉は失笑した。自分こそ同じ年頃の女子学生をメカケにしているくせに、我が子のこととなると、まだ子供あつかいにしているのだから、笑止千万である。

 

「あんな子供が恋わずらいだなんて――」

 そして猿沢三吉は笑いを頰ぺたから引っ込め、急に眼を光らせた。

「あたしにも経験があるって、いつお前は恋わずらいしたんだね。誰に?」

 ハナコも嫉妬深いが、三吉もなかなか嫉妬探い。ハナコばかりを批難出来ないのである。

「いやですよ。そんなこわい顔をして」

 ハナコは右手を上げて、三吉をぶつ真似をした。

「誰にって、知ってるでしょ。あなたよ」

「ああ、わしのことか。それならばよろしい」

 三吉は安心したように笑いを取り戻した。当時三吉は三助であり、ハナコは板の間係りの女中さんであった。

「だって一子は、もう二十歳(はたち)よ。数え年では二十二。子供じゃありませんよ」

「数え年で二十二か」

 憮然(ぶぜん)として三吉も腕を組んだ。

「恋わずらいをしているというのは、メシの食い方が減ったというだけか?」

「おしゃべりの度合も減ったし――」

 ハナコは指を折った。

「時には溜息なんかもついているようだし、そうそう、レスリングの練習を一切やらなくなったのよ。身体のためにいいからやりなさいと言っても、気が進まないんだって」

「その程度で恋わずらいとは断定出来ん」

 三吉は腕組みを解き、コブ茶に手を伸ばした。

「恋わずらいというのはだな、相手がなくては出来ないものだ。誰か心当りの男性でもいるのか」

「それがねえ」

 とハナコは首をかしげた。

「外ではどんな友達と遊んでいるのか、よく電話で打合わせて映画なんかを見に行ってるようだけど、さっぱり判らないのよ」

 まさか相手が泉竜之助であろうとは、三吉夫婦も考えてみもしない。実は一子(かずこ)も竜之助も、三吉と恵之助が喧嘩をする以前は、恋仲でも何でもなかったのである。ところがあの喧嘩以来、親たちから口をきいちゃいけないよと厳命されて以来、何かもやもやとしたものが一子と竜之助の胸に発生して、そのもやもやがお互いにぴしゃりとくっついた。

 ムリに引き離そうとしたから、かえってくっついたので、そこらでよく見られる平凡な物理現象のひとつである。

「ねえ、いっそのこと――」

 ハナコは思いつめたような声を出した。

「秘密探偵にたのんで、一子の友達を調べて貰おうかしら」

「うん、それもいいな」

 そして三吉はあわてて手を振った。

「うん、そ、それはダメだ。秘密探偵だなどと、飛んでもない話だ、絶対にいかん!」

 もしハナコが秘密探偵を使い、それが便利なものと知ったら、あるいは三吉にも秘密探偵をつけるかも知れない。その危惧(きぐ)がハツと三吉の胸中をよぎったのだ。探偵によって真知子のことがばらされたら、もう臍(ほぞ)をかんでも追付かない。

「絶対にいかん。な、秘密探偵はいけませんぞ!」

 言葉に千鈞(せんきん)の重みをつけて、三吉は訓戒した。

「はい」

 ハナコはうなずいた。かんたんにうなずいたところを見ると、秘密探偵はその場の思い付きに過ぎなかったのだろう。

 

 午前中、猿沢三吉は鬚(ひげ)をそったり、部屋の中をうろうろしたり、縁側からうらめしげに空を見上げたりしていたが、昼近くになって、ついにたまりかねたように外出の準備にとりかかった。今日は日曜日だから銀行その他も休みだし、外出の口実はないのだが、明日から真知子が学校で忙しくなることを思うと、いても立ってもいられないのである。

 洋傘片手に、そっと玄関を忍び出ようとしたところを、三吉はハナコに見とがめられた。

「どちらにいらっしゃるの。こんな雨降りに?」

「うん。ちょっと、か、上風タクシーまで」

「またどこか故障したの?」

「うん。クリーナー[やぶちゃん注:ワイパー。]の具合が悪いんだ。早く直しておかないと、いざと言う場合に困るからな」

 自動車についての知識はハナコは皆無なので、外出の口実には持ってこいだ。

「そう。よく故障するのねえ。では行ってらっしゃい」

 あやうく虎口をのがれ、三吉は洋傘をかざし、ギャレージまで小走りに走った。

 クリーナーの具合は実際に悪かった。そのために雨の街を、三吉は眼を皿のようにして、のろのろと運転せざるを得なかった。

 上風社長は日曜でも出勤していた。三吉の話を聞くと、立ち上って窓をあけ、れいの如く大声でわめき立てた。

「修繕部の野郎ども。猿沢さんのクリーナーの具合が悪いそうだ。即刻修理、かかれっ!」

 窓をしめて社長卓に戻りながら、上風はにやりと笑った。

「わざわざ雨の日に、クリーナーの修繕に来るとはおかしいじゃないか。さてはなんだな、これを外出の口実にしたな」

「えへへ」

 図星をさされて、三吉は照れ笑いをした。

「もしハナコから電話があったら、そうだな、午後五時までに電話があったら、只今修理中だと答えて呉れよ。そして猿沢氏は退屈して、近所にお茶を飲みに行ったってな」

「クリーナーぐらいの故障で、五時までかかるのは不自然だぜ。ばれはしないか」

「大丈夫だよ。ハナコはクリーナーとは何であるか知っていないのだ。ごまかせるよ」

「大丈夫かい」

「ああ、それから番号札がすこし歪んでいる。そいつも直すように言って呉れ」

 上風社長はまた窓に歩き、修繕部の野郎どもに荒っぽい号令をかけた。

「あっ、そうそう」

 卓に戻って椅子をギイと鳴らしながら、上風は言った。

「番号札といえば、あれはいつだったっけな、あの番号の車はお宅のかと、妙な男がたずねて来たよ。十日ほど前だったかな」

「あの番号? 三の一三一〇七か」

「そうだ。だからその車は、猿沢三吉氏という風呂屋の大将にゆずったと、答えておいたんだがね」

「どんな男だった?」

「なんだかぼやっとした男だったよ。そうさな、年の頃は四十か、その前後だよ」

「何のためにそんなことを調べるんだろう?」

「うん。僕も訊ねてみたんだが、もごもごとごまかして、逃げるようにして出て行ったよ」

 窓の外から野郎どもの声がした。

「猿沢さんの修繕、終りました。乗車用意、よろしい!」

 

 雨の中をふたたびぼろ自動車に乗りこみ、猿沢三吉はアクセルを踏んだ。自動車は動き出した。クリーナーも今度はかたりかたりと気持よく動いた。

(わしの番号の車を、どこの誰が、何でしらべに来たのだろう)

 一分一秒がもったいない気持になっているので、三吉はかなりのスピードですっ飛ばした。『雨の日は事故が多い』という立札が、街のあちこちに立っていたが、三吉のその気分をおさえるには何の役にも立たなかった。三吉の自動車の四つのタイヤは、泥水につっこみ飛沫をとばし、通行人をへきえきさせ、中には大げさな悲鳴を上げる婦人などもあった。

「ざまあみろだ」

 三吉は快心の徴笑を頰にうかべた。三十年前、新調の洋服に泥水をあびせられた当時とちがい、今度はこちらが自動車の乗り手なのだ。しかも行先が妾宅ときている。笑いがこみ上げて来ざるを得ないのである。

 十分の後、三吉の自動車は富土見アパートについた。別段富士山が見えるわけではないが、そういう名がついている。横丁の電信柱のそばに駐車。三吉は玄関で洋傘をたたみ、しずくを切った。

 真知子の部屋は二階にあった。すなわちエッサエッサと階段をのぼり、ほとほとと扉をたたく。中から声がした。

「どなた?」

「わしだよ」

「ああ、おじさま」

 ノブを廻して三吉は入った。小さな声でアッと声を立てた。部屋の中は真知子ひとりでなく、若い男が一人坐っていたからである。真知子とその男は、勉強机をはさみ、おでこをぶっつけ合わせそうな恰好で坐っていた。男は学生服を着用していた。

「じゃ、おれ、失礼するよ」

 三吉の顔を見ると、若者は机上の本やノートを鞄にしまい、ごそごそと立ち上った。

「じゃ、明日、学校で」

「バイバイ」

 真知子は手を振った。若者は三吉のわきをすり抜けるようにして出て行った。あけはなたれた扉を、三吉は仏頂面になってガシャリとしめた。

「誰だね、あれは?」

「学校の友達よ」

 真知子も机の上をがさごそと片づけた。

「卒論の打ち合わせをしてたの」

「ソツロン?」

「ええ、卒業論文のことよ。あの人も明治文学をやるというし、あたしも明治文学でしょう。だから相談してたのよ。あたし、やはり、樋口一葉(いちよう)にしようかしら」

「一葉でも三葉でもよろしいが――」

 ふてくされたような恰好で、三吉は部屋の真中にどさりと坐った。

「わしはおなかがすいた」

「弁当、出来てるわよ」

 真知子は食器戸棚から折詰弁当を二つ取り出した。

「雨だったけど、もしかすると晴れるかも知れないと思って、今朝つくっといたの」

「ほう。ほほう。それはありがたい」

 三吉はたちまち機嫌を直して、相好をくずした。

 真知子は折畳式食卓の脚を立て、弁当を二つならべながら、三吉の顔をななめにのぞき込んだ。

「今月分のもの、持ってきて下さった?」

 

 猿沢三吉はちょっとばかり渋い顔をした。金を渡す日が近づいてくると、急に真知子のサービスが良くなる。そのことも気に入らなかったのだ。

「今日は半分だけ持ってきた」

 三吉は内ポケットから五千円入りの封筒を取り出した。

「あら。たった半分?」

 真知子は失望の声を上げた。

「あたし、予定があったのよ。一葉にきめるなら、一葉全集も買わねばならないし」

「わしんとこも困っているんだよ」

 三吉はがさごそと折詰弁当を開いた。黒ゴマがけの飯、肉やタケノコや椎茸(しいたけ)などの煮付や魚の照焼(てりやき)、それが旨(うま)そうにごちゃごちゃとかたまっていた。

「知ってるように、うちも新築の最中だろう。とても金がかかるんだ。この五千円だって、湯銭を少しずつくすねて、ためたものなんだよ」

「くすねなくっても、堂々と持ってくればいいじゃないの。あなたが主人でしょ」

「そ、そういうわけには行かん」

 三吉は割箸を割って、むしゃむしゃと食べ始めた。真知子もお相伴(しょうばん)をした。上は天井だし窓の外は雨だし、とても好天気の多摩川べりには比較すべくもなかったけれども、

 一応しみじみとした感じが出て、弁当もうまかった。三吉は夢中でむさぼり食って、おなかを撫でた。真知子がお茶を持ってきた。

「一万円なんかもったいないって、そう思ってらっしゃるんでしょ」

 封筒を机のひき出しにしまいこみながら、真知子はずるそうに笑った。

「おじさまって人は、大元のところではケチなのよ。さっきの友達にも、あなたのことを話したら、ケチな且那だなあ、なんて批評してたわ」

「だ、だんなだと?」

 三吉は思わず少量の茶を卓にこぼした。

「あんたとわしの関係を、友達に話したのかい?」

「そうよ。なぜ?」

「あんたが二号で、わしが且那ということを、はっきりと話してあるのか?」

「そうよ。皆に話してあるわよ」

 真知子はいぶかしげに三吉の顔をのぞきこんだ。

「アルバイトだもの。何もかくし立てすることはないわ」

「ア、アルバイトって、では、アルサロにつとめてるのと同じか?」

「そうよ。それによってあたしは、学問してるんだもの。うちがああなったんだから、当然だわ」

 真知子の実家は九州にあるのだが、学なかばにして、親爺の工場がつぶれた。そこで真知子は、学業を中止するか働きながら続けるか、その二つの中の後者をえらんだのである。真知子はけろりとして言った。

「アルサロよりこちらの方が、身体がラクでいいわ。暇だから勉強は出来るし、収入は多いし。友達もうらやましがって呉れるのよ」

「ふうん」

 三吉はうなった。感心すると同時に、何やら腹立たしくなってきた。アルバイトだと割り切っているから、献身的な愛情を示さないんだな。そう思うと、この小癪(こしゃく)な人生観をぎゅっと踏みつぶしてやりたい衝動が、三吉にむらむらと湧きおこってきた。

「ふうん。そう言えば月一万円とは、もったいないような気がする」

 

 月一万円はもったいないとは、ふざけや冗談でなく、猿沢三吉のいつわらざる本音であった。

「そうでしょ。そうだろうと思った」

 真知子は手早く折詰のからを片づけながら、勝ち誇ったように言った。

「そぶりなんかで判るわよ。でも、どうしてそんなケチなことを考えるの?」

 考えるなと言っても、三吉も商人である関係上、どうしても原価計算的考え方をせざるを得ないのである。

 前にも書いたように、妾の真知子は授業や卒論や部活動などで多忙だし、且那の三吉も新築その他で多忙だし、それにハナコの眼をごまかさねばならぬという悪条件があるし、逢う瀬の時間も短い時は五分ぐらい、長くても二時間か二時間半くらいなもので、それも毎日というわけではないのであるから、一万円を月の延時間で割ると、途方もなく高いものについているのである。

 一人頭十五円という零細な金額を蓄積して、それからごっそりと真知子に納入するのだから、三吉としても身を切られるようにつらい。一万円に相当する真知子のサービスがあればまだしもだが、三吉の見積りによれば、彼女のサービスは月にしてせいぜい二千円か二千五百円どまりのものであった。

「ケ、ケチで言うわけじゃないが――」

 番茶をすすりながら三吉は提案をした。

「わしがあんたと逢う時間は、一日にならすと、ごくわずかなもんだ。わしにはその余った時間が、もったいなくて仕様がない」

「もったいないって、これはあたしの時間じゃないの」

「そうだ。あんたの時間だ。あんたの時間だから、あんたがあのアルサロに復帰して、そこで稼ぐとしたらどうだろう」

「稼いでどうなるというの?」

 エヘンと三吉はわざとらしいせきばらいをした。

「あんたが稼ぐ。その分だけわしの月々のものを、減らして貰えんかね。つ、つまり、月に四千円か五千円ぐらいに」

「まあ呆れた」

 真知子は両手を上げて、参ったという表情になった。

「それじゃトクをするのは、おじさまだけじゃないの。ソンはあたしの方だけ」

「いや、なに、トクというほどじゃない。それが相場というもんだよ」

 そして三吉は思いやりありげな顔つきになった。

「あんたの全時間を、わしは独占しようとは思わない。それは男のわがままというもんだ。だからご遠慮なくアルサロの方ヘ――」

「イヤですわ!」

 真知子は甲(かん)高い声で開き直った。

「アルサロなんかまっぴらだわ。あそこは空気が悪いし、時間にはしばられるし、勉強なんか出来やしないわ」

「でも、わしの方も、いろいろ費用がかかって、このままで行けば破産ということになるかも知れん」

 三吉はおどしの手を用いた。

「わしから無理矢理一万円とり上げて、破産させるより、五千円ずつにして末長く、といった方があんたにもトクじゃないか」

「末長くなんてまっぴら。卒業までよ」

「でもこのわしが、五千円しか出さないとすれば、どうする?」

「おばさまのところに、いただきにあがるわよ!」

 

「おばさまに?」

 猿沢三吉はたちまち仰天、番茶にむせてせきこんだ。

「そうよ。おばさまよ。だってあたし、月々一万円なくちゃ、勉強が続けられないんだもの」

「おばさまって、あれ、どんな性格の人物か、あんたは全然知らないだろう」

 三吉はおろおろ声を出した。真知子がハナコに金を請求に行く。その場面を想像しただけでも、三吉は身慄いが出るのである。

「レスリングを練習してんだよ、レスリングを。飛んでもないことを言って呉れるな。そんなことをしたら、あんたは半殺しの目にあうよ。あんただけでなく、このわしもだ」

 ふふん、といった顔つきに真知子はなった。

「そんなにこわいの。じゃあ渋ったりしないで、月々一万円出すことね。それが一番よ」

「そ、そこをなんとか――」

「あたしは半殺しにされても平気よ」

 真知子の態度は、すこしずつふてぶてしくなって来た。

「半殺しにされたら、それ相当の賠償がとれるわ。法律というものがあるんですからね。おばさまのレスリング振りを見たいもんだわ」

「そ、そんな――」

「今日だって五千円しか持って来なかったのは、あわよくば値切ろうという魂胆だったんでしょう」

 真知子は三吉をにらみつけるようにした。

「そんな虫のいいことが通るもんですか。あと五千円は、いつ持ってくるの?」

 値切りの魂胆を見抜かれて、三吉は狼狽の色を示した。

「そ、それは、そのうちに――」

「ダメ! 明日いっぱいに持って来なきゃ、あたし、おばさまのところに押しかけるわよ。いいわね」

「あんた、わしを脅迫する気か」

 三吉は両手の指を曲げて、残り少なの頭髪を絶望的にかきむしった。

「ああ、わしは何と不幸な人間だろう。わしにはメカケを囲うような資格も甲斐性もなかったんだ。もうメカケは要らない。家庭に引き退ろう[やぶちゃん注:「さろう」。]」

「そんな身勝手な話がありますか!」

 真知子は憤然ときめつけた。

「おじさまがあたしを必要としないでも、あたしがおじさまを必要としているのよ。卒業までは金輪際(こんりんざい)離しませんからね。そのかわり、卒業出来たら解放して上げるわ」

「あたりまえだ」

 三吉はうめいた。

「そんなにつきまとわれてたまるか」

「だからあんまりわたしの勉強の邪魔をするんじゃないことよ」

 真知子は勝利の微笑をもって宣言した。

「勉強の邪魔をしたら、あたしは勉強不足で落第をする。落第をすれば、それだけ解放の時期が遅れるのよ」

「早く卒業して呉れ」

「勉強にはあのことが一番悪いのよ、あのことが。だから、おじさまがあまりしつこくすると、あたし、わざとでも落第してやるわ」

「そんなムチャな――」

 その時扉が外からほとほとと叩かれた。三吉はぎょっとして、扉の方をふり返った。声がした。

「猿沢三吉さんって方、いらっしゃいますか」

 

 その瞬間、猿沢三吉はぎょっとして、背筋がちぢみ上った。

 この部屋の借主は真知子名義になっているし、猿沢三吉がここにいることを知っているものは、誰もいない筈である。それなのに名を呼ばれたんだから、三吉がちぢみ上るのも当然だろう。

「誰?」

 真知子が訊ねた。声が答えた。

「猿沢さんって方にお電話ですよ」

「電話?」

 三吉は反射的にピョンと飛び上り、扉口へ横っ飛びに飛んだ。廊ドには富土見荘の管理人がのんびりと立っていた。

「電話って、誰から?」

「名前はおっしゃいません」

「わしがいると言ったのか?」

 管理人はうなずいた。三吉は不安に胸をとどろかせながら、管理人の先に立って階段をどたどたとかけ降りた。

(ハナコであったらどうしよう)

(どうしてここがハナコに知れたのか)

 三吉の心臓はシンバルのように鳴りとどろき、血圧もとたんに三十や四十は上った模様である。はあはあと呼吸をはずませながら、三吉は受話器にとりついた。

「もしもし、もしもし」

「猿沢君かね」

 太い落着いた男の声が戻ってきた。

「僕だよ。上風だよ」

「なあんだ。上風君か」

 三吉はハンカチを取り出して、額の汗をごしごしと拭いた。

「驚かせるなあ。わしはまた、ハナコからじゃないかと思って、胸がどきどきしたよ。一体の用事だい?」

「奥さんから電話があったんだよ」

「え? ハナコから?」

「うん。なにか大変なことが出来たそうだ。直ぐ帰って来いって」

「わしがどこにいると答えた?」

「退屈して近所にお茶を飲みに行った、と言っといたよ。今からすぐ自動車で戻って、うまくつじつまを合わせるんだな」

「うん」

 三吉は口ごもり、何か問い返そうとした時、電話はがちゃりと切れた。そこで三吉も余儀なく受話器を置き、本式に顔中の汗をごしごし拭いた。ハンカチはしぼれば、したたらんばかりに濡れた。

「ああ、全く驚かせやがる!」

 わくわくした反動で今度はしょんぼりとなり、三吉は悄然として階段を登った。あまりの激動に、心身ともに疲れ果てたのである。

 真知子は鏡に向って口紅を塗っていた。

「何の電話だったの?」

「うん。うちに何か事件がおこったらしいんだ」

「うちからかかったの?」

「いや、上風君からだ。残念だが、今日はもう帰ることにしよう」

「帰るの。まあ、残念だわ」

 真知子はとたんに身をくねらせ、三吉に飛びついて、三吉のおでこにチュッと接吻した。残念であるよりも、それはむしろ嬉しげに見えた。

「おじさま。明日も来てね」

 真知子は三吉の耳に口をつけてささやいた。

「残り五千円を忘れないでね。あたし、猛勉強をして、きっと見事に卒業してあげるわ」

 

「そのかわりに、浮気なんかしちゃ、ダメだぞ」

 扉口で振り返って、猿沢三吉は最後に念を押した。さっき勉強しに来ていた男の学生の姿が、どうも怪しいものとして、チラチラと三吉の脳裡から去らないのである。

「大丈夫よ」

 真知子は肩をすくめてせせら笑った。

「浮気するぐらいならあたし、さっさと二号をやめるわよ」

「本当だね」

 三吉は扉を背にして、せかせかと廊下を歩き、階段を降りた。雨の中をぼろ自動車にかけこみ、アクセルを踏んだ。

 来る時と同様のスピードで、通行人に泥水をようしゃなくあびせかけながら、三吉の車は疾走したが、そのことによって今度は三吉の心は少しもなぐさまなかった。泥水をはね飛ばすためにスピードを出しているのではないからである。

(大変なことが起きたって、またいつものハナコの人騒がせだろう)

 ハナコは昔から、何でもないことを、やいのやいのと騒ぎ立てるくせがある。折角の日曜日、真知子も学業は暇だというのに、折詰弁当を共にぱくついただけで、あとは何もせず、接吻をひとつ貰っただけで、すごすごと帰りつつあることを思うと、三吉は腹が立って腹が立って、はらわたが煮えくりかえる思いであった。

(しかも、あの真知子のやつも、近頃急に手ごわくなってきたな。どうもわしにはアプレの気持は判らない)[やぶちゃん注:「アプレ」アプレ・ゲール(フランス語:après-guerre :「戦後」の意)の略。戦後、特に第二次大戦後に育った、昔からの考え方や習慣に捉われない人たちをいう。そのうち特に退廃的で、無責任で割り切った考えや行動をとる者、或いは、基礎的な知識が身についていない者などに対して、非難の気持をこめて使う場合が多い。フランスでは第一次大戦後に、戦前の文化に対する青年の反逆が起こり、広がって、この語が一般的となった。本邦では、第二次大戦後の昭和二二(一九四七)年、『近代文学』に拠る青年作家が自らの小説双書に、この名称を冠したのが始まりで、野間宏や埴谷雄高ら戦後に出てきた新人作家たちを指した(当然、梅崎春生もその一人)。その後、それまでの価値観と異なった行動をする若い人たちの意味に転じ、昭和二十年代の数年間、盛んに使われたが(ここまでは主文を小学館「日本国語大辞典」に依拠した)、この連載の頃には半ば死語と化していた。]

 メカケというものは、今までの通念では且那の道具なのだが、真知子は学業を完遂するために、逆に三吉を道具視している趣きがある。その学業に対する異常な執念が、三吉にはよく理解出来ないのである。男の学業を貫徹させるために、女が遊里に身をおとすというのは昔からよくある例だが、この場合はその逆ではないか。

(勉強にはあのことが一番さまたげだなんて、何てえ言い草だ。それじゃあわしは一体何のために、月々の手当を出してるんだ!)

 三吉はぷんぷんに腹を立てながら、乱暴にハンドルを切った。

(卒業するまでは、ダニのようにわしに吸いついて、離れないつもりらしい。何たることだ!)

 自動車はスピードをおとして、上風タクシー会社の構内にがたごとと入って行った。停車すると、三吉の肥った身体は鞠(まり)のように飛び出し、やがて社長室に入って行った。上風社長ははさみをチョキチョキ鳴らして、相変らず顎鬚(あごひげ)の手入れに余念がなかった。

「やあ。早かったな」

 上風は手を休めて言った。

「直ぐ帰ったがいいよ。今また奥さんから電話がかかったとこだ」

「え。またかかった?」

 三吉はくるりと廻れ右をして、部屋を出て行こうとした。

「そりゃ早く帰らなくちゃ」

「おい、おい。待てよ。待ちなさい」

 上風はあわてて呼びとめた。

「おでこに口紅がついてるよ。そのままで帰るのかい?」

「口紅?」

 三吉は方向を変えて壁鏡の前に立った。おでこにはくっきりと、唇の形そのままに、口紅が印されていた。三吉は大狼狽した。

 

 猿訳三吉の自宅は、第一・三吉湯に隣接して建っているが、妻のハナコは先ほどから茶の間で立ち上ったり坐ったり、廊下に出て見たり、眉を八の字に寄せて、いらいらと落着きがなかった。これで何度目かの険しい声をはり上げた。

「一子(かずこ)に二美。まだお父さんは戻って来ないかい?」

「まだのようよ」

 子供部屋から二美の声が戻ってきた。一子の声はしなかった。一子は自分の机に頰杖をついて、憂鬱そうな眼で雨空を見上げていた。

 子供部屋は六畳の広さで、机が二つ置かれ、一子と二美の共用と言うことになっている。若い娘たちの居室らしく、壁には映画俳優の写真などがべたべたと貼ってある。一子は空を見上げたまま、ぽつんとひとりごとを言った。

「竜ちゃん。今頃何をしてるかしら」

「ほんとにお姉さんって可哀そうね」

 二美が一子の肩に手をかけてなぐさめた。

「この間まで、竜ちゃんとは、何でもなかったんでしょ。それなのに、今頃になってねえ」

「そうなのよ。お父さんから、竜ちゃんに会ってもそっぽ向けって言われて以来、あたしの胸はにわかに燃え立ってきたのよ。二美はまだ子供だから、その気持、判らないだろうけど」

「判るわよ!」

 姉の肩から手を離して、二美は胸を反らせた。胸を反らすと、なるほど、胸のふくらみがセーター越しにあらわな形を見せた。

「あたしだって、もう間もなく、十七だもの」

「竜ちゃんもそう言うのよ」

 姉は妹の胸のふくらみを燃殺して続けた。

「竜ちゃんもお父さんたちの喧嘩まで、あたしのことをなんとも思ってなかったんだって。泉の小父さんも竜ちゃんに、あたしたちと口をきいちゃいけないって、厳命したそうよ。近頃はどこのオヤジも、頭がお粗末なのねえ。そんなことをするから、竜ちゃんだって燃え立つんじゃないの。ねえ」

「お母さんが何かかんづいてるらしいわよ」

 二美は声をひそめた。

「お姉さんに近頃変ったことはないかって、あたしに探りを入れてきたわ。昨夜」

「竜ちゃんのこと、しゃべらなかったんだろうね」

「しゃべらないわよ」

 二美は双の腕で自分の胸を抱いた。

「あたし、悲恋というやつが、大好きなんだもの」

「ナマイキ言うんじゃないよ」

 姉は眉を寄せて妹をたしなめた。

「あたしがどんな風(ふう)に変ったって、お母さん言ってた?」

「御飯を、三杯しか食べないから、変だって」

「二十(はたち)にもなって、御飯を六杯も七杯も食べられますかってんだ」

 一子は唇をとがらせて、伝法な言葉使いをした。[やぶちゃん注:「伝法な」「でんぽう」は種々の意があるが、ここは「いなせなこと。勇み肌であること。また、その者や、そのさま。多く女性について用いる、それ。]

「あたし痩せようと思って、ムリして減食してるのよ。だって竜ちゃんは、背高のっぽのひょろひょろでしょう。あたしがぶくぶくじゃ、つり合いがとれないもの。竜ちゃん、ボディビルやってるけど、あまり効果ないらしいのよ」

「おや、自動車の音?」

 二美は聞き耳を立てた。車庫に入る自動車の音がする。二美は両掌をメガホンの形にして、茶の間の母親に呼びかけた。

「お母さん。お父さんが帰ってきたわよう」

 

 玄関の扉をあけて、猿沢三吉があたふたと入ってきた。ハンカチで汗を拭いながら、茶の間に急行した。おでこに印された真知子の口紅は、上風会社でちゃんと拭き取ったので、痕跡すらとどめていない。もっとも、とどまっていたら大変だ。

「あなた」

 ハナコは三吉に呼びかけた。

「大変よ。大変なことがおきたわよ」

「何が大変だ?」

 三吉はハナコの表情から、何かを読み取ろうとするように、眼をぎょろぎょろさせながら、どしんと大あぐらをかいた。真知子のことでないらしいと見当はついた。

「お前の大変は、毎度のことだからなあ。一体何事だい?」

「泉湯さんで、いや、泉湯で、テレビに電蓄を入れたらしいわよ」

「なに? テレビを?」

「今日お客さんが、三吉湯もテレビぐらい置いたらどうだって、そう言うのよ。だからあたしが、ラジオやテレビなどのサービスは、一切遠慮するという組合の申し合せを説明して上げたの。するとそのお客さんはせせら笑って、泉湯じゃ一週間ぐらい前から、テレビを入れてるんだって」

「ううん」

 三吉は腕を組み、額の静脈を怒張させてうなった。

 泉湯がテレビを入れたとは、話はかんたんだが、ことは重大である。組合の申し合せを破棄してまで、テレビを設置したという泉恵之助の魂胆は、三吉にはピンと響いてくるのである。それは新築の三吉湯への対抗策、あるいは苦肉の一策に違いなかった。苦肉の一策というよりも、それは宣戦布告に近かったのだ。

「テレビとはやりゃあがったな。あの背高のっぽのくそ爺! では、こちらもテレビを――」

 と言いかけて、三吉は口惜しげに居をかんだ。敵の泉湯は一軒だから、テレビは一台で済むが、こちらは三軒、新築を入れると四軒で、一台はハナコの手持ちを出すとしても、あと最低三台は仕入れなければならぬ。新築で金が要(い)るというのに、またテレビを三台とは、そうおいそれと金の都合はつかないのである。三吉はハナコの顔を探るように見た。

「もうお前、ヘソクリはないだろうね?」

 もうせん新築場の敷地分をへそくっていたんだから、まだその余りがありはしないかと、三吉は望みをつないだ。

「もうないわよ」

 ハナコはそっけなく拒絶した。

「山内一豊の妻以来、女房のヘソクリ提出は、一ぺんこっきりに決ってますよ。あとは亭主の甲斐性(かいしょう)の問題ですよ」

「それもそうだ」

 道理を説かれて、三吉はしょんぼりとなった。女房から申斐性を云々されるほど、亭主にとってつらいことはないのである。

「畜生奴? しかしあいつも、組合の申し合せを破ったからには、相当な覚悟をしたと見えるな」

 あの新築場における口角泡を飛ばしてのののしり合い、泉恵之助の形相(ぎょうそう)などを、三吉はありありと思い起した。すると三吉の闘魂はにわかに振るい立った。ハナコが言った。

「組合に提訴したらどう?」

「ダメだ」

 三吉は言下に答えた。

「そうすればあいつは、組合を脱退するに違えねえ」

 

 廊下から次女の二美が顔を出したので、三吉夫妻は口をつぐんだ。

「おやつはまだ? あたし、おなかがぺこぺこよ」

「ぺこぺこだなんて、お昼もあんなに食べたじゃないか」

 二美をたしなめながら、ハナコは時計を見上げた。

「じゃそろそろおやつにしましょう。あなたもおなかぺこぺこでしょう」

「わし? うん。わしは大丈夫だ」

 真知子手製の折詰弁当をたらふく平らげたのだから、まだおなかが空(す)く筈がない。

「だって朝半膳しか食べなかったじゃないの。どこかで召上ったの?」

「うん。クリーナーの修繕を待つ間、上風会社の近所で食べた」

「何を召上ったの?」

「ト、トンカツだ」

 頭に浮んだ食物の名を、三吉はとっさに口にした。

「割においしいトンカツだったよ」

「はて。上風会社の近くに、そんなうまいトンカツ屋なんかあったかしら」

「うん、なに、小さな店だよ」

 三吉はさりげなくごまかした。

「あぶら身がたっぷりついてて、値段も割に安かった」

「あぶら身のとこなら、安いに決っていますよ」

 ハナコはおやつの用意をしながらきめつけた。

「それに脂肪分は、高血圧に一番悪いんですよ。これからお昼はソバになさいよ、ざるソバに。判ったわね」

 チャブ台に塩せんべいが山と出され、お茶が入れられた。三吉の分はれいの如くコブ茶である。一子(かずこ)も子供部屋から茶の間にやってきた。しばらくは茶の間の中は、塩せんべいをパリパリと嚙む交響の場と化した。パリパリと嚙んでいるのは女どもの歯だけで、三吉は黙然かつ悄然、コブ茶を不味(まず)そうにすすっていた。泉湯のテレビに対抗する方法を考えていたのである。

「ねえ。この自宅(うち)のテレビ――」

 パリパリ交響楽が一段落を告げた時、三吉は口を切った。

「あれを第一・三吉湯の方に廻して貰えんかねえ。そうするとたすかる」

「うちのを風呂場に廻すの? どうして?」

 二美がいぶかしげに言った。

「じゃあたしたちは、見ることが出来ないじゃないの」

「板の間に行って見ればいい」

「そんなこと出来るもんですか」

「只今のところ風呂屋が三軒、男湯と女湯に入れてテレビが六つ」

 ハナコが口をはさんだ。

「六つ要るというのに、うちのを一つ持って行ったって、焼石に水ですよ。それにうちのテレビがなくなると、一子も二美もたのしみがなくなって、夜遊びばかりするようになりますよ」

「そうよ。そうよ」

 と二美が相槌(あいづち)を打った。一子はうつむいてお茶を飲んでいる。夜遊びという言葉が痛かったのだろう。

「なぜテレビを風呂場に置く必要があるの?」

「サービスだ。客寄せのためだ」

「それならテレビより、お父さんの好きな将棋を置いたらどう?」

 

「将棋?」

 猿訳三吉は眉を上げ、とんきょうな声を出した。

「そうよ。将棋盤に将棋の駒。いくら上等のものを仕入れたって、値段の点でテレビとは問題にならないわよ」

 二美は胸を張った。得意になって胸のふくらみを誇示した。

「それに、泉の小父さんとの喧嘩の原因も、将棋からでしょ。風呂屋にテレビなんか、ぜいたくよ。将棋でたくさん」

「その方が安上りね」

 ハナコも賛意を表した。

「将棋好きのお客さんが集まるでしょう」

「うん、将棋か」

 三吉は低くうなって腕を組んだ。新築費もあるし真知子のこともあるし、当分テレビなんか仕入れ出来そうにもない。月賦や日賦販売もあるが、六台とまとまると相当の出銭になるのだ。

「そうだな。将棋でひとつやってみるか。将棋でつないでいるうちに、第四・三吉湯が完成する。第四湯は泉湯にもっとも近い。そこヘテレビを入れれば、こちらの方が新しいし、泉湯の客はこちらにごそりと移ってくるだろう」

「そうね。それがいいわ。そして早く第四・三吉湯をつくり上げなきゃね」

 金の調達がスムースに行かないので、新築の進行もこの頃、ちょっと停滞気味なのである。

「ええと――」

 コブ茶をごくりと飲み干して、三吉は腰を浮かせた。

「将棋盤はうちに一面あるし、するとさしあたり、あと五組買えばいいんだな」

「女湯の方には置いたって仕方ないでしょ。女は将棋をささないから」

「アッ、そうか」

 三吉は頭をかいた。

「すると、二組か。今からちょっと出かけて、買って来よう。思い立ったが吉日だ」

「あまり雨に濡れたりしないでね」

 三吉の頭の中央のつるつるに禿(は)げた部分を、ハナコは心配そうに眺めやりながら言った。

「アメリカがまた無断で、原爆か水爆かの実験したらしいわよ。今朝また異常気圧が観測されたってさっきラジオが言ってたわ。きっとこの雨にも放射能が含まれてるわよ」

「またアメリカの奴がやりやがったか!」

 三吉は空を仰いで長嘆息した。

「一体アメリカの奴は、日本を何と思っているんだろう。日本の政府も全くだらしがないな」

「ほんとよ。今の政府なんて、アメリカ旦那のメカケみたいなものよ」

 ハナコも激昂の気配を示した。

「まるでメカケみたいに、へいこらして、言いなり放題になってるのよ。沖繩問題にしたってそうでしょ。腹が立つったら、ありゃしない」

「メカケといっても、近頃のメカケは、そうへいこらもしてないよ」

 そして三吉はあわてて言い直した。

「してないらしいよ。かえって且那をやっつけるようなメカケもいるらしい」

「ほんとにやっつけて貰いたいわね」

 激昂のあまりにハナコは、つい三吉の失言を聞き流した。

「あなたの頭はつるつるですからね。放射能雨のしみこみも早いわよ。用心してね」

[やぶちゃん注:「アメリカがまた無断で、原爆か水爆かの実験したらしい」本篇連載時のそれは、「レッドウィング作戦」(Operation Redwing)。第十七次の核実験で、一九五六年の五月から七月にかけて行われた。実験は全てビキニ環礁及びエニウェトク環礁で行われた。]

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