只野真葛 むかしばなし (69)
それは、ワ、十八、九年ばかりの事なりし。
ワに被ㇾ仰しは、
「其方も緣付べき年には成(なり)たれども、我身分、いかゞなるや、知れ難し。今、緣付(えんづけ)れば、餘り高きかたへは、遣(つか)はしがたし。我身、一きわ、ぬけ出(いで)なば、妹共をば、宜しき方へ、もらはれんに、姉の、をとりて、あらんは、あしかるべし。少し、年は更(ふく)るとも、今しばし、世のさまの定まる迄、御奉公いたすべし。」
と被ㇾ仰たりし。よかれよかれと、おぽしめされしが、仇(あだ)と成(なり)、緣遠(えんどほ)の身と成りしなり【父樣、かやうに被ㇾ仰に付(つけ)ても、姉といはれん人の、身持、おろそかに成(なし)がたし、と、おもひ、はげみしなり。[やぶちゃん注:底本には『原頭註』とある。]】
井伊樣に西尾りう治といふ人、有(あり)しが、才人なりし。
占(うらなひ)を、よくして、能《よく》當りし故、此父樣の御身の上を、うらなはせしに、よく當りたりし。六文錢を、なげて、うらなふ事なり。
「表を見ては、しごくよき事のすじなり。人も『よし。』といひ、おもふ事の、裏にては、『あしゝ。』。世にいづれば、是は、『はまつた。』といふ身に成(なる)なり。ならぬかた、遙かに、ましなり。先は成(なり)がたき、ていなり。」
と、いひし故、おもしろからず思ひしが、其如くにて有(あり)し。
「此秋は。」
「來春は。」
と、いふやうに、のびのびして、三、四年も立(たち)しに、公方樣、御他界、田沼、引込(ひきこみ)、世の中、とりどりに成(なり)て、其程に出世したる人は、皆、惡人・山師の樣に世人に疑れしが、光なき谷住(たにずみ)の父樣は、かはる事も、なかりし。火難(くはなん)に御逢被ㇾ遊し比(ころ)までは、まだ、
「もしや、出世のこともや。」
と、御下心、たのしかりし故、さのみ御歎きも被ㇾ成ざりしなり。
さやうの下拵(したごしらへ)ありし故、けんもん[やぶちゃん注:「權門」。]衆より、火事見舞に、金など、進物せしなり。
「火難」天明四(一七八四)年、平助の築地の屋敷(藩医でありながら、特別に藩邸の近く外に住まいすることが許されていた)は焼失している。ウィキの「只野真葛」によれば、天明六年二月には、『平助の後継者として育てられてきた上の弟長庵が、火災後の仮住まいにおいて』二十二『歳で没し』、八月の『将軍徳川家治の逝去がきっかけとなり、平助の蝦夷地開発計画に耳を傾けてきた田沼意次が失脚』、十月には幕府が、平助が内心では期待していた第二次『蝦夷地調査の中止を決定した。これにより』、『平助が蝦夷奉行等として出世する見込みはまったくなくなった。田沼のライバル松平定信の政策は、蝦夷地を未開発の状態にとどめておくことが』、『むしろ』、『国防上安全だという考えにもとづい』たものであった。『築地の工藤邸は』、『その後、築地川向に借地して』、再度、『家を建てはじめた。しかし、世話する人に預けた金を使い込まれてしまい、普請は途中で頓挫し』、『そうしたなか、天明』七年の『倹約令の影響で景気も急速に冷え込んだため、家の新築は見通しが立たなくな』り、この後、『日本橋浜町に住む幕府お抱えの医師木村養春が平助に同居を持ちかけたので、工藤一家はここに住むことになった』とある。]
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