譚海 卷之五 上總國大東崎ほしか鯛の事(「鯛」は「鰯」の誤記と断定)
[やぶちゃん注:句読点・記号を変更・追加した。
「目錄」の標題中の「ほしか鯛」はママ。国立国会図書館デジタルコレクションの大正六(一九一七)年国書刊会刊本(本底本は東北大学附属図書館蔵の加納文庫本(寛永年間の写本)と日比谷図書館蔵の加賀文庫本に、この国書刊行会本を対照させて校訂したもの)でも同じ(右ページ八行目下方)であるが、これは、「ほしか」で既にして「干鰯」と書き、鰯(条鰭綱ニシン目ニシン亜目マイワシ属 Sardinops・サルディナ属 Sardina・ウルメイワシ属 Etrumeus・カタクチイワシ属 Engraulisに属する別種群を一緒くたにして呼んだ、人為的分類総称名であるところの「鰯」を、乾燥させて作った魚肥のことであり、江戸時代には大量に生産され、広範に流通し、使用されていた。しかし、「鯛」は魚類の優れて見事で美味いことから、驚くべき多数の、しかも条鰭綱スズキ目タイ科 Sparidae とは全く縁のない別種魚類の標準和名の美称語尾等として、多数、用いられてはいるものの、大きさや体型・色彩がタイとは異なるイワシ類にそのような美称を添えたものは、私は知らないし、ネット上に「ほしか鯛」「干鰯鯛」という熟語或いは連語は発見出来ない。従って、この「鯛」は「鰯」の誤記と考える。底本の『日本庶民生活史料集成』版は、三種の校訂をした上で「ほしか鯛」であったのだとすれば、それら総てが「ほしか鯛」と誤記していた可能性が高いと思われる(但し、「鯛」と「鰯」の(つくり)の崩し字は似ていないが、一行並置されている真上の標題が「駿州興津鯛の事」であることから、書写者が、うっかり、その「鯛」に引かれて不全に書きなぐって誤ってしまった可能性が大であると斷ずる)。
さて、ウィキの「干鰯」によれば、『農業を兼業していた漁民が余った魚類、特に当時の日本近海で獲れる代表的な魚であった鰯を乾燥させ、肥料として自己の農地に播いたのが干鰯の始まりと言われている。この背景には、鎌倉時代から室町時代にかけて、二毛作導入によって肥料の需要が高まったことがある』。十六『世紀頃になると』、『地域によっては魚肥の利用が始まった。気候の温暖化によって』、『鰯が豊漁となり、干鰯が生産されたからである』。(☞)室町後期の天文二四・弘治元(一五五五)年には、『関西の漁民が九十九里浜に地曳網を導入したことが知られている』。『やがて江戸時代も』十七『世紀後半に入ると、商品作物の生産が盛んになった。それに伴い』、『農村における肥料の需要が高まり、草木灰や人糞などと比較して』、『安く』、しかも『即効性にもすぐれた』『干鰯が注目され、商品として生産・流通されるようになった』。『干鰯の利用が急速に普及したのは、干鰯との相性が良い綿花を栽培していた上方及びその周辺地域であった』。『上方の中心都市・大坂や堺においては、干鰯の集積・流通を扱う干鰯問屋が成立した』。享保九(一七二四)『年の統計では』、『日本各地から大坂に集められた干鰯の量は』百三十『万俵に達した』。『当初は、上方の干鰯は多くは紀州などの周辺沿岸部や、九州や北陸など比較的近い地域の産品が多かった。ところが』、十八世紀に入ると、『江戸を中心とした関東を始め』、(☜ ☞)『各地で干鰯が用いられるようになる』『と、需要に生産が追い付かなくなっていった。更に供給不足による干鰯相場の高騰が農民の不満を呼び、農民と干鰯問屋の対立が国訴(農民闘争の一形態)に発展する事態も生じた』。『そのため、干鰯問屋は紀州など各地の網元と連携して新たなる漁場開拓に乗り出すことになった。その中でも』(☜ ☞)『房総を中心とする「東国物」や』、『蝦夷地を中心とする「松前物」が』、(☞)『干鰯市場における代表的な存在として浮上することとなった』。(☞)『房総(千葉県)は近代に至るまで鰯の漁獲地として知られ、かつ広大な農地を持つ関東平野に近かったことから、紀州などの上方漁民が旅網や移住などの形で房総半島や九十九里浜沿岸に進出してき』て、東房総の『鰯などの近海魚を江戸に供給するとともに』、『長く』(☞)『干鰯の産地として知られてきた(地引網などの漁法も上方から伝えられたと言われている)』とある(因みに本書「譚海」は跋文から寛政七(一七八五)年夏に二十年間の筆録を取り纏めたことが判っている)。『一方、蝦夷地では』、『鰯のみではなく』、『鰊(かずのこを含む)』『やマス類』『が肥料に加工されて流通した。更に幕末以後には鰯や鰊を原料にした魚油の大量生産が行われるようになり、油を絞った後の搾りかすが』、『高級肥料の鰊粕として流通するようになった』。明治一〇(一八九八)年『頃までは干鰯と菜種油粕が有機質販売肥料の主流を占めていたが』、明治一五(一九〇四)年『頃にニシン搾粕』(しぼりかす)が、『生産量で干鰯を上回って』おり、『昭和初期には肥料としての役割をほぼ終え』た。『魚肥全体の生産量は』昭和一一(一九三六)年で四六万『トンあったが、戦後は化学肥料の生産増加に伴』って、減少し、昭和四二(一九六七)年には八万トンが『生産されたに過ぎ』ず、『現在、干鰯が肥料として使われることは』殆んどない、とあった。]
○上總の東南海に大東崎(たいとうざき)と云在(いふあり)。「ほしか」の地引網を持(もつ)て、渡世するもの、住(すめ)る所也。網のながさ、五丁・六丁・十丁にも及ぶゆゑに、鰯(いはし)の、きほひて、汐(しほ)に乘(じやう)じ來(きた)る時は、一網に數千金(すせんきん)の獵を得る故、いづれも豪富にて、居宅・園地、諸侯の如く、素封(そほう)の民、おほし。みな、海邊より半里、一里、のきて、山を隔(へだて)て、林をかたどりて、住居(すまひ)せり。「失火の害、なければ、喬木(けうぼく)、殊におほし。」と、いへり。その大東崎に、「音づれ山」と云有(いふあり)。「夫木抄」に載(のり)たる和歌の名所也。山は、大(だい)ならず、海より、五、六町、陸にあり。はげ山にて、岸に松、數株(すかぶ)、生じ有(あり)、海にむかひたる、片つら、かけおちて、洞(ほら)のやうに、へこみて有(あり)、此陰(このかげ)に居(ゐ)て、聞(きく)ときは、はるかに、鐘をつくやうに聞ゆる音、絕えず。「是は、海岸の山、うつろなる、おほきゆゑ、穴へ、波のうち入(いる)ときは、鐘のやうに聞ゆる。」と、いへり。東坡居士のいへる、もろこしの「石鐘山(せきしようざん)」の事に、能(よく)似たり。
[やぶちゃん注:「大東崎」太東岬(たいとうみさき)は、現在の千葉県いすみ市の九十九里浜南端のリアス式海岸に位置する岬(グーグル・マップ・データ)。別称は太東埼(たいとうざき)。房総丘陵東端の砂質凝灰岩からなり、標高は約十メートルから最高六十八・八メートルある。起伏に富んだ海岸延長は四・五キロメートルあり、太平洋まで断崖絶壁となっている。北側は、刑部岬(ぎょうぶみさき)から、九十九里浜が、ずっと弓なりに連なっており、太東漁港がある。南側には、夷隅川河口と、大原の町並みが見える。江戸時代は、現在より、数キロメートル、海に突き出ていたとされ、「元禄大地震」(元禄十六年十一月二十三日(一七〇三年十二月三十一日)午前二時頃、関東地方を襲った巨大地震で、震源は相模トラフ沿いの房総半島南方沖 (野島崎沖)で、上総国を始め、関東全体で十二ヶ所から出火、被災者約三万七千人と推定される(江戸での損壊被害は比較的軽微であったが、七日後にかなりの大火が発生しており、これは震災後の悪環境下に於ける二次災害ととることが可能である。また、この地震で三浦半島突端が一・七メートル、房総半島突端が三・四メートルも隆起している。ここは当該ウィキに拠った)と海蝕により、現在の姿になった(以上は当該ウィキに拠った)。
「五丁」五百四十五・四五メートル。
「六丁」六百五十四・五四メートル。
「十丁」約一キロ九十一メートル。
「みな、海邊より半里、一里、のきて、山を隔て、林をかたどりて、住居せり」現在の太東岬の丘陵の西後背地の、千葉県いすみ市岬町(みさきちょう)和泉(いずみ)だけでなく、その北方の岬町中原、及び、その西の岬町椎木(しいぎ)、そしてそれらの南方の内陸地の岬町内の殆んどが、太平洋からの風波を避けることが出来る自然丘陵によって保護されていることが判る(総てグーグル・マップ・データ航空写真)。
『その大東崎に、「音づれ山」と云有。「夫木抄」に載たる和歌の名所也。山は、大ならず、海より、五、六町、陸にあり。はげ山にて、岸に松、數株、生じ有、海にむかひたる、片つら、かけおちて、洞のやうに、へこみて有、此陰に居て、聞ときは、はるかに、鐘をつくやうに聞ゆる音、絕えず。「是は、海岸の山、うつろなる、おほきゆゑ、穴へ、波のうち入ときは、鐘のやうに聞ゆる。」と、いへり。』国立国会図書館デジタルコレクションの『房総叢書』第六巻「地誌其一」(昭和一六(一九三一)年紀元二千六百年記念房総叢書刊行会刊)を見ると、冒頭の第二項に、
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一、荻原より一里許北に當り、妙樂寺村と云所あり。山の嶺に狼臺・だいだいくぼ・人見坂など云。此地より東を望ば、泉浦の大東崎(たいとうがさき)・白井村の一本松・高松村の旅建山・硯村の高坂など、百山眼下に見ゆ。甚佳景の地なり。
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とあるが、ここに書かれた内容とは、地理的に全く一致するものは、全くない。さらに、見たところ、ここに、
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一、同郡矢田村に音信山光明寺と云台刹あり。寺領十五石。上總五ケ寺の其一。後の山を音信(おとづれ)山と云。夫木集の歌に、「時鳥尋ネ來つれば今こそは音信山のかひに鳴クなれ」とよみしは此地のこと也。彼土今に五月の候に至りぬれば、時鳥多く飛鳴すと。夷隅・長柄の二郡などには絕てなきこと也。
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とあるのだが、千葉県市原市矢田がそこであるなら、全然、方向違いである(「今昔マップ」のこの戦前の地図の中央)。津村の何らかの誤認があるか。なお、「日文研」の「和歌データベース」の「夫木和歌抄」で調べると、この一首は、ガイド・ナンバー「08255」で、
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ほとときす-たつねきたれは-いまこそは-をとくれやまの-かひになくなれ
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となっていて、「おとつれやま」ではない。これ以上は、探索不能である。
『東坡居士のいへる、もろこしの「石鐘山」の事』蘇軾(東坡)の「石鐘」は蘇東披の「石鐘山記」という文を指す。個人ブログ「中国武術雑記帳 by zigzagmax」の「蘇東披『石鐘山記』」に原文と梗概が記されてある。石鐘山は鄱陽湖と長江の合流点にある海抜五十四メートルの岩山で、その形が鐘の形をしており、しかもそこの石を敲くと金属音がすることから、この名がついたという。]