梅崎春生「つむじ風」(その16) 「いなびかり」
[やぶちゃん注:本篇の初出・底本・凡例その他は初回を見られたい。なお、文中の「□」の太字は実際の太字であって、傍点ではない。]
い な び か り
浅利家の茶の間で、今しも浅利圭介は夕飯を食べ終え、両手をたかだかと差し上げ、大きな伸びをした。
「ううん。よく食べた。やはり働くと、食欲が出るな」
そして圭介は指を折って、日数を勘定した。
「今日で十二日目か。月日の経つのは早いものだなあ」
「そうだわねえ」
ランコは相槌を打って、圭介のために熱い茶をいれた。やっと亭主が仕事にありつき、毎日せっせと通っているものだから、ランコも割と機嫌がいいのである。
「それで、今日のお客の入りはどうだったの?」
「あまりかんばしくない」
圭介は両手を交互にふって、自分の肩をたたいた。それを見てランコは、縫物を膝からおろし、圭介の背中に廻った。圭介は神妙に坐り直し、ランコの揉(も)むままにさせた。
「将棋盤じゃ、やはりダメなのね」
「うん。泉湯のやつは、テレビを持ってるからねえ。今日も僕は猿沢さんに話したんだが、テレビに対抗するには、やはりテレビ以外にはないんじゃないか」
「だってテレビは高いでしょ?」
「うん。そこが悩みのたねなんだ。何かおばはんにいい考えはないかな」
「ないこともないわ」
「どんな考えだね?」
「クイズよ」
「クイズ?」
「そう。クイズを壁に貼り出して、正解者の中から抽選で五名様に、一ヵ月通用の無料入湯パスを差し上げるのよ」
「うん。それは名案だ」
圭介はぽんと膝をたたいた。
「クイズブームだから、こいつは当るに違いない。さすがはおばはんだ」
「おっさんがひとつ文案を練ってみたらどう?」
「うん。やってみるか」
ランコは圭介の肩から離れ、戸棚から紙と鉛筆を持ってきた。圭介は畳に腹這(ば)いとなり、髪をかきむしったり、せきばらいをしたりして、長考に入った。
部屋のすみでは、長男の圭一がすやすやと寝息を立てている。その蒲団をランコはちょっと直してやり、チャブ台の食器類を台所に運び、すっかり洗って食器棚にしまい、後片付けをして茶の間に戻ってくると、圭介はごそごそと起き直った。
「出来たよ」
「どれどれ」
圭介が差し出した紙に、ランコは視線をおとした。次のように書いてあった。
三吉湯は設備も新しいしサービスもいいしお湯も
きれいだところが近所の泉湯は建物は古いしサー
ビスも悪いしお湯の中には大腸菌がウヨウヨだか
ら本当の風呂好きは泉湯には行かず三吉湯に入る。
「なかなかうまいわねえ」
ランコは一応感心した。
「でも、泉湯なんて、実名を出していいの。文句を言って来ないかしら?」
「いや、大丈夫だ」
圭介は得意げに答えた。
「そこは虫食いで□湯となるんだから、泉湯でも文句のつけようはあるまい」
「うん。そいつは面白いな」
猿沢家の三畳の私室で、猿沢三吉はぽんと膝を打った。
「で、賞金はどのくらい出すんだね。あんまり沢山では困るよ」
「正解者から抽選して、五名様に限り、向う一ヵ月間の無料入浴パスを差し上げる、というのはどうでしょう」
ランコから教わったくせに、自分で考案したんだという得意げな表情で、圭介は答えた。
「もう文案はつくってあります」
「どれどれ、見せなさい」
三吉は太った膝を乗り出した。圭介は内ポケットから紙片を取り出し、三吉に手交[やぶちゃん注:「しゅこう」。手渡こと。]した。三吉はそれを読み、痛快げにぽんぽんと膝を連打した。
「まったくそうだ。泉湯なんか古ぼけて、お湯も汚ないからなあ。それを、こともあろうに、テレビなんかでごまかそうとしやがって」
「では、早速書きましょうか。大きな紙はありますか?」
「うん。一子(かずこ)が持ってるかも知れない」
三吉は立ち上って廊下に出、大きな声を出した。
「一子。一子」
「はあい」
三吉はそのままとことこと子供部屋の方に歩いた。私室に残された圭介は、机から硯箱を畳におろし、せっせと墨をすりだした。しばらくして三吉が、廊下から姿をあらわし、声をかけた。
「ここでは狭いから、茶の間に行こう。三軒で、男湯女湯で、六枚書かねばならんから、一子にも手伝わせることにした」
「そうですか」
圭介は硯箱を捧げ待ち、三吉につづいて廊下に出た。
茶の間では一子が、いくぶんふくれっ面で、床柱によりかかり、脚を投げ出していた。
「一体何を手伝えと言うの?」
一子はふてくされた声で言った。
「あたし、出かける用事があるのよ」
「ちょっとやれば済むんだ。少しはうちの手伝いぐらいはしなさい」
三吉はたしなめた。
「この紙にクイズを書き込むんだよ」
「クイズ?」
「そうだ。これを三吉湯の壁に貼り出して、正解者には一カ月無料入湯パスを出すんだ。一人あたり二枚ずつ書けばいい。文案はここにある。傍点をつけた部分を伏せるんだ」
三吉は文案をチャブ台にふわりと乗せた。一子は脚を引込め、ごそごそと膝行し、文案をのぞき込んだ。
「まあ、呆れた!」
読み終えて、一子は嘆声を発した。
「なんて。バカバカしい!」
「バカバカしいことがありますか!」
三吉は憤然として、声を荒くした。
「泉湯の野郎は、協定を違反して、テレビを置いたんだぞ。こちらも黙っておれるか!」
「でも――」
「でもではありません」
三吉は娘をにらみつけた。
「泉湯のテレビのおかげで、うちのお客はずいぶん取られたんだよ。うかうかすると、お前たちだって、オマンマの食い上げになるかも知れない。それでもいいのか!」
クイズ戦術は、成功した。
三軒の三吉湯の男湯と女湯に、筆書きの三吉グラムが、れいれいしく貼り出された。
[やぶちゃん注:「グラム」接尾辞“-gram” であろう。ギリシア語の「書く」からの派生で「点・線・図形などで、書かれた文字、描かれた絵」、転じて、「手紙」・「作品」を意味する語ギリシャ語の由来とするもので(ラテン文字転写:gramma)、英語の“grammar”(「文法」)の語源である(ウィキの「グラム(曖昧さ回避)」に拠った)。]
第一回三吉グラム
三□湯は□備も□しいしサービスもいいしお□も
きれいだところが□所の□湯は建□は古いしサー
ビスも□いしお□の中には大□菌がウヨウヨだか
ら本□の風□好きは□湯には行かず三吉□に入る。
そのあとに応募規定として、
賞品 正解者ハ抽選ニテ五名様ニ一ヵ月有効ノ無
料入湯パスヲ差シ上ゲマス。
応募用紙 三吉湯十回回数券ヲオ求メノ方二用紙
一枚差シ上ゲマス。用紙一枚ニツキ答ハ一ツシカ
書ケマセン。
締切 今月末。
審査 クイズ解答原文ハ三吉湯主人猿沢三吉、同
支配人浅利圭介ニヨリ、三吉湯金庫ニ厳重保管。
コノ原文ニ合致シタ解答ヲ正解トシマス。
三吉湯家族、オヨビソノ従業員ハ応募ヲ遠慮シテ
下サイ。
三吉湯主人識
第一日だけで、三吉湯の十回回数券の売行きは、二百を越えた。二日目も百五十を越え、三日目も百台を保持した。
噂を聞きつけてはせ参じる者もあり、また一人で何冊も買うのもいて、番台上の三吉はともすると頰がくずれ、にやにや笑いがとまらなかった。
回数券を買った者は、必ず日に一度、時には二度三度と入浴するし、また何冊も買い占めたものは、処置に困ってあちこちに分けて歩くらしく、三吉湯は三軒とも常時満員の状況で、浴槽も満員だし、板の間も満員、着物を着るのも忘れて、三吉グラムに首を傾けている。
「浅利君。ウナギでも食べに行こうや」
三日目の昼、猿沢三吉は浅利圭介をさそった。嬉しいことがあると、あぶらっぽいものを食べたくなる癖が、三吉にはあるのである。
「そうですな。お伴しましょう」
圭介をつれて、三吉はウナギ屋の二階に押し上った。れいの陣太郎から絞[やぶちゃん注:「しぼ」。]られた二階の一室である。
「今日も回数券の売行きは、百冊を越しそうだよ」
おしぼりでにやにや顔を拭きながら、三吉は言った。
「一冊が百五十円だから、百冊だと一万五千円だな。毎日これぐらいの収入があると、第四・三吉湯もすぐに建つんだがなあ」
新築の方は、金繰りがうまく行かないので、建ちかけたままになっているのである。
「来月も是非やろうじゃないか」
「そうですな」
圭介もおしぼりで顔を拭いた。
「第二回から、もう少し賞品を奮発した方がいいでしょう」
「うん。わしもそう思ってたところだ。賞品をもっと金目なものにするか。それとも抽選の五名様を殖(ふ)やすか」
「どちらがいいか僕のほうでもよく研究してみましょう」
圭介は参謀のような口をきいた。
「これで泉湯の方も、少々打撃を受けたでしょうな」
「うん。そこがわしも知りたいところだ」
三吉は圭介に盃をさした。
「君、ひとつお客のふりをして、泉湯に行き、様子を探ってきて呉れないか」
泉宅の茶の間で、おやじの恵之助と息子の竜之助は、チャブ台に向い合って、昼飯を食べていた。米麦半分の麦飯で、おかずはれいによって、メザシと梅干だけ。恵之助老はそうでもないが、竜之助の方は実に不味(まず)そうに飯をかっこみ、おかずをつついていた。
「おいおい。その梅干の食べ方は何だ」
あまり不味そうな食い方をするので、見るに見かねて、恵之助はたしなめた。
「だって、梅干って、すっぱいんだもの」
「梅干というからには、すっぱいに決っている」
恵之助はきめつけた。
「この梅干はだな、ただの梅干とは違うんだぞ。わざわざ小田原の下曽我の友人から取り寄せたんだ。そこらの店で売っているのと、いっしょにされては困る」
「いくら下皆我産だって、梅干は梅干だよ」
「あたりまえだ。この梅干を舐めて元気をつけて、頑張るんだ」
そして恵之助は話頭を転じた。
「どうもこの二三日、お客の入りがごっそり減ったようだが、どういうわけだろう。空気が乾燥しているせいかな」
竜之助は顔をそむけるようにして、ごそごそと飯をかっこんだ。その態度を恵之助はいぶかしげに見た。
「おい。竜之助。お前はわしに何かかくしごとをしているな」
「空気の乾燥のせいじゃないんだよ」
見破られたので、竜之助は余儀なく白状した。
「クイズのせいなんだよ」
「クイズ? いくらクイズが流行したって、風呂屋が暇になることはなかろう」
「そうじゃないんだよ。三吉湯でクイズを貼り出したんだよ。当った人には一ヵ月の無料人湯パスを出すんだって」
竜之助は気の毒そうに父親を見た。
「だから三吉湯は三軒とも、押すな押すなの繁昌だってさ」
「ううん。やりやがったな」
恵之助は思わず箸を取り落し、額の血管をもりもりと怒張させた。
「クイズを貼り出すだけでも、申し合せ違反なのに、賞品まで出すとは何ごとだ。あの山猿め。そしでそれは、どんなクイズなんだ?」
「三吉グラムというんだそうだよ」
「三吉グラム? 名前からして猿真似(まね)だ。そして、その文章は?」
「僕、見てないから、知らないよ」
「よし。飯がすんだら、すぐ行って偵察(ていさつ)して来い。全文を書き写して来い」
「そりゃあムリだよ。お父さん」
竜之助は悲鳴に似た声を出した。
「この間偵察に行って、将棋の駒をちょろまかして来たばかりじゃないの。僕が犯人だということを、向うではうすうす勘づいているらしいよ」
「なんだい。王様の一つや二つ持って来たからって、尻ごみなんかしやがって」
そして恵之助は茶碗を置き、腰を浮かせた。
「お前がイヤなら、わしが行って来る」
「お、お父さん。それは止めて下さい」
竜之助は猿臂(えんぴ)を伸ばして、恵之助に取りすがった。
「お父さんが行くくらいなら、僕が行きますよ」
「そうか」
重盛にいさめられた清盛みたいな表情で、恵之助は腰を元に戻した。
石鹸箱を小脇にかかえ、タオルを頭からかぶり、泉心之助は実に情なさそうな表情で、三吉湯ののれんをくぐった。タオルをかぶったのは、自分の顔を見られまいとの配慮からであろう。
「回数券一冊お願いします」
「はい。毎度ありい」
番合の上で答えたのは、浅利圭介であった。このひょろ長い青年が、まさか泉湯の息子とは知らないものだから、圭介の応対はしごく愛想がよかった。
「はい。解答用紙一枚おそえしますよ」
竜之助は回数券と解答用紙を受け取った。解答用紙はガリ版で印刷され、偽造をふせぐつもりであろう、肩のところに『猿沢三吉』というハンコが、ぺたりと押してあった。竜之助はそれを持って、板の間に上った。
「ずいぶん混んでやがるな」
タオルはそのまま、衣類を脱ぎながら、竜之助はつぶやいた。脱衣を完了すると、ひょろひょろした特徴のある身体があらわれる。衣類能を整理していた板の間女中の眼が、ぎろりと光って、その竜之助をにらみつけた。それとか知らぬ竜之助は、タオルをかぶったまま、浴場に入って行った。浴場もたいへん混んでいた。
「あれが泉湯のバカ息子ですよ」
大急ぎで番台にかけ寄り、板の間女中は圭介にささやきながら指差した。
「え? 泉湯のバカ息子?」
圭介は視線をうろうろさせた。
「あのひょろ長いのがそうかね?」
「そうですよ。それにあめバカ息子は、どうも手癖が悪いらしい」
女中さんは憎々しげに舌打ちをした。
「この問、将棋の駒がなくなったでしょ。あれはきっとあのバカ息子の仕業ですよ。あたしゃそれで、大且那様に、ひどく叱られましたよ」
「手癖が悪い? そりゃいかんな」
圭介も低声で注意した。
「何か持って行かれないように、よく見張ってなさい」
「ほんとに、自分んちの風呂に入らずに、三吉湯に入りに来るなんて、どういう了簡(りょうけん)なんでしょうねえ」
「ほんとにそうだねえ。しかも回数券を一冊買ったよ」
「回数券? それじゃきっと、評判を聞いて、クイズを当てるつもりなんですよ」
女中は浴場の方をにらみつけた。
「なんて図々しい奴だろう!」
そんな悪口をされているとも知らず、竜之助はそそくさと身体を拭き、またタオルをかぶって、のそのそと板の間に戻ってきた。まるで烏の行水である。もっとも入湯が目的じゃないのだから、それでもいいのだろう。
「ふん。なかなかの繁昌だな」
袖に手を通しながら、竜之助はあたりを見廻した。
「これじゃあ泉湯の客が減るわけだ」
その竜之助の視線が、女中の眼とぱったり出合った。その女中はすでに番台を離れ、将棋の駒を守るべく、縁台のそばにかけ寄っていた。
竜之助は見る見る具合悪そうな表情となり、かぶったタオルの両端を鼻の下でむすび、泥棒スタイルとなり、大急ぎで衣類を着用した。そそくさと退場する竜之助の後姿を、番台から圭介がにらみつけた。
石鹸箱をかかえ、ぶすっとした恰好で、泉竜之助は自宅に戻ってきた。足音を聞きつけて、親爺の恵之助は玄関に飛び出した。
「おい、どういう具合だった!」
そして恵之助は、息子のタオルに眼をとめて叱りつけた。
「おい。そのぬすっと冠りは止せ!」
「いやんなっちゃったよ、僕」
竜之助は不機嫌にタオルをはずした。
「おかげで散々にらみつけられたよ」
「にらみつけられた? 三吉にか?」
「いいえ。女中さんや、近頃来た支配人にさ」
「支配人? あのぼさっとした中年男か?」
「そうだよ。あれ、浅利圭介ってんだ」
「よくお前は三吉湯の内郎の事情に、すみずみまで通じてるな」
恵之助はうさんくさそうに、息子の顔をじろじろと眺め廻した。
「どこから聞いてくるんだい?」
「ぼ、ぼくは、情報を集めるのが、昔からとてもうまいんだよ」
ひやりと首をすくめながら、竜之助はごまかした。
「それよりか、早く茶の間に行って、クイズを見せて上げよう」
「うん。それがよかろう」
簡単にごまかされて、恵之助は茶の間にとことこと歩いた。
「ううん。なるほど。考えやがったな!」
チャブ合の前で、解答用紙をひろげ、恵之助はうなり声を立てた。
「ちくしょうめ!」
「お父さん。判るんですか?」
「いや。全然判らない」
恵之助は口借しげに舌打ちをした。
「三吉如きがつくったのを判読出来ないなんて、わしははらわたが煮えくりかえる」
「初めのとこはこう読むんですよ。三吉湯は設備も新しいし、サービスもいいし、お湯もきれいだ」
竜之助は差していた指を、ぴょんと飛ばした。
「ここはね。サービスも悪いし、お湯の中には大腸菌がウヨウヨ、と読むんだよ」
「その途中の□所の□湯というのは?」
「上の方は、近所、が適切でしょう」
「なるほど。近所か。お前はなかなかクイズ解きの才能があるな。三吉湯の近所てえと――」
恵之助は腕組みをして首を頰けたが、すぐに腕を解き、顔をまっかにして、拳固を虚空(こくう)につき上げた。
「では、この□湯てえのは、泉湯のことか!」
「出題者の意図は、そうらしいねえ」
竜之助は気の毒そうに、父親の顔を見た。
「房湯や勝湯よりも、泉湯が一番近所だしねえ」
「大腸菌がウヨウヨ、とはなにごとだ。もう勘弁ならぬ!」
恵之助は大声を張り上げた。
「紙と筆とを持って来い!」
「おや。お父さんもクイズをつくるんですか?」
「クイズなんかつくってたまるか。湯銭値下げの貼札を出すんだ」
ふり上げた拳固を、恵之助は威嚇(いかく)的に打ち振った。
「値下げをしたら、三吉も困るだろうと、今まで辛抱したが、もう許して置けないぞ!」
黄昏の道を、泉竜之助はあたりをはばかるようにして、とっとっと歩いていた。曲り角の、半分ほど出来上った新築の三吉湯の前まで来ると、立ち止って、油断なくあたりを見廻した。
「ここよ。竜ちゃん」
材木の山のかげから、忍びやかな女の声がした。
あたりに人眼なきを知ると、竜之助は背を曲げ、まるでイタチのように敏捷に、材木のかげにかけ込んだ。竜之助と猿訳一子(かずこ)はそのまま抱き合って、ひしと接吻した。
「君んちのクイズのことを、うちのおやじが知ったんだよ」
唇を離し、一子の頭髪を愛撫しながら、竜之助は言った。
「だからおやじ、かんかんになって、僕に偵察に行けと命令するんだよ」
「で、行ったの? お父さん、いた?」
「いや。三吉小父さんはいなかった。浅利という人ね、あれが番台に坐ってた」
「じゃあ、竜ちゃん、うちの湯に入ったの?」
「入ったよ。君んちはずいぶん繁昌してんだなあ」
「クイズのせいなのよ」
一子は憂わしげに竜之助を見上げた。
「大人って、どうして詰らないことで、喧嘩をするんでしょうねえ」
「医学が発達し過ぎたせいなんだよ」
竜之助は陣太郎理論を借用した。
「解答用紙をおやじに見せたら、またかんかんに怒ったよ」
「恵之助小父さんに判読出来たの?」
「いや。てんで読めないんだ。だから、僕が解読してやったんだ」
「そんなおせっかいをやるから怒るのよ」
一子は年長の恋人をたしなめた。
「読めなきゃ、それほど怒りもしないわけでしょ」
「うん。ちょいとおせっかいだったかな」
たしなめられて竜之助はしょげた。
「それで、おやじは怒って、とうとう値下げを発表したんだよ」
「え? とうとうやったの?」
「やったよ。湯銭十二円に値下げ仕候と、入口のところに、でかでかと貼り出したよ」
竜之助は哀しげに眉を慄わせた。
「もう明日から、梅干だけで、メザシにも当分お目にかかれないかも知れない」
「可哀そうねえ。竜ちゃん」
竜之助の肩を撫でながら、一子はなぐさめた。頭を撫でたくとも、竜之助の背が高過ぎて、届かないのである。
「いくらなんでも、梅干だけじゃあ、身体がもたないわねえ。恋をするにも、エネルギーは必要だし」
「もっとも陣太郎さんは、早く値下げをした方が、片のつき方が早いと言ってたけどね」
竜之助は自分を慰めるように言った。
「陣太郎さんは、お宅にも行ってるかい?」
「ええ。一週に一回ぐらい、三吉湯に姿を現しているようよ。そしてお父さんに、将棋を教えてるらしいわ」
一子は竜之助の顔を見上げた。
「あたしねえ、どうしてもあの陣太郎という人を、好きになれないの。あの人から見られると、ぞっと鳥肌が立つのよ。なにかイヤな、邪悪なものを、あの人は持ってるわ。そんな人の秘書に竜ちゃんがなってるなんて、あたし、心配だわ」
「僕のどこが心配なんだい?」
そして泉竜之助は背を曲げて、猿沢一子の額に、かるく唇をつけた。
「そう心配しなくてもいいよ」
「心配するわよ」
だだっ子みたいに、一子は身をよじらした。
「だってあの陣太郎という人は、たしかにインチキじみたところがあるわよ。処女の直感でピンと来るわ。あんな人の秘書になって、今までに何か得をしたことがあって?」
「秘書手当を一万円貰ったよ」
そして竜之助は自信なげに首をかしげた。
「あ、あれは、一体、どうするつもりなんだろうなあ」
「あれ、とは何よ?」
「カメラだよ」
竜之助の声はしょんぼりとなった。
「カメラをちょっと貸せというから、貸してやったんだよ。それから半月も経つのに、まだ戻して呉れないんだ」
「そうでしょ。あれはそういう男よ。まあ、きれいないなびかり!」
空をいなびかりがするどく走った。しばらくして、重々しい鳴動音が、空の果てからどろどろと響いてきた。
「お父さんと陣太郎の様子を、こっそり見ていると、どうも具合が変なのよ。うちのお父さんって人は、割に強気な性格でしょう。それが陣太郎に対しては、妙におどおどして、腫(は)れ物にさわるようなのよ。まるで弱味をにぎられてるみたい」
「そう言えば加納明治にだって――」
「え? なに?」
「いや。何でもない」
竜之助はごまかした。加納事件においては、自分も片棒かついだ恰好になっていることが、恋人の手前、うしろめたかったのであろう。
「そう言えば陣太郎さんにも、ちょっと妙なところがあるな」
「たとえばどういうこと?」
「陣太郎さんは自分のことを、花札で言えば、素(す)十六だなんて言ってるんだ。素十六というのは、カス札ばかり十六枚集めた役なんだよ。それを僕が素十五と言い違えると、
とても怒るんだよ」
「十五という役はあるの?」
「ないのさ。一枚足りないんだ。はてな、そうすると、陣太郎さんも、一枚足りないんじゃないか。足りないもんだから、図星をさされて、怒るんじゃないか」
「足りないって、具体的に言うと?」
「さあ。それは僕にも判らない。しかしきっと、決定的なものが、一枚足りないんだ。一枚不足だということを、陣太郎さん自身も知ってるんだ。だから、あんな居直りが出来るんじゃないか」
沈黙が来た。一子は竜之助の胸に顔をうずめ、じっとしていた。
「お互いに、不幸の打開に、努力しよう」
竜之助は背を曲げて、一子の耳にささやいた。
「いつまでも、闇ばかりは、つづかない。そのうちに、きっと夜明けが、やってくる」
「あたしもそれを、信じてるわ」
「僕は今から、陣太郎さんのアパートに行ってくる。おやすみ」
二人の唇はふたたび合った。その頭上を、またいなびかりが走った。
泉竜之助が富士見アパートにたどりついた時は、もう外はすっかり暗くなっていた。地図をたよりに、道を聞き聞きやってきたのだから、思いのほか時間をくったのである。
「ふん。大したアパートでもないな」
管理人に部屋を聞き、竜之助はとことこと階段を登った。便所の横の部屋の前に立ち、扉をこつこつと叩いた。
「誰だ?」
内から陣太郎の声がした。
「僕です。泉竜之助」
「ああ。竜之助君か。はいれ」
竜之助は扉を引いて入った。部屋のまんなかに、小机を前にして、陣太郎はせっせと何か書き物にいそしんでいた。
「いい部屋ですな」
竜之助はあたりを見廻しながらお世辞を言った。部屋の中はがらんとして、荷物と言えばれいのリュックサック、それに壁のハンガーにかけられた真新しい背広、それだけであった。背広の方は、加納明治より受領した十万円で買ったのであろう。
「いい部屋だなんて、皮肉を言うな」
陣太郎はたしなめた。
「見ろ。畳はぼろぼろだし、窓ガラスもつぎはぎだらけじやないか!」
つぎはぎの窓ガラスの向うに夜空が見え、その夜空を音もなく、いなびかりが一本走っては消えた。
「一体何の用事だい。報告か。このアパート、直ぐに判ったか?」
「ずいぶん探しましたよ」
小机をはさみ、陣太郎に向い合って、竜之助はあぐらをかいた。
「報告もありますが、実はカメラを返して貰いたいんですよ」
「カメラ?」
陣太郎はちょっと困感したように、視線をうろうろさせた。
「あのカメラ、要るのか?」
「要るんですよ。僕だって、いろいろ撮りたいものがある。コンクールの日も近づいているし」
「よし。四五日中に戻してやる。ケチケチするな。あのカメラ、いくらした?」
「五万円ですよ」
竜之助は若干ふくれっ面になった。
「ここに置いてないんですか?」
「うん。ここに置いとくと、盗まれる心配があるからな。確実な某所に預けてある。で、報告とは、何だ。何か変ったことでもおきたか?」
「とうとうおやじが、湯銭の値下げを発表したんですよ」
「とうとうやったか。そう来なくちゃウソだ!」
我が意を得たとばかり、陣太郎はぽんと膝をたたいた。
「そしてその値下げのこと、三吉親爺に知れたか?」
「発表は今日の昼間のことですからねえ。もう知れ渡ってるでしょう」
「では三吉も、今頃はあわてふためいているな。いよいよ面白くなってきた」
陣太郎はげらげらと笑った。
「では今から、何時もの如くヤキトリに出かけるか。君の秘書手当、まだ残ってるだろうな」
「え? 陣太郎さんは、もう一文なしになってしまったんですか」
「うん」
陣太郎はにこやかにうなずいた。
陣太郎と竜之助はつれだって、ヤキトリキャバレーに入って行った。
ヤキトリが運ばれでくると、れいによってたちまち竜之助の眼の色が変る。もう条件反射みたいになっているのである。梅干をおかずに、夕飯をたらふく食べて満腹の筈なのだが、眼の色の方で自然と変るのだから、仕方がない。
「がつがつは止せ!」
陣太郎のその制止も聞かず、竜之助は猿臂(えんぴ)を伸ばし、またたく間に七八本を平らげ、お腹をなでながら、ふうと溜息をついた。
「まるで欠食児童だな」
ハイボールを傾けながら、陣太郎は批評した。
「おれを見なさい。おれは一文なしだが、こうやって悠々と飲んでいる」
「本当に一文なしなんですか?」
竜之助は眼をぱちくりさせた。
「加納明治から捲き上げた十万円は、どうしたんです?」
「捲き上げたなんて、体裁の悪いことを言うな。あれは正当の報酬だ」
陣太郎はたしなめた。
「あれはもう使ってしまったよ」
「え? まだあれから半月も経たないのに十万円使っちまったんですか。一体何に使ったんです?」
「洋服を一着買ったし、君に秘書手当を払ったし――」
「それだけですか?」
「うん。それに近頃、おれにガールフレンドが出来てね、いろいろと金が要るんだよ」
「いくらガールフレンドが出来たって、その使い方はムチャですよ」
竜之助は嘆息した。
「文無しで、今から一体どうするつもりです? 本邸に戻るんですか?」
「戻るもんか。も一度加納明治に頼んでみる。おれはどうしても彼から二十万円、つまりあと十万円貰う権利があるんだ」
「れいのネガでですか?」
「そうだ。ここにネガと、焼付けが一枚ある」
陣太郎は内ポケットから、封筒を取出した。
「君。明日これを加納邸に持って行き、十万円と引替えて来い。あいつは直ぐ半額に値切るくせがあるから、用心するんだぞ」
「じょ、じょうだんじゃありませんよ。僕にそんなことが出来るもんですか」
「そうか。十万円口[やぶちゃん注:「ぐち」。]はまだ君にはムリかも知れないな。今度小口の時に、君にやらせることにしよう」
陣太郎は封筒を内ポケットにしまった。
「やはりおれが行くことになったか」
「今度は三吉湯が三軒とも、十二円に値下げして来たら、どうしたらいいでしょうねえ」
竜之助は話題をかえた。
「それはかんたんだ。君んとこを十円に下げればいい」
「そんなムチャな。今でさえ梅干オンリーなのに、十円にしたら、空気をぱくぱく食べる他はないですよ」
悲鳴に似た声を竜之助は出した。
「うちもグイズを出したら、どうでしょうねえ。ひとつつくって呉れませんか」
「クイズか。うん」
陣太郎は腕を組んだ。
「つくってやってもいいな。よし。最後の切札みたいなやつを、つくってやろうか」
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