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2023/07/29

南方閑話 「人柱の話」(完全原文そのままの電子化で注も一部を除き附さない)

[やぶちゃん注: 「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。画像もそこからトリミングした(その都度、引用元を示す)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。今回分はここから。

 なお、私は、本「人柱の話」は、発展的決定稿としてのそれである

「續南方隨筆」版をブログ版で全六回で完遂

しており、それ以外に、先行して、古くに

「選集」版を底本にしたサイト版「人柱の話」(新字新仮名)を電子化しており(「徳川家と外国医者」とのカップリング版)

を、さらには、

『「人柱の話」(上)・(下) 南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』

も、その後に電子化している。その関係上、この際、初期決定稿の一つとして、本書のものも電子化することで、南方熊楠の「人柱の話」思考過程の全貌を見渡せるものとしたく思い、性懲りもなく電子化注することとした。

 但し、本篇の場合は、以上の通りで、特に「續南方隨筆」版のブログ版(六分割)で、さんざん、読みや注を附した関係上、特異的に、今回は、読みの追加や記号挿入、さらには、注等は一切附さず、原本に忠実に電子化して、他と本書で単行本初出となった同論文と、以上の後発版との差異を明確に示しておくこととする。但し、踊り字「〱」は生理的に厭なので、正字或いは「々」とした。これは、結果して、南方熊楠の文章が如何に読み難いかをはっきりと示すことにもなるであろう。ママ注記も、原則、打たない。但し、今回、再々読してみて、明らかに躓く(違和感がある)箇所には例外として注を入れた)。歴史的仮名遣や、漢字の誤記は勿論、書誌情報の記載等にいささか不審な部分があったりするのだが、それらも、無批判にそのままとしてある。されば、不審箇所は、決定稿であるブログ版(六分割)の本文及び私の注、或いは読みは編者によって補訂された「人柱の話」(新字新仮名)で、概ねは、明白になる。それらでも不審な箇所は、初出に当ってみる以外に方はないのだが、初出誌(大正十四年九月『變態心理』十六巻三号)はネット上では視認出来ないので、不可能である。悪しからず。

 なお、人柱を近世以前のものと勘違いしている人のために、私のブログの、

「明治6年横浜弁天橋の人柱」

をリンクさせておく。

 最後に、その代り、ブログ版が終わった後、本篇を「人柱の話」縦書PDF版として成形することとする。過去のものは総て横書だからである。

 

      人 柱 の 話

 

        

 建築土工等を固めるため人柱を立てる事は、今も或る蕃族に行なはれ其傳說や古蹟は文明諸國に少なからぬ。例せば印度の土蕃が現時も之を行なふ由時々新聞にみえ、ボムパスのサンタルパーガナス口碑集に王が婿の强きを忌んで、畜類を供えても水が湧かぬ涸池の中に乘馬のまゝ婿を立せると流石は勇士で、水が湧いても退かず、馬の膝迄きた、吾が膝まできた、背迄きたと唄ひ乍ら、彌々水に沒した。其跡を追つて妻も亦其池に沈んだ話がある。源平盛衰記にも又淸盛が經の島を築く時白馬白鞍に童を一人のせて人柱に入れたとあれば乘馬の儘の人柱も有つたらしい。但し平家物語には、人柱を立てようと議したが罪業を畏れ一切經を石の面に書いて築いたから經の島と名づけたとある。

[やぶちゃん注:以下、行空けの前までは、底本では、全体が一字下げである。これは南方熊楠がよくやる、前の文章に対する附記であることを意味する。]

 今少し印度の例を擧げると、マドラスの一砦は建築の時娘一人を壁に築き込んだ。チユナールの一橋は何度かけても落ちたから、梵種の娘を其地神に牲にし、其れがマリー乃ち其處の靈と成り凶事ある每に祭られる。カーチアワールでは城を築いたり塔が傾いたり池を掘るも水が溜らぬ時人を牲にした。シカンダールブール砦を立てた時梵種一人とズサード族の娘一人を牲にした。ボムペイのワダラ池に水が溜らなんだ時村長の娘を牲にして水が溜つた。シヨルマツト砦建立の際一方の壁が繰返し落ちたので或初生の兒を生埋すると最早落ちなんだといふ。近頃も人口調査を行ふ每に僻地の民は是は橋等の人柱に立てる人を撰ぶ爲めだと騷ぎ立つ。河畔の村人は橋が架けらるゝ每に嬰兒を人柱に取られると驚惶する(一八九六年板、クルツクの北印度俗宗及俚俗二卷頁一四。一九一六年板ホワイトヘツド南印度村神誌六〇頁六)。パンジヤブのシアルコツト砦を築くに東南の稜堡が幾度も崩れたので、占者の言に據り寡婦の獨り子の男兒を牲にした。ビルマにはマンダレイの諸門の下に人牲を埋めて守護とし、タツン砦下に一勇士の屍を分ち埋めて其砦を難攻不落にし、甚しきは土堤を固めん爲め皇后を池に沈めた。一七八〇年頃タヴオイ市が創立された時、諸門を建るに一柱每の穴に罪囚一人を入れ、上より柱を突込んだ故四方へ鮮血が飛び散つた。其靈が不斷其柱の邊にさまよひ近付く者を害するより全市を無事にすと信ぜられたのだ(タイラー原始人文篇、二板一卷、一〇七頁。バルフオール印度百科全書三板四七八頁)

 

 支那には春秋時代吳王闔閭の女藤王がすてきな癇癪持ちで、王が食ひ殘した魚をくれたと怒つて自殺した。王之を痛み、大きな冢を作って、金鼎玉杯銀樽等の寶と共に葬り、又吳の市中に白鶴を舞はし萬民が觀に來たところ、其男女をして鶴と共に家の門に入らしめ機を發して掩殺した(吳越春秋二。越絕書二)。生を殺して以て死に送る國人之を非とするとあるから無理に殉殺したのだが、多少は冢を堅固にする意も有つたらう。史記の滑稽列傳に見えた魏の文侯の時、鄴の巫が好女を撰んで河伯の妻として水に沈め洪水の豫防としたは事頗る人柱に近い。ずつと後に唐の郭子儀が河中を鎭した時、水患を止めて吳れたら自分の娘を妻に奉ると河伯に禱ると水が退いた。扨程なく其娘が疾ひなしに死んだ。其骨で人形を作り廟に祀つた。所の者子儀を德とし之を祠り河瀆親家翁乃ち河神の舅さまと名づけた。現に水に沈めずとも水神に祀られた女は久しからぬ内に死すると信じたのだ。又漢の武帝は黃河の水が瓠子の堤防を切つた時、卒數萬人を發して之を塞がしめたのみか、自ら臨んで白馬玉璧を堤の切れた處に置かしめたが奏功せず。漢の王尊東郡太守たりし時も此堤が切れた。尊自ら更民を率ひ白馬を沈め珪璧を執り巫をして祝し請はしめ自身を其堤に埋めんとした。至つて貴い白馬や玉璧を人柱代りに入れてもきかぬ故太守自ら人柱に立たんとした。本邦にも、經の島人柱の外に陸中の松崎村で白馬に乘つた男を人柱にし、その妻ともに水死した話がある(人類學雜誌三三卷一號、伊能嘉矩君の說)。江州淺井郡の馬川は洪水の時白馬現じて往來人を惱ます。是は本文に述べた白馬に人を乘せ、若くは白馬を人の代りに沈めた故事が忘れられて馬の幽靈てふ迷信ばかり殘つたと見える。其から大夏の赫連勃々が叱干阿利をして城を築かしめると、此者工事は上手だが至つて殘忍で土を蒸して城を築き、錐でもみためして一寸入ればすぐ其處の擔當者を殺し、其屍を築き込んだ。かくて築き立てた寧夏城は鐵石程堅く、明の哱拜の亂に官軍が三月餘り圍んで水攻め迄したが内變なき間は拔けなんだ。アイユランドのバリポールトリー城をデーン人が建た時、四方から工夫を集め日夜休みなし物食はずに苦役せしめ、仆るれば壁上に其體をなげかけ其上に壁を築かしめた。後ち土民がデーン人を追拂ふた時、此城が最後に落ち父子三人のみ生きて囚はれた。一同直ちに殺さうと言つたが一人勸めて之を助命し、其代りアイリツシユ人が常に羨やむデーン人特長のヘザー木から美酒を造る祕訣を傳へよと言ふた。初めは中々聽き入れなんだが、とうとう承引して、去らば傳えへよう、だが吾れ歸國して後ち此事が泄れたら屹度殺さるゝから只今眼前に此二子を殺せ、其上で祕訣を語らうと述べた。變な望みだが一向こつちに損の行かぬ事と其二子を殺すと、老父、「阿房共め、吾二子年若くて汝等に說かれて心動き、どうやら秘訣を授けさうだから殺させた、もはや秘訣は大丈夫洩るゝ氣遣ひがないわい」と大見得を切つたのでアイリツシユ人大いに怒り其老人を寸斷したが造酒の秘法は今に傳はらぬさうだ。是等は人屍を築き込むと城が堅固だと明記はし居らぬが、左樣信じたればこそ築き込んだのだ。其信念が堅かつたに由つて、極めてよく籠城したのだ(琅邪代酔編三三。史記河渠書。淵鑑類凾三六、三四〇及四三三。近江輿地誌略八五。五雜俎四。一八五九年板、ノーツ・エンド・キーリース撰抄。一〇一頁)。予が在英中親交したロバート・ダグラス男がユツ・ヘア・ケてふ占ひ書から譯した文をタイラーの原始人文篇、二板一卷一〇七頁に引いたが「大工が家を建て初めるに、先づ近處の地と木との神に牲を供ふべし。其家が倒れぬ樣と願はゞ、柱を立てるに何か活きた物を下におき其上に柱を下す。扨邪氣を除く爲め斧で柱を打ちつゝよしよし此内に住む人々は每も溫かで食事足るべしと唱へる」とある。

 

        

 日本で最も名高いのは、例の「物をいふまい物ゆた故に、父は長柄の人柱」で、姑く和漢三才圖會に從ふと、初めて此橋を架けた時水神の爲に人柱を入れねば成らぬと關を垂水村に構へて人を捕へんとす。そこへ同村の岩氏某がきて人柱に使ふ人を袴につぎあるものときめよと差いでた。所が、さういふ汝こそ袴につぎがあるでは無いかと捕はれて忽ち人柱にされた。其弔ひに大願寺を立てた。岩民の娘は河内の禁野の里に嫁したが、口は禍ひの本と父に懲りて啞で押通した。夫は幾世死ぬよの睦言も聞かず、姿有つて媚無きは人形同然と飽き果て送り返す途中交野の辻で雉の鳴くを聞き射にかゝると駕の内から妻が朗らかに「物いはじ父は長柄の人柱、鳴ずば雉も射られざらまし」とよんだ。そんな美聲を持ちながら今迄俺獨り浪語させたと憤る内にも大悅びで伴返り、それより大聲揚げて累祖の位牌の覆へるも構はずふざけ通した慶事の紀念に雉子塚を築き杉を三本植付けたのが現存すてな事だ。この類話が外國にも有り埃及王ブーシーリスの世に九年の飢饉あり、キプルス人フラシウス每年外國生れの者一人を牲にしたらよいと勸めたところが、自分が外國生れ故イの一番に殺された由(スミスの希羅人傳神誌名彙卷一)。左傳に賈大夫が娶つた美妻が言はず笑はず、雉を射取つて見せると忽ち物いひ笑ふたとある(昭公二十八年)

[やぶちゃん注:以下の一段落は先と同じく、全体が一字下げである。]

 攝陽群談一二に嵯峨の弘仁三年六月岩氏人柱に立つたと見え、卷八に其娘名は光照前、美容世に勝れて紅顏朝日を嘲るばかり也とある。今一つ類話はルマニアの古い唄に大工棟梁マヌリ或る建築に取懸る前夜夢の告げに其成就を欲せば明朝一番に其場へ來る女を人柱にせよと、扨明朝一番に來合せたはマヌリの妻だつたので之を人柱に立てたと云ふのだ(一八八九年板ジヨーンスとクロツプのマジヤール俚譚、三七七頁)

 大正十四年六月二十五日大阪每日新聞に誰かゞ橋や築城に人柱は聞かぬといふ樣に書かれたが、井林廣政氏から曾て伊豫大洲の城は立てる時お龜てふ女を人柱にしたのでお龜城と名づくと聞いた。此人は大洲生れの士族なれば虛傳でも無からう。

[やぶちゃん注:以下の一段落は先と同じく、全体が一字下げである。]

 橫田傳松氏よりの來示に大洲城を龜の域と呼んだのは後世で、古くは比地の城と唱へた。最初築いた時下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽籤で人柱に立てるに決し、オヒヂと名づくる娘が中つて生埋され、其より崩るゝ事無し。東宇和郡多田村關地の池もオセキてふ女を人柱に入れた傳說ありと。氏は郡誌を編んだ人ときくから特に書付けて置く。

 淸水兵三君說(高木敏雄氏の日本傳說集に載す)には、雲州松江城を堀尾氏が築く時成功せず、每晚其邊を美聲で唄ひ通る娘を人柱にした。今も普門院寺の傍を東北を謠ひながら通れば必ず其娘出て泣くと。是は、其娘を弔ふた寺で東北を謠ふ最中を捕はつたとでもいふ譯であらう。現に予の宅の近所の邸に大きな垂技松[やぶちゃん注:「垂枝松」の誤記或いは誤植。]あり、其下を夜更けて八島を謠ふて通ると幽公がでる。昔し其邸の主人が盲法師に藝させ八島を謠ふ所を試し切りにした其幽じるしの由。いやですぜいやですぜ。

[やぶちゃん注:以下の一段落は先と同じく、全体が一字下げである。]

 英蘭とスコツトランドの境部諸州の俗信に、パウリーヌダンターは古城砦鐘樓土牢等にある怪で、不斷亞麻を打ち石臼で麥をつく樣の音を出す。其音が例より長く又高く聞ゆる時其所の主人が死又は不幸にあふ。昔しピクト人は是等の建物を作つた時土臺に人血を濺いだから殺された輩が形を現ずると。後には人の代りに畜類を生埋して寺を强固にするのが基督敎國に行はれた。英國で犬又は豚、瑞典で綿羊抔で、何れも其靈が墓場を守ると信じた(一八七九年板、ヘンダーソンの北英諸州俚俗二七四頁)。甲子夜話の大坂城内に現ずる山伏、老媼茶話の猪苗代城の龜姬、島原城の大女、姬路城天守の貴女等築城の人柱に立つた女の靈が上に引いた印度のマリー同然所謂ヌシと成りて其城を鎭守した者らしい。ヌシの事は末段に述ぶる。

 

        

 五月十八日(大正十四年)薨ぜられた德川賴倫候は屢ば揮毫に※[やぶちゃん注:「※」は「グリフウィキ」のこの字。音「テイ・ダイ」、意味は「臥す・臥せる」及び「虎の寝息」。]、城倫と署せられた。和歌山域を虎臥山竹垣域といふ所へ漢の名臣第五倫といふのと音が似た故の事と思ふ[やぶちゃん注:句点なしはママ。]そんな六かしい字は印刷に困ると諫言せうと思ふたが口から出なんだ。是もお虎てふ女を人柱にしたよりの山號とか幼時古老に聞いて面白からずと考へたによる。扨家光將軍の時日本に在つた蘭人フランシス・カロンの記に、諸侯が城壁を築く時多少の臣民が礎として壁下に敷かれんと願ひ出ることあり。自から好んで敷殺された人の上に建てた壁は損ぜぬと信ずるからで、其人許可を得て礎の下に掘つた穴に自ら橫はるを重い石を下して碎き潰さる。但しかゝる志願者は平素苦役に飽果てた奴隷だから、望みのない世に永らへるより死ぬがましてふ料簡でするのかもしれぬと(一八一一年板、ピンカートン水陸旅行全集七卷六二三頁)

 

 ベーリング・グールドの「奇態な遺風」に、蒙昧の人間が數本の杭に皮を張つた小屋をそここゝ持ち步いて暫し假住居した時代は建築に深く注意をせなんだが世が進んで礎をすえ土臺を築くとなれば、建築の方則を知ること淺きより屢々壁崩れ柱傾くをみて地神の不機嫌故と心得、恐懼の餘り地の幾分を占め用ふる償ひに人を牲に供へたと。フレザーの「舊約全書の俚俗」には、英國の脫艦水夫ジヤクソンが、今から八九十年前フィジー島で王宮改築の際の目擊談を引き居る。其は柱の底の穴に其柱を抱かせて人を埋め頭はまだ地上に出て有つたので問合すと、家の下に人が坐して柱をさゝげねば家が永く立ち居らぬと答へ、死んだ人が柱をさゝげる物かと尋ねると、人が自分の命を牲にして迄柱をさゝげる其誠心を感じて、其人の死後は神が柱をさゝげくれると云ふたと。是では女や小兒を人柱にした譯が分らぬから、雜とベーリング・グールド說の方が一般に適用し得ると思ふ。又フレザーは敵城を占領する時抔のマジナヒに斯る事を行ふ由をも說いた。今度宮城二重櫓下から出た骸骨を檢する人々の一讀すべき物だ。

 國學に精通した人より大昔し月經や精液を日本語で何と呼んだか分らぬときく[やぶちゃん注:行末で句読点なし。]滿足な男女に必ずある物だが、無暗に其名を呼ばなかつたのだ。支那人は太古より豚を飼ふたればこそ家という字は屋根の下に豕と書く。アイユランドの邊地でみる如く、人と豚と雜居したとみえる。其程支那に普通で因緣深い豕の事をマルコ・ポロがあれ丈支那事情を詳述した中に一言も記し居らぬ。又是程大な事件はなきに、一錢二錢の出し入れを洩さず帳付けながら、今夜妻が孕んだらしいと書いておく人は先づないらしい。本邦の學者宮城の櫓下の白骨一件などにあふとすぐ書籍を調べて書籍に見えぬから人柱抔全く無かつたなどいふが、是は日記にみえぬから吾子が自分の子でないといふに近い。大抵マジナヒ事は秘密に行ふもので、人に知れるときかぬといふが定則だ。其を鰻屋の出前の如く今何人人柱に立つた抔書付くべきや。こんなことは篤學の士が普ねく遺物や傳說を探つて書籍外より材料を集め硏究すべきである。

[やぶちゃん注:以下の一段落は先と同じく、全体が一字下げである。]

 中堀僖庵の萩の栞(天明四年再板)上の十一張裏に「いけこめの御陵とは大和國藥師(寺か)の後にあり、何れの御時にか采女御門の御別れを歎き生ながら籠りたる也」是は垂仁帝の世に土偶を以て人に代へ殉葬を止められたに拘らず、後代までも稀れに自ら進んで生埋にされた者が有つたのが史籍に洩れて傳說に存したと見える。所謂殉葬の内には御陵を堅むる爲めの人柱も有つたと察する。

 又そんな殘酷なことは上古蒙昧の世は知らず二三百年前に在つたと思はれぬなどいふ人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いて自ら二三度振廻し、我此劍で永く子孫を護るべしと顏色いと好かつたといひ、コツクスの日記には、侍醫が公は老年故若者程速く病が癒らぬと答へたので、家康大に怒り其身を寸斷せしめたとある。試し切りは刀を人よりも尊んだ甚だ不條理且不人道なことが、百年前後迄もまゝ行はれたらしい。なほ木馬水牢石子詰め蛇責め貢米賃(是は領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英國にもやゝ似たことが十七世紀までも有つて、ペピース自ら行つたことが其日記に出づ)、其他確たる書史に書かねどどうも皆無で無かつたらしい殘酷なことは多々ある。三代將軍薨去の節諸候近臣數人殉死したなど虛說といひ黑め能はぬ。して見ると人柱が德川氏の世に全く行はれなんだは思はれぬ。

 

        

 こんな事が外國へ聞えては大きな國辱といふ人もあらんかなれど、そんな國辱はどの國にもある。西洋にも人柱が多く行はれ近頃まで其實跡少なくなかつたのは上に引いたベーリング・グールド其他の民俗學者が證明する。二三例を手當り次第列ねると、ロムルスが羅馬を創めた時ファスツルス、キンクチリウス二人を埋め大石を覆ふた。カルタゴ人はフヰレニ兄弟を國界に埋めて護國神とした。コルバム[やぶちゃん注:ママ。「コルムバ」が正しい。]尊者がスコツトランドのヨナに寺を立てた時、晝間仕上げた工事を每夜土地の神が壞すを防ぐとて弟子一人(オラン尊者)を生埋にした。去らば歐州が基督敎に化した後も人柱は依然行はれたので、此敎は一神を奉ずるから地神抔は薩張りもてなくなり、人を牲に供えて地神を慰めるてふ考へは追々人柱で土地の占領を確定し建築を堅固にして崩れ動かざらしむるてふ信念に變つたと、ベ氏は說いた。是に於て西洋には基督敎が行渡つてから人柱はすぐ跡を絕たなんだが之を行ふ信念は變つたと判る。思ふに東洋でも同樣の信念變遷が多少有つただらう。

 なほ基督敎一統後も歐州に人柱が行はれた二三の例を擧げれば、ヘンネベルグ舊城の壁額(レリーヴイング・アーチ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]には、重賞を受けた左官が自分の子を築き込んだ。其子を壁の内に置き菓子を與へ父が梯子に上り職工を指揮し、最後の一煉瓦で穴を塞ぐと子が泣いた。父忽ち自責の餘り梯子から落ちて頭を潰した。リエベンスタイン城も同樣で母が人柱として子を賣つた。壁が段々高く築き上らるゝと子が「かゝさんまだ見える」次に「かゝさん見えにくゝ成つた」最後に「かゝさんもうみえぬ」と叫んださうだ。アイフエルの一城には、若い娘を壁に築き込み穴一つあけ殘して死ぬまで食事を與へた。オルデンブルグのプレクス寺(無論基督敎の)を立てるに土臺固まらず、由て村吏川向ふの貧婦の子を買つて生埋にした。一六一五[やぶちゃん注:「年」の脱字。](大坂落城の元和元年)、オルデンブルグのギユンテル伯は堤防を築くに小兒を人柱にする處へ行合せ其子を救ひ、之を賣つた母は禁獄、買つた土方親方は大お目玉頂戴。然るに口碑には此伯自身の城の土臺へ一小兒を生埋にしたといふ。以上は英人が獨逸の人柱の例斗り書き集めた多くの内の四五例だが、獨人の書いたのを調べたら英佛等の例も多かろうが餘り面白からぬ事ゆえ是だけにする。兎に角歐州の方の人柱のやり方が日本よりも殘酷極まる。其歐人又其子孫たる米人が今度の唯一の例を引いて彼是れいはゞ、百步を以て五十步を責る者だ。

 

       [やぶちゃん注:「五」の誤り。以下、ずれたままで続いてしまっている。]

 英國で最も古い人柱の話は有名な術士メルリンの傳にある。此者は賀茂の別雷神同然、父なし子だつた。初め基督生まれて正法大に興らんとした際邪兇輩失業難を憂ひ相謀つて一の法敵を誕生せしめ大に邪道を張るに決し、英國の一富家に禍を降し、先づ母をして其獨り息子を鬼と罵らしめて眠中其子を殺すと、母は悔ひて縊死し、父も悲んで悶死した。跡に娘三人殘つた。其頃英國の法として私通した女を生埋し、若くは誰彼の別なく望みさへりや男の意に隨はしめた。邪鬼の誘惑で、姉娘先づ淫戒を犯し生埋され、次の娘も同樣の罪で多人の慰み物と成つた。季娘大に怖れて聖僧プレイスに救ひを求め、每夜祈禱し十字を畫いて寢よと敎へられた。暫く其通りして無事だつた處、一日隣人に勸められて飮酒し、醉つて其姉と鬪ひ自宅へ逃げ込んだが、心騷ぐまゝ祈禱せず十字も畫かず睡つた處を、好機會逸す可らずと邪魔に犯され孕んだ。斯くて生まれた男兒がメルリンで容貌優秀乍ら全身黑毛で被はれて居た。こんな怪しい父なし子を生んだは怪からぬ[やぶちゃん注:「南方熊楠選集 第四巻」底本の「人柱の話」でも同様。「普通でないどころではなく、とんでもないことだ!」という強調形慣用語であるが、文法的には誤りである。恐らくは打消の助動詞「ぬ」は怒髪した誰かが誤って添えてしまったものと思われており、余程、頭に来た誰彼が怒りに任せて対象を全否定するために「ぬ」を誤用付加してしまったのではないかと考えられているようである。現代の表記「怪しからん(!)」だと、その違和感は完全に減衰しており、文法的誤謬性は消えてしまっていて、我々も普通にそう言ってしまっている。]と其母を法廷へ引出し生埋の宣告をするとメルリン忽ち其母を辯護し、吾れ實は强勢の魔の子だが聖僧ブレイス之を豫知して生れ落ちた卽時に洗禮を行はれたから邪道を脫れた。予が人の種でない證據に過去現在未來のことを知悉し居り、此裁判官抔の如く自分の父の名さへ知らぬ者の及ぶ所でないと廣言したので、判官大に立腹した。メルリン去らば貴公の母を喚べと云ふので母を請じメを別室に延いてわれは誰の實子ぞと問ふと、此町の受持僧の子だ。貴公の母の夫だつた男爵が旅行中の一夜母が受持僧を引入て會ひ居る處へ夫が不意に還つて戶を敲いたので窓を開いて逃げさせた。其夜孕んだのが判官だ、是が虛言かと詰ると、判官の母暫く閉口の後ち實に其通りと告白した。そこで判官嚴しく其母を譴責して退廷せしめた跡で、メルリン曰く、今公の母は件の僧方へ往つた。僧は此事の露顯を慙ぢて直ちに橋から川へ飛入つて死ぬと。頓て其通りの成行きに吃驚して、判官大にメを尊敬し卽座に其母を放還した。其から五年後ブリトン王ヴヲルチガーンは自分は前王を弑して位を簒ふた者故いつどんな騷動が起るか知れぬとあつて、其防ぎにサリスベリー野に立つ高い丘に堅固な城を構へんと、工匠一萬五千人をして取掛らしめた。所が、幾度築いても其夜の間に壁が全く崩れる。因つて星占者を召して尋ねると、七年前に人の種でない男兒が生まれ居る。彼を殺して其血を土臺に濺いだら必ず成功すると言つた。隨つて英國中に使者を出してそんな男兒を求めしめると、其三人がメルリンが母と共に住む町で出會ふた。其時メルリンが他の小兒と遊び爭ふと一人の兒が、汝は誰の子と知れず、實は吾れ吾れを害せんとて魔が生んだ奴だと罵る。扨は是がお尋ね者と三人刀を拔いて立向ふと、メルリン叮嚀に挨拶し、公等の用向きは斯樣々々でせう、全く僕の血を濺いだつて城は固まらないと云ふ。三使大に驚き其母に逢ふて其神智の事共を聞いて彌よ呆れ請ふてメと同伴して王宮へ歸る。途上で更に驚き入つたは先づ市場で一靑年が履を買ふとて懸命に値を論ずるを見てメが大いに笑ふた。其譯を問ふに彼は其履を手に入れて自宅に入る前に死ぬ筈と云ふたが果して其如くだつた。翌日葬送の行列を見て又大に笑ふたから何故と、尋ねると比[やぶちゃん注:「此」の誤記か誤植。]死人は十歲計りの男兒で行列の先頭に僧が唄ひ後に老年の喪主が悲しみ往くが、此二人の役割が顚倒し居る。其兒實は其僧が喪主の妻に通じて產ませた者故可笑しいと述べた。由て死兒の母を嚴しく詰ると果して其通りだつた。三日目の午時頃途上に何事も無きに又大に笑ふたので仔細を質すと只今王宮に珍事が起つたから笑ふた、今の内大臣は美女が男裝した者と知らず、王后頻りに言寄れど從はぬから戀が妬みに變じ、彼れは妾を强辱しけたと讒言を信じ、大臣を捉えて早速絞殺の上支解せよと命じた所だ。だから公等のうち一人忙ぎ歸つて大臣の男たるか女たるかを檢査し其無罪を證しやられよ、而して是は僕の忠告に據つたと申されよと言ふた。一使早馬で駈付け王に勸めて、王の眼前で内大臣が女たるを檢出して之を助命したとあるから餘程露骨な檢査をしたらしい。扨是れ漸く七歲のメルリンの告げたところと云ふたので、王早く其兒に逢ふて城を固むる法を問はんと自ら出迎へてメを宮中に招き盛饌を供し、翌日伴ふて築城の場に至り夜になると必ず壁が崩るゝは合點行ぬといふに、其は此地底に赤白の二龍が凄み每夜鬪ふて地を震はすからと答へた。王乃ち深く其地を掘らしめると果して二つの龍が在り大戰爭を仕出し赤い方が敗死し白いのは消失せた。斯くて築城は功を奏したが王の意安んぜず。二龍の爭ひは何の兆ぞと問ふこと度重なりてメルリン是非なく、王が先王の二弟と戰ふて敗死する知らせと明して消え失せた。後果して城を攻落され王も后も焚死したと云ふ。(一八一一年版エリス著、初世英國律語體傳奇集例、卷一、二〇五―四三頁) 英國デヷオン州ホルスヲーシーの寺の壁を十五世紀に建てる時人柱を入れた。アイユランドにも圓塔下より人の骸骨を掘出したことがある。(大英百科全書、十一板、四卷七六二頁)

 

       [やぶちゃん注:既に述べた通り、「」の誤り。]

 一四六三年獨逸ノガツトの堰を直すに乞食を大醉させて埋め、一八四三年、同國ハルレに新橋を立てるに人民其下に小兒を生埋せうと望んだ。丁抹首都コツペンハーゲンの城壁每も崩れる故、椅子に無事の小兒を載せ玩具食品をやり他意なく食ひ遊ぶを、左官棟梁十二人して圓天井をかぶせ喧ましい奏樂紛れに壁に築き込んでから堅固と成つた。伊國のアルタ橋は繰返し落ちたから其大工棟梁の妻を築き込んだ。其時妻が咀[やぶちゃん注:「詛」の誤記か誤植。]ふて今に其橋花梗[やぶちゃん注:「くわこう」は「花柄」(かへい)のこと。花軸から分かれ出て、その先端に花をつける小さな枝を言う。]の如く動搖する。露國のスラヴエンスク黑死病で大に荒され、再建の節賢人の訓へに隨ひ、一朝日出前に人を八方に使して一番に出逢ふ者を捕へると小兒だつた。乃ち新砦の礎の下に生埋して之をヂエチネツ(小兒城)と改稱した。露國の小農共は每家ヌシあり、初めて其家を立てた祖先がなる處と信じ、由つて新たに立つ家の主人或は最初に新立の家に步みを入れた者がすぐ死すと信ず。蓋し古代よりの風として初立の家には其家族中の最も老いた者が一番に入るのだ。或る所では家を立て始める時斧を使ひ初める大工が或る鳥又は獸の名を呼ぶ。すると其畜生は速に死ぬといふ。その時大工に自分の名を呼ばれたらすぐ死なねばならぬから、小農共は大工を非常に慇懃に扱つて己の名を呼ばれぬやう力める。ブルガリアでは家を建てに掛るに通り掛つた人の影を糸で測り礎の下に其糸を埋める。其人は直ちに死ぬさうだ。但し人が通らねば一番に來合せた動物を測る。又人の代りに鷄や羊などを殺し其血を土臺に濺ぐこともある。セルヴヰアでは、都市を建てるに人又は人の影を壁に築き込むに非ざれば成功せず。影を築き込まれた人は必ず速かに死すと信じた。昔し其國王と二弟がスクタリ砦を立てた時晝間仕上げた工事を夜分鬼が壞して已まず。因つて相談して三人の妃の内一番に食事を工人に運び來る者を築き込まうと定めた。王と次弟は私かに之を洩らしたので其妃共病と稱して來たらず。末弟の妃は一向知ずに來たのを王と次弟が捕へて人柱に立てた。此妃乞ふて壁に穴を殘し、每日其兒を伴れ來らせて其穴から乳を呑せること十二ケ月にして死んだ。今に其壁より石灰を含んだ乳樣の水が滴るを婦女詣で拜む(タイラーの原始人文篇、二板一卷、一〇四―五頁。一八七二年板、ラルストンの露國民謠、一二六―八頁)。

 其からタイラーは人柱の代りに獨逸で空棺を、丁抹で羊や馬を生埋にし、希臘では礎を据えた後ち一番に通り掛つた人は年内に死ぬ、其禍を他に移さんとて左官が羊鷄を礎の上で殺す、ドイツの古話に橋を崩さずに立てさせくれたら渡り初る者をやらうと鬼を欺むき、橋成つて一番に鷄を渡らせたことを述べ、同國に家が新たに立つたら先づ猫か犬を入らしむるがよいといふ等の例を列ねある。日本にも甲子夜話五九に、「彥根侯の江戶邸は本と加藤淸正の邸で其千疊敷の天井に乘物を釣下げあり、人の開き見るを禁ず、或は云く淸正、妻の屍を容れてあり。或は云ふ、此中に妖怪居て時として内より戶を開くをみるに老婆の形なる者みゆと、數人の所話如是」と。是は獨逸で人柱の代りに空棺を埋めた如く、人屍の代りに葬式の乘物を釣下げて千疊敷のヌシとしたので有るまいか。同書卅卷に「世に云ふ姬路の城中にオサカベと云ふ妖魁あり、城中に年久しく住りと、或は云ふ、天守櫓の上層居て常に人の入るを嫌ふ、年に一度其城主のみ之に對面す。其餘は人懼れて登らず、城主對面する時、姥其形を現はすに老婆也と云ひ傳ふ。(中略)姬路に一宿せし時宿主に問ふに成程城中に左樣の事も侍り、此所にてハツテンドウと申す。オサカベとは言ず、天守櫓の脇に此祠ありて其の神に事うる社僧あり、城主も尊仰せらると。」老媼茶話に加藤明成猪苗代城代として堀部主膳を置く、寬永十七年極月主膳獨り座敷に在るに禿一人現じ、汝久しく在城すれど今に此城主に謁せず、急ぎ身を淨め上下を著し敬んで御目見えすべしといふ。主膳此城主は主人明成で城代は予なり、外に城主ある筈無しと叱る。禿笑ふて、姬路のオサカベ姬と猪苗代の龜姬を知らずや汝命數既に盡たりと云ひ消失す。翌年元朝主膳諸士の拜禮を受けんとて上下を著し廣間へ出ると、上段に新しい棺桶があり其側に葬具を揃えあり、其夕大勢餅をつく音がする。正月十八日主膳厠中より煩ひ付き廿日の曉に死す。其夏柴崎といふ士七尺許りの大入道を切るに古い大ムジナだつた。爾來怪事絕えたと載せ、又姬路城主松平義俊の兒小姓森田圖書十四歲で傍輩と賭してボンボリを燈し、天守の七階目へ上り三十四五のいかにも氣高き女十二一重をきて讀書するを見、仔細を話すと、爰迄確かに登つた印にとて兜のシコロをくれた。持つて下るに三階目で大入道に火を吹消され又取つて歸し、彼女に火をつけ貰ひ歸つた話を出す。此氣高き女乃ちオサカベ姬で有らう。嬉遊笑覽などをみると、オサカベは狐で時々惡戲をして人を騷がせたらしい。扨ラルストン說に露國の家のヌシ(ドモヴヲイ)は屢々家主の形を現じ其家を經濟的によく取締り、吉凶ある每に之を知らすが又屢ば惡戲をなすと。而して家や城を建てる時牲にされた人畜がヌシになるのだ。類推するに龜姬オサカベ等も人柱に立てられた女の靈が城のヌシに成つたので後ちに狐狢と混同されたのだらう。又予の幼時和歌山に橋本てふ士族あり、其家の屋根に白くされた馬の髑髏が有つた。昔し祖先が敵に殺されたと聞き其妻長刀を持つて驅付たが敵見えず、せめてもの腹癒せに敵の馬を刎ね其首を持ち歸つて置いたと聞いた。然し、柳田君の山島民譚集一に馬の髑髏を柱に懸けて鎭宅除災の爲めにし又家の入口に立てゝ魔除とする等の例を擧げたのを見ると、橋本氏のも丁抹で馬を生埋する如く家のヌシとして其靈が家を衞りくれるとの信念よりしたと考へらる。柳田君が遠州相良邊の崖の橫穴に石塔と共に安置した馬の髑髏などは、馬の生埋めの遺風で、其崖を崩れざらしむる爲に置いた物と惟ふ。

 予は餘り知らぬ事だが、本邦でも上述の英國のパウリーや露國のドモヴヲイに似た奧州のザシキワラシ、三河、遠江のザシキ小僧、四國の赤シヤグマ等の怪がある。家の仕事を助け、人を威し、吉凶を豫示し、時々惡戲をなすなど歐州の所傳に異ならぬ。是等悉く人柱に立てた者の靈にも非ざるべきが、中には昔し新築の家を堅めんと牲殺された者の靈も多少あることと思ふ。飛驒紀伊其他に老人を棄殺した故蹟が有つたり、京都近くに近年迄夥しく赤子を壓殺した墓地が有つたり、日本紀に歷然と大化新政の詔を載せた内に、其頃迄も人が死んだ時自ら縊死して殉し又他人を絞殺し又强ひて死人の馬を殉殺しとあれば垂仁帝が殉死を禁じた令も洵く[やぶちゃん注:恐らく「洽」「浹」の誤記か誤植で、「あまねく」である。]行はれなんだのだ。扨信濃國では妻が死んだ夫に殉ずる風が行はれたといふ。久米邦武博士(日本古代史、八五五頁)も云はれた通り、其頃地方の殊俗は國史に記すこと稀なれば尋ぬるに由なきも、奴婢賤民の多い地方には人權乏しい男女小兒を家の土臺に埋めたことは必ず有るべく、其靈を其家のヌシとしたがザシキワラシ等として殘つたと惟はる。ザシキワラシ等のことは大正十三年六月の人類學雜誌佐々木喜善氏の話、又柳田氏の遠野物語等にみゆ。

 

 數年前の大阪每日紙で、曾て御前で國書を進講した京都の猪熊先生の宅には由來の知れぬ婦人が時々現はれ、新來の下女などは之を家内の一人と心得ることありと讀んだ。沈香も屁もたきもひりもしないでたゞ現はれるだけらしいが、是も其家のヌシの傳を失した者だらう。其から甲子夜話二二に大阪城内に明ずの間あり、落城の時婦女自害せしより一度も開かず之に入り若くは其前の廊下に臥す者怪異に逢ふと。叡山行林院に兒がやとて開かざる室あり之を開く者死すと(柳原紀光の閑窓自語)。昔し稚兒が寃死した室らしい。歐州や西亞にも、佛語で所謂ウーブリエツトが中世の城や大家に多く、地底の密室に人を押籠め又陷れて自ら死せしめた。現に其家に棲んで全く氣付かぬ程巧みに設けたのもあると云ふ(バートンの千一夜譚二二七夜譚注)。人柱と一寸似たこと故書添へ置く。

 又人柱でなく、刑罰として罪人を壁に築き込むのがある。一六七六年巴里板、タヴエルニエーの波斯紀行一卷六一六頁に盜人の體を四つの小壁で詰め頭だけ出してお慈悲に煙草をやり死ぬ迄すて置く、其切願のまゝ通行人が首を刎ねやるを禁ず、又罪人を裸で立たせ四つの壁で圍ひ頭から漆喰ひを流しかけ堅まる儘に息も泣くこともできずに惱死せしむと。佛國のマルセルス尊者は腰迄埋めて三日晒されて殉殺したと聞くが頭から塗り籠められたと聞かぬと、一六二二年に斯る刑死の壁を見てピエトロ・デラワレが書いた。

 嬉遊笑覽卷一上に、「東雅に、南都に往て僧寺のムロと云ふ物をみしかど上世に室と云し物の制ともみえず、本是れ僧寺の制なるが故なるべしと云ふは非也、そは宮室に成ての製也、上世の遺跡は今も古き窖の殘りたるが九州などには有ると云へり。彼の土蜘蛛と云し者などの住みたる處なべしとかや、近くは鎌倉に殊に多く、是亦上世の遺風なるべし、農民の物を入れおく處に掘たるも多く、又墓穴もあり、土俗是れをヤグラと云ふ。日本紀に兵庫をヤグラと讀るは、箭を納る處なれば也、是は其義には非ず谷倉の義なるべし。因て塚穴をもなべていふ。實朝公の墓穴には岩に彫物ある故に繪かきやぐらといふ。又囚人を籠るにも用ひし迚、大塔の宮を始め景、唐糸等が古跡あり(下略)」紀州東牟婁郡に矢倉明神の社多し。方言に山の嶮峻なるを倉といふ。諸莊に嶮峻の巖山に祭れる神を矢倉明神と稱すること多し。大抵は皆な巖の靈を祭れるにて別に社がない。矢倉のヤは伊波の約にて巖倉の義ならむとは紀伊續風土記八一の說だ。唐糸草紙に、唐糸の前賴朝を刺んとして捕はれ石牢に入れられたとあれば、谷倉よりは岩倉の方が正義かも知れぬ。孰れにしても此ヤグラは櫓と同訓ながら別物だ。景淸や唐糸がヤグラに囚はれたとあるより、早計にも二物を混じて、二重櫓の下に囚はれ居た罪人の骸骨が出たなど斷定する人もあらうかと豫め辯じ置く。

 

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