譚海 卷之五 羽州秋田領阿仁銅山森吉登山の事
[やぶちゃん注:句読点・記号を変更・追加した。]
○出羽國、銅山ある所を「阿仁」といふ。城下より三十五里をへて、東南に至る深山也。阿仁山の中に「森吉」といふ高山あり、銅山より、又、三里、絕頂まであるゆゑ、麓より里數を計り見れば、駿河の富士山に、高き事、おとるまじ、といへり。是も、六月、登山する也。半腹に至りては、道、絕(たえ)て、松の枝をふみて、のぼる。此松山に、はひて生(おい)たる松にて、いくらといふ、かぎりなく、道にはひあるゆゑ、枝をふみて、行事(ゆくこと)、あやうからず。道を行(ゆく)如くに思はるゝとぞ。これを十町[やぶちゃん注:一・〇九一キロメートル。]斗(ばか)りのぼれば、草木なく、赤き岩の、はげ山なり。絕頂まで、如ㇾ此(かくのごとし)。その間に、所々、「御田」と號する所あり。田を作りたる如く、畦(あぜ)に似たるものありて、稻の如くなる草、早苗(さなへ)を植(うゑ)たるやうに生(しやう)じ有(あり)。山神(やまがみ)の田なるよしを、いひ傳ふ。絕頂に至れば、柱の如くに、そばたちたる岩ほ、二ツ、立(たち)て有(あり)、何(いづれ)も、高さ二丈あまりなり。その二ツの岩(いは)ほ、立(たち)たる際(きは)、一筋(ひとすぢ)、橫に、堀のごとく、地、裂入(さけいり)てあり。是は銅山の氣をもらす所也と、いへり。晴天にのぼるときは、四方の山、みな、平地の如く、目にさはるもの、なし。只(ただ)東にあたりて、津輕の岩城山、西にあたりて、本莊(ほんじやう)の鳥海山、見ゆる計(ばかり)也。岩城山は、富士山の形に似たりとぞ。山上、神社、なし。歸路も同じ道をくだるなり。山上にて下界を望めば、黃昏(たそがれ)に成(なり)たる氣色(けしき)、殊に奇觀なり。麓、見る内に、暗く成(なり)て、草木のいろあひも見えず成(なり)ゆけども、絕頂は、猶、晝(ひる)の如く、明(あきら)か也。半腹より、いつも、松明(たいまつ)にて、くだる事と、いへり。往來、一日には成(なり)がたき故と、いへり。
[やぶちゃん注:「阿仁」この附近(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)に複数の鉱山跡を見出せる。
『「森吉」といふ高山あり』森吉山(もりよしざん)は先の阿仁銅山跡群の東のここ。標高千四百五十四メートルで、秋田県中央に聳える複式火山で、標高千メートル以上の外輪山数座に囲まれた独立峰である。
「城下より三十五里をへて、東南に至る」とあるが、方位は東北の誤りである。「三十五里」は東国で用いられた小道(こみち)・坂東道(ばんどうみち)のそれで、一里は六町(六百五十四メートル)であるから、二十二・八九キロメートルとなるが、これはちょっとドンブリで、地図上で現在の阿仁地区のずっと南端部分までを直線で測ってみても、二十七キロはある。
「御田」読み不詳。他所の例から考えると、「おた」或いは「みた」であろうか。
「そばたちたる岩ほ、二ツ、立て有」後で二「山上、神社、なし」と言っているが、確かに頂上にはないが、ピークの北北西の直下に、古くから森吉神社があって、「冠岩」という岩塊があるので、それを言っているか。そのサイド・パネルの写真のこの一枚の左奥にあるのがそれである。サイト「秋田雑学博物館」の「森吉山古記」に、菅江真澄が描いた森吉山の絵図の写真があり、「冠岩」が描かれているので見られたい。頂上にあるとするが、先の森吉山のサイド・パネルを見ても、頂上付近には岩はあるが、「高さ二丈あまり」という高さの岩塊は、少なくとも現在は確認出来ない。
「津輕の岩城山」岩木山(いわきさん)が正しい。青森県弘前市百沢東岩木山。標高千六百二十五メートル。
「本莊の鳥海山」山形県飽海(あくみ)郡遊佐町(ゆざまち)吹浦(ふくら)にある鳥海山(ちょうかいさん)。標高二千二百三十六メートル。]
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