奇異雜談集巻第五 ㊂三歲の子小刀をぬすみあらそひし事
[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい]
㊂三歲の子(こ)小刀(こがたな)をぬすみあらそひし事
高辻油小路(あふら[やぶちゃん注:ママ。]の《かう》ぢ)、麓の道塲の寺僧、正休(しやうきう)老人、かたりていはく、
我(わが)寺の門前の、西頰(にしがは)に鍛冶屋あり、つねに小刀をうつて、うれり。
あるとき小刀、五《いつつ》をうつて、砥(と)にて、とぐとき、むかひがわ[やぶちゃん注:ママ。]の小家(こ《いへ》)に、三歲になる男子(なんし)あり。
夏の事なるに、はだかにて、母の、いこんがう[やぶちゃん注:ママ。「藺金剛」で「ゐこんがう」が正しい。金剛草履(藺や藁などで作った丈夫な草履。普通の形のものよりも後部が細く長いのを特徴とする)の一種で、藺を材料として編んだ大型の丈夫な草履。]を、はきて、かぢやにきたりて、作處(さくしよ)のくちに立《たち》て、小刀とぐを、見る。
常(つね)にきたる子なるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、
「よく、きたる。」
といふ。
亭主、所用ありて、内に入《いり》て、やがて、作處にかへりてみれば、小刀一つ、うせて、たゞ四つあり。
此子に、
「とりたるか。」
と、とへば、
「しらぬ。」
といふ。
「今の間(ま)に、べちに、人も、きたらず。汝(なんぢ)が、とるべし。」
といへども、
「しらぬ。」
といふ。
はだかなるゆへに、袖(そで)にも、いれす[やぶちゃん注:ママ。]、手にも、もたず。
「何處(いづく)に、やるや。」
と、とへども、
「しらぬ。」
といふ。
「もしは、戶のふち、垣《かき》の間《あひだ》にも、をくや[やぶちゃん注:ママ。]。」
と、たづね、
「板じきのおくへも、なげ入《いる》るか。」
と、たづね、
「むしろの下にも有《ある》か。」
と尋ね、
「たかき所へも、なぐるか。」
と尋ね、
「大道(だいたう[やぶちゃん注:ママ。])へも、なくる[やぶちゃん注:ママ。「投ぐる」。]か。」
と、とへとも[やぶちゃん注:ママ。]、
「しらぬ。」
といふ。
よその子なるゆへに、あらく、しかる事、あたはず、かへつて、ほめ、なぐさめて、とへども、
「しらぬ。」
といふ。
せんかたなくして、をけば[やぶちゃん注:ママ。]、此子、門に出《いで》て、我宿(やど)にかへるを、後(うしろ)よりみれども、手にも、もたすして、ゆけり。
亭主、小刀を、とひ[やぶちゃん注:ママ。]でおるに、やゝ有《あり》て、むかひの子の母、小刀を、もちきたりて、いはく、
「いたづら物、これの小刀を、とつて來たるほどに、もちてきたる。」
と、いふて、かへしぬ。
亭主のいはく、
「はだかにてきたりて、手にも、もたずして歸りつるが、きどくや。何として、とりてゆきたるぞ。」
といへば、母のいはく、
「いかんがうのうらに、さしはさんで來て、ぬくほどに、『足を、つかん。』と、いふて、しかる。」
といへば、亭主、おどろきて、
「きどく。」
といふ。
母、かへりされり。
三歲の孩子(みどりこ[やぶちゃん注:ママ。])、かくのごとき、ちゑ、胎内(たいない)にをひて[やぶちゃん注:ママ。]、たねより、つたふるものか。
おそろしき事かな。
向後(きやうかう)、いかなるものになるべきぞや。
三ざい[やぶちゃん注:ママ。]の子といふて、あなどるべからず、と云〻。
[やぶちゃん注:「たねより」「種より」で、向かいの家の主人の仕事は何か分らぬが、この子は男子であるから、民俗社会的には、夫の「種より」伝わったというニュアンスであろう。]
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