只野真葛 むかしばなし (77) 巾着切の陰徳の話
一、巾着切(きんちやくきり/きんちやつきり)といふものは、三度、牢入になれば、落首(うちくび)[やぶちゃん注:当て訓した。]の定めなるに、三度目に御免に成(なり)しもの有(あり)し故、其時の町與力に名代の人有しが、
「宅へ參れ。」
と呼(よび)よせて、
「扨(さて)。外の事にて、なし。其方は、死罪の罰を、ふしぎに、命、たすかりしは、陰德にても、ほどこせし事、多く有(ある)や。」
と聞(きき)しに、
「外(ほか)に覺(おぼえ)とてもなけれど、久しき跡に、兩國邊を、かせぎました時、七、八兩に成(なり)ました。暮方(くれがた)、まなべ川岸(かし)[やぶちゃん注:当て訓した。]の方へ參りしに、本柳橋のきわで、身をなげそふ[やぶちゃん注:ママ。]にする、ぢゞが、ござりました。ひよつと、『むごい事だ。』と、胸に、うかびましたから、『若(もし)、ぢゞさん。わたしは巾着切だが、死ほどの事なら、わたしが、今日、仕事にした金が、ちつと有(ある)から、借(かし)やせう。』と申(まうし)たら、きもを潰した顏を仕(し)て居(をり)ましたを、金を、ふところに、入(いれ)て、つきたほして、にげ行(ゆき)、陰(かげ)から見て居(をり)しに、ぢゞは、おきて、其金を、かぞへて、いたゞき、懷中して行(ゆき)ましたから、たすかつたろう[やぶちゃん注:ママ。]と存じます。」
と語りしを、
「其樣なことの故にも有べし。是より、巾着切を、やめたら、よかろふ[やぶちゃん注:ママ。]。」
と云(いひ)しに、
「私も、やめとふ[やぶちゃん注:ママ。]ござりますが、中々、仲間が、合點、致しません。」
と、いふを、
「それなら、近在に、おれが知つた百姓が有(ある)から、それが所へ賴んでやろう[やぶちゃん注:ママ。]から、田舍でも行(いつ)て素人に成(なれ)。」
と、すゝめしに、悅んで、
「左樣なら、どふぞ被ㇾ遣被ㇾ下(やられくだされ)。」
といふ故、そこへ、やりしとぞ。【此(これ)、よびて聞(きき)しことも、うたがはし。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]】
至極、正直者と見えて、手がたき家なりしが、あめ商賣をせしとぞ。
庭の隅に、少し、土を高くして、塚の樣な物あるに、日々に、茶や花を上(あげ)しとぞ。
或日、
「少し、心ざしの事、有(あり)。」
とて、人を呼び、茶菓子など、いだして、此比(このごろ)來りし人にむかい[やぶちゃん注:ママ。]、
「今日の心ざしは、前かた、不仕合(ふしあはせ)が續きし故、娘を江戶へ連(つれ)て行きうりましたが、十六兩でござりました。『是で、どふしてこふして[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]。』と、胸算用して、かへる時、兩國で、すりに取られましたから、『死ぬより外の事、なし。』と覺悟した時、外(ほか)のすりが來て、金をくれて助けてくれました。半金にも、たらぬほどなれど、どふかこふか、それで、あめ屋も、だしましたが、それから仕合(しあはせ)が直(なほ)り、此通りに、くらして居(をり)ますも、たすけられたすりの蔭(おかげ)。生(いき)てあるか、死(しん)だか、しらねど、七年已前の事、其時、わしが、しねば、今日が七年忌とおもゑ[やぶちゃん注:ママ。]ますから、其人の爲に囘向(ゑかう)仕(つかまつり)ます。」
と語(かたり)しを、巾着切も、
『ふしぎ。』
とは聞しが、其時は、かたらず。
後に、そのわけを、かたりしかば、限りなく、悅びし、とぞ。
是は父樣、外より御聞被ㇾ成て御はなしなりしが、あまり、こしらい[やぶちゃん注:ママ。]過(すぎ)たるやうなり。日々、おこたらず人の念ずれば、必ず、思(おもひ)のとゞくものとは聞(きき)しが。
[やぶちゃん注:「巾着切といふものは、三度、牢入になれば、落首の定めなる」ウィキの「スリ」によれば、『元禄・宝永』頃、『名人坊主小兵衛が現われたが、これは同心目付役加賀山(加々山)権兵衛の寵愛を受けた。このころから』、『スリと同心の因縁が生じたという。当時の手口は袂さがし、腰銭はずし、巾着切りが主で、敲きの上』、『門前払いに処罰されたが、巾着切りの横行の流行にかんがみ、延享』四(一七四七)年二月、『御定書に「一、巾着切、一、腰錢袂錢を抜取候者、右何れも可為入墨之刑事。儋(但)入墨之者惡事不相止召捕候はば死罪」と達せられ、突き当たりの手口で荒稼ぎする者を』、『入れ墨、重敲』(じゅうたたき:江戸時代の刑罰の一種。罪人の肩・背・尻を鞭百回打つこと。江戸では牢屋同心が小伝馬町の牢屋の門前で執行した。八代将軍吉宗時代に始まった)『すべきを見合わせて』、(☞)『死罪にする判例が生じた。その手口はますます巧妙化し、荒稼ぎ、山越し、達磨外し、から、天保ごろから、違(ちがい。すれ違いざまにおこなう)、飛(かっさらい)、どす(おどしとり)へと変わり、白昼の追いはぎも現われ、スリは並抜きをして、同類と共同で稼ぐものもあったので、遂に天保の大検挙が行われ、万吉、虎、勇九郎、遠州屋のような有名なスリの入牢があった。しかし』、『その後もスリの跳梁跋扈はやまず、天保の大検挙で入牢した親分たちが出牢するにおよんで』、『ますます』、『さかんになり』、慶応元(一八六五)年、『浅草年の市には』、『勇九郎の流れをくむ』『手合いが』、『手当たり次第にすりとった紙入れは炭俵』一『杯分あって、石を付けて大川に放り込んだという』また、彼らは『必ず』、『集団で行動し、仲間のスリがしくじった場合は』、『見ず知らずの町人を装った仲間が袋叩きにし、番屋に突き出す振りをして奪還した。組に所属しない流しのスリは十指全てをへし折られる凄惨な制裁を受けた』とある。]
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