怪異前席夜話 正規表現版・オリジナル注附 巻之二 「二囘 狐鬼 下」(巻之二は本篇のみ)
[やぶちゃん注:「怪異前席夜話(くわいいぜんせきやわ)」は全五巻の江戸の初期読本の怪談集で、「叙」の最後に寛政二年春正月(グレゴリオ暦一七九〇年二月十四日~三月十五日相当)のクレジットが記されてある(第十一代徳川家斉の治世)。版元は江戸の麹町貝坂角(こうじまちかいざかかど)の三崎屋清吉(「叙」の中の「文榮堂」がそれ)が主板元であったらしい(後述する加工データ本の「解題」に拠った)。作者は「叙」末にある「反古斉」(ほぐさい)であるが、人物は未詳である。
底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同初版本の画像を視認した。但し、加工データとして二〇〇〇年十月国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』の「初期江戸読本怪談集」所収の近藤瑞木(みづき)氏の校訂になるもの(玉川大学図書館蔵本)を、OCRで読み込み、使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
なるべく表記字に則って起こすが、正字か異体字か、判断に迷ったものは、正字を使用した。漢字の読みは、多く附されてあるが、読みが振れると思われるものと、不審な箇所にのみ限って示すこととした。逆に、必要と私が判断した読みのない字には《 》で歴史的仮名遣で推定の読みを添えた。ママ注記は歴史的仮名遣の誤りが甚だ多く、五月蠅いので、下付けにした。さらに、読み易さを考え、句読点や記号等は自在に附し、オリジナル注は文中或いは段落及び作品末に附し、段落を成形した。踊り字「〱」「〲」は生理的に厭なため、正字或いは繰り返し記号に代えた。
また、本書には挿絵があるが、底本のそれは使用許可を申請する必要があるので、単独画像へのリンクに留め、代わりに、この「初期江戸読本怪談集」所収の挿絵をトリミング補正・合成をして、適切と思われる箇所に挿入することとした。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。
なお、本話は「巻之一」の「二囘 狐精鬼靈寃情を訴ふる話」の続篇であるので、そちらを読まれていない方は、まず、そちらから読まれたい。]
怪異前席夜話 二
怪異前席夜話巻之二
〇狐鬼(こき) 下
斯面(かくて)つく[やぶちゃん注:ママ。「次ぐ」。翌日。]の夕べ、蘭(らん)は藥(くすり)を携へきたりて、暁(さとあき)明に、すゝむ。
暁明、その時、戲(たわむれ[やぶちゃん注:ママ。])て云(いゝ[やぶちゃん注:ママ。])けるは、[やぶちゃん注:前回分で述べたが、「携」は異体字のこれ(「グリフウィキ」)であるが、表示出来ないので、かく、した。以下も同じ。]
「汝を、『きつねなり。』といふ人あり。我は信にせずといへとも[やぶちゃん注:ママ。]、傳へきく、『狐は、人を惑(まどは)するものにて、その人、かならす[やぶちゃん注:ママ。]、命(めい)を失ふ。』といへり。こゝにおゐて、少しく、おそれなきにあらず。」
蘭、是を聞(きゝ)て、忽(たちまち)おとろき[やぶちゃん注:ママ。]、
「何人《なんびと》か、我を、きつねと、いふしや。」
と問《とふ》。
暁明、うち笑ひて、「是や、わか[やぶちゃん注:ママ。]一時の戲言(たはむれ)なり。」
蘭[やぶちゃん注:ママ。]か、いわく、
「狐は、人を惑せども、人の命を害する事、なし。人を害するは、鬼霊(きれい)にて候覽(《さふらふ》らん。今、妾(せう)か[やぶちゃん注:ママ。]來(きた)るを知(しり)て、背後(かげ[やぶちゃん注:蔭。])にて、そしるものありと、覺ゆ。君、包まずして語りたまへ。」
暁明、なを[やぶちゃん注:ママ。]、笑(わらつ[やぶちゃん注:ママ。])て、こたへず。
蘭は、いよいよ責(せめ)て問。
全方(せんかた)[やぶちゃん注:ママ。「詮方」。]なく、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に白露か[やぶちゃん注:ママ。]ことを語りしかは[やぶちゃん注:ママ。]、蘭、大《おほき》に、おとろき[やぶちゃん注:ママ。]、
「あれは、もとより、君の顏色(かんしよく[やぶちゃん注:ママ。])、憔悴(おとろへ)給ふを不思儀なりと覺へ[やぶちゃん注:ママ。]しに、偖社(さてこそ)、君を蠱惑(まどわす[やぶちゃん注:ママ。])もの有《あり》けるよ。是、定《さだめ》て、人間に、あらじ。妾、しばらく、身を匿(かく)すべき間《あひだ》、きみ、かれを、まねき、密(ひそか)に、妾に窺(うかゝわ[やぶちゃん注:ママ。])せたまゑ[やぶちゃん注:ママ。]。その邪正(じやせい)を监定(めきゝ)すべし。」[やぶちゃん注:「监」「鑑」の異体字。]
と、おくの方にいりて、身を隱し居《を》るに、暁明、やかて[やぶちゃん注:ママ。]、かの練絹(ねりきぬ)を、とり出して、手に弄(らう)すると斉(ひと)しく、白露、戶外(そと)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]に來り、伺ふ。
暁明、その手を携へて、坐敷に俦(ともな)ひ入(いり)、つねのことく[やぶちゃん注:ママ。]、もの語りするに、白露、よろこふ[やぶちゃん注:ママ。]氣(け)しきなく、いふけるは、[やぶちゃん注:俦「儔」(ここは「伴う」の意)の異体字。]
「君、すてに野狐(やこ)を愛し給ふ。妾、まことを盡(つく)すとも、ついに[やぶちゃん注:ママ。]秋の扇(おふき[やぶちゃん注:ママ。])と、すてられ、婕妤(しやうよ[やぶちゃん注:ママ。]「せふよ」が正しい。)が怨(うらみ)を懷(いだか)んのみ。」[やぶちゃん注:後半部は、班婕妤(はんしょうよ)の故事。班婕妤(班女とも呼ぶ)は前漢の女官(婕妤は女官の階級名)。成帝に仕えたが、寵を趙飛燕姉妹に奪われ、その後は退いて、太后に仕えた。君寵の衰えた我が身を秋の扇に喩えて作ったとされる「文選」所収の「怨歌行」、別名「団扇歌」は、その時の悲しみを歌ったものされ(但し、擬作とされている)、男の愛を失った女の喩えとして「秋の扇」という故事成句が出来た。]
抔(な)ど、言葉の終らざるうちに、奧のかたにて、咳嗽(しばふき[やぶちゃん注:ママ。])の声、しきりに聞へけれは[やぶちゃん注:ママ。]、しら露、遽(あわ)てる風情にて、
「君か[やぶちゃん注:ママ。]斉中[やぶちゃん注:以前にも出たが、「書斎の中」(実際には書斎を中心とした屋敷の意)。]は、外(ほか)に人ありと覺へたり。妾は、いそき[やぶちゃん注:ママ。]、歸らん。」
とて、
「ずつ」
と、はしり出《いで》て去る。
[やぶちゃん注:「咳嗽」通常、「しはぶき」と訓ずる。ここは、「わざと咳(せき)をすること・咳払い」の意。
「遽」の字は底本では異体字のこれ(「グリフウィキ」)だが、表示出来ないので、通用字とした。]
此時、蘭、奧より出來《いできた》りけれは[やぶちゃん注:ママ。]、暁明か[やぶちゃん注:ママ。]、いふ。
「汝は、今の、白露を、見しや。」
と聞《きこえ》けれは[やぶちゃん注:ママ。]、蘭、ため息して、
「扨々(さてさて)、危(あやふ)き事かな。君か[やぶちゃん注:ママ。]命、風前(ふうぜん)の燈火(ともしび)、日かけ[やぶちゃん注:ママ。「日蔭」。]まつ間《ま》の蜉蝣(かけろう[やぶちゃん注:ママ。「かげろふ」。以上は、カゲロウ類が朝に生まれて夕べに死ぬとされたことから。但し、実際の同類や「カゲロウ」という和名を持つ複数の全くの別種類は(私の「橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(23) 昭和二十三(一九四八)年 百十七句」の「薄翅かげろふ墜ちて活字に透きとほり」の句の注を参照されたい)、実際には成虫の寿命はもっと短い種(最短では一~二時間)さえある。])のことし[やぶちゃん注:ママ。]。妾、今、かれを伺ふに人間にあらず。既に此世を秋風(あきかぜ)の、芒(すゝき)生出(おひ《で》)る斗《ばかり》なり。髑髏(されかうべ)にては候也。君、かれを、親しみ給ふときは、ついに、病、膏肓(かうかう[やぶちゃん注:ママ。「かうくわう」が正しい。])に入《いり》、䐡(ほぞ)[やぶちゃん注:「臍」の異体字。]を噬(かむ)とも益(ゑき[やぶちゃん注:ママ。])なからん。願《ねがは》くは、此後(《この》のち)、かれと恩愛の情を割(さき)、ふたたび近づけ給ふな。」
といふに、暁明、笑《わらひ》て云《いひ》けるは、
「あのことき[やぶちゃん注:ママ。]淑女(たをやめ)、何をもつて髑髏とは、いふぞ。また、我病《わがやまひ》は、曽(かつ)て、なし。汝、さほどに、ねたみ給ふな。」
と、正色(まかほ)になりて、蘭に語れは[やぶちゃん注:ママ。]、
「妾は、緣ありてこそ、同床(《おなじ》とこ)の恩を受(うけ)、君(きみ)の危きを見るに、うち捨(すて)もいかゝ[やぶちゃん注:ママ。]と、拯(すく)ひ參らせんとすれば、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に、金言(きんけん[やぶちゃん注:ママ。])、耳にさからひ、却(かへつ)て嫉妬の名を、かうむる。悲しいかな、傷ましいかな。是より永く、訣(わk)れ參らせん。」
と、淚を流し、出行《いでゆ》けり。
暁明、あわてゝ留《とどめ》んとせしか[やぶちゃん注:ママ。]、はやくも、姿は、見へさり[やぶちゃん注:ママ。]けり。
独(ひとり)殘りし暁明は、ぼう然として居《をり》けるに、
「よしや、芳野の[やぶちゃん注:底本では「の」は踊り字「ゝ」であるが、躓くので、かく、した。]中(なか)絕(たへ[やぶちゃん注:ママ。])て、妹背(いもせ)の山は隔(へだ)つとも、爰(こゝ)にも人のありけり。」
と、又、練絹を手に取れは[やぶちゃん注:ママ。]、白露、ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]來りたり。
暁明、やかて[やぶちゃん注:ママ。]、かき抱き、
「我、汝を愛する事、璧(たま)のことしといへとも[やぶちゃん注:ママ。]、汝を、『髑髏なり。』と、いふもの、あり。少しく、疑(うたがひ)、なきに、あらず。」
と、いふけれは[やぶちゃん注:総てママ。]、白露、愕(おどろ)く面色(めんしよく)にて、淚を流し、
「是、察するに、野狐の精(せい)か。君と妾《せう》との恩愛を、嫉妒《しつと》[やぶちゃん注:「妒」は「妬」の異体字。]する心より、谗言(そらごと)[やぶちゃん注:「谗」は「讒」の異体字。]せしならん。もし、かれか[やぶちゃん注:ママ。]言葉を、誠とし給わゝ[やぶちゃん注:総てママ。「給はば」。]、妾は、ふたゝび、來るまし[やぶちゃん注:ママ。]。」
と、暁明か[やぶちゃん注:ママ。]ひざにうち倒れて、暗々(さめさめ[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。])と泣(なく)すがた、正(まさ)に是こそ、昨夜、春風(しゆんふう)、惡(あし)く、桃李の花(はな)の散(ちり)なんとする粧(よそほひ)。
暁明、心地(こゝち)まとひ、百計(とかふ[やぶちゃん注:ママ。副詞「とかく(兎角)」の変化した「とかう」の当て字・当て訓。「あれやこれや」の意。])慰め、
「今のこと葉は、戲《たはむれ》ぞかし。必、心に介(かけ)給ひぞ[やぶちゃん注:総てママ。「そ」でないと意味が通じない。]。」
と、是より、いやましの愛着(あいぢやく)、片時(へんし)の間(ま)も側(そば)を去(さら)しめず、昼夜(ちうや)、偕老同穴(かいらう《どう》けつ)のちかひは、いふもくたくたし[やぶちゃん注:総てママ。底本では後半の「くた」は踊り字「〱」。「くだくだし」。]。
かくて一月ほども過(すぐ)るに、暁明、ふと、病(やまひ)を得、身体、大《おほい》に困頓(くるしみ)、漸々(せんせん[やぶちゃん注:ママ。]底本では後半は踊り字「〱」。)に重(おも)るほどに、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に、水も、咽(のど)に、くだらす[やぶちゃん注:ママ。]、粒類(ごく[やぶちゃん注:ママ。]《るゐ》)を食(くう[やぶちゃん注:ママ。])に、たちまち、呕出[やぶちゃん注:「呕」は「嘔」の異体字。但し、底本では、(つくり)の「区」の明いている右部分にもしっかり縦画があり、誤刻と思われる。]し、形(かたち)、甚《はなは》た[やぶちゃん注:ママ。]おとろへ、一絲(ひとすじ[やぶちゃん注:ママ。])の息(いき)は通(かよ)へども、精神、恍惚として、日《ひ》に、幾度(いくど)か、死し[やぶちゃん注:失神・気絶の意。]、また、甦(よみがへ)る。
苦しきなかにも、白露か[やぶちゃん注:ママ。]、側《そば》に在(ある)を知つて、長嘆して、云けるは、
「我、悔(くへ[やぶちゃん注:ママ。])らくは、蘭か[やぶちゃん注:ママ。]詞を用ひず、命(いのち)、旦夕(たんせき)に、せまりける。」
白露、是を聞(きゝ)て、抑首(うつむき)て、更に、詞(ことば)、なし。
暁明、今は、せん方なく、
「嗚呼(あゝ)、苦しいかな。」
と叫ひしか[やぶちゃん注:総てママ。]、忽(たちまち)に、目を瞑(ふさ)き[やぶちゃん注:ママ。]、やゝありて、蘇生(そせい)し、あたりを見れば、白露は、いつ地(ぢ)[やぶちゃん注:ママ。]へ行(ゆき)けん、姿は、見ヘず。
暁明、いよいよ、後悔する所に、戶外(そと)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]に、人、來《きた》るあり、声、低(ひきゝ[やぶちゃん注:ママ。])いふは、
「郞君(きみ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]、妾(せう)か[やぶちゃん注:ママ。]詞《ことば》、今こそ、思ひ知らせ給はん。」
といふ。
その声、正(まさ)しく蘭なれは[やぶちゃん注:ママ。]、暁明、あるひ[やぶちゃん注:ママ。]は、よろこび、或は、悲しみ、起(おき)んとすれども、身體(しんたい)重くて、心にまかせねは[やぶちゃん注:ママ。]、苦しき息をつぎて云《いふ》。
「我、汝に負(そむ)きたり。願くは、日頃の契り、空(むなし)うせず、命をすくひ得させよかし。」
蘭、答《こたへ》ていふは、
「君か[やぶちゃん注:ママ。]病ひ、たとへ、扁藉(へんじやく[やぶちゃん注:ママ。「へんしゃ」が正しいか。ただ、この熟語、意味不明である。])、再生すとも、施すべき術《すべ》あらんや。妾、一旦、別れ參らせぬれども、日頃の夫妻の情(じやう)、忘れがたく、いとま乞(こひ)を爲(す)べきためにこそ、假(かり)に、再(ふたゝ)ひ[やぶちゃん注:ママ。]見(まみゆ)るなり。」
暁明、是を聞(きゝ)て、大に悲しみ、泪(なみだ)、漣如(はらはら)として、床の下より、一疋の練絹、とり出《いだ》し、
「只、恨めしきは、此《この》物件(もの)なり。われに代り、引(ひき)さき捨(すて)よ。」
と投出(なげ《いだ》)すを、蘭、とりあけて[やぶちゃん注:ママ。]、燈(あかり)の下におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、よくよく見るに、白露、斎の戶を、押明(おしあけ)、入り來りしか[やぶちゃん注:ママ。]、蘭か[やぶちゃん注:ママ。]居《をり》たるを見、急に、迯(にけ[やぶちゃん注:ママ。])いださんとするを、蘭、走り出《いで》、抱《いだ》きとめ、暁明か[やぶちゃん注:ママ。]まくらもとに、引來《ひききた》る。
[やぶちゃん注:底本の大型画像はここ。]
暁明、恨(うら)める顏色(かんしよく[やぶちゃん注:ママ。])にて、
「わか[やぶちゃん注:ママ。]今日の危きに至るは、みな、汝か[やぶちゃん注:ママ。]所爲(なすところ)ぞかし。しかるに、我を捨行(すて《ゆき》し薄情(はくじやう)、うらみても、猶、うらめしけれ。」
白露、是を聞《きき》、いわんとすれとも[やぶちゃん注:総てママ。]、むね、せまり、声さへ、出《いで》す[やぶちゃん注:ママ。]して、ひたふるに、雨の淚にむせへ[やぶちゃん注:ママ。]ば、蘭、笑《わらひ》て、いわく、
「今日《けふ》、始(はじめ)て、妻妾(さいせう)、相見(たいめん[やぶちゃん注:「對面」の当て訓。])する事を得たり。聞《きき》しに勝(すぐ)れる、美人。われ、女(おんな[やぶちゃん注:ママ。])なれども、猶、憐(いとおし[やぶちゃん注:ママ。])む。いかに、况(いはん)や、男子たるもの、迷ひ玉へるも理(ことは[やぶちゃん注:ママ。])りぞかし。抑(そもそも)、御身は、いかなるものぞ。來歷を、くわしく語り給へ。」
しら露、淚を揮(ぬぐふ)て、いわく[やぶちゃん注:ママ。]、
「妾、何をか、包むべき。誠は陽間(このよ)の人に、あらず。東邑(ひかし[やぶちゃん注:ママ。]むら)の庄屋、兒玉何某(こたま《なに》がし)が女《むすめ》なり。幼き時、父母を、うしなひ、伯母なるものに育(やしなは)れ、今年、十六歲の春、梢(こづへ[やぶちゃん注:総てママ。「こずゑ」が正しい。])の花と、ちり行《ゆき》し身のうへ、語り侍らんあいだ[やぶちゃん注:ママ。]、聞《きき》て、憐み給へかし。妾か[やぶちゃん注:ママ。]隣家、棟を連ね、壁を隔てゝ、日下部左近(くさかべ《さこん》)と云もの、住(すめ)り。平生(へいぜい)、妾か[やぶちゃん注:ママ。]容色を愛(あいし)、或夜、伯母の留守を考(かんかへ[やぶちゃん注:ママ。])て、密(ひそか)に來りて、非道を行わん[やぶちゃん注:ママ。]とす。妾(せう)は、『人ならぬものに、身を汚(けが)さじ。』と、あへて從わず[やぶちゃん注:ママ。]、却(かへつ)て、罵(のゝし)り辱(はじ[やぶちゃん注:ママ。])しめければ、左近、大《おほい》に怒り、情なくも、妾を縱死(くひり[やぶちゃん注:ママ。]ころ)し、後(うしろ)の堤(つゝみ)の下に持行(もち《ゆき》》、深く埋(うづ)みて、去《さり》けり。その夜は、風雨、烈しくて、更に人の知る事なけれは、妾か[やぶちゃん注:ママ。]拄死(わうし)の寃(うらみ)をは[やぶちゃん注:ママ。]、訴(うつたへ)なん所なく、魂魄、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に消散せず、堤の邊りをはなれやらず。死したる時のすかた[やぶちゃん注:ママ。]にて、恥を世に揚(あげ)むとせし所に、君か[やぶちゃん注:ママ。]ふかき惠みを被(かふむ)り、妾か[やぶちゃん注:ママ。]首(くび)に纏(まとひ)たる、練絹を、とき玉わりし故、冥路(めいろ)の苦しみ、やゝ輕く、仍(なを[やぶちゃん注:ママ。])も、君を、たのみまいらせ、仇(あた[やぶちゃん注:ママ。])を報わん[やぶちゃん注:ママ。]爲《ため》、苟旦(かりそめ)の綢繆(ちきり[やぶちゃん注:ママ。])をなしぬ。此練絹こそ、妾か[やぶちゃん注:ママ。]此世の命を斷(たち)たる怨(うらみ)のきづな。人の、手にふるゝ時は、陽間(このよ)へ引《ひか》れ來て、姿を顯(あらは)し侍《はべら》ふ也。然るに、君との愛着《あいぢやく》、夜々《よよ》ことに[やぶちゃん注:ママ。「每(ごと)に」であろう。]加《まさ》り、うらみも、仇も、うちわすれ、云出《いひいだ》すべき心なく、月日を空しく過《すぐ》るうち、君、妾《せう》故《ゆゑ》に、重き病を受(うけ)給ふ。ちきり[やぶちゃん注:ママ。]し初(はじめ)、おもひきや、君、かく成果(《なり》はて)玉わん[やぶちゃん注:ママ。]とは。今は悔(くやみ)ても、あまりあり。願くは、御身、霊藥(れいやく)を用(もちひ)、君のいのちを、すくひ、妾か[やぶちゃん注:ママ。]幽冥の罪(つみ)を重ねずは、此恩、深く、感ずべし。」
と。
亦、暁明に、うちむかひ、
「今こそ、君上(きみうへ)、永く訣(わか)れん。君、必《かならず》、藥(くすり)をふくし、御身を保ちたまへかし。」
と、紅淚、千行(《せん》かう)す、と、見えし姿は、失《うせ》て、練絹のみ、坐敷に殘り留《とどま》りぬ。
暁明、始て、大におとろき[やぶちゃん注:ママ。]、あきれはてゝぞ、居《ゐ》たりける。
蘭か[やぶちゃん注:ママ。]また、暁明に向《むかひ》ていわく、
「今は、何を包み申さん。妾《せう》も、是、人間にあらず。南山(なんざん)に年を厯(へ)て[やぶちゃん注:「厯」は「歷」の異体字。]、子孫、あまたもちたる狐にて、さむろふ[やぶちゃん注:ママ。]。此たひ[やぶちゃん注:ママ。]、人、ありて、府尹(ぶぎやう[やぶちゃん注:前編の冒頭に出た通り、「奉行」の当て訓。])に訟(うつた)へ、『南山を切(きり)ひらいて、墾(あらきばり[やぶちゃん注:新たに開墾することを言う。])して、新田とせば、大《おほい》なる民の利なり。』と、いふによつて、府尹、是に隨わん[やぶちゃん注:ママ。]とす。かくては、我か[やぶちゃん注:ママ。]すむ窟穴(ほらあな)、杲發(ほりあば)かれて、わが子孫も盡《ことごと》く殺されるの、悲しく、此事を止むべき人、君(きみ)ならであらし[やぶちゃん注:ママ。]と、假(かり)に人身《じんしん》に変(へん)し[やぶちゃん注:ママ。]、一夜は、東西に行《ゆき》て、食を求め、子孫の狐を、やしなひ、一夜は、來りて、君とかたらひ、かくまて[やぶちゃん注:ママ。]親しみ參らせぬ。然るに、君、今、重き病を得給ふ故、もし、死したまひなば、妾か[やぶちゃん注:ママ。]願《ねがひ》、果(はた)さゝる[やぶちゃん注:ママ。]事の悲しさに、凡《およそ》、日本六十八州の深山・幽谷[やぶちゃん注:底本では「幽」はこれ(「グリフウィキ」)であるが、表示出来ないので通用字で示した。]に、いたらぬくまもなく、あしにまかせて、奔走し、辛労(しんろう[やぶちゃん注:ママ。])して、やうやう、仙人石室(《せんにん》せきしつ)の霊薬(れいやく)を採得(とり《え》)、持來(もちきた)りはべる。是、見給へ。」[やぶちゃん注:「仙人石室の」深山の仙人が隠し部屋である石室に封じた秘密の仙薬。]
と、袖のうちより一包《いつぱう》の藥を出《いだ》し、また、云けるは、
「我か[やぶちゃん注:ママ。]本身《ほんしん》を語りし上は、暫くも留《とどま》るへき[やぶちゃん注:ママ。]にあらず。今は、まことに、別れ參らせん。願くは、君、此藥をふくし、病(やまひ)癒(いへ)給ふの後(のち)、妾《せう》か[やぶちゃん注:ママ。]ため、左擔(せわ[やぶちゃん注:「世話」の当て訓。])のちからを勞し、南山墾田(こんでん)の事を、止(や)め給わゝ[やぶちゃん注:ママ。]、生々(せいせい)の大恩、何事か、是に過(すぎ)ん。われ、君か[やぶちゃん注:ママ。]子孫の、冨貴長壽(ふうきてう[やぶちゃん注:ママ。]じゆ)ならん事を誓ひ候半《さふらはん》。」
と、云終(いひおわ[やぶちゃん注:ママ。])りて、立《たち》あかりしが、さすがに、恩愛、捨がたきにや、戀々(れんれん)として顧盼(ふりかへりて)、佇立(たゝずみ)て、泣居(なき《をり》)ける。
暁明は、
「狐狸は、おろか、豺狼(さいらう)[やぶちゃん注:野犬やオオカミ。]の変化(へんげ)なりとも、かく迄、情(じやう)の深かりし、いもせのちかひ、此侭(このまゝ)に、いかてか[やぶちゃん注:ママ。]捨ん。」
と、起出(おき《いで》)て、引(ひき)とめんとするに、蘭か[やぶちゃん注:ママ。]すがたは、はや、見えず。
暁明、跌足(すりあし)して、泣(なく)といへども、爲方(せんかた)なく、屹(きつと)、心を定めて云《いふ》。
「此うへは、わかいのちを全ふし、渠(かれ)か[やぶちゃん注:ママ。]望(のぞみ)を果(はた)し得《え》させ、日頃のよしみを、報ぜん。」
と、枕の上にありける薬をとり、自(みづか)ら煎じ、腹[やぶちゃん注:ママ。](ふく)するに、精神、忽(たちまち)、爽(さはやか)になり、日を經て、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に本復(ほんぶく)す。
こゝに於て、長崎の尹(いん)、何某邸(《なに》がしやしき)に行(ゆき)、
「かゝる不側(ふしぎ[やぶちゃん注:「不思議」の当て訓。])の事、侍りき。」
と、始《はじめ》より終り迄、一々、語り、
「南山新田開發の事、何とぞ、止(や)め給われ[やぶちゃん注:ママ。]。」
と、悲しみ、訴ふ。
尹、おどろきて、
「奇異の事。」
とし、
「此度(《この》たび)、墾田(こんでん)の事を、ひそかに、我に、すゝむるもの、ありといへとも[やぶちゃん注:ママ。]、いまた[やぶちゃん注:ママ。]、他人、知るもの、なし。然るに、足下(そつか)、これを、いふ。是、霊狐(れいこ)の告(つぐ)る所、疑ふべきにあらず。心やすくおもひ給へ。此事を止めん。」
と、則(すなはち)、かの苦首(そしやうふん)[やぶちゃん注:「初期江戸読本怪談集」の本文(読みは「そしやうぶん」とある)では、「苦」の左に『(告)』と補訂注がある。「告首」は進言した当の本人の意であろう。後に示す挿絵では、月代を剃らず、ぼさぼさの頭であるから、姓もあればこそ、所謂、浪人者のようには見える。別な潘から流れてきたもので、相応の才覚は持っており、奉行に直接に提案するほどには取り立てられてはあった者であったのであろう。]、日下部左近を召(めし)て、
「此たひ[やぶちゃん注:ママ。]、新田、あらきばりの一件、無用たるべき。」
の、むねを、喩(さと)す。
然(しか)るに、暁明、「日下部左近」か[やぶちゃん注:ママ。]姓名、きゝ申連(《まふし》たて)[やぶちゃん注:奉行が対象者の名を言ったのを「聴き申し上げたことろが」の意。]、かの白露(しらつゆ)を殺せし次㐧(しだい)を申《まうす》に、ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]府尹、聞て、
「さては。渠《かれ》、かゝる惡行ありけるや。」
と驚きて、左近を、からめさせ、責問(せめとふ)ところに、
「覺へ[やぶちゃん注:ママ。]なし。」
と陳(のぶ)る。
[やぶちゃん注:底本の大型画像はここ。]
是によつて人、を遣(つかが)して、堤(つゝみ)の下を堀(ほら)[やぶちゃん注:漢字はママ。]らしむる所に、果して、女の死骸、出《いで》たり。
斯日を經(へ)るといへども、少しも、朽(くち)ず、身体面容(しんたいめんよう)、生(いき)るかことし[やぶちゃん注:総てママ。]。
左近、是を見て、大におとろき[やぶちゃん注:ママ。]、毛骨(みのけ)、森然(しんぜん)として[やぶちゃん注:所謂、恐ろしさの余り、「総毛立つ」ことを言う。]、顏色(がんしよく)、土(つち)のことく[やぶちゃん注:ママ。]にして、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に、白露を殺せし事を招(はくでう)す。
府尹(ぶぎやう)、怒りにたへず、卽刻、左近を斬罪し、暁明に命(めい)し[やぶちゃん注:ママ。]、白露か[やぶちゃん注:ママ。]尸(かはね[やぶちゃん注:ママ。])をは[やぶちゃん注:ママ。]、ちかき寺院に葬(ほうむ)らしむ。
その夜、暁明は、白露を夢みしに、彼(かの[やぶちゃん注:ママ。])の恩志を、厚く謝していわく[やぶちゃん注:ママ。]、
「君の力をもつて、仇(あた[やぶちゃん注:ママ。])をほうじ、冥路の、寃魂消(えんこん[やぶちゃん注:ママ。])散し[やぶちゃん注:ママ。通常は「散じ」。]、天堂(てんとう[やぶちゃん注:ママ。六道の「人間道」の上の「天上道」のことであろう。]に生《しやう》を得たり。」
とて去りぬ。
亦、暁明、一日(ある《ひ》)、南山に、いたりて、狐窟(こくつ)を、たづね、「蘭」に、今一たひ[やぶちゃん注:ママ。]見(まみ)ゑん[やぶちゃん注:ママ。]ことを、いのるに、窟中(ほらのなか)より、一匹の雌狐(めきつね)、あまたの小《こ》きつねを連(つれ)て出《いで》、暁明に、むかひ、首を、ふし、拜を、なして、また、穴(あな)に《いり》入たり。
是よりのち、暁明は、儒業、いよいよ、すゝみ、門人數千にいたり、四方の士、みな、秦山・北斗のごとく、尊(たつと)ひ[やぶちゃん注:ママ。]、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に府尹(ふきやう[やぶちゃん注:ママ。])の女(むすめ)を、めとり、子孫、多く、一門、枝葉(しよう[やぶちゃん注:ママ。])、蔓延(はびこり)し、冨貴に至る。
「今に、長崎に、その子孫あり。」
といふ也。
怪異前席夜話卷之二終
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