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2023/07/07

梅崎春生「つむじ風」(その3) 「おっさん」

[やぶちゃん注:本篇の初出・底本・凡例その他は初回を見られたい。]

 

     お っ さ ん

 

 玄関の扉をがたごとと引きあけた。浅利圭介は陣内陣太郎に低声で言った。

「暗いから、足もとに気をつけるんだよ」

 上り框(がまち)も古ぼけているから、ぎいときしんだ。圭介は奥に声をかけた。

「ただいま」

「どなた?」

 茶の間からランコの声がした。その声につづいて、長男の圭一の声で、

「おっさんらしいよ」

 圭介は眉をひそめ、情なさそうに顔をくしゃくしゃにした。陣太郎はごそごそと靴を脱ぎ終えた。圭介は言った。

「僕だよ。おばはん」

 ランコの声がこだまのように戻ってきた。

「ああ、おっさんか。お帰りなさい」

 圭介のおばはんに対抗して、ランコがおっさん呼ばわりを始めたのは、もう半月ほど前になる。こちらもおばはん呼ばわりをしている関係上、圭介はそれに難癖をつけるわけには行かなかった。ただおっさんと呼ばれで見ると、急に自分が爺むさくなったような気がして、情なかった。

 しかし、ランコもおばはんと呼ばれて、とたんに婆むさく情なかっただろうと、想像してやる力は圭介に欠けていた。怠け者のくせに、彼の想像力は案外に貧弱だったのだ。

 ただ困るのは、圭一までが近頃母親の口真似をして、圭介のことをおっさん呼ばわりをし始めたことだ。間借人に転落して覚悟はきまっているつもりなのに、子供のそれは圭介にひどくこたえるのである。

「こちらだよ」

 圭介はうすぐらい廊下を先に立ち、顔をしかめたまま、納戸の方にすたすたと歩いた。陣太郎はリュックサックを引きずり、そのあとにつづいた。

 初めての家だから、ふつうならば尻ごみしたり、おどおどしたりするものなのに、陣太郎の態度は悠々迫らず、まるで自分の家に戻ってきたような歩き方であった。

 茶の間の障子がすこしひらかれ、そこから圭一の幼い顔が廊下をのぞいた。

「おっさん、誰かお客さんを、連れてきたヨ」

 圭介につづいて、陣太郎も納戸に足を踏み入れ、リュックサックをどしんと畳に置いた。ぐるぐると見廻した。

「ほこりっぽい部屋だろう」

 圭介は先手を取って言った。陣太郎がそのような顔をしていたからだ。

「僕は生来、あまり掃除というやつが、好きでないんだ。軍隊でも苦労したよ。君は兵隊には行ったかね」

「兵隊?」

 陣太郎はそう問い返しながら、畳に腰をおろそうとしたが、思い直したように腰を浮かせ、リュックサックに腰掛けた。床几(しょうぎ)にうち掛けた武将のように、足をゆったりとひろげ、胸をそらして、

「おれ、海兵にいたんですよ」

「カイヘイ?」

「ええ。江田島の海軍兵学校です」

 圭介は陣太郎の顔を見た。陣太郎は魚のように無表情である。圭介は畳に腰をおろした。何かに腰かけたかったが、生憎(あいにく)手頃のものがなかったのだ。陣太郎はつづけた。

「在学中に、気に食わぬことがあってね、田淵という教官をぶんなぐってやったんですよ。それが問題になって、とうとう江田島を追い出されたね。ははは」

 

「本当かい、それ」

 浅利圭介は探るような眼付きで、陣内陣太郎を見上げた。陣太郎はリュックサックに腰かけているし、圭介は畳にあぐらをかいているので、どうしても見上げるという恰好になる。見上げられても、陣太郎は悠然としていた。

「それからどうしたね?」

「追い出されたから、仕方なく東京に舞い戻って、学校に入り直しましたよ」

「どこの学校?」

「東大」

 陣太郎はすらすらと発音した。

「フランス文学科に入ったんだけどね、途中で止めちゃった。敗戦でうちも斜陽族になったし、それに仏文の内部でもいろいろ勢力争いがありまして、何かというと、このおれを利用しようとしやがってねえ、いや気がさしてとうとう飛び出しちゃったんですよ」

「よく飛び出したり、追ん出されたりするんだな」

 何かを計るように圭介は陣太郎を眺めながら、煙草を一本吸いつけた。陣太郎はためらうことなく掌をさし出した。

「おれにも一本ください」

 箱ぐるみ出しながら圭介は言った。

「さっき、教官をぶんなぐったということだったが手」

「ああ、あれ、イヤな男だったなあ。生意気でおしゃれで、それに意地悪でねえ、生徒たちから手荒く嫌われてたんですよ。棒倒しという競技があるんですよ。江田島の棒倒し。御存じですか?」

「棒倒しなんか知らないが――」

 圭介は陣太郎の饒舌を封じた。

「かりにも教官をぶんなぐって、それで退校だけで済むかね。海軍のことはよく知らんけれども、やはり、軍法会議とかなんとか――」

「いや」

 陣太郎は両手をにゅっと突出して、圭介の発言を封じた。声の調子を一段と落して、

「これには深い事情がありましてねえ」

 そしてそのまま陣太郎は突然口を閉じた。沈黙が来た。

 やがて圭介はのそのそと立ち上り、部屋の隅の書棚から、一冊のスクラップブックを引き出した。元の場所に戻ってきた。

「僕は、君に、同情している」

 スクラップブックをぱらぱらとめくりながら、圭介は重重しく目を開いた。

「僕の考えでは、あれはそのまま放って置く手はないと思う」

「おれも、そう思っているんです」

「放って置くから、ますますあいつらは増長するんだ。僕はまったく義噴を感じるよ」

 圭介はやや亢奮(こうふん)して、拡げたスクラップブックの一頁をぽんと叩いた。

「だから運輸省でも、近頃こういう公示を出した。読んでみるよ。自動車をお持ちの方へ、運輸省――」

「なんだ、自動車のことか」

 陣太郎は意外そうに呟いた。圭介はつづけた。

「ええ。自勁車損害賠償保障法は、二月から全面的に実施されているので、この法律に定める自動車損害賠償責任保険に加入した上保険証明書を備えつけなければ、自動車を運行の用に供することが出来ません。ええ、下手っくそな文章だな。全く役人という奴は、頭が悪いよ。ええと、これに違反すると、三ヵ月以下の懲役又は三万円以下の罰金――」

 

 浅利圭介はスクラップブックを読むのをやめて、じろりと陣内陣太郎を見た。

「君。そのリュックからおりて、畳に坐らないか。上から見おろされていては、どうにも具合が悪い」

 陣太郎は腰を浮かし、指で畳のざらざらをたしかめ、そしてぎごちなくあぐらをかいた。

「そんなに気味悪そうに坐らなくてもいいじゃないか」

 圭介はちょっと気を悪くしてたしなめた。視線をスクラップに戻して、

「ええと、次は、自動車事故による被害を受けた方へ、だ」

 どこを見ているか判らないような眼付きで、陣太郎は神妙にあぐらをかいている。

「自動車事故により被害(人身)を受けた方は、その自動車が加入している損害保険会社にも、損害賠償額の支払請求ができます。ひき逃げされた方も批害保険会社に請求して、政府の保障金を受けられます」

「ひき逃げ?」

 陣太郎が反問した。

「ひき逃げされたというのは、おれのことですか?」

 廊下から幼い足音が、歌とともに近づいてくる。お手々つないで、の節(ふし)で、

 

  おててんぷら つないでこちゃん

  のみちを 行くおっさん

  みんな かわゆくない

  のんきなおっさん 毛が三本

 

「まだ小学一年だというのに、ろくな歌はうたわない。全く将来が思いやられる」

 圭介おっさんは頭をかかえてぼやいた。陣太郎がそれをとりなした。

「独創的で、なかなか面白い歌じゃないですか」

 障子が外からひらかれて、長男の圭一が顔を出した。

「お母ちゃんがね、今月分の部屋代をちょうだいってさ」

「ああ、判ったよ」

 圭介は情ない声を出した。

「ここに入って坐りなさい。ほら、子供のくせに、またあぐらをかく。きちんと坐るんだ」

 圭介は内ポケットから、今日貰った失業保険の袋を引っぱり出した。紙幣を指で数えながら、

「圭一、お前は今へんな歌をうたっていたな。ああいう歌をうたってはいけないよ。とても偉くなれないよ」

「僕、偉くならなくてもいいんだ」

 圭介はぎょっとしたように圭一を見た。それからもごもごと、

「うん。偉くならなくてもいい。いいがだ、そんな歌をうたうのはよろしくない。それから、お前は近頃、お父さんのことを……」

「紙ならありますよ」

 圭介が千円紙幣三枚をつまんで、視線をうろうろさせているので、陣太郎が気をきかせて声をかけた。手早くリュックサックの口をひらいて、紙を一枚引っぱり出した。

「原稿用紙だね。ふん」

 ふん、と圭介がつけ加えたのは、その原稿用紙の隅に、『陣内陣太郎用箋』と小さく印刷してあったからである。

 圭介はそれに紙幣を乗せ、器用に折り畳んだ。

「これ、持って行きなさい」

 圭介は父親の威厳を見せて発音した。

「のんきなおっさん毛が三本、なんて歌は、本当によすんだよ。判ったね」

 

「ひき逃げじゃない」

 圭一の足音が廊下に消え去るのを待って、圭介は陣内陣太郎の方に向き直った。

「しかし君は、あの自動車のために、地面にひっくり返ったのだ。あの自動車がなければ、ひっくり返るということは、なかったわけだな。そして自動車は、そのまま逃げた。あの自動車が五分間ばかり君をにらんでいた、と君は言ってたようだが、それは君の記憶違いだよ。ほんの一瞬の間で、自動車は逃げたのだ。この僕が見たんだから、間違いはない」

 はてな、という顔付きになって、陣太郎は小首をかしげた。

「じゃあ、おれに、損害保険会社に行け、と言うんですか?」

 いぶかしげな表情のまま、陣太郎は自分の後頭部をとんとんと叩いた。

「でも、服とリュックが汚れたくらいで、損害保障をして呉れるかなあ?」

「そ、そこなんだよ。君」

 圭介の声は急にやさしく、わがままな病人をなだめる看護婦みたいな口調になった。

「物質的な損害は、服とリュックだけかも知れないが、精神的な面も考えなけりゃいけない。ね。あんな目にあって、君はびっくりしただろう。つまり、相当のショックを受けたわけだろう?」

「ショック?」

 陣太郎はおうむがえしに言った。

「そう。ショック。ショックだけでも、大いなる精神の損害だ。それに、そ、そのショックのためにだ――」

 やや言い辛[やぶちゃん注:「づら」。]そうに言葉がもつれた。

「精神の活動がにぶるとか、あるいは頭の歯車が狂うとか、そんなことがあれば、これはもうたいへんな損害だね。つ、つまり、人間から毛が三本足りなくなる状態――」

「それ、おれのことを言ってるんですか」

 陣太郎はすこし気色ばんだ。

「三本足りないのは、さっきの歌じゃないが、のんきなおっさんのことでしょう」

「仮、仮定のことだよ。ね」

 圭介は両掌で眼の前の空気を押さえつけるようにした。

「しかしだね、ショックでちょっと頭の歯車が狂うということは、それはよくあり勝ちのことだ。なにも恥かしいことじゃない。たとえば錯覚なんかもそうだね。君があの時、一瞬の出来事を、五分間のことのように思ったのも、その一種だよ。その錯覚だけで済めばいいが、それがへんな具合に亢(こう)じたりすると、ことは面倒になる。それは君にも納得が行くだろう」

「一応納得することにしましょう」

 陣太郎は面倒くさそうに言った。

「それで、その錯覚分まで、保険会社が賠償して呉れると言うんですか?」

「錯覚だけじゃダメだろうね」

 思わせぶりな口調に圭介はなった。

「錯覚が亢じて、つまり、本式のクルクルパー――」

 陣太郎がまた眼を剝(む)いたので、圭介はあわてて語調を変えた。

「つまり錯覚だけに止っていてもだ、それを本式のクルクルパーという具合に申告すればだ、それ相当の保障金が受けられるということになる。ね、そうだろう?」

 陣太郎は腕を組んで首を傾けた。

「おれ、しもじものことはよく知らないけれど、保険会社というやつはそんなに甘っちょろいものかなあ」

 

「しもじものこと?」

 浅利圭介は笑った。陣太郎のその言葉を冗談と受取ったのだ。

「しもじもとは大きく出たもんだね。もちろん保険会社は、そんなに甘っちょろくないさ」

「じゃあダメしゃないですか」

「まずダメだろうな」

 圭介はけろりとして言った。しかしその眼は油断なく陣太郎を注視していた。陣太郎はやや混乱したかのように、唇をゆるめ、眼をぱちぱちさせた。

「君はずいぶん変った顔をしているな。眼と眼がたいへん離れている」

「おれんとこの一族は皆そうですよ」

「そうかね。一度見ると忘れられない顔だ。そんなに離れていては不便だろう」

 圭介は書棚の本のうしろから、ウィスキーの瓶を取出した。グラスを二つ並べ、とくとくと注いだ。[やぶちゃん注:本作の後の部分から「注いだ」は「そそいだ」ではなく、「ついだ」である。]

「不便じゃないですね」

 そのくらいのサービスは当り前といった態度で、陣太郎はそれを一気に飲み乾した。舌鳴らして言った。

「もう一杯下さい」

「そんな顔に生れつくと、得もするだろうが、損もするだろうね」

「損得はないですね。顔は他人(ひと)のためにあるんだから」

「他人のために?」

「そうですよ。顔というのは、眼や鼻や口や耳、そんなものの配置の具合を言うんでしょう。もちろん、眼や鼻や耳、そんな器官のひとつひとつは、当人のためにある。見たり、聞いたり、味わったりするためにですね。そのために具えつけられている。しかし、それらの器官の全般的な配置のし具合は、当人とはあまり関係がない。つまりそれは他人がその人を識別するためにあるのです。そして配置の具合の微妙な変化によって、他人はその人の気持を知ることが出来る。たとえば、頰に皺(しわ)を寄せ、口をあけ、目を細めたとすれば、当人が嬉しがって笑っていると、他人が知る仕組みになっているですな」

 そして陣太郎はまたグラスをにゅっと突出した。

「もう一杯」

 何だかげんなりした気分になって、圭介はまたウィスキーを注いでやった。陣太郎はそれも一気に飲み乾した。ふつうの声で、

「あの自動車の番号を、おっさんは見たんだね。そうでしょう?」

 圭介はぎよっとして陣太郎を見た。ぎょっとしたことを、陣太郎に悟られたと思ったが、しかしあくまでしらばっくれて、

おっさんはよして貰いたいな。君からまでおっさん呼ばわりをされるいわれはないぞ。浅利さんと呼べ」

「浅利さんの器官の配置が、ちょっと変りましたね」

 皮肉めいた口調でなく、淡々とした調子でつづけた。

「おれには見えなかった。前燈があんまりぎらぎらしていたもんだから、つい見そこなった。あのナンバーは、何番でした?」

 そうと決めてかかった言い方だったので、つい圭介はつられて口に出してしまった。

「三の、一三一〇七」

「三の、一三一〇七、ね」

 頭に刻もうとするかのように、陣太郎はゆっくりした声で復唱した。

[やぶちゃん注:陣太郎が「教官をぶんなぐってやった」結果、「江田島を追い出された」というその具体的な動機が、はぐらかされて自動車事故の損害賠償の話に変えつつ、精神的なショックを圭介は、暗にその動機の正体を示唆しようとしているのは、明らかである。梅崎春生は戦争末期を九州の海軍基地を転々として桜島で解除を受けたのだが、梅崎は、桜島以外については、その頃、どこで何をしたかを、生涯、語らなかった。そこには言うもおぞましい体験があったからに他ならない。ここで圭介が陣太郎の動機にある事件を、梅崎春生は、自身のトラウマ体験と重ね合わせて、読者に匂わしていると考えるべきであろう。具体的には、私は梅崎が海軍の中で、上官などから受けた同性愛の強制行為であったに違いないと踏んでいる。考えて見れば、実際には、自動車にはねられたのではなかったが、それは「車に尻(ケツ)をほられた」ということ、則ち、「オカマをほられた」ことと同義でもあるからである。

 

 その夜は納戸(なんど)に二人で寝ることになった。

 こちらが招いたのだから、本来ならばお客あつかいにすべきなのだが、浅利圭介はすでにこの家の主人でなく、単なるおっさんでしかない関係上、充分なもてなしは出来ないのである。圭介の自由になるのはこの部屋だけで、他の部屋はランコ母子、止宿人たちで占められているのだ。

(こんな妙な男、連れて来なければよかったな)

 ばたんばたんと蒲団をしきながら、圭介はちょっと後悔をした。

 自動車のナンバーを地面に控えた時、また陣内陣太郎を家に誘った時、圭介にはまだはっきりした方針が立っていたわけではなかった。とにかくこれは放って置けないという義憤みたいなものだけで、一役買おうという気持はまだ胸に発生していなかった。いないつもりであった。

 ところが、つい陣太郎にそのナンバーを洩(も)らした瞬間、圭介がわけもわからない忌々(いまいま)しさを感じたのも、最初からこの事件をモノにしたいと、彼が潜在的なところで考えていたせいに違いない。モノにするためには、加害者のナンバーさえ判ればいいので、被害者の身柄なんかさして必要ではないのだ。

(モノにすると言うと、この俺がそれをネタにして、ゆすりたかりを働こうというわけか? この俺が?)

 掛布団を力まかせに押入れからひっぱり出しながら、かるい戦慄(せんりつ)と共に圭介は考えた。まだゆすりたかりを働かない前に、その想像を自分に課することによって、戦慄してみるところに、圭介という人間の小市民的善良さがあるのだろう。こういう人物は、いくらランコあたりから尻をひっぱたかれても、とうていこの世では出世の見込みはないのである。圭介はあわててその想像を打ち消した。

(イヤイヤ、これはゆすりたかりというものではない。とにかく通行人をひっくり返して、そのまま逃げるということは、この世の秩序を乱す行為だ。そういう行為を、俺は市民の一人として……)

「三の一三一〇七、か」

 陣太郎はノートを取出して、鉛筆をなめていた。酔いがその頰をあかくしていた。

「どういうつもりで、おれを轢(ひ)こうとしたんだろう?」

「轢くつもりじゃなかったんだ」

 圭介は忌々しげに言って、蒲団を畳に投げ出した。

「あんまりうぬぼれないがいいよ。それとも轢かれるような理由でもあるのかい?」

「おれ、ねらわれているんです」

 陣太郎はしずかな声で言った。

 その声音は妙なリアリティを圭介に感じさせた。

「誰から?」

「近いうちに、おれ、相続することになっているんです。一方それを邪魔しようとする一味がいるんだ」

 茶の間の方から、重々しい足音が廊下を近づいてきた。障子がそっと開かれた。ランコが立っていた。

「お客さんなの?」

 ランコは陣太郎を一瞥(べつ)し、圭介をにらみ据(す)えるようにした。

「うん。ううん。僕のお客さんだ」

 僕の、というところに圭介は力を入れた。

「おばはんとは関係のない御仁(ごじん)だよ」

 

「僕のお客さん?」

 わけの判らんことを聞くもんだ、という表情にランコはなった。

「あんたのお客さんなら、うちのお客さんじゃないの。うちのお客さんなら、すなわちあたしのお客さんよ」

「だ、だって、僕は間借人……」

「部屋代は徴収していますよ、部屋代は」

 ランコは圭介をきめつけた。

「しかしあんたはまだ、あたしのオットですよ。それを忘れちゃ困るわね」

「でも、この家の主人は、もう僕じゃなく、おばはん……」

「もちろん主人はあたしですよ。しかしまだあんたは、あたしのオットです。それともオットの籍が抜けたとでも思ってるの?」

 何だか奇妙な論理だと思ったが圭介はあらがうことを止めた。陣太郎を前にして夫婦喧嘩を見せたくなかったのである。

 しかし、その口争いに陣太郎は一向無関心なふうで、圭介の煙草を悠々とふかしていた。その陣太郎の姿と、投げ出された蒲団を、ランコの眼がじろりと見た。

「お客さんには、お客用の蒲団があります」

 ランコは命令した。

「取りに来なさい。おっさん」

 圭介は余儀なく、ランコに従って部屋を出て、やがてエッサエッサと客用蒲団をかかえて戻って来た。それを畳に投げ出して、自分の方の蒲団をばたばたとしいた。それでも陣太郎が傍観しているものだから、圭介はついに怒鳴った。

「君も手伝え。君の蒲団だぞ!」

 陣太郎は立ち上って、のろのろと手伝った。その手伝い方はびっくりするほど不器用だった。

「そんな蒲団のしき方があるか。君は蒲団のしき方も知らないのか?」

 やっと蒲団をしいてしまうと、部屋は蒲団だらけになって、畳の目も全然見えなくなった。六畳から家具の占領分をさし引くと、実質四畳しかないから、それも当然なのである。

 陣太郎はリュックサックを蒲団の裾(すそ)に置き、寝巻に着換えて、ごろりと客用蒲団に横になった。

 圭介も消燈してつづいて横になったが、あまりいい気持のものでなかった。圭介のせんべい蒲団に対し、陣太郎のは客用でふかふかしていて、第一厚みがちがう。一段下に寝ている恰好なのである。その一段上から、陣太郎が声をかけた。

「おれ、眠ります」

「眠れ」

 圭介は忌々しげに返事をした。陣太郎はおっかぶせるようにいった。

「おれ、蒲団をしいたこと、あまりないんですよ」

「それは、どういう意味だい?」

 少し経って圭介は、闇の中から問い返した。返事はなかった。陣太郎はもはや眠りに入っているらしく、かすかないびきがそこから流れてきた。

(やはりこの男は、あのショックのために、すこし歯車が狂っているらしいな)

 うつらうつらとした状態で圭介は考えた。

(とにかく明日から、あのナンバーの自動車を探さねばならん。探し出したら、そこからまた事がはじまるだろう――)

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