佐々木喜善「聽耳草紙」 一六五番 いたずら
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]
一六五番 いたずら
昔、一人のセツコキ男があつた。或時此男が村の觀音堂に籠つて、どうぞ錢を授けて下さるやうにと祈願した。お觀音樣は正直な男だらうと思つて、本當の錢を授けてやつた。すると間もなく使い果して、又來てお願ひをした。それでは今度こそ無駄使いをせぬたうにとて、再び授けてやると、またまた博奕を打つ、酒を飮む、茶屋遊びをする、そして直《すぐ》にそれを使ひ果たして、三度目のお願ひを觀音堂でやつて居《ゐ》ると、お觀音樣は、あゝよしよし、今度は大きな板の錢をやると言はれた。男が夜明の鷄の聲に驚いて歸らうとすると、顏が御椽《おえん》の敷板に粘着(クツツ)いて離れない。[やぶちゃん注:底本は読点であるが、「ちくま文庫」版で訂した。]そのうちに明るくなつてだんだん村の人達が來て、何をそんなに畏《かしこ》まつてらア、早く起きろと言ふと、男は泣きながら、これこれの譯だと言ふので、早速別當を呼び、代る代る引張つたが、どうしても離れないので、遂々《たうとう》板を切拔いて漸《やうや》く放した。そこで皆が、あれあれ板面(イタヅラ)、板面と言つたとさ。
(一六四番、一六五番、田中喜多美氏御報告の分
の二三。)
[やぶちゃん注:「セツコキ」怠け者。「四二番 夜稼ぐ聟」で既出既注。これは、展開上の流れが、私にはよく判らない。「セツコキ」と、「錢」と、「板の錢」(意味不明。「板銀」のことか)と、観音堂の外縁の「敷板」と、「板面(イタヅラ)」の連関性が、私には不明だからである。何方か、御教授願えると嬉しい。]