佐々木喜善「聽耳草紙」 一五二番 傘の繪
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]
一五二番 傘 の 繪
或所に長者どんがあつた。長者どんの檀那樣はごく物好きな人であつた。それを聞きこんで旅のペテン師が一本の軸物を賣りに來た。はいもしもし此家(コチラ)の檀那樣はお出(デ)んすかと訊くと、檀那樣は話相手が欲しくて居た時だから、直ぐさま玄關へ出て來て、あゝ俺がその檀那樣だ、そしてお前は何しに來てやと言つた。するとペテン師は早速風呂敷包みの中から一本の掛物を出して見せた。その掛物には一人の美しい女が傘を持つてゐる繪が書いてあつた。ペテン師はこの繪の女は天氣のよい日には斯《か》うして傘を疊んで持つて居るが、明日雨が降ると謂ふ日にはこの傘をひろげてさして居る。ひどくええ寶物だと言つた。それを見たり聽いたりすると檀那樣は、欲しくなつて堪《たま》らず、遂々《たうとう》百兩と謂ふ大金を出してその軸物を買い取つた。
檀那樣はひどくええものを買つたと言つて喜んで、その掛物を座敷の床の間に掛けて每日每日眺めて居た。さうして早く雨の降る日が來ればよい、來ればよいと思つて居た。そのうちにひどい雨降り日が續いた。けれども其繪の女は一向に傘をさゝなかつた。檀那樣は初めてこれは一杯喰つたと氣がついて口惜しがつて居た。
そこへ或日ひよツくらと、先日のペテン師が來た。檀那樣は面《つら》を見ると、このカタリ者奴《め》先日は俺を騙して金を取つたナと喰つてかゝつた。すると其男は至極落着いて、檀那樣それは何のことだ。人聞きの惡いことだと言つた。何のこともかんのことも、お前から買つたあの掛物の女は、雨がどしや降りの時でも、一向傘をさゝないでつぼめて居やがる。あれは何《ど》うしたことだと言つた。するとペテン師はハテそれは不思議だ。以前はよく傘をさしたり、つぼめたりしたんだがなア、第一檀那樣は一日に何ぼ飯を食べさせると訊いて、檀那樣が一向食べさせないと言ふと、ペテン師はポンと膝を打つて、分つた、あの女は腹が空いて力が無くなつたんだと言つた。
(私の祖父がよく話して聽かせたつた話の一である。)
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