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2023/07/08

梅崎春生「つむじ風」(その4) 「にらみ合い」

[やぶちゃん注:本篇の初出・底本・凡例その他は初回を見られたい。]

 

    に ら み 合 い

 

 事のおこりは些細なことであった。食べ物に関してである。

 食べ物に関してというと、終戦直後あたりには、肉親や友人間などでも、かなり深刻な争いがおきたりしたものだが、食糧事情の好転によってだんだんそんな事件も新聞紙上から姿を消して行った。

 だからこの事件も、食べ物のうばい合いから来たものではない。

 食べ物の食べ方から来たのである。

 その食べ方を批難され、その揚句の果てに、カッとして暴力をふるったのが、『三吉湯』というチェーンストア式の銭湯を紅営している、猿沢三吉という男であった。五十の坂を二つも越したというのに、年甲斐(がい)もなく暴力沙汰に出たというのも、よくよく腹に据えかねたのだろう。

 暴力をふるわれたのは、泉恵之助といって、やはり『泉(いずみ)湯』という一軒風呂屋の経営者であった。この男も五十二歳になる。

 職業も同じ、年齢も同じだったけれども、その他の点においてはこの二人は実に同じではなかった。対遮的(たいしょてき)といってよかった。

 三吉は背が低かった。五尺そこそこで、ずんぐりと肥っていた。胴体だけじゃなく、手足の指の先まで肥っていた。指が肥り過ぎているので、三吉は電話をかけることが出来なかった。指がダイヤルの穴に入らないのである。

 だから三吉は、電話をかける時には、指のかわりにシガレットホルダーとか、マッチの軸を束に使って、ダイヤルを廻した。

 それに反し、恵之助はやせていた。ひょろりと背が高く、五尺九寸五分もあった。指なんかも細長くて、関節なども一つぐらいは余分にあったかも知れない。

 指が長いから、鮨の立ち食いなどで、実に器用なスマートなつまみ方をした。

 恵之助は代々の東京人で、泉湯は銭湯としても相当のシニセであった。

 三吉は山国出身で、若い時志を立てて車京に出で来た。三吉は肥っているくせに、声はキイキイと甲(かん)高かった。

 恵之助はやせているくせに、声は低くしゃがれていた。

 三吉はがむしゃらな努力家で、また精力家で、二十歳で上京して以来、今では三軒の銭湯を経営している。まだまだ殖やして行く予定であるらしい。

 恵之助は親爺から引継いだ泉湯を、細々ながら経営している。別に事業を拡張しようという気はなく、現状を維持して行くだけで満足しているらしい。仕事に関しては消極的である。

 三吉の方は実に積極的で、女房の眼をぬすんで近ごろメカケを囲い、また営業用にと中古の自動車をも買い入れた。自分で運転もやるのである。

 恵之助はものぐさで、自転車すら持たないのだ。

 三吉は四人も子供をつくった。二十になる長女以下、みんな女ばかりである。

 それに反して恵之助の方は、息子がたった一人で、二十五歳になる。女房は十年前に、空襲で死んでしまった。後妻を貰わなかったのは、子供のことを考えたせいでもあったらしい。

 

 猿沢三吉と泉恵之助は、昔からにらみ合っていたわけではない。ついこの間まで、

割に仲が良かったのである。

 泉湯と三吉湯の地理的関係を言えば、そこを碁(ご)盤にたとえると、泉湯が天元の位置にあって、三軒の三吉湯が三つの隅を占拠しているという形になっている。つまり三方から囲んでいるというわけだ。[やぶちゃん注:「天元」「てんげん」で、碁盤の目の中央にある黒い星を指す語。]

 だから商売敵(がたき)という関係になっているのだが、大体風呂屋というものは、一軒あたりのお客がきまっていて、そう変動はない。今日はこの銭湯にしたから、明日はあの銭湯に行こうというようなお客はあまりないのである。そこで三吉と恵之助は、前述の如く、商売敵としていがみ合うことなく、割と仲が良かった。

 この両者は、風采や性格においては大へん異っていたが、ただ将棋(しょうぎ)が大好きだという点においてはピタッと一致していた。どちらもヘボ将棋で、勝ったり負けたりで、大へんな負けず嫌いで、そして自分の力量については大へんうぬぼれが強かった。

 ことに猿沢三吉は、同名の由をもって故坂田三吉名人を敬慕し、坂田名人のやり方にならって、第一手に端歩(はしふ)をつくのを得意としていた。端歩をついて、おほんとおさまりかえるのである。

 碁敵(ごっがたき)とか将棋敵というものは、相手におさまりかえられたり得意になられたりすると、はなはだしく腹が立つもので、腸(はらわた)が煮えくりかえるような気分になるものだ。

 で、その日もそうであった。

 その日というと、昨年のある日のことであるが、この両人の間で百一番将棋というのを企画し、丁度その百一番目の勝負の日であった。

 百番とせず、何故百一番将棋としたかと言うと、うっかりすると五十番同士の指し分けになるおそれがあったからだ。闘志あふるる両人にとって、勝負なしになることくらい面白くないこ九はない。

 その配慮通り、抜きつ抜かれつの激戦の後、百番まで打ち終ると両者とも丁度五十番ずつになっていたのである。

 これをもってしても、両者の技倆がいかに伯仲しているかが判る。

 では、この百一番将棋は、何年間、いや何ヵ月間かかったかというと、それがわずか十日間なのである。十日で百一番指そうというのだから、それも家業や仕事のあい間に指そうというのだから、いかに両人の指し手にスピードがあるかが判る。

 何故そんなにスピードがあるかというと、二人ともあまりにもヘボなので、考えることが何もなかったからである。条件反射的に駒を動かす、もっとも原始的な将棋であったのだ。

 その百一番目の勝負場は、泉恵之助の家の縁側で、時刻は夕方であった。

 これで勝負が決する重大な一番だから、さすがに二人は緊張して、先手の三吉は第一手を一分間ほど考えた。未曾有の大長考である。

「えい。やったあれ!」

 三吉は腕組みを解き、坂田名人もどきのかけ声をかけて、勢よく端歩をつき出した。

 恵之助はじろりと上目使いに三吉を見て、これまた一分間ばかり考えた。

 考える内容は何もないのだが相手が芝居がかりで来た以上、こちらも気取って見せないわけには行かなかったのだ。

 

 この百一番目の大勝負は、一時間余りもかかった。両人の勝負において、そんなに時間がかかったのは、空前のことであった。

 それは両者とも、一手一手を割に考えたせいもあったが、指し手の数が多かった故でもある。両者とも落手の顕発で、飛車だの角だのが何度、向うに取られたり取り返したりしたかは判らない。まさに波瀾万丈(はらんばんじょう)の一番だというべきであった。[やぶちゃん注:「落手」「らくしゅ」と読み、囲碁・将棋で「悪い手」を言う。]

 それでも猿沢三吉には、確実に敵将を取れる機会が一度だけあった。三吉の角が王手飛車をかけた時、恵之助は飛車の方を逃げたのである。

「しめた!」

 と敵将を取ろうとすると、その声で自分の失敗に気付いた恵之助が、あわてて飛車を元に戻し、王将を動かしたのである。

 三吉は肥っている関係上、動作がにぶいし、恵之助は指が長くて敏捷(びんしょう)だし、また自陣の内のことでもあるので、動きがちょっとばかり早かったのだ。

「ずるいよ。おい、そりゃずるいよ!」

 三吉は縁側をかきむしるようにして抗議したが、恵之助は聞き入れなかった。

「待ったは厳禁ということになってるじゃないか」

「待ったじゃないよ」

 大切な一番だから、恵之助もあとには退(ひ)けない。

「待ったというのはだね、君が指して、そのあとで訂正を申し込むのがそれだ。ところが君は、まだ指してないじゃないか。だからこれは、待ったではない」

「そりゃまだ指してないけれども、しめた、とかけ声をかけたじゃないか。あれで君は気がついたんだろ。だとすれば、あのかけ声は、角で王様を取った動作の代用品だといってもいいぞ」

「かけ声が代用品になってたまるか。それじゃあ、わしたちは、駒を実際に動かさないで、かけ声ばかりかけていればいいと言うことになる。そんなバカな話があるか!」

 三吉がどんなに力んでも、現実に敵将を取ったわけではないので、涙を吞んで抗議を撤回せざるを得なかった。

 三吉の腹は煮えくりかえって、角で敵の飛車をはらった。

 大体において勝負ごとというものは、カンカンになった方が負けというのが原則になっている。だから勝つために、相手を怒らせるという戦術もあり得るわけだ。しかしこの場合、恵之助は意識的にそれをやったのではない。三吉の怒りは自然発生的なものであった。

「ウヌ、ウヌ」

 頭から湯気を立で、カンカンになって駒を動かすたびに、三吉の形勢がだんだん悪くなって行くのだ。恵之助もけっこう悪手愚手を指しているのだが、三吉がそれに輪をかけた悪手愚手を指すのだから、それも当然である。

 とうとう三吉の王将は、自陣の片隅にぐいぐい押しつけられ、身動きも出来なくなってしまった。雪隠詰めというやつである。三吉は眉を吊り上げて、盤面をにらみつけた。

 坂田名人は、銀が泣いている、という名文句を残したが、ここにいたっては、王様がオイオイ泣いているように、三吉には感じられた。

「おい。何をしてるんだ。早く指さないか」

 恵之助は煙草をくゆらしながら愉快そうに催促した。

 三吉は自分の王将に手をかけた。千をかけたが、動かすところがないので、思い余った王様は盤からピョンと飛び降り、縁側をゴソゴソと這(は)って逃げた。

 

 いくらヘボ将棋とはいえ、王様が盤から飛び降りて逃げるのは違法である。すなわちこの百一番将棋は、五十一対五十で泉恵之助の勝ちになった。

「わしの一番勝ちだな。まったく天佑神助(てんゆうしんじょ)だった」[やぶちゃん注:「天佑神助」天の助けと神の助け。思いがけない偶然によって助かることの喩え。「佑」は「祐」とも書く。四字熟語としての用法は、調べる限りでは、ごく近代のもののようである。]

 駒をざらざらとしまい込みながら、恵之助は小鼻をびくびく勁かした。

「そうだ。まったくだ」

 猿沢三吉は口惜しげに相槌(あいづち)を打った。

「天佑神助でもなければ、君にはとても勝ち目はない。実力はもともとわしの方が上だからな」

「まあ何とでも言わして置くさ」

 勝ったものだから、恵之助は太っ腹なところを見せた。

「すこしおなかが空いた。何か食べに行くかい?」

「行ってもいいが、勘定はそっちもちだぞ」

 三吉はつんつんした声を出した。負けた腹いせに、せめて相手に経済負担をかけようという魂胆(こんたん)である。

「よろしい。おごってやる」

 恵之助はポンと胸板をたたいた。やせっぽっちの薄い胸だから、たたいてもたのもしい音は出ない。恵之助はのっそり立ち上った。つづいて三吉も。

 二人は街に出た。街を歩きながら、恵之助はいつもみたいに低いしゃがれ声でなく、浮き浮きした調子で話しかけてくるのだが、受け答える三吉の方のきんきん声は、いつものようには冴えないようであった。

 やがて恵之助は『勇寿司』と染め抜かれたのれんの店の前に足を止めた。のれんを頭で分けて入った。

「鮨(すし)でもつまむか」

 三吉も渋々とあとにつづいた。三吉は鮨という名の食べ物を、あまり好きではない。三吉の好物は中華料理や洋食、あるいはホルモン焼きのたぐいで、鮨だのソバだの海苔(のり)、つまり東京人が昔から好物としたものを、さほど美味(おいし)いとは感じないのである。やはり山国出身の故なのであろう。それに反して恵之助は関東土着だから、おのずから嗜好も定まっている。そういう点で、つまりソバ屋に入ってラーメンを注文するような三吉を、恵之助は日頃からやや軽蔑しているような傾向があった。

 この空腹を充たすのに、三吉は鮨では不満なのだが、相手のおごりということであれば、文句をつけるわけには行かない。

 二人はつけ台の前に腰をおろした。

「トロ。それからおちょうし一本つけて呉れ」

「わしはアナゴ」

 三吉が言った。

 恵之助は眉をしかめた。恵之助は東京っ子を自任するだけあって、鮨の食べ方もなかなかうるさい。

 恵之助の説くところによれば、先ずマグロとかヒカリモノのたぐいを食べ、つづいてアナゴのような煮物、最後に玉子焼きとかノリマキとか、あっさりしたもので終るのが定法[やぶちゃん注:「じょうほう」。]だというのである。戦前までは玉子焼きが最初だったが、今では違う。何故ならば、戦前は各自の店で玉子焼きをつくったから、それを食べればその店の味は判ったが、現今では大ていの店は河岸(かし)から既製品を買ってくる。既製品では、最初につまむ意味はないのである。

 恵之助は低い声でたしなめた。

「初めからアナゴをつまむやつがあるか」

 

 鮨の食べ方にもいろいろと説があって、必ずしも泉恵之助の説が絶対だというわけではなかろう。

 しかし猿沢三吉の食べ方は、いささか無手勝流に過ぎた。コースを無視してあれこれつまむのはいいとしても、つまみ方がスマートでない。

 恵之助のやり方は、つけ台に置かれた鮨の高い方の中央に人差指をあてがい、親指と中指ではさみ、醬油をつける場合は、それを器用にひっくりかえしてつけ、ぽんと口にほうり込む。そして種がかわるたびにガリ(しょうが)をつまんで、口内の味を消す。

 一方三吉のつまみ方は、いきなりわしづかみである。恵之助の指は長くてスマートだが、三吉の指はずんぐりしているから、どうしてもわしづかみになる。

 醬油をつける場合は、一たん種[やぶちゃん注:「ねた」。]をシャリ(飯)からひっ剝がし、つけてからまた元のシャリに乗せ、それから口にほうり込むという段どりになる。

 ガリも種がかわる度には食べない。ひとまとめにして、ぐしゃっと食ってしまうのだ。

 そういうやり方を、恵之助が黙って見逃すわけがない。大いにヒンシュクしたそぶりで、一々口に出してたしなめる。ヒンシュクするなら連れて来なければいいのに、やはり連れて来るというのも、三吉のそのやり方をたしなめることによって、自分の通人ぶりを確かめるのが楽しかったのであろう。

 この日もそうであった。

 いつもなら三吉も、それほど立腹したりはしないのだが、生憎(あいにく)とその日は将棋に負けている。食べながらだんだん不愉快な顔付きになってきた。

「そう一々はたから口を出すなよ。何をつまもうと、わしの勝手じゃないか」

「そういうわけには行かないよ。洋食だって、中華料理だって、チャンと順序がきまってるじゃないか。コーヒーや果物を先に食べ、最後にスープやオードブルを食べる奴はあるまい。中華では、鯉の丸揚げ……」

「うるさいな。中華と鮨とは違うよ」

「違わないよ。そら、またガリをわしづかみする。ガリなんてえものは、ほんのちょっぴりつまむもんだ」

 三吉の眼はすこしずつ据(す)わってきた。将棋に負けた上、さんざんたしなめられては、面白くないにきまっている。

 それと同時に、三吉の鮨のつまみ方はだんだん早くなっできた。

 恵之助のコースは今や煮物の段階に入っていた。

「ギャレージ」

 恵之助は注文した。シャコのことをギャレージと呼ぶのも、あまり好い趣味ではない。

「わしにもそのゾーリ虫を!」

 三吉が恵之助のその注文に便乗した。

 恵之助がじろりと三吉をにらみつけた。

「ゾーリ虫はいけないね。ゾーリ虫は!」

 恵之助も少々腹を立てたらしく、声が高くなった。

「いくら無手勝流でも、ゾーリ虫はいけないよ。ちゃんとシャコと呼べよ」

 三吉は黙ってシャコを口の中にぐいぐい押し込んだ。そしてつづけて言った。

「トロにイカにエビ。それにも一度ゾーリ虫をつけて呉れ!」

「へい」

 鮨屋は勢いよく返事して、手さばきを早めた。

 

 泉恵之助のコースは最後の段階。あっさり物のノリマキに入っていたが、猿沢三吉はあれこれ注文、ぐいぐいと口に押し込む。何かに憑(つ)かれたような食い方なので、恵之助も呆れて忠告した。

「おいおい。一体いくつ食べるつもりなんだい。先刻から数えてると、もうそれで二十四個目だぜ」

「エビ!」

 それを黙殺して三吉は注文した。

「シャリは半分にして握って呉れ」

「へい」

 タネだけ大きくシャリ半分の鮨が、つけ台に並べられた。三吉はそれをエイと口にほうり込み、両手で胸から腹に撫でおろすようにした。

「エビ。今のと同じくシャリ半」

 恵之助の顔色がさっと変った。食いに食って相手に損害を与えようという三吉の魂胆を、やっと見抜いたのである。彼は声を高くした。

「将棋に負けたからといって、ヤケ飯を食ったりして、みっともないぞ」

「エビ!」

 三吉はふたたび黙殺した。

「シャリは四半分にして呉れ」

「よさないか。いい加減に!」

 恵之助は自分のノリマキをつまむのも忘れて怒鳴った。

「お前さんの魂胆はちゃんと判ってるぞ。うんと食べて、わしに大散財をかけて、意趣ばらししようてんだろう。だから、一番高いエビなんかばかり食べていやがる!」

「ゾーリ虫!」

 三吉は今度はシャコに転向した。

「シャリはやはり四半分」

「三十二個目だぞ。ほんとによさないのか」

 恵之助はそろそろふところが心配になってきたのだろう。しきりに足踏みをした。

「いい歳をして、みっともない真似はよせ。腹も身の内だぞ!」

「エビ!」

 三吉も負けずに声を張り上げた。

「シャリ抜きにして呉れ」

「シャリ抜きなんて、そんなバカなことがあるか。それはもう鮨じゃない。わしはお前さんに、鮨はおごってやる。しかしシャリ抜きで食うんなら、その分は自分で払え!」

「じゃあ飯粒三つくっつけて呉れ!」

 鮨屋はあまりの成り行きに、きょとんとしていたが、三吉の語調の荒さに、あわてて飯粒三つをまぶして、つけ台に差出した。

 しかし三吉はそれに直ぐには手を出さなかった。遠慮したのではなく、鮨が咽喉(のど)までつまっていたからである。最後の方はシャリは小さくなったが、通計三十四個という鮨は、五十二歳の三吉にはやはり多週ぎた。

「こ、これは折に詰めてくれ」

 三吉は情なさそうな声を出した。

「お土産に持って帰る」

「お土産まで持って行くつもりか?」

 とうとう恵之助のかんしゃく玉が破裂した。

「それでお前さんは人間か。人間なら人情というものがある筈だ。お前は山猿だ!」

「なに。山猿だと?」

 山猿の一言でカッとなった三吉は、飯粒つきのエビをわしづかみにして、恵之助の顔にはたきつけた。

「何をしやがる!」

 恵之助も我を忘れて、ノリマキを三吉めがけて投げつけた。

 かくして二老人は飯粒だらけになり、自分たちの年齢も忘れて、わめきながらつかみ合った。

 猿沢三吉と泉恵之助のつかみ合いは、鮨屋や店に居合わせた客たちの手によって、またたく間に引き分けられた。つかみ合いといっても、片や六尺、片や五尺そこそこだから、うまくつかみ合えず、そこをたちまち引き分けられたので、両者とも別に負傷はなかった。

 両者とも亢奮(こうふん)して、肩で大きく呼吸をしながら、おろおろ声で相手をののしり合った。

 ことに三吉は、山猿と呼ばれたことがよほど口惜しかったらしく、殿中の内匠頭(たくみのかみ)もどきに引き留められながら、

「言いやがったな。この俺のことを、ヤマザルと言いやがったな。覚えてろよ。かならずうらみは晴らして見せるぞ!」

 大わめきにわめいて、店の外に押し出されて行った。

 あとに残された恵之助も、しきりにわめき返していたが、相手が店の外に消えてしまうと、急に心配顔になって自分の脈をはかり、それから突然心悸亢進(しんきこうしん)をおこして、三十分ばかり小座敷に横になってあえいでいた。

 一方表に引き出された三吉も、ふと我にかえり、急に自分の血圧のことが心配になり、いかほどの距離もないのにタクシーで帰宅、薬箱から薬を出して服用、これも蒲団をしいて横になっていた。

 そんなに自分の身体が心配なら、初めから喧嘩しなければいいのにと思うのだが、とかく明治生れの人間には、こういう不条理な意地っ張りな傾向があるようだ。

 心悸亢進がようやくおさまった恵之助に、鮨屋が代金を請求したところ、

「あんな無礼な山猿の分まで払えるか!」

 といきり立ち、また心悸亢進をおこしそうになったので、鮨屋の方で折れて、代金はいらないかわりに、向う十日間鮨屋一家がタダで泉湯に入る、ということでけりがついた。丁度お客が立てこむ時刻だったし、こんなにひょろ長い爺さんに小座敷を占領されては、商売にさしつかえるのである。

 一方三吉は丁度その頃、妻のハナコと四人の娘を枕もとに呼び寄せ、訓戒をたれていた。

「いいか、以上のようないきさつで、わしは泉と絶交することにした。もうあんな奴とは、将棋も指してやらんし、道で逢ってもそっぽを向いてやるつもりだ。なあ、ハナコ。お前の亭主がこんな目に合わされたんだから、お前も泉の野郎にそっぽを向いて呉れるだろうな」

 ハナコは唇を嚙んで大きくうなずき、亭主と行動を共にすることを約した。ハナコは三吉に対して、大へんなヤキモチ焼きであって、その点においては三吉は大の恐妻家であったが、なにぶんハナコも明治生れであるので、大元[やぶちゃん注:「おおもと」。]のところではいつも夫唱婦随の原則が守られるのである。

 三吉は寝返りを打って、今度は四人の娘に顔を向けた。

「いいか。今話したように、お前たちのお父さんがこういう目にあった。だからお前たちも、そっぽ向けよ。泉の親爺に対してだけでなく、泉の息子に対してもだ。あの息子、バカ息子、何と言う名だったかな。ああ、そうだ。竜之助だ。泉竜之助」

 長女の一子(かずこ)と次女の二美(ふみ)は、顔を見合わせて、けらけらと笑い出した。三女の三根(みね)と四女の五月(さつき)はまだ小学生だから、きょとんとしている。

 三吉の娘の名は、生れた順に、一、二、三、と数字を使用してあるが、四女が五月となっているのは『四』は縁起が悪いので欠番となっているのである。三吉夫婦は縁起かつぎ屋であった。

 

 一子と二美が顔を見合わせてけらけらと笑ったので、猿沢三占はむっとして、むくむくと起き直った。

「何で笑う。笑いごとじゃありませんぞ」

「だって、これ、お父さん同士の喧嘩でしょ」

 二十歳になる長女の一子が言った。

「あたしたちとは関係のない話だわ。ねえ、二美ちゃん」

「そうよ。そうよ」

 二美も唇をとがらせた。この子はまだ十六歳だが、セーターを着ているので、胸のふくらみが目立つ。桜で言うと、四分咲ぐらいにはふくらんでいるのである。

「お父さんたち同士で喧嘩する分にはあたしたち、何も言やしないわよ」

「そうよ。それをあたしたちまで引きずり込もうなんて、フェアプレイじゃないわ。インチキよ」

「泉の小父さんだけでなく、竜ちゃんにまでそっぽ向けなんて、横暴もはなはだしいわ。そんなの、人権ジュウリンよ」

「何を言うかっ!」

 娘たちにさんざん言いまくられて、三吉はカッとなって、蒲団の上に立ち上ろうとした。子ぼんのうの三吉のことだから、ふだんならカッとなったりしないのだが、そこはそれ、さっきの鬱憤(うっぷん)が、娘たちの言葉でふたたび誘発されたのである。

「まあ、あなた」

 ハナコが三吉に取りすがった。

「どうしたんですよ。プンプン怒ったりして。血圧にさわりますよ。さあ、お前たち、早くあっちに行きなさい」

 一方泉恵之助も大急ぎで帰宅しながら、猿沢一家と絶交のことを、竜之助に言い聞かせねばならぬと考えていた。この世のオヤジたちの考えることは、大体において同じようなものである。

 竜之助は今年で二十五歳になる青年で、恵之助にとっては目に入れても痛くない一人息子だが、恵之助にとって遺憾(いかん)至極なことには銭湯業の跡を継ごうという気持を全然持っていないらしいのである。銭湯業が職業として有利なこと、泉湯というのは伝統あるシニセであることなどを、時あれば説き聞かせるのだが、竜之助は面倒くさそうに耳をかそうとしない。

(大学なんかに入れなきゃよかったんだ。風呂屋稼業に、学問なんか要るものか。学校に入れたばかりに、ゲイジュツなんかに凝りやがって!)

 まさしく竜之助はゲイジュツに凝りかたまっていた。ゲイジュツと名のつくものには、それが文学であろうと新劇であろうと、カメラであろうと前衛書道であろうと、何にでも竜之助は興味をもよおすのである。

 泉宅は泉湯の裏に隣接して、建てられていた。くぐり戸をくぐって帰宅、恵之助は足音も荒く、息子の部屋に歩いて、障子をがらりと開いた。竜之助の姿は見えなかった。

「また西洋芝居かヤキトリ酒場に出かけたに違[やぶちゃん注:「ちげ」。]えねえ」

 恵之助はにがにがしげに呟(つぶや)いた。

「それにこの部屋の乱雑なこと。すこしは片付けたらどうだ。本は出しっぱなし、新聞紙は散らかしっぱなし。障子までが穴だらけじゃねえか。まさか『太陽の季節』の影響じゃあるまいな?」

 ゲイジュツには無縁の恵之助老ですらも、この高名な小説にだけは目を通しているのだから、大したものである。

 

 以上のようないきさつで、泉家と猿沢家は、いや、泉恵之助と猿沢三吉夫妻は、完全なにらみ合いの冷戦状態に入った。息子や娘たちは、それぞれの父親から叱責され、あるいは説得されて、一応にらみ合いを承諾したが、それはうわべだけで、真剣ににらみ合う気持はなかったようである。

 にらみ合い状態に入ったのは良かったが、三吉も恵之助もひとつだけ困ったことがおきた。

 それは将棋が指せないことである。

 そんなに将棋が指したいなら、将棋会所にでも行けばいいのにというだろうが、それはそういうわけには行かない。二人ともあまりにへぼ過ぎて、相手になるのがいないのである。強過ぎて相手がいないというのはあるが、弱過ぎて相手がいないというのはめずらしい。

 それでは駒を落して貰えばいいではないか。それもそんなわけには行かない。両人とも将棋に関しては自尊心が強いのだから、駒落[やぶちゃん注:「こまおち」。]将棋なんて論外の沙汰である。

 長年二人で指し合っていたのだから、煙草のみがニコチン中毒になるように、二人とも将棋中毒にかかっていた。

 自分たちが中毒症状にあるということを、あの鮨屋騒動の翌日か翌々日ごろから、彼等はそれを自覚し始めた。

 勝負ごとというものは、碁にしてもゴルフにしても玉つきにしても、多かれ少かれそういう傾向を持っている。たとえば玉つきの習い始めあたりには、道行く人が玉つきの玉に見えたりするものだ。

 この両人の場合もまさしくそれであった。

 番台に坐っていても、脱衣所の裸の男性、あるいは裸の女性が、ふと将棋の駒に見えてくるのである。猿沢三吉の方は、それでも稀代の商売熟心だから、はっと我にかえり、イヤイヤこれは一個十五円也のお客様だ、と気を取り直すが、それでもまたぼんやりしていると、たちまち将棋の駒に見えてくるのである。

 中毒もここまでくるとおそろしい。

『あなたは。将棋がやめられる』というような本でもあればいいが、どの書店を探しても、そんな本なんか売っていやしない。

 番台に坐って、女湯の脱衣所をながめながら、あの駒をこう動かすと、向うがこう動く、するとこちらがこうやって王手飛車、なんて考えたりするものだから、自然に眼が据わって、そこらの金棒引きが、泉湯の旦那と三吉湯の旦那は鮨屋で喧嘩して以来気が変になったようだよ、と噂を立て始める始末であった。[やぶちゃん注:「金棒引き」「かなぼうひき」「鉄棒曳き」とも書く。金棒(頭部に幾つかの鉄の輪を附けた、長い杖のような鉄の棒。夜回りや修行者たちの行列の先頭に立つ者などが地面に突いて鳴らして歩く棒)を突き鳴らしながら夜警などをすることや、その人を指すが、転じて、「噂(うわさ)などを大袈裟に触れ回る人」の喩え。]

 かくてはならじ、と両者が反省し始めたのが、約一ヵ月後である。にらみ合っているのだから、相談して反省したのではない。五十二歳における反省期がおのずから一致したのだろう。

 泉恵之助は謡曲を始めた。謡曲によって、将棋中毒をごまかそうというのである。煙草に替うるにチューインガムを以てするようなものだ。

 猿沢三吉は自動車の運転を始めた。

 知合いのタクシー業者から、五十年型ダットサンを三万円で譲って貰って、せっせと教習所通いを始めた。相当のおんぼろ車ではあるが、それにしても自動車一台三万円とは、破天荒の安値である。万一のことを考えて、三吉は金だけを払って、登録はまだタクシー会社に止めて置いた。

 

 猿沢三吉がなぜ五十の手習いとして自動車運転を始めたか、これには深い仔細(しさい)がある。自動車を所有するというのが、年来の彼の宿望であった。

 話は三十年前にさかのぼるが、三吉は山国を出て、志を抱いて上京、とある風呂屋に三助として住み込んだ。三助稼業にはげみながら、将来はひとかどの銭湯主[やぶちゃん注:「あるじ」。]たらんとの夢を見ていた。

[やぶちゃん注:「三助」元来は江戸時代の下男・小者(こもの)などの奉公人の通称で、「三介」とも書いた。この「三」は炊爨(すいさん:飯を炊くこと。)の「さん」の意である。飯炊き、その他雑用に従事したからで、下女を「おさん」とも呼んだ。その後、「三助」と言えば、一般に「銭湯の下男」を指すようになったが、このような呼称は享保(一七一六年~一七三六年)頃からとされる。田舎から、同郷などの縁故を頼って奉公する若者で、越中・越後の出身者が多かった。見習いの間は、昼は焚木(たきぎ)とか古材などの燃料になるものを集め、夕方からは、下足番を勤めた。二、三年して釜焚(かまた)き番をしながら、流しに出るようになって初めて「三助」と呼ばれるようになった。流し専用の桶を用意し、湯銭のほかに、流し代を払った浴客の注文により、その専用桶を使って背中を流した。昭和の初め頃でも、一人前の三助になるには普通十年はかかった。年季を積むと番頭になるが、番頭は主人の代わりに番台にも座り、技術を覚え、資金を蓄えて三十歳前後に独立して銭湯の経営者になるのが普通とされていた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。事実上の正統な三助の最後の方は二〇一三年に引退されている。但し、その方の直伝を受けたサービスが残っているところが、三箇所残っているそうである。サイト「温泉部」の「【生ける伝説】三助とは?江戸時代からの歴史や現在の使い方まで」を見られたい。]

 その頃の三吉もずんぐりして、指も太くて短く、決して器用な三助ではなかったが、働きぶりが実直で、主人にも可愛がられていた。

 住み込んで一年経った時、御仕着せとして主人が三吉に、一着の背広をつくって呉れた。自分が背広を着ることになろうとは、夢にも思わなかったことだけに、三吉の喜びようはひと通りではなかった。

 彼の生国[やぶちゃん注:「しょうごく」。]では、背広を着用しているのは、小学校の先生だけなのである。

 その神の如き小学校の先生と同じものを着ている。浴場の大鏡に自分の背広姿をうつし、と見こう見、倦きず打ち眺めて、若い三吉の胸はわくわくと弾んだ。自分の身体には背広はあまり似合わないようだなと、うすうすと感じはしたけれども、現実に背広を着用したという喜びが、そんなささやかな憂いなど一蹴した。

 そして三吉は意気揚々、外出した。

 外出して、恋愛映画を見て、その帰途、自動車に泥水を頭からひっかけられたのである。アッと避ける間もなく、新調の背広はぐしょぐしょに泥だらけとなった。

 その日が雨上りだったことも、三吉の不幸の一因であったが、それにしても三吉は不注意に過ぎた。映画の中の恋愛の後味、活弁の説明文句などを反芻(はんすう)しながら、呆然として歩いていたのがいけなかったのである。

「ちくしょょょっ!」

 三吉は両手を拳固にして振り上げ、大わめきにわめきながら追っかけたが、もちろん追っつけるものではない。追い疲れてハアハアあえぎながら、若い三吉はこう決心した。

(畜生! 俺は一生かかっても、自家用自動車の持主になって見せるぞ!)

 自動車に泥水をひっかけられて大悟一番、日本の道路の改良に一生をささげようと決心するとか、タイヤの泥除けの発明に志すというのなら話は判るが、一生かかって自家用車の持主になり、諸人に泥をひっかけてやろうと志すのは、不穏当のように見えるけれども、資本主義興隆期の明治に生れた人間の中には、間々(まま)こういう考え方をするのがいるのである。それは当人の育った環境や時代のせいであって、決して三吉ばかりを責めるわけには行かない。

 泥水をかぶってしょぼしょぼと戻り、主人には叱られ、同僚にはわらわれたが、三吉は押し黙って、一言の弁解だにしなかった。

 その日以来の宿願であるし、妻のハナコと寝物語にも、そのことはしばしば話してあるのであるから、自動車購入に対しては、ハナコもむげには反対しなかった。

 風呂屋稼業に自動車は必要というものでないし、いわばゼイタク品だから、ハナコは主婦の立場として、ただ予算を削減(さくげん)したまでである。

 その削減の結果が、中古品の三万円の五十年型ダットサンということになって現れた。三万円といっても、ガソリンさえ入れれば、ちゃんと人を乗せて動くのである。

 

 生来あまり器用でないこと故、猿沢三吉の運転術会得(えとく)は難渋を極めたが、しかし熱心がそれをおぎなって余りあった。やがて三吉はすっかり習得して、運転免許証を取った。

「とうとうわしも免許皆伝(かいでん)となったよ」

 免許証が下付された日に、三吉はよほど嬉しかったのであろう、妻子をその自動車に満載して銀座ヘドライブ、一流の中華飯店に案内して妻子を嬉しがらせた。ところがその席上で、三吉はうっかりと口を辷(すべ)らせてしまったのだ。

「さあ。かねがね望んでいたことが、やっとこれで一つかなったぞ。残るはあと一つだ」

「もう一つの望みって、何?」

 聞きとがめたのは、長女の一子(かずこ)である。それで皆の視線が三吉に集った。

「いや、なに、その――」

 三吉はへどもどと口ごもった。妻のハナコが傍から口を出した。

「まだ望みがあるの。それじゃここでおっしゃい。あたしだってガリガリじゃないんだから、事によっては、たすけて上げますよ」

「うん。そ、それは、ありがとう」

 三吉は眼を白黒させて、礼を言った。が、望みの内容は言わなかった。言わなかったのではなく、言えなかったのである。残る一つの望みとは、メカケをつくることだったのだからだ。

 やはり話がまた三十年前にさかのぼるが、三吉が三助時代、その風呂屋の主人はメカケを一人畜えていて、三吉は一度だけそのメカケのところに使いに出されたことがある。それはただ一度だけであった。何故ならば、そのメカケが主人に向って、

「あんな不細工な男、見ると食欲がなくなるから、使いに出さないでよ」

 と寝物語に及んだからである。次の日の主人の晩酌時に三吉は呼ばれて、

「あの子がお前のことを不細工だと言いおったよ」

 と夫妻から大笑いに笑われた時、三吉は歯を食いしばってそれに耐えた。そして心中固く決心した。

(畜生! 俺は一生かかっても、メカケの持主になって見せるぞ!)

 他人のメカケからはずかしめられて、廃妾論者になるのではなくて、自分が蓄妾の身分になろうと決心するところに、三吉の面目があった。自動車から泥水をかけられて、自動車の所有を決心したのと、同じ論理であり、同じ心理なのである。

 この二つの望みの中、自動車の方は、三吉はハナコにかねがね寝物語などで含めて置いたから成功したのだが、もう一つの方はそういうわけには行かない。ハナコという女性は、結婚当初から極度に悋気(りんき)深くて、女中なんかと立話していても、たちまち角を生やすのである。メカケのことなんか切り出したら、どう言うことになるか判らない。

 それにハナコは女学生時代、砲丸投げと高飛びの選手で、夫婦喧嘩でも三吉はいつも負けるのである。それに近頃テレビでプロレスに熱狂、それも鑑賞の域にとどまらず、保健のためと称した、一子(かずこ)相手に練習なんかもしているのだ。しまい湯のあとの脱衣所にマットをしき、どたんばたんとやっている。ハナコの得意とするところは、彼女の言によれば、空手チョップと飛び蹴りである。昔日[やぶちゃん注:「せきじつ」。]高飛びの選手だったのだから、彼女の飛び蹴りは相当の威力があった。

 ハナコは鯉の丸揚げをガリガリ嚙みながら、三吉をじろりと見た。

「ねえ。もう一つの望みとは、一体なに?」

「そ、それはだね」

 猿沢三吉はすでに満腹しているくせに、質問をはぐらかすために、箸の先で鯉の尻尾のところをがりがりとむしった。

「もう一つの望みというのは、つまり、なんだね、商売繁昌ということだ」

 三吉はそう言いながら、脇の下から冷汗が流れ出るのを感じた。

 これが率直に、実はメカケを持ちたいのだと言えたら、どんなにかいいだろう。三十年前に仕えたあの風呂屋の主人一家のことが、三吉にはしみじみとうらやましかった。あの風呂屋主人の蓄妾は、妻君も公認のものであった。あの妻君には子供が出来なかったから、そこでメカケを公認したのだが、その点においては三吉もいささか言い分がある。ハナコは子供を産むには産んだが、そろって女の子ばかりで、あととりになる男子を一人も産まなかったのである。

(その点において、おれはメカケを持つ権利があるぞ!)

 時に三吉は心の中で、声なき声を張り上げるのだが、もちろん口に出しては言わない。そんなことを言ったら、飛び蹴りと空手チョップで、ハナコから半殺しにされるおそれがあるのだ。

「商売繁昌だって?」

 ハナコはいぶかしげに、じろりと三吉を見た。

「今だって結構商売繁昌してるじゃないの」

「うん繁昌はしてる。してるがだ」

 三吉は箸を置いて、四人の娘たちの顔を見廻した。娘たちは両親の会話に耳もかさず、おそるべき食欲をもって、しきりに箸で鯉の丸揚げの攻略に取りかかっている。その攻略の烈しさは、まるで南米アマゾン河産の猛魚ピラニアの攻撃ぶりを思わせた。

「実はわしの風呂屋を、もう一軒だけ殖やしたいのだ。それが数年前からのわしの念願なんだよ」

「もう一軒?」

「そうだ。四軒にしたいのだ」

 やっとごまかせる見通しがついたので、三吉はごくりとお茶を飲み、また四人の娘たちか見廻した。

「つまりだな、わしとお前の間に、四人の娘がいる。すくすくと育って呉れて、わしは大変ありがたいと思っているが、そのわしがだな、脳出血かなにかで、ある日コロリと……」

「縁起でもない!」

 ハナコは眉をひそめた。

「そんな縁起でもないことを……」

「いやいや、そうでない。老少不定という言葉もある。人間の生命は定まりないもので、年齢と関係なく、人間というものは何時死ぬかは判らないのだ。そこでこのわしが死ぬと、遺産の分配もしなけりゃならん。な、判るな。娘が四人もいるのに、いかんせん、わしの風呂屋は三軒しかない。三を四では割れないことは、小学生でも知っとる」

「判りました」

 ハナコは嬉しげに大きくうなずいた。

「それはいい望みです。あたしゃまた大それた望みじゃないかと思って……」

「大それた望みなんか、このわしが持つわけがないじゃないか。たとえば、代議士に打って出たいとか、メカケを囲いたいとか――」

「メカケ?」

 代議士の方はとがめずに、メカケの方を聞きとがめた。

 三吉はあわてて、

「いや、なに、たとえ話だよ。世の中の奴は、一応身代が落着くと、すぐメカケを囲いたがるもんだが、そんなのとわしを一緒にされちゃ困るよ。ワッハッハア」

 

 中華飯店を出て、また女房子供をオンボロ自動車に満載し、猿沢三吉は帰途についた。免許証取りたての三吉の腕にすら、ハンドルが重く感じられたのであるから、いかに彼女らが盛んな食欲をもって、モリモリと料理を詰め込んだかが判る。往路よりも復路の方が、一人分ぐらい余計乗っけたような重量感があった。

 帰途も娘たちはキャアキャアとはしゃいでいたが、ハナコはへんにむっつりして、運転席のそばにでんと腰をおろしていた。

 往路はハナコも浮き浮きしていたのに、帰りにそんな態度を取られれば、三吉といえども気にせざるを得ない。

(はて、さっき、メカケという言葉を口辷[やぶちゃん注:「くちすべ」。]らせたのが悪かったのかな。でも、あれはたとえ話なんだからな。おれがメカケを囲おうというんじゃなくて、とかく世の中の男にはそんな傾向がある、と言っただけなんだからな。怒られる筋合いはない)

 実際怒られる筋合いはなく、また実際にハナコは怒っていなかったことは、その夜に判った。

 三吉が夜遅く自室で、パチパチと算盤(そろばん)を弾(はじ)いていると、ハナコが手提(てさげ)袋をさげてのっそりと入って来た。顏が緊張し、

眼が据(す)わっているので、三吉はギョッとした。

「おい。どうしたんだい?」

 ハナコは三吉と膝をつき合わせるようにして、どしんと坐った。

「あなた。先ほどはあいの中華飯店で、たいへんいいことを言って下さいました」

 そしてハナコは三吉の膝をポンと叩いた。

「実はあたしも、あれと同じようなことを考えてたのよ」

「あれというと?」

 メカケのことかと、三吉はぎくりとした。

「あれですよ。一軒殖やすという話ですよ」

「あっ、そうだ、そうだ。いかにもわしはそう言った。お前も同じ考えか?」

「そうよ。全然同じなのよ。夫婦一身とはよく言ったものねえ」

 ハナコは嬉しげに身をくねらして、ながし目を使った。

「あたし、あなたに、実はお詫びしなくちゃならないことがあるのよ」

「何だい、それは?」

 メカケのことでないと判ったから、三吉はほっと安堵して、にやにや顔になった。

「お詫びしようかしまいか、帰りの自動車の中でいろいろ考えたんですけどね、やはりお詫びをした方がいいと思って――」

 何か重大な話らしいので、三吉もやっとにやにや顔を引きしめた。

「実はあたし、万一のことを考えて、終戦以来相当なヘソクリをこしらえたのよ」

「ヘソクリ?」

「そうよ。万一のことがあったら困るでしょう。それにヘソクリをヘソクリのままで持っているのは全然妙味がないでしょ。だからあたし、昨年、それを全部土地に投資したのよ」

「おいおい。いつの間にそんなにへそくった?」

「でもね、今日あなたの話を聞いて――」

 ハナコは三吉の反問を無視してつづけた。

「あたしは全く感動したし、それに、山内一豊の妻のことを考えたりしてね、打ちあける気になったのよ。その土地、丁度(ちょうど)風呂屋を建てるのに、適当な場所だし、広さも打ってつけなのよ」

 ハナコは手提袋をがさがさと拡げた。

 

 猿沢三吉は仰天した。

 こともあろうに、土地を買うほどへそくられていたとは、夢にも知らなかったからであるで。三軒の銭湯からの上りは、三吉がちゃんと管理しているのだから、そこからどうやってへそくったか、これはもう魔術という他はない。

「一体お前は、どういう方法で、そんな巨額の金を、おれからかすめ取ったんだい?」

「かすめ取っただなんて、人聞きの悪いことは言わないでよ」

 ハナコは手提袋から、がさごそと書類らしきものを取り出した。

「小額のヘソクリをモトにして、あとは株で殖やしたんですよ」

「へえ。大肌不敵なことをするもんだな。で、その土地というのは一体どこだい?」

「そら、泉湯さんから東ヘ一町半ばかり行った……」

「泉湯さんはやめろ。泉湯と言え!」

「ええ、あそこの角に空地があるでしょう」

「子供なんかがよくキャッチボールをしてるところか」

「そうよ。あそこよ。いい場所でしょ」

 ハナコは勢いこんで膝を乗り出した。

「あそこに風呂屋を新築すれば当るわよ。あそこら、近頃、どんどん家が建ってるでしょう。あたし、この間行って調べたんだけど、たいてい十二坪かそこらの小住宅で、浴室なんか持ってないようよ。だから当るわ。そのかわり泉湯さん、いや、泉湯はちょっと客足が落ちるかも知れないけれど」

 三吉は大きく呼吸をして腕を組んだ。そして天井を向き、泉恵之助の顔を思い浮べた。

 あの鮨屋事件以来、しばらくの間は、三吉と恵之助は道で会っても、プンとそっぽ向く状態がつづいていたが、近頃ではそのにらみ合いの状態が、更に悪化する傾向にあったのだ。

 考えれば考えるほど憎らしくなってくるので、ある日三吉は道で恵之助とすれ違いざまに、舌をぺロリと出してやったのである。

 その時恵之助はプンとそっぽ向いていたのであるが、そっぽ向きながらも、横目で三吉の挙動をにらんでいたらしい。

 その次に道で出会った時には、今度はいきなり恵之助の方からアカンベーをした。

 その次の出会いでは、両者は同時にアカンベーをした。

 その次の出会いでは、アカンベーばかりでは芸がないと思ったのであろう、恵之助はやや手の込んだ仕草をした。両手の人差指で空に四、五回輪を描き、次に両掌をパッとひろげて、それから白い歯をむき出してわらったのである。

 恵之助のつもりでは、お前はクルクルパーだという仕草であったが、三吉はそう取らなかった。

 掌のひろげ具合だといい、歯のむき出し方だといい、そっくりお前は山猿だ、と諷(ふう)しているのだと解した。

 だから三吉の全身の血は逆流した。あの日以来、いや、それよりずっと以前から、三吉には山猿コンプレックスがあったのである。

「ちくしょうめ!」

 三吉は腕組みをといて、自分の膝を拳固でなぐりつけた。そしてその痛さに顔をしかめながら言った。

「ひとつ、でんと建ててやるか。そうすればあの背高ノッポも、音(ね)を上げるだろう。音を上げて、わしにあやまりに来るだろう。ざまあ見ろだ!」

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