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2023/07/23

只野真葛 むかしばなし (70) 真葛の最初の凄絶極まりない老人との結婚

 

一、佐野善左衞門に切(きら)れし田沼山城守樣は、至極、よき人にて、公方樣、御意(ぎよい)に入(いる)にて有(あり)しとぞ。誠に、善人なり。年も三拾ばかりなり。主殿頭(ともののかみ)を、一刀と、ねらひしかども、出(いで)あはぬ故、きりしとぞ。

「是、天命なり。世のかわるべき時、來りしなり。」

と。父樣、被ㇾ仰し。

「善左衞門、願(ねがひ)の如く、親を切らば、すぐに山城守、老中被仰付は、疑(うたがひ)なし。扨(さて)は、いつまでも文盲の世にて有(ある)べきを、いとほしながらも、世の爲には、あかるく成(なり)しぞ。」

と御悅被ㇾ成し。

 世の中、一變せしかば、其代(かはり)に、用ひられし人は、殘らず、引(ひき)こみしなり。

[やぶちゃん注:「佐野善左衞門」旗本佐野政言(まさこと 宝暦七(一七五七)年~天明四年四月三日(一七八四年五月二十一日))。彼は「田沼山城守樣」田沼意次の嫡男で若年寄の田沼意知(おきとも 寛延二(一七四九)年~天明四年四月二日(一七八四年五月二十日)を江戸城中で刃傷に及んだ人物。同四年三月二十四日、意知に向かって走りながら、「覚えがあろう」と、三度、叫び、大脇差で斬りつけ、その八日後に治療の遅れから、意知が絶命すると、佐野政言には同四月三日に切腹が命ぜられ、揚げ屋敷で自害した。ウィキの「佐野政言」によれば、『犯行の動機は、意知とその父意次が先祖粉飾のために藤姓足利氏流佐野家の系図を借り返さなかった事』や、『下野国の佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領し』、『田沼大明神にした事』、彼が『田沼家に賄賂を送った』ものの、『一向に昇進出来なかった事等々、諸説』『あったが』、『幕府は乱心として処理した』とある。なお、真葛は意知を高く評価しているが、ウィキの「田沼意知」によれば、事件直後、『江戸市民の間では』、『佐野政言を賞賛して』、『田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。江戸に田沼意知を嘲笑』(せせらわら)『う落首が溢れている中、オランダ商館長イサーク・ティチングは『鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた』という落首を世界に伝え、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」と書き残していた』とあった。海防を訴えつつ、蝦夷地の開拓を考えた父工藤平助と、以上のことを考え合わせると、何やらん、真葛が意知に好意的な評価を与えているところに、何か、感慨深いものがあるように私には思われる。]

 ワ、廿七の年の冬、

「磯田藤助が從弟、酒井樣の家中に、『有所(あるところ)へ世話する。』といふから、ゆけ。先(まづ)は老年と聞(きく)が、其方も、年も取(とり)しこと。」

と被ㇾ仰し時は、

「私(わたくし)が、好(すき)で、取(とつ)た年でも、ないものを。」

と、淚の落(おち)たりし。

 それから、行(ゆき)て見た所が、髮は、一筋も、黑い毛、なく、目は、赤く、くさりたる、老人なりし。

『是が、此世に生出(うまれいで)て、からく、今迄、身を守り、一生に一人と賴む人なるか。』

と思(おもへ)ば、淚のわき出(いで)て、物も見えず。

 其人の、はじめて、いひだすには、

「おれは、高々(たかだか)、五年ばかりも、生(いく)るなるべし。賴むは、あとの事なり。」

と、いはれては、猶、かなしく、泣(なき)てばかりゐた故に、かへされたり。

 右の目の下に、大きな黑子《ほくろ》有(あり)しを、

「『淚ぽくろ』とて、宜(よろし)からず。」

 取々と、人々のいひしを、何とばかり思ひて有(あり)しが、是より、氣にかゝり取(とり)たりしが、一生、心中に、歎きの絕(たえ)ぬうみ付(つき)なれば、遁(のがれ)がたし。

『子は、もたず、若き兄弟には、かずかず、別れ、哀(あはれ)、しごく[やぶちゃん注:「至極」。]の我身。』

と、鏡に、むかひて、顏を、みれば、哀(あはれ)らしく見えぬ故、此(この)かげを、友として、心をなぐさむことなり【此地へ下りて、よめる哥(うた)、「朝夕にむかふかゞみのかげならで心ひとしき友をみぬかな」。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]】

[やぶちゃん注:仙台藩奥女中から、伊達重村の息女詮子(あきこ)の嫁ぎ先であった彦根藩井伊家上屋敷に奉公に移っていた真葛は天明八(一七八八)年七月、奉公を辞し、浜町の借宅に帰った。この時、真葛は既に二十六歳になっていた。翌寛政元年五月、ここに出る醜怪なる酒井家家臣の老人の元に嫁入りしたのであった。ウィキの「只野真葛」によれば、『酒井家家中では、伊達騒動の因縁から』、『仙台藩をわるく言いたがる風潮があり、それもあや子にとっては苦痛であった。さらに』、ここで真葛自身が述べているように、『縁談を勧める際の父平助の「先は老年と聞が、其方も年取しこと」の言葉も彼女を傷つけた』とある。]

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