「奇異雜談集」巻第一 ㊄九世戶の蚊帳の中に思ひの火僧の胸より出し事并龍灯の事
[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。
なお、高田衛編・校注「江戸怪談集」上(岩波文庫一九八九年刊)に載る挿絵をトリミング補正して掲げた。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]
㊄九世戶(くぜのと)の蚊帳(かちやう)の中(なか)に思ひの火(ひ)僧の胸より出《いで》し事并《ならびに》龍灯(りうとう)の事
丹後の府中に、「鉾立(ほこだて)の道場」といふ時宗寺あり。
その上人、愛阿弥陀仏(あいあみだぶつ)は、福力(ふくりき)の人にして、道心けんご也。
在国のとき、報恩を受けたる事、あり。
此の上人、「九世戶の文殊」を信仰せられ、每月に、三度(《さん》ど)、さんけいし、つやして、仏前に、夜もすがら、よこね[やぶちゃん注:「橫寢」。]せず、称名念仏し給へば、
「龍灯を、しげく、みる。」
と、いへり。
龍灯とは、橋立のきれと[やぶちゃん注:「切戶」。]二丁[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]ばかりの中に、にはかに、一段、ふかき所、あり、是を、
「龍宮の門(もん)なり。」
と、いひつたへたり。
天氣よく、波風なき夜(よ)、きれとより、ともし火、出《いで》て、文殊の御前(《おん》まへ)に、まいる[やぶちゃん注:ママ。]。
無道心の人は、みる事、まれなり。
あるひは[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、みて、
「漁火(ぎよくは)なり。」
といふ人もあり。
文殊堂の前、二十間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]ばかり南に、たかき松あり、その上に、龍灯、住(とま)るなり。半時(はんじ)[やぶちゃん注:現在の一時間。]ばかりありて、消(き)ゆ。あるひは、はやくも、きゆるなり。
もし[やぶちゃん注:もしくは。]、松の上に、童子、ありて、ともし火を、さゝぐる事あり。
是をは[やぶちゃん注:ママ。]、「天灯(てんどう)」といふなり。
「昔は、天灯、しげかりしが、今は、まれなり。」
と、いへり。
夏になれば、ここもと、蚊の多き事、限りなし。諸国の順礼、あつまり、臥(ふす)に、蚊の多きことを、苦しみ、やすく臥すこと、あたはず。
愛阿上人、これを見て、ふびんにおもひて、大《おほき》なる蚊帳をしたゝめて、寄進す。堂の奧に、つりて、順礼、廿人も、三十人も、一所にふして、蚊の苦しみなきを、よろこぶ。
[やぶちゃん注:底本のはっきりした挿絵はこちら。絵師は、以下の怪火を描くだけでは面白くないと思ったのであろう。実際には、文殊堂からは少し離れているはずの龍灯の松の上に、童子が小さなお堂のような灯台を掲げている絵を下方に描いている。]
愛阿上人、あるとき、仏前より、夜ふけて、蚊帳の中に、ともしびのありけるを、見らる。
あやしみて、よくみれば、臥したる人の胸のうへに、靑き、ともし火、ありて、まなか[やぶちゃん注:「眞中」。]ばかり、西へ、人の上にありて、消えたり。
夜あけて、順礼のおくるを待(まち)て、目当(めあて)したる所の順礼を、よび出せば、僧なり。
かたはらに、よびて、ひそかに、告げていはく、
「それがし、今夜(こよひ)、仏前に念佛して、ねふらず。蚊帳の中に、ともしひ[やぶちゃん注:ママ。]あり、貴処(きしよ)のむねの上より、まなかばかり、西にうつりて、人の上にありて、きえて候。その西なる人を、けさ、みれば、比丘尼なり。貴所(きしよ)、念[やぶちゃん注:思い。惹かれる感情。]をかけられ候や。ふしぎなる事にて候ほどに、つげしらせ申候。」
と、いヘば、僧、手をあはせて、いはく、
「上人の御意(ぎよい)、いつはりにてあるまじく候。その比丘尼は、知人(しるひと)にあらず、同行(どうぎやう)にあらず、おなじ順礼道のことなれば、こゝかしこにて、見るとき、小念(せうねん)、すこし動き候。此道《このみち》なるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下総て同じ。]に、べちなる儀、あるべからず。小念、動く事、つもりて、胸の火と現はれ候や。自今以後(じこんいご)、その心得をなして、絕斷(ぜつだん)すべく候。御しらせありがたく、たつとく存し[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]候。しかしながら、文殊の御りしやうと存し候。」
とて、去りぬ。
上人のこゝろに、
『蚊帳一帖(《いち》でう)に、男女(なんによ)、混雜して臥す事、しかるべからず。しよせん、蚊帳二帖に、男女、各《おのおの》、別に、間をへだてて臥さば、しかるべし。』
とて、また大なる蚊帳を、一はり、したゝめて、きしんせられたり。
予、はかるに、文殊堂、㚑地(れいち)なるゆへ、または、上人、しんじんなるゆへに、むねの火、あらはれ見えたり。
[やぶちゃん注:「九世戶」「の文殊」「㊂人の面に目鼻なくして口頂の上にありてものをくふ事」で既出既注。
「龍灯」狭義のここの龍灯については、私の「諸國里人談卷之三 橋立龍」、及び、『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 始動 「一」』に言及がある。因みに、後者は各地にある龍灯伝説全般を考証した強力な長大論考で、PDF一括版がこちらにある。
「鉾立の道場」高田衛編・校注「江戸怪談集」上の注に、『丹後国与謝郡(現京都府宮津市内)の万福寺。時宗天橋立道場として大伽藍を誇っていた』とある。現存しないが(以下の寺名のリンクはグーグル・マップ・データ)、Kiichi Saito氏のサイト「丹後の地名」の「中野(なかの)宮津市中野」によれば、浄土宗鉾立山大乗寺の解説中に、『大乗寺は貞観』五(八六三)年、『利生上人の開基、寛印供奉重修上いう。近世には時宗との関係をもったこともあった』(☜)とあり、『付近は南北朝期から時宗天橋立道場となる万福寺の比定地とされている』(☜)とあった。さらに、その前の、日蓮宗栄昌山妙立寺の境内にある案内板を字起こされた中には、『もとこの妙立寺の境内をふくむこの辺一帯は、真言宗』(☜)『万福寺の故地』(☜☞)『であり、この万福寺は空海(弘法大師)唐の留学から帰って三年目の大同三年(八○八)、空海がはじめて開山建立した寺であること、そして万福寺は細川忠興の真言倒しによって破壊された』(☜)『が、その寺内にあったこの「厨子」は、同じ寺祉に開山された妙立寺に伝えられたもので、おそらく鎌倉期の名工によって作られたものであろう。はたして去る大正十五年四月、旧国宝に指定をうけた。これを見るものの誰でもがその立派さをおどろき、かっての万福寺時代をかぎりなく追想させずにはおかない』とあった。因みに、この忠興の「真言倒し」というのは、文禄二(一五九三)年に丹後にあった真言宗四十八ヶ寺を廃し、僧侶を追放したことを指す。同じサイト内の「『丹後国寺社帳』(1682)」のページによれば、「峰山郷土志」を引用されて、『ことの起りについてはまちまちであるが、その理由の一つは、元亀二年、織田信長のために焼かれた比叡山延暦寺の僧が丹後に逃げ込み、真言の僧たちをかたらって信長誅滅の祈祷を行なったが、その祈祷の霊験によって、天正十』(一五八二)『年六月二日(一説、三日)逆臣明智光秀のために、本能寺で自刃したのであるという噂がひろがったためであるという』。『今、一つの理由は、文禄二』(一五九三)『年のこと』、『細川思興の内室(おくがた)の依頼によって、丹後の国中の真言宗の寺院が、ひそかに家孕を祈ったが、それがもれたため、忠興は非道な祈祷を行なうた四十八ヵ寺を倒し、寺領を取り上げ、僧を追放したと伝えられる。家孕とも、国孕とも孕女、または子女を祈らせたとも記されていて、これ以上何の説明もしていない。文字の上から考えると、世継ぎの子供を生むことを祈らせたものと解せられるが、忠興が「非道の祈り」と激怒したくらいであるから、余程のいきさつがあったのではなかろうか。確かな資料がほしいものである。また、内室とは玉子(ガラシャ夫人)ではなかったであろう』とあった。これらを総合すると、本話柄内時制は文禄二(一五九三)年に寺は破砕されている以上、それ以前の室町か戦国時代の時宗道場万福寺時代となる。若干の違和感は、本書が貞享四(一六八七)年刊であるのに、冒頭の記載は、あたかも江戸時代に万福寺があるかのような印象を与えることである。
「愛阿弥陀仏」不詳。
「橋立のきれと」この中央附近(グーグル・マップ・データ)。]
「まなか」(眞中)「ばかり、西へ、人の上にありて、消えたり」この部分、どういう映像なのか、どう怪火が動くことを言っているのかが、上手く説明出来ていない憾みがあるが、挿絵で意味が解る。挿絵の終夜念仏する愛阿上人のすぐ前の蚊帳の中で端に臥して寝ているのが、かの比丘尼に懸恋の情を持ってしまった僧であり、その胸の上のところに怪火が描かれているのが確認出来る。而して、奥には二人の巡礼の男性が臥しているいるが、その奥、丁度、そこが恐らく大きな蚊帳の「眞中」なのであろうが、そこにかの比丘尼が臥しており、その顔のすぐ上に、男僧の胸の上の怪火と全く同一の怪火が見えるのである。]
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