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« 奇異雜談集巻第四 ㊈馬細橋に行懸りわたらざる事 / 巻第四~了 | トップページ | 梅崎春生「つむじ風」(その6) 「春の風」 »

2023/07/09

奇異雜談集巻第五 目錄・㊀硯われ龍の子出で天上せし事

[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。【 】は二行割注。

 なお、高田衛編・校注「江戸怪談集」上(岩波文庫一九八九年刊)に載る挿絵をトリミング補正して掲げた。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

竒異雜談集巻第五

            目錄

 

㊀硯(すゝり[やぶちゃん注:ママ。])われ龍(たつ)の子(こ)出て天上(てんじやう)せし事

㊁塩竃(しほがま)火熖(くはゑん)の内より狐(きつね)のばけるを見し事

㊂三歲(さい)の子(こ)小刀(こがたな)を盗(ぬす)みあらそひし事

㊃姉(あね)の魂魄(こんばく[やぶちゃん注:ママ。というか、この時代には半濁音を示す「◦」の記号は未だ存在していないはずなのである。])妹の躰(たい)をかり夫(おつと[やぶちゃん注:ママ。])に契(ちぎ)りし事

 

竒異雜談集巻第五

   ㊀硯われ龍の子出て天上せし事

 武藏の国の人、語りていはく、武藏に「金河(かながは)の宿」と云ふ大所(《だい》しよ)あり。

 国のひやうらん[やぶちゃん注:「兵亂」。]にめつきやく[やぶちゃん注:「滅却」。]して、今は亡びしなり。

[やぶちゃん注:標題は「硯(すずり)」が「われ」(割れ)、「龍(たつ)」の「子(こ)」が、「出《いで》」て、「天上(てんじやう)せし事《こと》」と訓ずる。さて。この語り初めは、どうも、私には馴染めない違和感がある。何故なら、「金河(かながは)の宿」は「神奈川の宿」を指すからである。神奈川宿がこの話柄内で、兵乱によって、滅却されてしまい、「今は亡びしなり」と言っているのは、読者には強い違和感を抱かせるからである。江戸時代に入ってすぐに、神奈川宿は整備されている。これを仮に、鎌倉時代には鶴岡八幡宮が支配し、室町時代には関東管領上杉氏の領地となっていた「神奈川湊」にあった旧鎌倉道の宿駅と言い換えてみても、やはり、違和感があるからである。何故かというと、本書内のここまでの話柄群の時制は、第一巻の第一話が時制指示としては「応仁の乱」の最中で、最も古いが、それ以降は、戦国時代が主な時制となり、鎌倉幕府滅亡後の南北朝期や室町幕府が完全に機能していた室町前期以前は、今までの話柄の中には設定がないからである。室町前期の鎌倉公方や古河公方の頃ならば、「神奈川湊」周辺が戦乱で滅却したというのは少しもおかしくなく、いかにもあり得ることなのだが、そこまで遡った話は、本書の本話以前にはないからである。そもそも、多くに読まれるようになった本板本は貞享四(一六八七)年刊であって、「今は亡びしなり」という叙述は、板行された当時の読者でさえ、「あら! これ、えらい古い時代の奇異になっておへんか?」という印象を与えたに違いないからである。或いは作者は、この後で漢籍の伝奇小説を訳すことを既にこの時には決めており、「だったら、時制の縛りなんぞは、もう、どうでもええな。既にして、いらしまへん。」とケツを捲ったということなのだろうとは思うのである。

 むかし、金河全世[やぶちゃん注:ママ。「全盛」。]のとき、禅宗の寺あり【寺号、忘却。】。僧、廿人ばかり、沙渴(しやかつ)あり。

[やぶちゃん注:「寺号、忘却」如何にもいい加減で嘘臭い。

「沙渴」「沙彌(しやみ)」(出家して十戒は受けたが、未だ具足戒は受けていない未熟な若い僧)、及び、所謂、禅寺の少年の役であった「喝食(かつしき)」を指す。「喝」は「唱えること」で、もともとは、禅宗で大衆(だいしゅ:僧一般)に食事を知らせ、食事について「湯」・「飯」などの名を唱えること、及び、その役を務めた僧を指したが、後に、専ら、有髪の小童が務め、「稚兒(ちご)」と呼ばれるようになり、しばしば成人僧の男色の対象とされた。]

 寺の靈寶に、硯、一めん、あり。

 水、つねに湧き出《いで》て、よきほどにして、あり。

「きどく[やぶちゃん注:「奇特」。不思議の意。]なる硯。」

といふて、昔より、祕藏の靈寶なり。

 あるとしの夏のころ、方丈、ひろく、あけとをし、書院の、をしいた[やぶちゃん注:ママ。]に、かの硯を置き、前のしやうじを開けて、長老・侍者(じしや)・沙弥・喝食等、數人(すにん)、座敷にゐて、すゞむに、午(むま)の時ばかりに、人もちかづかざるに、かのすゞり、わるゝ音して、二つに、われて、一、二分(ぶ)、はなれのく、なり。

[やぶちゃん注:「をしいた」「押板(おしいた)」。岩波文庫の高田氏の注では、『書院の床の間の称』とされる。確かにそれが辞書類では先の義として載るが、書物や硯などを載せるための台として、室内に、作り付けにはせずに、置いておいた台板を言う語でもある。寺の「祕藏の靈寶」だから床の間に置いていいとも言えるが、しかし、寧ろ「祕藏の靈寶」なればこそ、その台版に据えて床の間に安置しておいたとすれば、私は、よりしっくりくるのである。

「侍者」師僧に近侍する高弟の僧。この語は実際には、「沙彌」と同義の下級の弟子、或いは、雑務担当の実務僧(一般人と接することが多く、金銭の収支担当などの娑婆世界との交渉実務に係わることから、寺院内では表向きは下級僧扱いされる)を指す場合もあるが、以上の序列から、ここは前者の意である。

「一、二分(ぶ)」三~六ミリメートル。

「はなれのく」「離れ退く」。]

 みな人、たつて、見れば、硯の中ほど、竪(たて)に、われて、虫(むし)、出《いで》たり。

 くりむしのごとくにして、二分ばかりなるが、板の上にあり、水もこぼれて、板の上にあり。

[やぶちゃん注:「くりむし」「栗蟲」。本邦の栗の実を食害する代表種と知られるのは、鞘翅(甲虫/コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ヒラタムシ下目ゾウムシ上科ゾウムシ科 Curculio 属クリシギゾウムシ Curculio sikkimensis の幼虫がよく知られている。当該ウィキによれば、『クリの実を食害するのでクリの害虫であり、『日本の栽培栗においては、最も重要な害虫の一つ』とされる』。『幼虫はクリの種子内部を食うだけでなく、その間の糞も全てその内部に蓄積するため』、『これが発酵して悪臭を放つ。また』、『食害が進むと種皮の外からも色が変わって被害がわかるようになる。種子』一『つに通常』、『数匹、多い場合は』十『匹も幼虫が入る例がある。卵が産卵されただけで孵化しない場合は食味に影響がないが、一度』、『卵が孵化してその幼虫により』一『匹に食害されただけで、その種子全体に悪臭がおよび』、『商品価値が大きく損なわれる』とあった。そんな臭い栗を、幼少の頃、口にして、吐き出して泣いたことを、注を書きながら、思い出している自分がいた。]

 沙弥・喝食、この虫を殺さんとす。

 長老、制して、

「殺すべからす[やぶちゃん注:ママ。]。」

といふて、扇の上ヘゝ、はねのせて、庭の蓮池(はすいけ)に、なげいるゝなり。

沙・喝等(ら)、庭におりて、池に、のぞみみれば、かのむし、水中(すいちう)にて、屈伸(かゝみ[やぶちゃん注:ママ。]つのびつ)すれば、みるみる、大《おほき/だい》になる。

 

Ryuunoko

 

[やぶちゃん注:底本大きなそれはこちら因みに、三人の真ん中の僧、顔が上手く描けておらず、妖怪みたような顔になっていて、龍より、そっちに目がいってしまう。]

 

 五寸になり、一尺になり、すでに、三、四尺になりて、勢ひ、恐しきゆヘ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、みな、迯(にげ)さつて、座敷に居(お[やぶちゃん注:ママ。])れば、晴(はれ)たる空、にはかに、曇り、黑雲、くだりて、蓮池の水、さはぐゆへに、長老、僧衆、みな、にけ[やぶちゃん注:ママ。]されば、電雷(でんらい)、庭におちて、めいどうし、黑雲、寺中に、おほふ。

 他鄕(たがう)には、

「寺、燒くる。」

と見て、人みな、はしりきたれば、寺衆(てらしゆ)、門外(もんぐはい)にありて、きもを消し、めいわくして、雲雷(うんらい)、落ちたるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]を語る。

 數刻(すこく)あつて、雲中(うんちう)に、龍(たつ)の頭(かしら)、見えかくれ、雲(くも)、天《てん》にのぼれば、龍《たつ》の手足、見え、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、尾(お[やぶちゃん注:ママ。])の先、時々見えて、のほり[やぶちゃん注:ママ。]ゆく。

 はるかに、あがりて、見えず。

 寺中《じちゆう》、雲(くも)、晴(はれ)たるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、人みな、寺にかへり、方丈の庭をみれば、石木(いしき)も池水《いけみづ》も、みだれはて、荒田(あらた)をたかやす[やぶちゃん注:ママ。「耕す」。]がごとし。

 淤泥(どろ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])、かき[やぶちゃん注:「垣」。]につき、座(ざ)に入《いる》。

 はうはう[やぶちゃん注:「方々」。「はうばう」。]にちり、正躰(《しやう》だい)もなくなりて、客殿のかきも、やぶるゝなり。

 ゆやう、とりしづまつて、かの硯を見れば、そのまま、あり。

 以後は、水、出《いで》ず。

 割れ目、そのまゝをきて[やぶちゃん注:ママ。]、むしの出《いで》たる跡を、人にみするなり。

 古老の人の、いはく、

「およそ、『龍子(りうし)は、海に千年、山に千年、里に千年、三千年、すぎて、龍(たつ)となりて、天にあがる。』といひつたへたり。知(しん)ぬ、海底の石に、龍子、しぜんに、生まれて、千年すぎて、その石、山に在ること、千年の後、又、里にある事、千年の内に、此石を、硯にきる時、龍子、その中興にあたる。竒異、不思議なり。たとへば、六條の道塲(だうぢやう[やぶちゃん注:ママ。])歡㐂光寺(くわんきくわうじ)の靈寶、「箸木(はしき)」の名号(みやうがう)のごとく也。」

[やぶちゃん注:「中興」高田氏の注に、『ここでは、中心、の意』とある。

「歡喜光寺」同前で、『一遍上人の従弟聖戒上人開祖の時宗道場。六條河原にあり紫苔山河原院歡喜光寺といった』とある。「京都オフィシャルサイト 京都観光Navi」の「六條道場 紫苔山河原院 歓喜光寺」によれば、移転して現存する。以上の解説によれば、同寺は、『もとは府下八幡』(現在の京都府八幡市)『にあって善導寺と称し、一遍の肉親と言われる聖戒が創建』し、『正安元年』(一二九九年)『に九条関白忠教』(ただのり)『の庇護を得て、京都六条河原の源融公邸跡に移』ったとある(この旧源融邸「河原院」は平安時代の京都の最強心霊スポットの一つとして「今昔物語集」等で超有名な場所である)。『後、高辻烏丸・四条京極と移転したが』、『明治の神仏分離によって、境内の社は独立し』、『現在の錦天満宮』(ここ)『となった。明治』四〇(一九〇七)年、『東山五条にあった法国寺と合併して』、現在地に移ったとある。現在地は、京都市山科区大宅奥山田(おおやけおくやまだ)のここ(以上の四リンクは総てグーグル・マップ・データ)である。]

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