佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「人に寄す」溫婉
[やぶちゃん注:書誌・底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]
人 に 寄 す
萬 木 凋 落 苦
樓 高 獨 任 欄
誘 幃 良 夜 永
誰 念 怯 孤 寒
溫 婉
人目も草も枯れはてて
高殿さむきおばしまの
月にひとりは立ちつくし
歎きわななくものと知れ
月をうかべたる波を見て
※
溫 婉 宋朝の妓女。 未詳。
※
[やぶちゃん注:朱衛紅氏の論文「佐藤春夫『車塵集』における古典和歌との交渉」(筑波大学比較・理論文学会刊の『文学研究論集』(二〇〇一年三月発行)。「つくばリポジトリ」のこちらからダウン・ロード可能)によれば(注記号は省略した)、
《引用開始》
この詩の原題は「初冬有寄」で、原作者の温婉は宋代の女流詩人である。
原詩は、「すべての木々の葉が枯れて散り、私も落ちぶれてしまった。楼閣の欄干に私は一人もたれる。恋人と過ごす夜は、永遠に巡ってこない。帳の中でひとり寂しい寒さに怯える私を、誰が思うだろう」という意味である。吉川発輝は原誌の承句に誤記があるとして、「(原詩の筆者注)承句は「楼高独任欄」ではなく、「楼高独凭欄」とすべきである。言いかえれば、第四字「任」は「凭」の誤記である。『春夫詩抄』と『玉笛譜」などは「凭」となっている。訳詩の底本も「凭」となっている。」と指摘している。原詩の起句「万木凋落苦」は冬の荒涼たる光景を描写しており、「万」は承句の「独」と対句をなし、そこから、かつての大勢の人に臨まれていた過去を暗示していることがわかる。そして訳詩では、「人目も草も枯れはてて」と訳している。これは、「山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと忠へば」(『古今集』冬・315、源宗子朝臣)を下敷きとした訳と考えられる。「かれぬ」は掛詞であり、「草」に対して「枯死する」という意味をもっと同時に、「人め」に対して「(時間的にも空間的にも)離れる、遠のく」または「うとくなる、関係が薄れる」を意味する。また、訳詩の「人目」は、訳詩に暗示された「大勢の人に囲まれていた過去」を具体化しているものである。吉川発輝は「原詩のように対句法を使っていない」と論じている。しかし「人目」が訳詩の転句にある「ひとり」にかかり、対句的な表現をなしていることがわかるのではないだろうか。原詩の「木」が、訳詩では「草」に訳されている。これにより、訳詩の起句、承句、転句の叙景が、「草」から「高殿」、そして「月」へと視線を次第に高くし、叙景に臨場感を与え詩情を高める効果を与えているのである。
吉川発輝は訳語の起承二句について、「やはり七五調に訳されていて、りズムを主眼とし意を従としている。また韻律美に気を配りすぎて、原意を犠牲にした訳である。」と論じている。しかし上記の分析を試みることで、訳詩は原詩の詩情を十分に伝えていることがわかるのである。
《引用終了》
と、見事な解析を示しておられる。
以下、以上の朱衛紅氏の解説を参考にしつつ、「任」を「凭」に変えて、推定訓読を示す。
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初冬(しよとう)に寄する有り
萬木(ばんぼく) 凋落(てうらく)して 苦(くる)し
樓(らう) 高(たかくのぼ)りて 獨り 欄(おばしま)に凭(もた)れり
幃(とばり)に誘(さそ)はれて 良夜(りやうや) 永(なが)し
誰(たれ)をか念(おも)はんや 孤寒(こかん)に怯(おび)へつつ
*
「孤寒」孤独で寂しいこと。]