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2023/07/13

梅崎春生「つむじ風」(その9) 「真知子」

[やぶちゃん注:本篇の初出・底本・凡例その他は初回を見られたい。]

 

     真 知 子

 

 猿沢三吉の自動車は、上風タクシー会社の構内に、がたごとと入って行った。

 適当な位置に停車すると、三吉はごそごそと運転台から這い出し、建物入口の受付に歩いた。

「上風君はいますかね?」

「いらっしゃいます。どうぞ」

 受付では、若い男が二人、将棋をさしていた。駒数がすくないところを見ると、もう終盤戦らしい。その盤面をちらと一瞥しただけで、三吉の血は騒いだ。思いあきらめてはいても、やはり血の方で勝手に騒ぎ立てるのである。

「もうずいぶん長いこと、将棋をささないなあ」

 奥の社長室の方に歩きながら、三吉の手は自然と将棋の駒を動かす指付きになっていた。

「あの恵之助の野郎め。将棋は空っ下手のくせに、江戸っ子ぶりやがって。そのうちに一泡吹かせてやるぞ!」

 その将棋の空っ下手の恵之助に、五十一対五十で負けたことも忘れて、三吉はぼそぼそとつぶやいた。

 上風タクシー会社社長上風徳行(かみかぜとくゆき)は、顎鬚(あごひげ)をたくわえた顔の四角な四十男で、大きな社長卓を前にしてでんと腰をおろし、ハサミと櫛でもって顎鬚手入れに余念がなかった。その社長室に、扉を排して[やぶちゃん注:「はいして」。手で押し開いて。]猿沢三吉がのこのこと入ってきた。

「やあ」

「やあ」

「ようこそ」

 三吉は卓をはさんで、上風と向き合って腰をおろした。上風は小さな卓上鏡をのぞき、ハサミをちょきちょきと鳴らしながら訊(たず)ねた。

「朝っぱらから、何か御用かね?」

「うん。ブレーキの具合がちょっとおかしいんでね、お宅で直して貰おうと思ってさ」

「お安い御用だ」

 上風社長はハサミを卓に置き、立ち上って窓をあけ、大声で怒鳴った。

「修繕部の野郎ども。猿沢さんの車のブレーキの具合が悪いそうだ。ただちに故障個所をしらべ、修繕せよ。かかれっ!」

 戦争中は海軍の潜水艦乗りだったと言うだけあって、命令のしかたも大へん勇ましく荒っぽい。

「君んとこからゆずって貰って以来、これで故障は六度目だぜ」

 上風が椅子に戻って来るのを見すまして、三吉は口を切った。これでちょいとした厭味のつもりなのである。

「今日のなんか、修繕代はタダでもいいくらいだな」

「そんなわけには行かないよ。それじゃこちらが持ち出しになる」

 上風は大口をあけて空笑いをした。

「第一売価が破天荒の三万円だからなあ。そこは猿沢さんも辛抱して貰うんだな」

 そして上風は周囲を見廻し、小指を立ててにやりと笑った。

「時に、こっちの方の具合はどうだね?」

「ああ、それ、えヘヘ」

 三吉はちょっと顔をあかくして、照れ笑いをした。その小指は、上風が近ごろ世話して呉れた若いメカケのことなのである。

「いや、上風君からは、いつも乗り物の世話ばかりをして貰って――」

 自前車と女性を一緒くたにするような不謹慎な発言を三吉はした。どうも明治生れの人間の中には、とかくこういう不謹慎な女性観の持主がいるようだが、全く慨嘆にたえない。

「そちらの方はまだこわれないかね。修繕の方は俺が引き受けるよ」

 上風社長はにやにやしながら言った。

「そちらの修繕なら、タダでもいいよ」

「飛んでもない」

 猿沢三吉は手を大きく振った。

「君なんかに修繕が頼めるもんか。かえってこわれ方がひどくなる。それにまだ、あれは修繕の必要はない」

「そりゃそうだろうなあ。あれは中古品でなく、新品なんだからな」

 上風社長も三吉には負けぬ不謹慎な発言をした。

「奥さんの方は、大丈夫かね。何なら僕が密告してやろうかな」

「飛んでもない!」

 三吉は今度は真顔になり、いくぶん蒼白にすらなって、大きく手を振った。

「冗談もほどほどにして呉れ。そんなことをされたら、わしはハナコから半殺しにされてしまう。一体君はわしを脅迫する気か」

「冗談だよ。冗談だよ」

 上風はにやにやしながら、両掌で空気を押さえつけるようにした。

「ずいぶんこわいと見えるね。そんなにこわいもんかなあ」

「こわい。こわいよ」

 三吉は真剣な表情で口をとがらせた。

「何がこわいって、世の中にあんなこわいものはない。近頃は保健のためと称して、娘を相手に、毎日レスリングの練習をしているんだよ。あれのことが知られたら、わしなんか股裂きか何かにされてしまうだろう。わしだってまだ殺されたくない。長生きをして、ますます商売にいそしまねば――」

「時にまた一軒、風呂屋を建てるんだってねえ」

 上風は卓上鏡の中に、自分の顎鬚の形を確かめながら、話題をかえた。

「ずいぶん金がかかるだろう」

「うん。かかるとも。うんざりするくらいだ」

 三吉は窓ガラス越しに、窓外の自動車を指さした。

「だからあのオンボロ自動車に打ち乗って、金策にかけ廻っているんだよ。もっともハナコにはかけ廻っているように見せかけて、真知子のとこに寄ったりしているけれど」

「そんなにかけ廻っては、ブレーキの具合も悪くなるわけだよ」

 上風は憮然として顎鬚をしごいた。

 「それでも、建ってしまえば、しめたもんだね。建物は財産として残るし、毎日の日銭(ひぜに)は確実にあがるし――」

「日銭、日銭と言うけれど、大したことはないんだよ。風呂屋なんてのははかない商売で、タタシー屋みたいに荒かせぎは出来ない」

「そういうと、僕がよっぽど荒かせぎしているように聞えるな」

「わしんとこにくらべると、荒かせぎだよ」

 三吉はまた口をとがらせた。

「いいかい。今、湯銭はいくらか知ってるだろう。大人十五円、小学生は十二円、未就学児童は十円となっている。問題は、この大人の十五円だね。戦争前、湯銭というやつは、盛りかけソバ、シャケの切身、と大体同様だったんだ。ところが今ではどうだ。ソバは標準店二十五円、シャケの切身もその位。シャケの方は北洋があんなことになったから、まだまだ上るだろう。しかるに湯銭は、わずか十五円ぼっちだ!」

[やぶちゃん注:「シャケの方は北洋があんなことになった」これは推定だが、当時のソヴィエトによるシャケの漁獲量制限が日本に勧告されたものか。なお、アメリカ及び旧ソヴィエト連邦が自国沿岸の水産資源保護を目的に二百海里(約三百七十キロメートル)の漁業専管水域を相次いで設定したのは、この二十年後の昭和五二(一九七七)年のことであった。]

「シャケの切身、もりかけのソバが二十五円以上もしているのに、風呂銭ばかりが十五円にとめられて、それでやって行けますかと言うんだ」

 猿訳三吉はどしんと卓をたたいた。しかしこの論理は、三吉が都合のいい例ばかり出しているのであって、戦前に風呂銭とほぼ同額だったものに、他には豆腐や都電の料金がある。豆腐や都電の料金には、三吉はずるくも頰かむりをしているのである。

「ね、君もそう思うだろ。風呂屋というのは、まったくはかない、引き合わない商売だよ」

「そうかねえ」

 上風徳行はうたがわしげに眼をパチパチさせた。

「じゃあ何故あんたは、三吉湯をもう一軒殖やそうとするんだね?」

「そ、それは、もちろん――」

 三吉はどもった。

「もちろん、公衆衛生のために、身を尽したいからだよ。皆さんの身体を清潔にしたい、その一念だけだね。まったくギセイ的商売だ。その可憐なるギセイ的商売に対して、実に当局の取締りがきびしいんだよ」

「取締りはうちの方もきびしいよ」

 上風もうんざりしたような声を出した。

「取締まられるのはタクシー業ばかりかと思ったら、風呂屋もそうなのかい?」

「もちろんさ。ひどいもんだよ。公衆浴場法というのがあるんだ。保健所が年に何回か、検査にやってくる。予告なしの抜打ち検査だよ。湯の成分に、アンモニア、大腸菌、雑菌がすこしでも余計に入っていると、もうそれで営業停止だ。アンモニアなんてものは、これは業者の責任じゃない。一部悪質のお客のせいだよ。しかし罰せられるのは、わたしたちだ」

 三吉は嘆かわしげに、拳固を宙に振り廻した。

「その他、湯の温度はいつも四十二度を保てだとか、湯はいつも湯舟にあふれさせて置けとか、十歳以上の混浴はならんとか、そりゃうるさいもんだよ。こういう弾圧を受けながら、わしらは黙々として、公衆衛生のために尽している。それで十五円は安いな。安過ぎるよ。せめて二十円に値上げを、わしは組合に提訴したいね。十五円では、食うや食わずだ」

「ほんとかい?」

「ほんとだよ。それにわしんとこは大体山の手だろう。山の手の連中は、下町の連中とちがって、毎日は入浴しない。二日おき、三日おきだね。だから下町の連中と違って、一回にお湯をたくさん使うんだ。たまった話じゃないよ。それに近々水道料も上るし、十五円ではまったくわしらは干乾しになる」

「食うや食わずとおっしゃるけれど――」

 と、上風徳行はにやにやとした。

「干乾しになろうという人間が、よくメカケを囲う余裕があるね」

「そ、それとこれとはちがう」

「ブレーキが直ったら、直ぐにそちらに廻ろうと言う算段だろう」

「いくらなんでも、朝っぱらから――」

 三吉は内ポケットから小さな時間割を取り出した。

「ええと、今日は水曜か、水曜の朝八時から十時まで、万葉集の講読と。真知子は今頃、万葉集の講義を受けているんだよ」

 

 猿沢三吉が真知子を見染めたのは、上風徳行と一緒に行ったアルバイトサロンでであった。

[やぶちゃん注:「アルバイトサロン」和製外語。ドイツ語の「Arbeit」にフランス語の「salon」を合成したもの。後に出る「アルサロ」はこの「アルバイト・サロン」の略語。「素人のアルバイト」という触れ込みで、女性が客の飲食の相手をする店を言う。客席に侍るのが、専門のホステスではなく、「アルバイト(内職)のOLや主婦などの素人だ」という喧伝を持って客を呼ぶキャバレーの類い。昭和二五(一九五〇)年八月に大阪の千日前に「バーでもキャバレーでもビヤホールでもない」を歌い文句に開店したのが始まりで、新鮮さが受け、各地に広まった。「アルサロ」自体は関西で多く呼称された。その後、未亡人の「ゴケサロ」、人妻の「Yサロ」なども現われ、一九六〇年代半ばまで盛行した。その後に出現した「女子大生パブ」なども同工異曲の商法と言える(主文は小学館「日本大百科全書」を用いた)。]

 この場合、見染めたという用語は、正しくないかも知れない。第一、見染めるというようなういういしい用語は、三吉の風態にふさわしくない。

 かねてから、若い三助時代のころから、三吉は生涯に一度メカケを囲ってやろうと考えていて、目下物色中のところ、やっと一軒のアルサロにおいて、適当なのを発見したのである。自動車を買い込み、つづいてメカケというのは順当で、これが逆だとすこし困る。メカケのところに通うのに、てくてく歩いたり都電を利用したりしては、時間がかかり過ぎて、ハナコに気取られるおそれがあるのだ。

 実際三吉はこの秘密の妾宅逢いに、自家用車の機動力を存分に利用していた。

 アルバイトサロンなんかに行くのは、三吉にとってはそれが初めてであった。つい行く機会が今までになかったし、行ったことがハナコにばれると、どんなことになるかは判らない。

 自家用車の五度目の故障の修理のお礼に、又はそのお礼という名目で、三吉は上風をウナギ屋に誘って、一諸に酒を飲んだ。宴果てて、上風が三吉を誘った。

「どうだね。アルサロにでも行って見るか」

「うん」

 三吉はハナコのことを考えて、ちょっと渋った。しかし、いささか酩酊(めいてい)はしていたし、ついに好奇心の方が打ち勝った。アルバイトサロンとは如阿なるサロンなりや、かねてから新聞紙上の広告などを見るたびに、むずむずと彼は好奇心をもよおしていたのである。

「うん。君がそんなに誘うのなら、わしもむげにことわるわけにも行かないな。止むを得ず、お伴するとするか」

 三吉は恩着せがましい口をきいた。もしばれた時に、上風から強引に誘われたんだという証拠を残して置く必要があった。

 盛り場の横丁の、パチンコ屋の二階に、狭い階段をとことこと登り切った時、三吉はキモをつぶして呟(つぶや)いた。

「わあ、暗いなあ。なんて暗い店なんだろう」

 三吉が時々行くウナギ屋だの中華飯店だのとくらべると、これは海上と海の底ぐらいのちがいがある。

 その海の底みたいなサロンの中で、お客や女たちが、深海魚みたいにうごめいたり、じっとしたりしていた。

「いらっしゃいませ」

 隅のうすぐらいボックスに、二人は案内された。上風はビールを注文した。

 あやめもつきかねる暗さだと思っていたが、しばらくいるうちにだんだん目が慣れてきた。二人坐っている女の一人に、三吉は興味を引かれた。

 まだ若い、端正な冷たいような顔立ちの子で、図々しいとかすれたという感じが全然なく、挙止も万事控え目なのである。

「アルバイトサロン。アルバイトと言うけれど――」

 三吉はその子の耳にささやいた。

「一体あんたの本業は何だね?」

「学生ですわ」

 女は悪びれずに答えた。

「大学の国文科に行っているんです」

「大学?」

 三吉はすこしおどろいて、ビールにむせた。

 

 アルバイトサロンのその女の子が、大学生であると聞いた時、猿沢三吉は驚いたと同時に、大いに感動もした。なにしろ三吉は高等小学校を出ただけで、山国から上京、風呂屋の三助に住み込んだのであるから、学というものがあまりない。学があまりないから、学というものに対して、三吉は未だにあこがれとおそれを保有しているのだ。

「ううん」

 三吉は思わずうなり声を発した。

「それで、あんたの名は何というんだね?」

「真知子。今度いらっしゃる時は、真知子と指名してね」

 真知子は三吉の顔をまっすぐに見た。三吉はその脱腺にたじろいだ。相手が学の蘊奥(うんのう)をきわめつつある女だと思うと、たじろがざるを得ないのである。

「そ、それで、こんなところで働いているのも、学資かせぎかね?」

「そうよ」

「こんなところで働かないでも、もっと上品なアルバイトはないのかね」

「ここは別に下品じゃありませんわ」

 真知子は三吉をきめつけた。

「ここを下品だと思うのは、お客さんの品性が下劣だからだわ」

「うん。そうだ。そうだ」

 三吉はあわてて賛成した。

「要はお客の気持の持ち方ひとつだ」

「それにここは割に収入はいいし――」

 真知子は説明を補足した。

「この次かならず、真知子と指名してね。指名料というのがあたしに入るのよ」

 指名料なるものの説明を聞き、その夜はビール四本ぐらいにとどめて、三吉と上風徳行は引き上げた。ずいぶんふんだくられるかと覚悟していたら、案外安かったので、三吉はびっくりした。

「あのくらいの値段だったら、女の子たちの手にはいくらも渡らないな」

 帰り途に三吉は感想をもらした。

「そりゃそうだよ。アルバイトだもの」

 上風は当然のことのように言った。アルバイトとは安いという言葉の外国語だとでも思っているらしかった。

[やぶちゃん注:ドイツ語の「Arbeit」(所持するドイツ語辞典を見ると、①「仕事・労働・作業・活動」、②「(機械の)作動・運転」・「火山の活動」、③「労苦・骨折り」(単数のみ)④「課業・課題・作品・著書・研究成果・論文・手際・出来栄え」の意とある)から転じて、本邦では和製外語として「本業とは別に収入を得るための仕事」の意味で使われている。学生が学業のかたわら、一時的に行う仕事を指すことが多いが、最近では主婦がパートタイマーとして一時的・季節的に就労する場合でも、アルバイトと呼ぶ。学生のアルバイトという用語は、その近代的イメージから第二次大戦後の経済生活が逼迫していた混乱期に流行し始め、一般化したものである。それ以前は「内職」と呼ばれていた(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

「でも、そんな安い収入で、あんなところで働かねばならんとは、可哀そうだなあ。あんなきれいな女の子が」

「おい、おい。惚れたのと違うのか」

 三吉の背中をたたいた上風がひやかした。

「あんなうすぐらいところじゃ判らないよ。おてんと様の下でとっくり眺めなきゃ」

 その夜、三吉は家に戻ってからも、なかなか眠れなかった。血が騒いで眠れないのである。

(学資をかせぐために、あんなうすぐらい不衛生なところで、あまたの男たちの相手をするとは、いくらなんでも可哀そうだ。もっと有利な、収入の多いアルバイトはないものかなあ)

 三吉は寝がえりを打ちながら考えた。

(あまたの男性じゃなくて、一人の男性、たとえばこのわしが、金を出してやって、充分に学問をつづけさせる。そんな具合には行かないもんかなあ)

 暗闇の中で、三吉の胸は動悸が打っていた。つまりあの女がわしのメカケに、と考えて見ただけで、三吉の胸はドキドキと脈打ち始めたのである。

 ハナコの寝息をうかがいながら、三吉はまた切なそうに寝がえりを打った。

 

 寝ては夢、起きてはうつつ、という言葉があるが、その翌日からの三吉の気持も大体それに近かった。気分がふわふわしているので、湯銭のおつりを間違えたり、食事の最中に箸を持ったままぼんやり天井を眺めたりするものだから、その度にハナコに叱りつけられるのである。

 「何ですか、あなたは。フヌケみたいな馬鹿面をして。また血圧が高くなったんじゃないの。イヤですよ。今頃からヨイヨイになられては」

 では思いきってアルバイトサロンを再訪し、気持を切り出せばいいのに、それが三吉にはどうしても出来なかった。なにしろ相手は学の蘊奥をきわめた女性であるし、気持がすくんでしまうのである。海千山千の如く見えて、三吉の心情には意外にもウブなところが残っていた。

 思い余って三吉は、上風徳行を訪問、切ない胸の裡を打ち明けて、あっせん方を依頼した。

「よろしい。引き受けた。あんたも案外ウブなところがあるんだなあ。見直したよ」

 上風社長は胸をどんとたたいて承諾した。

「そのかわり、アルサロで飲食した分は、あんたが持てよ」

 その翌日、上風がもたらしたのは吉報であった。上風から「ニイタカヤマニノボレ」という電報が来たのである。もちろんこれはハナコにはばかって、二人できめた隠語であった。ハナコは丁度(ちょうど)留守だったので、三吉は電報をふりかざしながら自動車に飛び乗り、上風タクシー会社にかけつけた。

「早速かけつけて来るだろうと思ったよ」

 三吉の姿を見ると、上風社長は顎鬚をしごきながら、にやりと笑った。

 上風の話では、切り出して見ると真知子はあっさり承諾したのだという。しかしその条件として、一、衣食住を保証すること、二、学資を出して呉れること、三、以上の他に毎月こづかいとして一万円呉れること、四、支度金として三万円呉れること、の項目があった。

「それにもう一つあるのだ」

 と上風が説明した。

「任期の間題だがね。大学を卒業するまで、という条件がついているのだ。それでもいいかね?」

「卒業までというと?」

「あと一年ばかりだそうだ。卒業すれば就職できるから、それ以後は世話になりたくないと言うのだ」

「ふうん」

 三吉はうなった。あまりにも割り切れた彼女の考え方に、うならざるを得なかったのだ。

 上風社長は三吉に、アルサロの飲食費として、五千四百円を要求した。切り出したらあっさり承諾したと言うのに、そんな飲み食いしたりして、と三吉は内心面白くなく思ったが、真知子を獲得したことではあるし、黙って不承不承支払った。

 かくして真知子は、三吉のメカケとなった。

 三吉は真知子にアルサロを止めさせ、都内の某所、三吉湯から自動車で十二、三分の距離のアパートの一室を、真知子にあてがった。あまり遠いと通うのに時間がかかるし、あまり近いとハナコに気取られるし、十二、三分というのが一番適当なところである。三吉のおんぼろ自動車は、妾宅通[やぶちゃん注:「しょうたくがよ」。]いにおいて、その最大機能を発揮した。

 

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