梅崎春生「つむじ風」(その11) 「弱点」
[やぶちゃん注:本篇の初出・底本・凡例その他は初回を見られたい。この章は短い。]
弱 点
日もとっぷりと暮れた頃、浅利圭介はむき出しのウィスキー瓶をかかえて、我が家の門をくぐった。玄関の扉をがたごとと引きあけた。
「ただいま」
「どなた?」
茶の間からランコの声がした。
「僕だよ。おばはん」
「ああ、おっさんか。お帰りなさい。御飯は?」
「ソバを食べて来たよ」
「ここにちょっと入って来なさい。お茶でもいれるから」
圭介はすこしためらったが、しぶしぶと茶の間に入ってきた。茶の間のすみには、長男の圭一が小さな寝息を立てていた。圭介の持ち物をランコは見とがめた。
「どうしたの、そのウィスキー。買ったの?」
「貰ったんだよ」
圭介は圭一の枕もとに坐り、父親の眼でその寝顔にしみじみと見入った。
「陣太郎君はどうしている?」
「昼から出かけて、まだ戻って来ませんよ」
ランコは針に糸を通しながら言った。ランコの厚ぼったい膝の上には、圭一のズボンが乗っかっていた。
「おっさんたちの仕事はうまく行ってるの?」
「うん。まあね」
「一体どんな仕事なの? おっさんに聞いても言わないし、陣太郎さんに訊ねてもハキハキしないし――」
ランコはズボンのほころびに針を入れながら、
「まさか何か悪いことをたくらんでるんじゃないでしょうね」
「飛んでもない。悪いことなどと」
「そりゃそうでしょね。おっさんなんかに、大それた悪事がはたらける筈がない」
聞きようによっては、ずいぶん腹の立つ言い方をランコはした。
「ね。相続関係の仕事でしょ。おっさんたちの仕事は?」
「相続関係?」
「そう。陣太郎さんのよ。松平家の――」
「うん。まあ、大体――」
あとはもごもごと圭介は口の中でごまかした。薬罐(やかん)が沸き立ったので、ランコはお茶を入れ、圭介の前に差し出した。圭介は疲れたような顔で、それを口に持って行った。
「今朝は、陣太郎さんに、遠廻しに頼んで置きましたよ。おっさんのことを」
「僕のことを?」
「そうよ。もし相続したあかつきには、家令か何かに使って貰えないかって」
「家令?」
圭介はびっくりして声を大きくした。
「す、すると、この僕が、あの陣太郎君の家令になるのか。イヤだよ。いくらなんでもそれはイヤだよ。家令だのヒラメだの、僕はまっぴらだ」
「失業してるよりはましでしょ!」
「家令はイヤだよ」
圭介はくり返した。
「家令なんてものは、家来だよ。家来になんかなりたくない。それともおばはんは、僕がもう偉くならなくてもいいと言うのか?」
「あたしはこの子に望みを託しています」
ランコは圭一の寝顔をしずかに指差した。
陣太郎が浅利宅に戻ってきたのは、夜も十一時を過ぎていた。足もとが多少ひょろひょろしていて、玄関に入る時しきいにつまずいて、あやうく下駄箱にとりすがった。
「ただいま」
「どなた?」
「陣太郎です」
「ああ、お帰りなさい。あなたが最後だから、玄関の鍵をかけといてね」
陣太郎は鍵をかけ、廊下をふらふらと納戸(なんど)に歩いた。浅利圭介はまだ起きていた。小机の前に坐り、頰杖をついて、河か考えていた。小机の上にはウィスキー瓶とグラスがあった。
「ただいま」
圭介はじろりと陣太郎を見上げた。
「うん。遅いな。どこに行ってた?」
「偵察ですよ」
「まあ、坐れ」
圭介は机の向うを指差した。
「酔ってるな、君は。どこで飲んだんだ?」
「おっさんも飲んでるじゃないですか」
陣太郎はじだらくに坐りながら、机上のウィスキーに眼を据えた。
「おや。これはジョニイウォーカーだよ。すごいなあ。しかも黒ラベルと来ている。どうしたんです。買ったんですか?」
「冗談言うな。失業中の身の上で、こんな高いのが買えるか」
圭介はうやうやしくグラスに注ぎ、口に持って行ってちょっぴり砥めた。
「貰ったんだよ」
「誰に?」
陣太郎は手を出した。
「おれにも一杯下さい」
「君にはこれで充分だ」
圭介は本棚に手を伸ばし、寝酒用の二級ウィスキーとグラスをとり出した。それを陣太郎にあてがった。
「加納宅において、これを貰ったんだ」
「加納明治に会ったんですか」
陣太郎は魚のような眼をきらきらと輝かせた。
「まさかこれが、轢(ひ)き逃げの代償というわけじゃないでしょうね」
「そんなに僕はお人好しではない」
そして圭介はがっくりと肩をおとした。
「会わせて呉れねえんだよ」
「誰が?」
「女秘書と称するやつがさ」
今日面会に行ったいきさつを、圭介はめんめんと語り始めた。そのすきをうまくねらって、陣太郎は自分のグラスにジョニイウォーカーを充たした。口に持って行き、舌をぺろりと出して舐めた。
「そして、会わせないかわりとして、このウィスキーを呉れたんだよ。ウィスキーを呉れたところを見ると、やはりうしろ暗いところがあるのかな」
「でも、呉れたのは加納じゃなくて、女秘書なんでしょう」
陣太郎はまたグラスを口に運んだ。
「その女秘書、美人でしたか? ランコおばはんとどうです」
「おばはんなんか問題じゃない」
さすがに圭介も声をひそめた。
「八頭身だよ。すらりとして、まるでマネキン人形だ。君にも拝ませてやりたいな」
「じゃあ今度は、おれが行って見ようか」
「ダメだよ」
圭介は声をはげました。
「君は風呂屋の係りじゃないか!」
翌日の夕方、もうそろそろ暗くなりかかった頃、浅利圭介はなにやら浮かぬ顔をして、ソバ屋の隅の卓に腰をおろし、おちょうしを傾けていた。客は圭介だけである。仕切台の向うから、ソバ屋のおやじが顔をのぞかせた。
「何をサカナにしてんだね。それ」
「うん。これか。甘納豆(あまなっとう)だ」
「妙なものをサカナにするんだね。買って来たのかい?」
「いや。貰ったんだ」
圭介は卓上の外国タバコの封を切り、火をつけた。
「今日、ある人に面会に行ったんだ。すると秘書というやつがいて、会わせて呉れないんだよ。会わせないかわりにと言って、この洋モクと甘納豆を呉れたんだ」
あとはひとりごとのように、ぶっぶつと、
「おかしなもんだなあ。会いに行くたびに、何か呉れるよ。昨日はウィスキーを呉れたしな。あの八頭身、おれに気があるのかな」
「甘納豆と洋モクとは、妙な組合せだねえ」
圭介がさし出した外国タバコの袋から、おやじは一本引っこ抜いておしいただき、話題を転じた。
「あの人、まだ当分、お宅にいる予定かね?」
「あの人?」
「あの、青年さ。ほら、この間――」
「ああ、あれか。そうだなあ、当分いるかも知れない」
「そうかい」
おやじははちまきを外(はず)して、もそもそと仕切台をくぐり、圭介に向き合って腰をおろした。
「あの人、慶喜将軍の孫だというのは、ほんとかね。あんた、どう思う?」
圭介はぎくりと顔を動かして、おやじを見た。そして言った。
「あんたにもそんなこと言ったかね?」
「うん。宮城の前を通るたびに、妙な気持になるんだってさ。ここは本来なら、おれの住居なのに、他の人たちが平気で入りこんで住んでいるのが、おかしな感じがするってさ。その気持、おれにはよく判らないが」
「海軍兵学校の話はしなかったかね?」
「兵学校? それは聞かない。見合いの話は聞いたけれど」
「見合い?」
「うん。近いうちに、京都の十一条家の娘と、見合いする破目になるかも知れないってさ。当人はイヤだと言ってたけどね」
「当人って、陣太郎がかい?」
「そうだよ。でも、あんな世界は、当人がイヤだと言っても、通るもんじゃないらしいね。そうなったら、おれんちの店も拡張出来るんだ」
「え? なになに?」
圭介はとんきょうな声を出した。
「その拡張の金は、誰が出すんだね?」
「その、それは、つまり、松平家がさ」
おやじは洋モクを中途で消して、耳たぶにはさんだ。
「だから、この頃、あの人のソバ代は、成功払いということにしてあるんだ。つまり、相続したあかつきに――」
電話がじりじりと鳴った。おやじはぴょんと飛び上って、受話器にとりついた。
「はいはい。毎度ありがとうございます」
圭介は面白くない顔付きになり、甘納豆を十粒ほどまとめて、口の中にぽいとほうり込んだ。
猿沢三吉の日常は、近頃多忙をきわめていた。その最大の原因は、言うまでもなくあの角地の三吉湯の新築にあった。
この三吉湯の新築は、前々から三吉が計画していたものでなく、言わばヒョウタンから駒が出たたぐいのものである。自動車の運転免許証下付の祝いに、三吉は家族一同を引き連れ、銀座の中華飯店で宴をはった。その席上、つい口を辷(すべ)らせたことが原因になって、第四・三吉湯の新築ということになったのであるから、新築の予算を確保していたというわけあいのものでない。
だから建築費の金策に、三吉は自動車であちこちをかけ廻る必要があった。
第二の原因には、メカケの真知子があった。
そんなにいそがしいのなら、真知子のところに通うのをよせばいいのにと思うが、そういうわけにも行かないのである。
三万円の支度(したく)金はすでに渡してあるし、学費の他月々一万円のこづかい。アパート代だってばかにはならない。
アパートは第一・三吉湯から自動車を駆って[やぶちゃん注:「かけって」。]、十二、三分の距離のところにあるが、敷金五万円の間代が五千円。もっとも敷金は一年以内に出れば一割を引き、二年以内は二割を引いて戻しては呉れる。
間代も便所の傍なら、三千円という安値のがあるが、いくらなんでも便所の傍の妾宅なんて、情緒がなさ過ぎる。
角の部屋だと二面が開いているから、六千五百円という高値になる。
三吉にとっては金が少しでも欲しい季節ではあるし、五千円という並部屋をえらんだ。上部屋との差は月千五百円だが、年に直すと一万八千円になる。
それほどまでに資本をおろし、気を砕いた妾宅であるから、通わないなんてことは、三吉にとってはもったいなくて出来ない相談である。
金策と妾宅通い、その二つでもって、三吉は番台に席があたたまる暇がない。自動車が六度も故障をおこし、その度に上風社長に儲けられたのも当然である。
ただ三吉の妾宅通いは、ふつうのそれとちょっと趣きを異にしている。ハナコ他全家族に秘密にして置かねばならぬ関係上、長時間入りびたっているということができないし、また泊り込みなどということは絶対不可能であった。
それに真知子は某大学の国文科の学生であるので、日曜をのぞいては、毎日学校に出かけて行く。講義が終っても、部活動その他があり、帰ったら帰ったで、ノートの整理や、予習の仕事がある。つまり真知子も、三吉におとらずたいへん多忙なのである。
たいへんいそがしい且那とたいへんいそがしい妾だから、ふつうの場合のようにしっくりとは行かない。ジェット戦闘機同士の空中戦闘のように、アッという間もなくすれ違ってしまうこともある。
「今日はお帰りになって。明日は古事記の演習があるんだから」
いそいそと二階に上り、扉をあけたとたんに、いきなりそう拒絶されることも、時にはあるのである。
可愛い真知子の勉強を邪魔して、それで彼女の成績が下ったりすることは、三吉にとっても忍び得ないことだ。といって、忍んでばかりいるわけには行かない。
世に学生妻の例はたくさんあるが、学生妾というのはあまり聞かない。学生であることと妻であることは、これはりっぱに両立し得るが、後者の場合はそう行かないような事情があるようだ。
ことに真知子の場合は、初めにメカケであって後に学に志したのではなく、学に志した後にメカケになったのであるから、学とメカケとどちらかといえば、もちろん学の方にウェイトがかかっている。学が主であって、メカケの方はアルバイトなのである。アルバイトであるからには、手を抜き勝ちにならざるを得ない。卒業までという期限つきだし、支度金はとってしまったことだし、どうしてもそうなってしまう。
ところが、猿沢三吉の側からすれば、どうもそれは約束がちがうような気がして、内心納得出来ないのである。約束といっても、三吉は真知子と物質上の約束はしたが、それ以上の約束をしたわけではない。が、旦那とメカケというものの間には、おのずからなる約束がある、というのが、明治生れの三吉における抜き難き固定観念であった。
(あの且那とあのメカケの間柄は、実にうるわしく人情があったなあ)
三吉が三助時代の風呂屋の主人と、そのメカケのことを、三吉は強い羨望の念をもって時折思い起すのである。あのメカケは三吉のことを、不細工な若衆だと侮蔑の言をはいたが、しかし旦那に対しては実に献身的で、後に旦那が相場か何かで失敗して、風呂屋を売りに出さねばならぬ破目になった時、風呂屋を売るならあたしを売って、と申し出て旦那夫妻を大感激させたことがある。その記憶があるものだから、現在の真知子のあり方に、約束が違うような気持がするのも当然だろう。
しかし三吉といえども、時勢の移りかわりはよく知っているから、昔日の人情を現代に求めようなんて、そんなことはもう考えてはいない。ただ嘆くのみである。
(ああ。わしらの若い時代というものは、年寄りですらも若い女性から献身的愛情を受けることが出来た。ところがわしが今年寄りになって見ると、もうそんな愛情をささげてくれる女性は一人もいないではないか。わしらの世代とは、何という不幸な世代だろう。これもあの戦争が悪いんだ。実にのろわしきは戦争だ!)
戦争反対は大いに結構であるが、こういう形でのろわれては、戦争もいい面(つら)の皮であるようだ。
で、上風社長のあっせんによって、やっと真知子をメカケに囲い得た当初の頃は、三吉はことごとく満足であった。なにしろ相手は長女一子(かずこ)とおっつかっつの若さではあるし、大いに学はあるし、しかも端正な美貌の持主と来ている。それが自分の庇護のもとに、すくすくと学を伸ばしているかと思うと、三吉は至大の精神的満足を感じていたのだが、だんだん時日が経つにつれ、前述の如き不満が生じて来たのである。
莫大な物質的ギセイをはらい、ハナコの眼をかすめるという放れ業的危険をおかして通ってくると、明日は万葉集演習だからお断り、ではいくら辛抱強い三吉でも、すこしはじりじりして来るのも当り前であろう。
(ああ、わしは何のためにメカケを囲ったのか)
若い日からの二大願望である自動車とメカケ、その二つを今にしてやっと入手出来たのに、前者はガタガタで故障がちだし、後者は意の如くならないし、老三吉の心境察するに余りある。
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