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2023/07/22

梅崎春生「つむじ風」(その18) 「泥仕合」

[やぶちゃん注:本篇の初出・底本・凡例その他は初回を見られたい。なお、本章は最終章の前で、かなり長い。文中の「」の太字は実際の太字であって、傍点ではない。]

 

     泥 仕 合

 

 三吉湯と泉湯の確執は、今や完全な泥仕合の領域に入った。

 三吉湯が同調して、湯銭を十二円に下げてから五日目に、十円に値下げの宜言文が、泉湯の玄関にでかでかと貼り出された。

 直ちに三吉湯は、それに呼応して、十円に値下げを発表した。

 それから一週間目に、泉湯玄関の宜言文中の『十円』の文字が『八円』と訂正された。

 するとその翌日、追随するばかりでは不甲斐なしと思ったのか、三吉湯は『七円』に値下げを断行した。浅利圭介支配人の献策であろう。

 翌々日、泉湯は『五円』に値下げ。

 即日、三吉湯も同調。

 両湯とも、五円の湯銭を保持しながら、そのまま一週間が経過した。これ以上値下げすると、消耗(しょうもう)度がはげしくて、とても持久戦は出来ない。

 よろこんだのは近所合壁、界隈(かいわい)の人たちである。それはそうだろう。三分の一の値段で入湯出来るのだから、よろこばない筈がない。

[やぶちゃん注:「近所合壁」(きんじょがっぺき)は「近くの家々」「隣近所」の意。「合壁」は「壁一枚を隔てた隣家」のこと。因みに、中世・近世は「かつぺき(かっぺき)」と読んだ。]

 今まで隔日に入湯していた人も、毎日入湯するようになり、毎日入湯の人は、一日二回もやって来るという現象を呈した。

 その結果、ここら一帯の住民たちは、非常に清潔となり、皆石鹸の匂いをぷんぷんさせて、ほがらかに街を歩いた。

 ここら区域の小学校の生徒たちも、衛生状態がぐんと良好になり、病欠者の数が激減した。医者は暇になり、石鹸屋は儲(もう)けた。

 三分の一に値下げしただけで、このような顕著な影響があらわれるのであるから、いかに日本人と銭湯とが密接な関係にあるかが判る。

「泉湯が五円だとよ」

「三吉湯もそうだとよ」

 噂は次々拡がって、他の地区からもどしどしと押し寄せ、中にはバスや都電に乗って来る粋狂なのもいて、両湯とも千客万来の状況であった。千客万来だとはいえ、湯銭が五円だから、とても黒字というわけには行かない。

 困ったり怒ったりしたのは、近接している銭湯たちである。お客を皆両湯に吸い取られて、がらがらになってしまった。

 そこで彼等はたまりかねて、東京都浴場組合本部に提訴した。

 組合も放置して置くわけに行かない。直ちに人を派遺して、値下げ中止を申し入れた。

「イヤです。どうしてもとおっしゃるなら、わしは組合を脱退させていただきます」

 重ねて組合理事が勧告に訪問した時、三吉と恵之助は、しめし合わしたわけでもないのに、同じようにそうはねつけた。脱退すると言われては、組合も手がつけようがない。

 そこら界隈の人々が、清潔になり行くにつれて、恵之助も三吉も栄養失調の傾向が強くあらわれてきた。恵之助は痩せ細り、三吉はむくんできた。栄養失調と言っても、体質によって、病状のあらわれ方が違うのである。

 家族たちはどうであるかというと、泉湯においては、息子の竜之助は、時折父親の眼をぬすんで、ヤキトリなどを食べに行くから、失調具合もまださほどではない。

 三吉湯の方は、三吉をのぞくと、あとは皆女性である。女性というものは、生命力が強靭といおうか、あるいは図図しいといおうか、同じものを食っているくせに、なかなか参らないのである。参りかけているのは、男性の三吉だけであった。

 

「竜之助や。ごはんだよ」

 泉恵之助は茶の間から声をかけた。人件費節約上、家事の小女を解雇したから、食事の用意は親子で、一日交代でやることになっている。今日は恵之助老の当番であるが、なにしろおかずが梅干、時たまメザシがつく程度だから、ほとんど手はかからないのである。

「はあい」

 穴だらけの障子の自室から、竜之助はふらふらと茶の間にあるいてきた。うんとこどっこいしょとあぐらをかきながら、恵之助老はいぶかしげに膝を立て、膝頭を指でこつんこつんと弾いた。

「おかしいな。どういうわけか、ここががくがくする」

「栄養が足りないんだよ、栄養が!」

 竜之助ははき出すように言ってチャブ台を見廻した。

「あああ。今晩もまたメザシに梅干か」

「ゼイタクを言うな、ゼイタクを。風呂銭はわずか五円だぞ」

 恵之助は力のない声でそうたしなめながら、焼酎の二合瓶をとり上げた。息子の当番の時はあきらめているが、自分の当番の時は、恵之助は晩酌を忘れないのである。

「さあ。お前にも一杯行こう」

「焼酎なんか飲んでる時じゃないよ」

 そう言いながらも、竜之助は湯吞をにゅっと突き出した。

「いい加減に湯銭を十五円に戻して、マグロのトロでも食べようよ」

「マグロのトロ。ううん」

 恵之助はうなった。トロという言葉を耳にしただけでも、ぐんと胃にこたえて来るのである。

「そうだよ。マグロのトロ!」

 竜之助は言葉に力をこめた。

「おいしいよう。口の中でとろとろと溶けるようなのをさ」

「そういうわけには行かない」

 誘惑をふり切るように、恵之助はチャブ台をどしんと叩いた。

「三吉の野郎が値上げしないのに、このわしばかりが値上げ出来るか!」

「しかしねえ、お父さん」

 竜之助は湯吞をなめながら、父親の顔をうかがった。

「五円のままでにらみ合っていては、結局両方は共だおれになると思うんだよ。それじゃあ、つまらないじゃないの」

「共だおれになってもかまわない。向うが先に手を出したんだ」

「そうじゃないよ。お父さんの方が、先に手を出したんだよ」

 竜之助は熱心な口調になった。

「お父さんが先に、十二円に下げたんだよ」

「そりゃいかにもわしが先に、十二円に下げた」

 恵之助はがくんとうなずいた。

「しかし、何故十二円に下げたかというと、向うが新築を始めたからだ。新築さえ始めなきゃ、わしは値下げをやらないぞ」

「では、新築を中止したら、お父さんは十五円に戻す?」

「戻すよ。しかし、もう半分出来上ってるんだから、いくら三吉の野郎が前非を悔いても、中止というわけには行くまい」

「だからさ。あれが風呂屋にならなきゃいいんだろ」

「風呂屋にならなきゃ、何になるんだ?」

「たとえば、劇場か何かにさ」

 

「劇場? 芝居小屋か」

 泉恵之助は顔を上げ、息子に反問した。

「芝居小屋とはまた突拍子(とっぴょうし)もないことを言い出したもんだな」

「突拍子もあるよ」

 湯吞をぐっとあおって、竜之助は口答えをした。

「風呂屋と劇場とは、建築学上、類似した点が非常に多いんだよ」

「ふふん」

 恵之助も湯吞を傾けながら、鼻の先で冷笑した。

「あんなところに芝居小屋をつくって、客が入って来るもんか」

「客が入ったって入らなくたって、かまわないんだよ。貸劇場にして、貨し賃を取るんだから」

 竜之助はおのずから熱心な口調となった。

「今は、東京だけで、劇団の数が四十いくつあるんだよ。それに対して、劇場の数は寥々(りょうりょう)たるもんだし、第一に劇場代が高い。だからあの新築中の三吉劇場、いや、三吉湯を劇場にして、適正な値段で貸せば、いくらでも借り手はあると思うんだよ」

「いやにお前は熱心だな」

 いぶかるような視線で、父親は息子を見た。

「いくらお前が力んでも、三吉がその気にならなきゃ、何にもならないじゃないか」

「うん。そこなんだよ」

 空き腹に焼酎が廻ったのか、竜之助の口調には勢がついた。

「あの三吉湯ね、実は三吉おじさんは建てる気はなかったんだよ」

「なに? 建てる気はなかっただと?」

「そうなんだよ。あの土地をハナコおばさんが、へそくりで買っといたんだって。だから三吉おじさんも、遊ばせとくのは勿体(もったい)ないって、余儀なく建て始めたんだってさ」

「お前、三吉湯の内部のことを、実によく知ってるな」

 恵之助はじろりと息子の顔をにらんだ。

「スパイでも入れてあるのか?」

「じょ、じょうだんでしょう」

 竜之助は狼狽の色を見せた。

「だからさ、持ちかけようによっては、三吉おじさんも賛成して呉れると思うんだ」

「新築は今、どのくらい進行している?」

「この頃工事してないようだよ。金が続かないんでしょう」

「ううん。ざまあ見やがれ」

 恵之助はうなって、腕を組んだ。

「現場のもようをわしも見に行きたいが、なぜか近頃膝ががくがくして、歩きづらい。お前、明日でも一走りして、写真を撮って来て呉れ。そうすればわしは、動かずに済むから」

「写真?」

 竜之助は頭に手をやり、困感した声を出した。

「カメラが今、手元にないんだよ」

「どうしたんだ?」

「陣太郎さんに貸したら、戻して呉れないんだよ」

「戻して呉れない? そりゃ困るじゃないか。ひったくってでも取戻して来い」

「手元に持ってないと言うんだよ」

 竜之助は情なさそうに声を慄わせた。

「確実なる某所に預けてあると言うんだ」

「確実なる某所?」

 恵之助は眼を剝いた。

「まさか一六銀行じゃあるまいな」

 

「いくらオサツが安いからといって、焼芋と納豆とは妙な取り合わせねえ」

 猿沢家の娘部屋で、ごろりと畳に寝そべりながら、長女の一子が妹の二美に言った。

「それに夕飯じゃないの。おやつに焼芋と言うのなら判るけど」

「ほんとにそうよ」

 二美も並んで寝そべりながら、相槌(あいづち)を打った。

「近頃、あたし、なんだか身体がだるいわ。姉さんも近頃、美容体操をやらなくなったわねえ」

「あたしだってだるいのよ」

 そう言いながら一子は、脚を上げて体操の形をしようとしたが、すぐにだるそうに元の姿勢に戻った。

「ほんとにお父さんの頑固には困るわねえ。値下げ競争なんて、まったくイミないよ。竜ちゃんも近頃は、ひょろひょろしてるわ」

「竜ちゃんはボディビル、まだやってるの?」

「やりたいんだけど、バーベルが持ち上らなくなったってさ」

 憂わしげに一子は答えた。

「梅干とメザシでは、持ち上らないのも当然よ」

「ふだんでも竜ちゃんはひょろひょろしてるのに、梅干とメザシではねえ」

 二美も同情的な口をきいた。

「では、姉さんたちも、恋愛のエネルギーは出ないでしょうねえ。抱擁だの接吻だの――」

「また生意気を言う!」

 一子は寝がえりを打って妹をたしなめた。

「まだ十六やそこらのくせに、余計な心配をするんじゃないよ」

「心配するわよ」

 二美は口答えをした。

「うちのお父さんも頑固だけれど、泉のおじさんも頑固ねえ。一体どういう気持で張り合ってるのかしら」

「実際近頃の大人の気持は判らないよ」

 一子は元の声になった。妹の生意気を怒る気持も、エネルギー不足のために、持続しないものらしい。

「竜ちゃんの話では、泉のおじさんも近頃、膝がガクガクするって、不思議がっているそうよ。栄養失調にきまってるわねえ」

「そうよ、うちのお父さんだってこの頃妙にむくんで来たでしょう。あれ、やっぱり、サツマイモの関係よ」

 慨嘆にたえないような声を二美は出した。

「それにさ、日が落ちてうす暗くなると、新聞の字がうまく読めない、老眼がひどくなった、なんて騒いだりしてるの。老眼なんかじゃあないわねえ」

「そうよ。もちろん栄養失調よ」

 一子は声に力をこめて断定した。

「栄養失調にまでなって張り合うなんて、お父さんはどんな気持かしら。新築の方も建ちかけたまま放ってあるし――」

「放ってあるからこそ、あいびきが出来るんじゃないの」

「また生意気を言う!」

 一子はまた眼を三角にした。

「そんなむだ口をきく暇があったら、そっと茶の間に行って、お父さんたちがどんな話をしてるか、そっと聞いておいで」

「はい」

 二美は素直に、はずみをつけて起き上った。

 

 猿沢家の茶の間では夕飯の後かたづけの済んだあと、猿沢三吉は畳に腹這いになり、妻のハナコから指圧療法を受けていた。レスリングなんかを練習している関係上、ハナコの指の力は相当に強く指圧には持ってこいなのである。

「あなた、血圧の具合は、近頃どう?」

 亭主の首筋をぐいぐい押しながら、ハナコは訊ねた。

「近頃、食事が食事だから、具合がいいんじゃない?」

「うん」

 首筋をぐりぐりやられて、顔をしかめながら三吉は答えた。

「あまり具合はよくない」

「あら、何故でしょう。よくなる筈よ。脂肪と食塩のとり過ぎということがなくなったんだから」

「うん。でも、どうも身体がだるいし、急に立ち上ると、めまいがしたりするんだ」

 三吉はまた顔をしかめた。

「もっともこれは、血圧のせいじゃなくて、動物性蛋白質とビタミンの不足、それから来てるんじゃないかと、わしはにらんでいる」

「でも、食費が一日六十円ではねえ」

 ハナコの指は首筋から、背骨の方に下降した。

「とても蛋白質やビタミンを充分に、というわけには行かないわ」

「それもそうだなあ」

 茶の間の外の廊下を、次女の二美が足音を忍ばせて歩いてきた。障子のかげに立ち止って、耳のうしろに掌をあてがい、聞き耳を立てた。

「湯銭の五円は、当分続きそうなの?」

 ハナコは三吉の胃の裏側を、ぐりぐりと押した。

「娘たちも、そろそろ参ってきたらしいわよ。育ち盛りだから、どうにかしてやらなくちゃ」

「その点はわしもいろいろと考えてはいるが、泉湯のやつが、まだへたばりやがらない」

 三吉は無念げに畳をかきむしった。

「泉湯をぶったおすには、いろいろ考えたが、早く新築を仕上げる他に手はない。あれが最後のきめ手だ」

「新築を仕上げるって、金はどうするの?」

「そ、それが頭痛のたねなんだ」

「上風さんはダメなの?」

「うん。ダメらしい。あそこの運ちゃんたちが、事故ばかりおこして、弔慰金がかかって仕様がないんだってさ」

「それじゃあ困るわねえ」

 ハナコは指を休めて嘆息した。

「金都合が出来なきゃ、新築は建たない。新築が建たなきゃ、いつまでも泉湯が頑張る。泉湯が頑張れば、食費六十円がいつまでも続く。これじゃあとても、あたしはやって行けないわ」

「うん」

 三吉は面目なさそうに、畳に額をこすりつけた。

「最後の手段がひとつだけ残っている」

「どんな手段?」

「あの松平陣太郎という青年な、あれに一子をめあわしたらどうだろう」

「え? 一子を陣太郎さんに?」

「うん。それで陣太郎君を、本邸に復帰させるのだ。本邸に戻れば、陣太郎君は大金持だ。風呂屋の新築費ぐらい、いくらでも出して呉れるだろう」

 

「一子を陣太郎さんにねえ」

 あんまり唐突な提案だったらしく、ハナコはふうと吐息をもらした。

「でもねえ、まだ早くはない? 一子はまだ二十歳だし」

「二十歳といえば、もう子供じゃない。もっと揉(も)んで呉れえ」

 三吉は顔をねじ向けて、指圧を催促した。

「それにお前はこの間、一子が恋わずらいをしてるらしいと、わしに報告したではないか。へんな恋わずらいをされるより、この際思い切って陣太郎君に――」

「あの陣太郎さんって人、なにかふわふわしてるみたいで、あたし信用出来ないわ」

 三吉の背骨をぐりぐり押しながら、ハナコは言った。

「何か足が地についていない感じね」

「そりゃ家出中だからだ。家出をすれば、誰だって足が地につかない」

 茶の間の外の廊下では、二美が両掌を耳のうしろにあてがい、姉上の一大事とばかり、眼を丸くして、聞き耳を立てていた。

「家出中で、金もないから、ちょっとぐれたようなところもあるが、邸に戻ればちゃんとした若様だからな。相続でもすれば、おっとりと落着くよ。そうすれば一子も令夫人だ」

「邸はどこにあるの?」

「うん。なんでも世田谷の方だと言ってた」

 ハナコの指が急所のツボをぎゅっと押したので、三吉はウッと声を出した。

「家令なんかも使って、相当の邸らしいよ。刀なんかも沢山あって、一本売れば百万円ぐらいになるんだってよ」

「でも、陣太郎さんは、邸に戻ろうという心算(つもり)はあるの?」

「うん。そこが問題なんだ」

 また指圧が利いたらしく、三吉の手は畳をかきむしった。

「帰邸して、相続するんじゃなきゃ、一子をやるわけには行かんな。一子をやるから、直ちに帰邸しろと、勧告してみるか」

 二美は足音を忍ばせ、足をひょいひょい上げる歩き方で廊下を歩き、娘部屋に戻ってきた。一子は相変らず畳に寝そべり、鼻歌でシャンソンをうたっていた。

「お姉さん。たいへんよ!」

「何がたいへんだい?」

「お姉さんと竜ちゃん、ますます悲恋になるわよ」

 二美も一子に並んで寝そべった。

「また生意気を言う!」

 一子はだるそうに舌打ちをした。

「一どうしたんだい?」

「お父さんがね、お姉さんのことを――」

 二美は声を低めた。

「陣太郎君とめあわせるんだってさ」

「陣太郎君と?」

 さすがに驚愕して、一子はむっくり起き直った。

「そんなムチャな。ひとの気も知らないで。一体お父さんは、どういうつもりで、あたしをあの魚男とめあわせようというの?」

「あの魚男の本邸から、金をひき出して、早いとこ新築しようと言うのよ。金のために引き裂かれるなんて、いよいよもってお姉さんと竜ちゃん、可哀そうねえ」

「引き裂かれてたまるかってんだ」

 一子は眉をつり上げて、伝法なたんかを切った。

「よし、あたし、今から出かけて、竜ちゃんに相談してくるわ」

 

「それからもう一つあるんだ」

 ハナコに背骨を押されながら、三吉の声は沈痛になった。

「お前にはまだ話してなかったが、わしの曽祖父(ひいじいさん)さんが、わしの子供の時、そっと話して呉れたことがある」

「どんなことを?」

「曽祖父さんの曽祖父さん、つまりわしから六代前の御先祖さまだな」

 三吉は肥った首を左右に動かして、声を低めた。

「その六代前さまのお尻にだな、尻尾が生えてたと言うんだ」

「シッポ?」

「しっ。声が高い」

 三吉はあわててたしなめた。

「うん。ごく短い尻尾だ。その六代前さまから、わしの家の系図が始まっているらしいのだ」

「すると、それから前は?」

 ハナコの手はそっと三吉の尻に伸びた。それと知って三吉は、腹立たしげにハナコの手をはらいのけた。

「わしにはない!」

「いえ。ここを揉んで上げようと思ったのよ」

「人間が動物から進化したということは、これはもう定説であり、常識になっている。わしの家は、その、つまり、進化の時期がすこし遅れたんだ」

「いくらなんでも、六代前とは、そりゃ少し遅れ過ぎてますよ」

 三吉の尻を指圧しながら、ハナコは長嘆息した。

「あなたの曽祖父さんが、子供のあなたをからかったんじゃない?」

「うん。そうかも知れん。曽祖父さんはひょうきんな人だったと言うから」

 三吉は救いを得た如く合点々々をした。

「でもわしは、それ以来、どうもそれがコンプレックスになっていて、だから泉湯の野郎に山猿呼ばわりをされると、むらむらっと腹が立つのだ」

「そうねえ。泉湯さんも口が悪いからねえ」

「だから、泉湯の野郎が、あれを取消さない限り、わしも絶対にあとには退けない。これはもう損得の問題じゃない。な、お前にも判るだろう」

「判りますよ。判りますけれど、いつまでも芋飯に納豆とは――」

 言いかけてハナコははらはらと落涙した。

「泣くな!」

 三吉は頭をもたげて怒った。

「不吉の涙を、わしに見せるな!」

「はい」

 ハナコは気を取り直して、指圧を再開した。

「だからな、わしの家系には、野性の血が充ちあふれている。あふれ過ぎているくらいだ」

 三吉は説き聞かせる口調になった。

「陣太郎君とめあわせようというのも、そこを考えてのことなのだ。なにしろ、松平家といえば、家柄も古いし、したがって進化も早かったのだろう。家柄が古いから、純粋じゃあるだろうが、血の中に野性味は失われてるだろう。だから、わしんちと一緒になれば、丁度いいのだ」

「でも、陣太郎さんは、それほど純粋かしら?」

 ハナコは疑問を出した。

「どうもあの人は粗野な感じがするわ」

[やぶちゃん注:尻尾様のものがあるヒトのケースは、ある。「先祖返り」などと言われるが、昔、医学雑誌の写真で、本邦の幼児の臀部の上に垂れているそれを見たこともある。サイト「とんだ勘違いらぼ」の「尻尾のある人はいる?尻尾がある人は意外と多かった。」が参考になろう。信じられない方は、画像有りを覚悟の上で、サイト「ナゾロジー」の『メキシコで「尻尾の生えた女児」の誕生が報告される』(二〇二二年十二月一日の記事)を見られたい。]

 

 ネッカチーフで頰かむりして、猿沢一子は暗い夜道をとっとっと急いでいた。かねての栄養不足で、とかく小石につまずきそうになりながら、やっと泉宅のくぐり戸にたどりついた。

「神様。泉のおじさまに見付けられませぬように」

 一子は心に念じながら、そっとくぐり戸をあけ、中に忍び入った。足音を立てないようにして、裏手に廻った。

 泉竜之助の部屋には燈がともっていた。

 窓辺に顔をすりよせ、一子は曇りガラスをこつこつと叩いた。内から声がした。

「誰だ?」

「しっ!」

 一子は指を后にあてた。

「あたしよ。一子よ」

「え? 一ちゃん?」

 竜之助もびっくりしたらしく、声をひそめた。燈がぱっと消され、窓が内側からそっと開かれた。

「ど、どんな用事だい?」

 竜之助は窓から半身を乗り出してどもった。

「何か兇(わる)いことでも起きたのか?」

「竜ちゃん!」

 一子は手探りでいきなり竜之助の頭に抱きつき、熱っぽくささやいた。そのために竜之助の身体はあやうくすってんころりと庭に落ちかかった。

「あ、あぶない!」

 窓枠にしがみついて、竜之助は思わず大声を立てた。

「しっ!」

 二人はそのまま、闇の中で耳をするどくして、茶の間の方の気配をうかがっていた。しかし茶の間の方ではこととも音はしなかった。

「おじさま、いらっしゃるの?」

「いるんだよ。だから声を低くして」

 真の闇の中で二つの唇は、あたかもレーダーでも具えているかの如く、相手の所在を感知して接近した。恋というものは実に不思議な力を人間に与えるものである。

「竜ちゃん。たいへんなことが起きたのよ」

 やがて肩を引き離して、一子は悲しげな声でささやいた。

「お父さんが、あたしのことをね、陣太郎にめあわせるんだって」

「え? 陣太郎さんに?」

「そうなのよ」

「そ、それは、一体、どういうつもりなんだ」

 竜之助の声は怒りを帯びて慄えた。

「三吉おじさんが君に直接そう言ったのか」

「あたしに直接ではないの。そんな話をしてるのを、二美がぬすみ聞きしたのよ」

「ぬすみ聞き? じゃ、まだ本式の話じゃないんだね」

 竜之助はやや安心した声になった。

「どういうことから三吉おじさんは、そんな気になったんだろう」

「新築がはかどらないものだから、お父さんはいらいらしてるのよ。だからあたしを、陣太郎にめあわせて、松平家から建築資金を――」

「そ、それじゃあまるで金色夜叉じゃないか。まさか君はお宮みたいに――」

「松平家なんかに行くもんですか!」

 心外な、といった言い方を一子はした。

「あたしは竜ちゃんのものよ。誰があんな魚みたいな男のとこに行くもんですか。誰が!」

 

「手切金? その取立てを、このおれにやって呉れと言うのか?――」

 陣太郎はびっくりしたように反問した。

「そうよ」

 真知子は可愛くうなずいた。

「だって、二号生活をしながら学問をやるのは、いけないことだ、筋違いだ、ニセモノの生活だと、そちらから言い出したんじゃないの。そちらで責任を持つべきよ」

 富士見アパートの二階の真知子の部屋で、チャブ台をさしはさんで、真知子と陣太郎は南京豆をサカナにして、ウィスキーのグラスをかたむけていた。引越当初に附段で衝突、トーストを御馳走になったのをきっかけにして、陣太郎はれいによって、うまいこと真知子と接触を深めて行ったものらしい。

「陣ちゃんがそんなに言うもんだから、あたし、二号生活を清算する気になったのよ。でも、清算すれば、たちまち学資に困るじゃないの」

「自分で切り出せばいいじゃないか」

 陣太郎はまぶしそうな顔になって、ぐっとグラスをあおった。

「切り出したんだけど、なかなかうんと言わないのよ」

 真知子はいらだたしげに、チャブ台をぽんと叩いた。

「じゃあ奥様んとこにいただきに行くとおどすと、たちまちまっさおになって、平蜘蛛(ひらぐも)のようになっちまうの。ひどい恐妻家よ」

「では実際に、奥さんとこに貰いに行けばいいじゃないか」

 陣太郎はとぼけた表情をつくった。

「おれをわずらわすことはなかろう」

「でもね、奥様んとこに貰いに行けば、てんやわんやになって、あぶはち取らずになって、元も子もなくなると思うのよ。だからどうしても交渉は、第三者の方がいいのよ」

「手切金って、どのくらい欲しいんだい?」

「あたし、六月分と切り出したのよ。つまり六万円ね」

「六ヵ月分? そりゃあムチャだよ」

 酔いで赤らんだ額をたたいて、陣太郎は嘆息した。

「まあ三ヵ月分というところだな、それならおれは引受けるよ。ことに彼氏は只今、値下げ競争で困ってる最中だし――」

「おや?」

 真知子はいぶかしげな視線を、するどく陣太郎に投げた。

「陣ちゃんは猿沢を知ってるの? 何故知ってるの? 値下げ競争のことまで」

「いや、なに、えヘヘ」

 陣太郎は笑いで失言をごまかそうとした。

「どうしたのさ。どうして知ってるのさ」

 真知子はぐいと膝を乗り出した。

「き、きみから、そんな話を聞いた。聞いたような気がする」

「そんな話、あたしは陣ちゃんに、一度もしませんよ!」

 真知子は眼を大きく見開いて、まっすぐ陣太郎を見つめた。

「陣ちゃん。顔を上げて、あたしの顔を見なさい」

 陣太郎の口辺から、笑いのかげが消えた。悪びれずに、まっすぐ顔を上げた。真知子はまばたきもせず言った。

「なぜ?」

 にらみ合ったまま、三十秒ほど経った。陣太郎はしずかに口を開いた。

「君を好きになったからだ」

 

「好きになったって? あたしのことを?」

 虚をつかれたと見えて、真知子は声の調子を狂わせた。

「そうだよ」

 陣太郎は落着きはらって答えた。

「だから君の旦那のことを、そっと内偵してみたのだ。そして、どうすればあの猿沢三吉から、君を奪取出来るか――」

「あたしを好きになったって、何時から?」

 真知子はほのぼのと顔をあからめていた。アルサロだの二号だのを経験していても、根は純情なのであろう。

「あたしのどこを、陣ちゃんは好きなの? あたしって、筋違いよ。ニセモノよ。インチキよ。だって陣ちゃんが今さっき、そう断定したんじゃないの」

「いや、君はまるまるインチキじゃない。ちょっと筋が違っているだけだ」

 陣太郎の口調は熱を帯びた。

「おれは君のような生き方が好きなんだ。顔や形は問題じゃない。ひとりぼっちで、大風の中をさからって歩いて行くような、君のその鮮烈な生き方が好きなのだ。さあ、飲もう」

 陣太郎は真知子のグラスに、とくとくとウィスキーをみたしてやった。

「ただ君は、ちょっと筋違いをしてるために、鮮烈が鮮烈そのものでなくなって、ぼやけてしまっているんだ。鮮烈な生き方が出来る筈なのに、愚劣な日常に自分を埋没させてしまっているんだ。一葉論を仕上げるために、三吉おやじの世話になるなんて、何だかばかばかしいとは思わないか」

「だって、卒業までだもの」

 真知子はグラスをあおった。

「卒業したら、そこからあたしの新しい本当の人生が始まるのよ。それまでは歯を食いしばって、辛抱して――」

「そんな理窟があるか!」

 陣太郎は激しくチャブ台をひっぱたいた。

「人間というものはだね、現在生きている瞬間々々を、完全に、フルに、生きなくちゃいけないんだ。今生きている現在の瞬間が、自己表現の場なんだ。君は今、自己表現を怠けている。鮮烈に自己を表現していない。すなわち君は、生きながら、死んでいる!」

「では、陣ちゃんは?」

 真知子の声は慄えた。

「陣ちゃんは完璧に生きてるの? 自己表現をしているの?」

「している!」

 陣太郎は胸板をどんと叩いた。

「おれはおれなりに、立派に自己を表現している。おれにとって、これ以外に生き方はない、という生き方をしている!」

「それは、家出をして、生活しているということ?」

「家出? 家出なんか問題じゃない」

 陣太郎の声は急に重く、かつ暗くなった。

「家出なんてものは、問題の本質から言うと、末の末だ。家出したって、しなくづたって、どっちだっていいんだ」

「じゃあ、あたし、どんな生き方をしたらいいの?」

 真知子の態度は急に弱々しくなり、眼は不安げにまたたいた。

「どうしたらいいの。教えて」

「こうしたらいいんだ」

 陣太郎は蟹(かに)のように横に這って、チャブ台を廻った。真知子の肩に手をかけて、引き寄せた。真知子の身体はずるずると陣太郎の膝にくずれた。

 

 泉竜之助は長身の背を曲げ、とっとっと夜道を急いでいた。富士見アパートの前まで来ると、立ち止って二階を見上げた。

「おや、電燈がついてない。留守かな」

 がっかりしたように竜之助はつぶやいた。

「またヤキトリキャバレーにでも行ったのかな。とにかく上ってみよう」

 竜之助は玄関に入り、とことこと階段を登った。階段を登り切った時、丁度(ちょうど)真知子の部屋から出てきた陣太郎と、ぱったり顔を合わせた。

「陣太郎さん」

「ああ、竜之助君か。何か用事か。まあおれの部屋に行こう」

 陣太郎はウィスキーの瓶をぶらぶらさせながら先に立ち、部屋に入った。スイッチを入れ、電燈をつけた。竜之助もつづいて部屋に入った。

「いい御身分ですなあ。ウィスキーなんかを飲んで」

 竜之助はうらやましそうに嘆息しながら、陣太郎と向き合って坐った。

「僕んとこなんか、焼酎ですよ。それも親爺の御相伴(ごしょうばん)で、ほんのちょっぴり」

「しけてるな、君んとこは」

 湯吞二箇を陣太郎は畳に置いた。

「そしてサカナは相変らずメザシか」

「そうですよ。メザシに梅干」

 竜之助はタンと舌を鳴らし、旨そうに湯吞を舐(な)めて、陣太郎の顔を見た。

「おや。陣太郎さんの唇、今夜はいやに赤いですね。ウィスキーのせいかな?」

「なに。唇が赤い?」

 陣太郎は少々狼狽して、手首で唇をこすった。真知子の唇からうつった口紅が、その手首にあかい縞をつけた。

「こ、これは何でもない」

 さすがの陣太郎もどもって、それをごまかすために、怒ったような声を出した。

「一体何の用事だい?」

「いろいろ用事はあるんですがね」

 また竜之助は湯吞を傾けた。

「つかぬことをお伺いしますが、陣太郎さんは現在、世田谷の本邸に戻る意志はあるんですか、ないんですか?」

「本邸?」

 警戒したように、陣太郎は上目で竜之助を見た。

「どうしてそんなことを聞くんだ?」

「いや、ただちょっと」

「戻る気はないよ。戻ると十一条家の娘と見合いをさせられる」

「見合いがイヤだというのは、十一条家の娘が嫌いなんですか。それとも――」

 竜之助の声は真剣味を帯びた。

「それとも、女一般が嫌いなんですか?」

「女一般? 女一般はおれは大好きだよ」

「では十一条家以外の女と結婚する、ということはあり得ますね」

「それはあり得るだろう」

 陣太郎も悠然と湯吞を取上げた。

「近い中にある女性と、おれは一緒になるかも知れない」

「ある女性?」

 竜之助はごそごそと膝を乗り出した。

「そ、それはどんな女性です? まさか僕の知ってる女性じゃないでしょうね、たとえば、猿沢一子」

「ああ、一子か。あんなチンピラ小娘は、おれの好みに合わん。頼まれたって、おことわりするよ」

 

「チンピラ小娘は好みに合わん、ですか」

 自分の恋人をチンピラ呼ばわりされて、竜之助はにこにこと満悦顔になった。

「とすれば、ある女性と言うのは?」

「それは君と関係ない」

 ぴしりときめつけて、陣太郎は湯吞を下に置き、ぽんと膝をたたいた。

「ああ、そうだ。クイズの文案をつくって置いたよ」

「クイズの文案?」

「そうだよ。こいつは強力だよ」

 リュックサックの中から、陣太郎はごそごそと一枚の紙を取出した。

「さあ、これだ。最後の切札だ」

「もうクイズはいいんですよ。湯銭が五円で、クイズなんか出せるもんですか」

「このクイズは店に貼り出すんじゃないよ。そんなちゃちなものと違う。特別製だ」

 陣太郎はひらひらと紙片を振った。

「これは三吉おやじに見せるためのものだ。これを見せさえすれば、三吉おやじはたちまちへなへなになってしまう。三吉おやじを蛇とすれば、これはナメクジだ」

「どれどれ」

 興をもよおしたらしく、竜之助はその紙を受取った。眼を据えた。

 

 □□□□っているそのを真子という太郎

 

「何です、これは?」

 竜之助は首をかしげた。

「すこし伏字が多過ぎやしませんか。最後の太郎というのは?」

「それはすぐ判るだろう。陣太郎だよ」

「では、真□子というのは?」

「そんなに一々教えてやるわけには行かない」

 陣太郎はそっぽを向いた。

「君が読めないでも、三吉おやじにはすぐ読めるのだ」

「では、早速三吉おじさんに見せて、ためして見ましょう」

「早速ためして見ろと、おれは言わないぞ」

 陣太郎は声を険しくした。

「このクイズはだな、劇薬みたいなものだから、使いようによっては薬にもなり、毒ともなるのだ。使用の時期は、おれが指定する、おれがよしと言うまで、絶対に使ってはいけないよ。それまでは大切に、ポケットにしまって置け」

「使っちゃいけないんですか」

 竜之助は不服そうに頰をふくらませ、紙片をたたんで内ポケットに入れた。

「アッ、そうそう。それからね、うちの親爺がね、新築の進行状態を知りたいから、陣太郎さんから早速取り返して来いと言うんですよ」

「何をだ?」

「そらっとぼけちゃダメですよ。カメラですよ」

「カメラ?」

 陣太郎は視線をうろうろさせた。

「まだ覚えてるのか」

「覚えてますよ。忘れるもんですか!」

 竜之助は声を大にした。

「一体どこに置いてあるのです? 確実な某所だなんて、まさか一六銀行じゃないでしょうね」

「御名答。そのものずばりだ!」

 陣太郎は会心の微笑とともに、膝をポンとたたいた。

「おれの秘書になって以来、君もなかなかカンが良くなったなあ。大したもんだ」

 

「大したものだなんて、そんな勝手な!」

 泉竜之助はたちまちふくれっ面になった。

「あれは僕のカメラですよ。五万円もするんですよ。それを僕に無断で、質に入れるなんて」

「まあ待て。そのうちに出してやる」

 陣太郎は左手で、いきり立つ竜之助を押しとどめ、右手で悠然と湯吞を口に持って行った。

「強力なクイズをつくってやったじゃないか。それに免じて、五日か六日まて」

「クイズはクイズ、カメラはカメラです」

 ふくれっ面のまま竜之助は頑張った。

「おやじからきつく言いつかって来たんですよ。ひったくってでも取戻して来いって」

「ひったくろうにも、ここにはないよ」

「どこに置いてあるんです。どこの質屋です?」

「ここだ」

 陣太郎は面倒くさそうに、内ポケットから質札をつまみ出し、ふわりと畳の上に投げた。竜之助はあわててそれをつまみ上げた。

「僕が出すから、お金を下さい」

「なに。質札だけでなく、金まで出せと言うのか」

「そうです。あたり前ですよ」

 竜之助は口をとがらせた。

「元金だけじゃなく、利子の分もですよ」

「金か」

 湯吞を下に置き、陣太郎は腕を組み、鬱然(うつぜん)と首をかたむけた。

「ええ、仕方がない。では、これを加納明治のところに持って行け」

 陣太郎はふたたびリュックサックの口を開き、中から一葉の写真をひっぱり出した。

「これで十万円と吹きかけるんだぞ」

「十万円?」

 竜之助は写真に眼を据えた。

「あ。これは加納さんの日記を撮ったものですね」

「そうだ。十万円と吹きかけると、加納明治はきっと違い棚の置時計をわし摑みにする。その時は五万円にまけてやるのだ」

「だって陣太郎さんはこの間、ネガと引伸ばしで、加納さんからせしめたんでしょ」

「そうだよ。でも、こういうこともあろうかと思って、まだ一ダースばかり引伸し写真がとってあるんだ」

 陣太郎は平然たる表情で、リュックサックを指差した。

「この間は、君のことを、少々悪者にしてある。だから今度は君がおれのことを悪者にしてよろしい。要は五万円をふんだくることだ」

「いやだなあ」

 竜之助は子供の泣きべそみたいな表情になった。

「僕のことを少々悪者にしたって、どんな悪者にしたんです?」

「行けば判るよ。加納が君に若干立腹してることは、行けばすぐに判る。だから今度はおれを悪者にしなさい」

「いやだなあ。僕、ゆすりなんか、あまり性に合わないんですよ」

「ゆすりじゃない。当然の要求だ」

 そして陣太郎はじろりと、探るように竜之助の顔を見た。

「いやなら止めてもいいよ。そのかわりに、おれ、一ちゃんを好きになってやるぞ!」

「ちょ、ちょっとそれは待って下さい」

 竜之助は大狼狽、両掌をにゅっと前に突き出した。

 

 人もすっかり寝しずまった真夜中の十二時、建ちかけ三吉湯の材木のかげに、ネッカチーフで頰かむりした猿沢一子が、じっと身をひそめていた。遠くで犬がベラベラと[やぶちゃん注:ママ。]遠吠えしている。うら若き乙女に怖さ[やぶちゃん注:「こわさ」。]を忘れさせるほど、恋というものは烈しいものであるらしい。

「竜ちゃん。ここよ」

 折しも歩いてくる長身の影を認めて、一子は両掌をメガホンにしてささやいた。

「ここなのよ」

 竜之助は前後左右を見廻し、あたりに人影なしと知るや、さっと背を曲げて材木のかげに走り込んだ。ひしと抱き合って、いつもの如くに唇を合わせた。

「竜ちゃん。ウィスキーを飲んだのね。においで判るわ」

 竜之助の釦(ボタン)をまさぐりながら、一子は怨(えん)ずるように言った。

「あたしがこんなにやきもきして待ってるのに、のんびりとウィスキーを飲んだりして、ひどいわねえ」

「のんびりと飲んだんじゃないんだよ。陣太郎さんとこで、いろいろ話しながら、御馳走になったんだよ」

「あの陣太郎、何と言ってた?」

 一子は呼吸をはずませた。

「邸に戻ると言ってた?」

「絶対戻らないと言ってたよ」

 竜之助は一子の背を撫でさすった。

「邸には戻らないし、それに君のようなチンピラタイプは嫌いだってさ。一安心したよ」

「なに。チンピラだって」

 一子は眉をつり上げた。

「あたしのことをチンピラと言われて、竜ちゃんは黙ってたの?」

「うん」

 竜之助は面目なさそうに頭を垂れた。

「でもね、一ちゃんのことを大好きだと言われるよりも、いいと思ってね、歯を食いしばって辛抱したよ」

「ほんとにつらかったでしょうねえ」

「つらかったよ。はらわたが煮えくり返ったよ」

 そして竜之助は話題をかえた。

「僕、帰りながら、策略をひとつ思いついたんだけどね」

「策略? お父さんたちの喧嘩を止めさせるための?」

「うん。そうだ」

 竜之助は大きくうなずいた。

「もうお父さんたちの喧嘩は、憎み合いの域を通り越して、面子(メンツ)問題になってるだろ」

「そうねえ」

「だからさ、僕はお父さんに、三吉おじさんは前非を悔いてるらしいよと言う。君は君で三吉おじさんに、泉湯さんは後悔してるらしいわよと言いつける。そうすると、そうか、相手は後悔してるかというわけで、心が和(なご)むだろう」

「そうね。それはいい考えね」

「お互いの心が和めばさ、ちょっとしたきっかけで、パッと仲直りすることがあると思うんだよ」

「でも、そんなウソをついて、ばれないかしら」

「大丈夫だよ」

 竜之助は胸をどんとたたいた。

「お父さんたちは目下のところ、口をきき合う段階じゃないからね。ばれるおそれは絶対にないよ」

 

 正午すこし前、猿沢宅の玄関の扉をあけ、陣太郎はぼそっとした声で案内を乞うた。

「ごめんください。猿沢さんはいらっしゃいますか」

「はあい」

 顔を出したのは二美であるが、たちまちつめたい眼付きで陣太郎をにらみつけてすぐに引込んだ。

 猿沢三吉は茶の間でごろりと横になっていた。身体がだるくてだるくて、暇さえあれば近頃は横になっているのである。

「お父さん。お客さんよ」

「お客さん?」

 緩慢な起き上り方をしながら、三吉は言った。廊下をふらふらと玄関の方に歩いた。

「ああ、陣太郎君か」

 そして三吉はあたりを見廻し、声をひそめた。

「何か用事か。真知子のやつ、浮気をしたかね?」

「ええ。今日はそのことについて――」

「うん。わしも君に重大な相談ごとがあるんだ。ここでの立ち話もまずい。一先ず奥の間ヘ――」

「それよりも外に出ませんか」

 陣太郎は胸のポケットをぽんとたたいた。

「今日はおれがおごりますよ。中華でも食べませんか」

「え? 中華?」

 大飢えに飢えているので、中華という言葉を耳にしただけで、三吉は唾(つば)がにじみ出た様子であった。

「中華か。そういうことにするか。身支度して来るから、ちょっと待って呉れ」

 娘部屋では、二美が姉の一子に耳打ちをしていた。

「陣太郎が来たわよ」

「え。陣太郎が?」

「お父さん、陣太郎と一緒に、どこかに外出するらしいわよ。今身支度をしてる」

「どこに行くんだろう」

 一子はむっくり身体をおこした。

「お前、二人のあとをそっとつけてお行き。一体どこに行くのか」

 三吉は身支度をすませ、玄関で靴を穿(は)いた。むくんでいるから、靴の紐結びが一苦労なのである。

 やっと結び終って玄関を出て、二人は肩を並べて街に出た。台所口から二美が忍び出て、こっそりとあとを追った。ネッカチーフで頰かむりしているのは、姉のやり方にならったのであろう。

 二人はそれに気付かず、狭い横丁に折れ曲り、小さな中華店ののれんをひょいとくぐった。くぐったとたんに、三吉の腹の虫たちは、声をそろえてグウグウと啼(な)いた。

「さあ。何にしますか」

 陣太郎はメニューを取上げた。

「スブタとカニタマで、飯ということにしますか」

「うん。よかろう」

 三吉の相好(そうごう)はおのずからにやにやと笑みくずれた。連日連夜の芋飯だから、笑みくずれるのもムリはない。

 中華飯店の外では、二美が爪先立ちして、二人の様子を窓からのぞいていた。窓ガラスがあるから、もちろん声は聞えない。

 やがてスブタとカニタマが運ばれてきた。

 三吉の双眼はぱっと輝き、箸を持つ手はわなわなと慄えた。飢えたる犬の如く、三吉はスブタの肉片にむしゃぶりついた。

 

「時に君は、まだ世田谷の邸に戻る気はないのかね」

 スブタにカニタマをおかずにして、飯を五杯もおかわりをした三吉は、さすがにすっかり堪能したらしく、つまようじを使いながら、本題を切り出した。

「そうですな」

 茶をすすりながら陣太郎は悠然と答えた。

「只今考慮中です」

「考慮中か。いい加滅に決着をつけて、戻ることにしたらどうだい。及ばずながら、わしが力になるよ」

「力になって呉れますか」

「うん。力になるよ。それから君も、もうそろそろ身を固めたらどうだね。前途有為の君が、独身でぶらぶらしているのは、もったいない話だ」

「ええ。それも考慮中ですがねえ」

 謎めいた笑みを陣太郎は頰に刻んだ。

「適当なのがいなくてねえ」

「適当なのと言うけど、それは上を見れば果てしがない。せいぜいのところで妥協するんだね」

「そんなものですかな」

「うん。わしにも娘が四人いるが、ムコ選びの時はあまり上を見まいと思っている。せいぜいのところで妥協するつもりだ」

 三吉は遠まわしに話を持ってきた。

「一子のやつもな、もうそろそろ適齢期に入るが、親の口から言うのもおかしいけれど、よくしつけが行き届いて、そこらの娘たちには負けないつもりだ」

「ああ。一子さんはいいお嬢さんですなア」

 昨夜はチンピラ小娘と批判したくせに、今日は打ってかわった口をきいた。

「体格は立派だし、態度はおしとやかだし――」

「うん。君もそう思うか」

 娘をほめられて三吉はにこにこ顔になった。

「何なら君に上げてもいいよ。ただし、君が世田谷に戻るという条件においてだ」

「考えて置きましょう」

 陣太郎はしんみりと答えた。

「一子さんみたいないい人をもらえば、メカケなんか囲う気持はおきないでしょうよ」

「そうだ」

 メカケという言葉で思い出したらしく、三吉はぽんと膝を打った。

「真知子のやつ、その後どうだね。浮気をしたか」

「それがしないんですよ」

 陣太郎は嘆息するように天井を仰いだ。

「あれは貞節正しい女ですな。操を守って、せっせと勉強にいそしんでいます」

「そうか。それは弱ったなあ」

 三吉はがっくりと頭を垂れた。

「実はこの間、こちらから手切れ話を持ち出してみたんだよ。すると真知子のやつ、開き直って、手切金を六ヵ月分呉れと言うんだよ」

「六ヵ月分?」

 陣太郎は眼を剝(む)いて見せた。

「そりゃ高い。暴利だ。猿沢さん。おれに任せませんか。おれなら三万円で請負って上げますよ」

「三万円? 二万円にまからんか」

「ケチケチするのは止しなさい。それならおれは手を引きますよ。すると真知子は直接ハナコおばさまに――」

「そ、それはちょっと待って呉れ!」

 

 猿沢家の茶の間に、次女の二美は足音も荒くかけ込んで来た。茶の間では、一子がひとりチャブ台に向って、つめたい芋飯に熱い番茶をかけて、さらさらとかっこんでいた。

「お姉さん。お姉さん」

「ばたばたするんじゃないよ。ほこりが立つじゃないか。食事中だよ」

 一子はたしなめた。

「お父さんたち、どこ行った?」

「中華料理屋よ。そら、あの横丁の珍満亭という店よ」

「え? 珍満亭?」

 一子は、はたと箸を置いた。

「そこでお父さんたち、何を食べた?」

「窓越しだからよく見えなかったけど、スブタにフヨウハイらしかったわ。お父さん、五杯も御飯をおかわりしたわよ。ぱりぱりの銀飯よ。まるで鬼のキバみたいな」

「ううん」

 一子は低くうなった。

「いくらお父さんでも、そんな悪質の裏切り行為は許して置けないわ。一体あたしたち、何のために毎日々々、芋飯を食ってるというのさ」

「そうよ。そうよ」

 二美も勢い込んで合点々々をした。

「食べ終って、陣太郎と一緒に、もう直ぐここに戻ってくるわよ。あたし、一足先に走ってきたのよ、ほら、こんなに膝ががくがくよ」

 二美はスカートの裾を持ち上げて、がくがくの膝頭を見せた。その時玄関の方で、扉をあける音がしたので、姉妹はさっとそちらに視線を向けた。二つの足音が前後して廊下に上り、奥の三吉の私室へ入って行った。

 三吉はやや不機嫌な表情で、壁にはめこんだ金庫の前に坐り、おおいかぶさるようにして扉をあけた。札束を取り出した。もうあとには書類綴りしか残っていなかった。

「三万円か」

 三吉は陣太郎に向き直り、ぺらぺらと紙幣を勘定した。

「これがもうわしの全財産だぞ。ほんとに、泥棒に追い銭とは、これのことだ」

「泥棒? 泥棒とはおれのことですか?」

 陣太郎は気色(けしき)ばんだ。

「泥棒呼ばわりをされるくらいならおれは手を引きます。そうなれば真知子は、ハナコおばさんと直接交渉――」

「き、きみのことを泥棒と言ってるんじゃない」

 三吉はあわてて弁解した。

「泥棒というのは、真知子のことだ」

「それならばよろしいです」

「これできっと片を付けて呉れるだろうね」

 三吉は札束をにゅっと突き出し、残りを金庫に戻した。札束はぶるぶると慄えていた。よほど惜しかったのらしい。

「大丈夫です。納得させますよ」

「もう縁が切れたんだから、部屋代も以後は払ってやらないぞ。そう伝えて呉れ」

「そう伝えて置きます」

 陣太郎は三万円を内ポケットにしまい、改めて右掌をにゅっと突き出した。

「それから、今月分のおれの手当を、お願いします」

「今月分?」

「そうですよ。初めからの約束ですからな」

 陣太郎は催促がましく掌を動かした。

「まだ金庫に入ってるじゃないですか」

[やぶちゃん注:「フヨウハイ」「蟹玉」のこと。中国語では「芙蓉蟹」で、北京語では「フーロンシェー」、広東語では「フーヨーハイ」と呼ばれ ている。]

 

 陣太郎が出て行ったあと、三吉は腕を組み、呆然と金庫の中を眺めていた。金庫内は書類綴りだけで、紙幣はもう一枚も残っていなかった。洗いざらい陣太郎が持って行ったのである。

「ええい!」

 三吉は力をこめて、金庫の扉をがちゃんとしめた。立ち上って廊下に出た。久しぶりであぶらっこいものを食べたから、脚にも力が入り、三吉はどすんどすんとやけっぱちな足音を立て、茶の間に歩み入った。

 茶の間のチャブ台の前には、一子と二美が眼を光らせ、にらむような眼付きで坐っていた。

「熟い茶を一杯いれて呉れ」

 娘たちに向い合ってあぐらをかきながら、三吉は注文した。

「咽喉が乾いた」

「どうして咽喉が乾くの?」

 一子がぶすっとした顔で反問した。

「お昼ご飯は食べないの?」

「うん。どういうわけか、あまり食いたくない。お茶の方がいい」

「だって、御飯を食べなきゃ、力がつかないわよ」

 何もかも承知の上で、一子はそらとぼけた口をきいた。まだ娘時代だというのに、こんなねちねちした戦術を心得ているのだから、将来のほどが思いやられる。

「お茶よりも、芋飯を召し上れ。お茶には栄養価はないわよ」

「食いたくないと言ったら、食いたくない!」

 少しいらいらとして、三吉は声を大きくした。

「時にはわたしだって、食いたくない時がある。今わしは、少々胃をこわしているのだ」

「胃腸がこわれるのも当然よね。二美ちゃん」

 一子は二美に賛成を求めた。

「フヨウハイとスブタの大盛を平らげれば、誰だって胃腸をこわすわよ、ねえ」

「そうよ。そうよ」

 二美も勢い込んだ。

「それにお父さんったら、ご飯を五杯もおかわりをしたのよ。芋飯なんか食いたいわけがないわ」

「ど、どうしてそんなことを――」

 三吉はたちまち大狼狽、言葉をもつらした。

「さてはなんだな。お、お前たちは、わしのあとをつけたな」

「つけたんじゃないわよ。偶然通りかかったのよ」

 二美はぬけぬけと強弁した。

「陣太郎さんは二杯しか食べなかったのに、お父さんは五杯食べたわ」

「あたしたちに芋飯ばかりあてがって、お父さんばかり御馳走を食べるなんて、ずるいわ。完全なる裏切り行為よ」

「そうよ。そうよ。お母さんが帰って来たら、言いつけてあげるから」

「あたしたちだって、栄養をとる権利があるわ。さあ、お金ちょうだい。牛肉を買って来て、ビフテキをつくるんだから」

「ああ!」

 三吉は天井を仰いで、残り少い頭髪を絶望的にかきむしった。外側からの攻撃だけでも手一杯なのに、身内から思わざる攻撃をかけられては、絶望するのも当然であろう。

「ビ、ビフテキを食わしてやりたくとも、もうわしには金がないんだ!」

「お金がないのは、お父さんの責任じゃないの」

 一子はあくまで父親に食い下った。

「お金がなくて、よくフヨウハイだのスブタだのを注文出来たのねえ」

「あ、あれはわしが金を出したんじゃない。陣太郎君のおごりだ」

 三吉は懸命に弁解した。

「わしも芋飯を食うべきだったが、陣太郎君が勝手に庄文して、食え食えと言うもんだから、ついうっかりと――」

「陣太郎って押しつけがましい人なのねえ」

 一子は軽蔑的な声を出した。

「はっきりおことわりしとくけど、あたし、あの人大嫌いよ。心底から嫌いよ」

「あたしも大嫌いよ」

 傍から二美が賛意を表した。

「あんなお魚みたいな男性、ああ、考えただけでも、鳥肌が立つわ」

「生意気言うんじゃない。まだ十六ぐらいのくせに。男性を好きの嫌いのって、まだ早過ぎる!」

 三吉は眼を三角にして、二美をにらみつけ、そして視線を一子に戻した。

「一子。陣太郎君という男は、ちょっと押しつけがましいところがあるけれど、そんなに悪い男じゃないよ。むしろさっぱりしたいい青年だ。今日もわしにご馳走したり、なかなかうちのために尽して呉れる。それに、将棋もなかなかうまいし――」

「将棋なんかうまくないわよ。お父さんが下手過ぎるのよ」

「お父さんが下手とは何だ。下手とは!」

 将棋のことになると、三吉もむきになる。

「下手というのは、泉恵之助の野郎のことだ。わしは下手でない。その下手でないわしよりも、更にうまいんだから、陣太郎君は実に将棋が強い。もしかすると、専門家の域に達している」

「いくら陣太郎をほめ立てたってダメよ」

 また二美が傍から口を出した。

「陣太郎と結婚する意志は、一子姉さんには全然ないんだから」

「な、なに?」

 三吉は狼狽の色を示した。

「結婚する意志がないと?」

「そうよ。一子姉さんには、好きな人がちゃんといるんだから」

「お黙り。二美!」

 一子はあわてて妹を叱りつけた。妹は首をすくめて、発言を中止した。

「お父さん。あたしは陣太郎のところには、絶対に行きませんよ」

「だ、だれがそんなことを言った?」

 三吉はおろおろ声を出した。

「さてはなんだな。ハナコが何かおしゃべりをしたな」

「お母さんからじゃないわよう、だ」

 一子はますます言いつのった。しゃべっているうちに、だんだん本式に腹が立ってきたものらしい。

「うちのためを思えばこそ、毎日々々芋飯で我慢しているのに、お父さんはこそこそとご馳走のかくれ食いはするし、陣太郎のとこに行かせるような陰謀はたくらむし――」

「そうよ。そうよ。あたしたち、もう今日から、絶対に芋飯は食べないわよ」

「ムリに食べろと言うなら、ハンガーストライキに入るわよ。何も食べないで、そのうち二人とも痩せ細って、死んでしまってやるから?」

 

「ああ。そんなにわしをいじめないで呉れ」

 猿沢三吉は両手を上にさし伸ばし、全身ゆらゆらと身悶えをした。

「お前たちが芋飯を拒否して、もっとゼイタクをすると言うなら、一体うちの経済はどうなる。もうめちゃめちゃになって、破産してしまうぞ。それでもいいと思ってるのか!」

「湯銭をもとの十五円に戻せばいいじゃないの」

 一子はばしりとチャブ台をたたいた。

「十五円に戻せば、あたしたち一家全部、毎日中華でもウナギでも食べられるのよ」

「今更十五円に戻せるか!」

 さし上げた両手を、三吉は拳固にした。

「十五円に戻せば、お客は皆泉湯に行ってしまう。三吉湯はがらがらで、これまた破産にきまっている!」

「泉湯も十五円にすればいいじゃないの」

「泉湯の奴が十五円にするものか。あいつが先に十二円に値下げしやがったんだ」

「いえ、そうじゃないのよ」

 一子は膝を乗り出して、熱心な口調になった。

「お父さんが新築を始めたんで、泉のおじさまが値下げをしたのよ。でも、恵之助おじさまは近頃、十二円に値下げはすこし強硬過ぎたと、前非を悔いてらっしゃるそうよ」

「な、なに。恵之助が前非を悔いてる?」

 三吉は両手をおろし、眼をぱちぱちさせた。

「そ、それはほんとか。一体それは誰に聞いた?」

「泉の竜ちゃんによ」

 傍から二美が口をはさんだ。一子があわてて叱った。

「二美!」

「お、お前たちは、あの泉のバカ息子と口をきき合っているのか」

 三吉は怒ったような、かなしいような、複雑な声を出した。

「そうか。恵之助が前非を悔いてると、竜之助が言ったか。きゃつが前非を悔いてるのなら、わしも許さぬではない。あやまって来るなら、湯銭を十五円に戻してやってもいい」

「ところがそう簡単にはゆかないわよ」

「なにが簡単に行かない?」

「あの新築が出来上ればね、泉湯は客を取られて破産しちまうのよ。だから、あの新築を取止めれば――」

「今更取止めに出来るか。ムチャを言うな、ムチャを!」

「いえ。だからね、あれを風呂屋にしなければいいのよ。風呂屋じゃなくて、他の商売に使用すれば――」

「だってあれは、風呂屋として造り始めたんだぞ。それを他の商売にだなんて」

 三吉はたまりかねてチャブ台をひっぱたいた。

「将棋会所にでもしろと言うのか。だだっぴろ過ぎて、物の役に立たんわい」

「劇場か何かにすればいいじゃないの」

 一子も負けずにチャブ台をたたき返した。

「東京じゃ今、劇場が足りないそうよ。あれが劇場になれば、喜ぶ人がたくさんいるわ」

「劇場! 芝居小屋か」

 三吉は鼻の先でせせら笑った。

「冗談を言うな。芝居小屋なんかに出来るもんか。映両館なら、まだ話が判るが」

 転向の意向なきにしもあらざることを、三吉は暗々裡に示した。三吉も内心では相当にへこたれているのである。

 

 黄昏(たそがれ)、西尾真知子は鞄をぶらぶらさせながら、富士見アパートに戻ってきた。講義が済んでも、一葉研究のため図書館にたてこもるから、近頃いつも帰りが遅くなるのである。

 真知子は電話室の前で足をとめた。電話室の中で、陣太郎が電話をかけていた。

「もしもし。竜之助君か。おれ、陣太郎だよ。今晩七時、いつもの焼キャバに来ないか。うん。待ってるぞ。さよなら」

 がちゃりと電話を切り、陣太郎はのそのそと電話室を出た。ぱったりと真知子と顔を合わせた。

「おお、真知ちゃんか。遅いな」

「うん。図書館で調べものをしてたの」

「今日おれ、猿沢三吉に会って来たよ」

「そう。あたしの部屋に来ない?」

 真知子は先に立って、とことこと階段を登った。陣太郎もそれにつづいた。

「で、結果はどうだったの?」

 部屋に入り、電熱器に薬嬉を乗せながら、真知子は訊ねた。

「うまく行った?」

「うん。三ヵ月分、取って来たよ」

 陣太郎は内ポケットから、札束をひっぱり出した。

「さあ、三万円だ。これ以上はムリだな。三吉の金庫をのぞき込んだら、もうからっぽだったよ」

「そうでしょうねえ。湯銭五円だなんて、バカな競争をするんですものねえ」

 真知子は札束をとり上げて、器用な手付きで。ぺらぺらと数を確かめた。

「確かに。ありがとう」

「それでさっぱりしただろう」

「ううん。さっぱりしたような、未練があるような――」

「未練って、三吉おやじにか」

「いえ。この安易な生活形態によ」

 真知子はそそくさと札束を鞄の中に押し込んだ。

「さあ、これであたしの学問も前途多難だなあ」

「前途多難だなんて、多難なのがあたりまえだ」

 陣太郎はきめつけた。

「学問をするために、二号になるなんて、そんなバカな生活形態があるものか。それは学間に対する侮辱だよ。頽廃と言ってもいいぞ。むしろ、二号になるために学問をするという方が、話はわかる」

「だから二号を辞めたんじゃないの」

 真知子は若干ふくれっ面になった。

「ああ、そうそう」

 陣太郎はぽんと膝をたたいた。

「これで縁が切れたから、このアパートの部屋代、今月分からそちらで払えと、三吉おやじが言ってたよ」

「チャッカリしてるわねえ。あのおやじ」

「ここの部屋代はいくらだい?」

「月五千円よ。陣ちゃんとこは?」

「おれんとこは、使所の傍だから、三千円だよ」

 そして陣太郎は腕を組み、天井を見上げた。電熱器の薬罐がしゅんしゅん音を立て始めたので、真知子は二人分の紅茶をいれた。

「さあ、召し上れ」

「縁が切れたとなれば、やはりここは引越した方がいいな。おれ、適当な値段のやつ探してやるよ」

 腕組みを解き、陣太郎は茶碗に手を伸ばした。

 

 午後七時半、陣太郎は両掌をズボンのポケットに入れ、焼鳥キャバレーの階段をのそのそと登って行った。そこらいっぱいがヤキトリの匂いで、陣太郎の鼻翼はおのずからびくびくと動いた。

 時刻が時刻だから、二階はたいへん混んでいた。

 泉竜之助は長身の肩を丸くして、造花の紅葉の下の卓に、小さくなって腰かけていた。陣太郎の姿を見ると、ほっとしたように背骨を立て、顔をくしゃくしゃにした。

「ひどいなあ。三十分も遅刻するなんて」

 竜之助は腕時計を見ながら、うらめしそうな声を出した。

「僕、どうしたらいいか判らなくて、冷汗が出ましたよ」

「なんだ。まだ何も庄文してないのか」

 陣太郎は傍にならんで腰をおろした。

「ヤキトリでも食ってりゃいいじゃないか」

「そんなのんきなことができるもんですか。僕は無一文なんですよ。ヤキトリを注文して、もし陣太郎さんが来なきゃ、僕はたちまち豚箱入りですよ」

 竜之助の声は少々激した。

「何も注文しないで坐ってるもんだから、さっきから女給さんたちが、僕をにらんでるような気がして――」

「そんなにびくびくする奴があるか。もっと図太くなれ!」

 そして陣太郎は指を立て、ハイボールに串フライにヤキトリを注文した。竜之助は安堵したように掌を揉(も)み合わせた。

「おい。竜之助君」

 陣太郎は窮屈そうに、上半身を竜之助の方にねじった。

「無一文だなんて威張ってるが、加納明治んとこには行かなかったのか」

「別に威張ってなんかいませんよ」

 運ばれてきた串カツを横ぐわえにして、竜之助はカツを串からしごき取った。

「ああ、つらかったなあ。匂いはぷんぷんするし、おなかはぺこぺこだし」

「おなかのことなんか、誰も聞いてやしない。加納に十万円と吹きかけたかと言ってるんだ」

「まだ行かないんですよ」

「まだ行かない? 一体いつ行くんだ」

「今日いろいろと考えたんですけどね、あの仕事はどうも僕の性格に合わない」

 竜之助は内ポケットからごそごそと写真を取出[やぶちゃん注:「とりだ」。]した。

「これ、一応お返しします」

「要らねえよ」

 陣太郎はぽいと写真をはじき返し、ハイボールをぐっとあおった。

「そんな写真、おれのアパートに行けば、まだ十一枚もしまってある」

「でも――」

「でももクソもない!」

 ヤキトリをごしごし嚙みながら陣太郎はにらみつけた。

「これで五万円ふんだくって来なきゃ、カメラは永遠に君の手に戻って来ないぞ」

「そんなムチャな――」

 竜之助は嘆息した。

「僕にそんな不似合な荒仕事をさせるより、陣太郎さんが行けばいいじゃないですか。陣太郎さんの方がはるかにうまいですよ」

「うまい、まずいは問題でない」

 陣太郎は更に声を高くした。

「君をきたえるつもりで、おれはやらせるのだ!」

 

「きたえるんだなんて、そんな封建的な――」

 泣きべそみたいな顔になって、竜之助はハイボールをぐっとあおった。

「僕にはとても出来ませんよ。他のことならたいていのことはやるけれど。お願いだから、これだけはそちらでやって下さい」

「いや。君がやれ」

 陣太郎は頑として首を振った。

「やらなきゃ、おれの方にも考えがあるよ」

「え? どんな考えです? 僕をクビにしようとでも言うんですか?」

「おれは昨日、猿沢三吉の家に行った」

 おどかすように陣太郎は声を低くした。

「三吉おやじを近所の中華飯店に呼び出して、クーローヨとフヨウハイで飯を食った。三吉おやじは、飯を五杯もおかわりしたぞ」

「えっ。五杯も?」

 竜之助は感嘆の声を上げた。

「でも、そのくらいは食うだろうなあ。うちのおやじだって、今鮨(すし)を食わせたら、四十個は食って見せると、言ってるくらいだからなあ」

「へんなところで感心するな!」

 陣太郎はあたりを見廻してたしなめた。

「食べ終って、三吉おやじが、どんなことを切出して来たと思う?」

「さあ。何です?」

「身を固める気持はないかと、おれに言うんだ。だからおれは答えてやった。その気持、ないでもないとな」

「なるほど」

「すると三吉は遠廻しに、一子のことをどう思うかと、探りを入れてきた」

「えっ? 一子?」

 見る見る竜之助は狼狽して、顔面を紅潮させた。

「で、陣太郎さんは何と答えたんです?」

「体格は立派だし、態度はしとやかだし、とてもいいお嬢さんですなあ、とほめといた」

「そ、そんな好い加減なことを!」

 竜之助は眉の根をふくらませて陣太郎をにらみつけた。

「この間は一子について、あんたは何と言いました? あんなチンピラ小娘は、おれの好みに合わんと――」

「いかにもあのときはそう言った」

 陣太郎は落着きはらって答えた。

「しかし、心境の変化ということもあり得るよ。昨日は嫌いでも、今日は大好きになったなんてことは、よくあることだ。実は、今日の昼、うつらうつらと一ちゃんのことを考えてたら――」

「一ちゃんだなんて、あんまり心易く呼ばないで下さい!」

「うん。あの娘は、うつらうつらと考えてみたら、頭もバカじゃなさそうだし、肉体もぴちぴちとして味が良さそうだし、ここでひとつ三吉の懇望を入れて――」

「よ、よして下さいよ、ほんとに」

 竜之助は悲鳴を上げて、片手拝みの姿勢になった。

「そ、それだけは思いとどまって下さい。お願いですから」

「では、おれの言うことを聞くか」

「聞きますよ。何でも」

「では、明日、間違いなく、加納明治宅を訪問せよ」

 陣太郎はぎろりと竜之助をねめつけた。

「是が非でも五万円、ふんだくって来い!」

[やぶちゃん注:「クーローヨ」「酢豚」のこと。元来は広東料理で、「古老肉」と書かれ、中国語の音写は「グーラオロウ」。それが訛ったものか、本邦では「クーローヨー」「クローヨー」「クローヨ」等と呼ばれている。]

 

 建ちかけ三吉湯の材木の山のかげに、竜之助は背をもたせかけ、月の明りで腕時計の針を読んだ。

「もう十時を十五分も過ぎたぞ。どうしたんだろうな」

 竜之助は肩をすくませてぼやいた。

「今夜は陣太郎さんに三十分も待たせられるし、一ちゃんも遅刻と来ている。運が悪い日だなあ」

 焼鳥キャバレーからここへ直行してきたと見え、タレの匂いのする折包みを、竜之助はぶら下げていた。

「おや。足音が」

 ひたひたと忍びやかな足音が、こちらに近づいてくる。月明のそのおぼろな輪郭に、竜之助は両掌をメガホンにして、低声で呼びかけた。

「一ちゃん。ここだよ」

 恋するものの敏感さで、おぼろな輪郭だけで相手を察知出来るのである。とたんにその輪郭は背を低くし、イタチのように素早く、竜之助のそばにかけ寄って来た。

「竜ちゃん」

 二人の身体はひしと抱き合った。

「一ちゃん」

 一子の耳に口をつけ竜之助は切迫した声でささやいた。

「今夜ねえ、僕、陣太郎さんに会ったんだよ。そうしたら、陣太郎さんは急に心境が変って、一ちゃんのことを好きになったんだってさ」

「あたしのことを好きに?」

「そうなんだ。なんでも今日の昼、三吉おじさんに会って、中華料理を一緒に食べたんだって。その席上で、心境が変ったらしいんだよ」

「そうよ。今日の昼、陣太郎はやって来たわよ」

 一子は声をたかぶらせた。

「お父さんを引っぱり出して、フヨウハイとスブタを食べたらしいのよ。引っぱり出されるお父さんもお父さんよねえ。そして御飯を五杯もおかわりしたんだって。だから二美とあたしとで、散々とっちめてやったのよ。おや、これは何?」

「ヤキトリの包みだよ。一ちゃんに上げようと思って、つくって貰ったんだ」

 そして竜之助は、忌々(いまいま)しそうに舌打ちをした。

「今月分の秘書手当、陣太郎さん、なかなか呉れないんだ。それでもやっと二千円だけ呉れたよ。あとは明日、僕が加納明治の家にお使いに行ってから――」

「明日、竜ちゃん、お使いに行くの?」

 一子は心配そうに竜之助を見上げた。

「明日は大風が吹くらしいわよ。さっきラジオがそう言ってたわ」

「だって、お使いに行かなきゃ、一ちゃんのこと本気で好きになると言うんだもの」

 竜之助も心配そうな顔となり、一子を見おろした。

「どんなきっかけで、一ちゃんだって、心境の変化をおこさないとも限らない。僕はそれがこわいんだよ」

「バカねえ。いくら心境が変化したって、あんな魚男が好きになれますか」

 竜之助の胸に、一子はやわらかく頭をもたせかけた。

「さっきもお父さんに、タンカを切ってやったのよ。どんなことがあっても、あたし、陣太郎は大嫌いって!」

 

 泉宅の茶の間では、恵之助老がチャブ台の前に立膝[やぶちゃん注:「たてひざ」。]して、ひとりで晩酌の焼酎をかたむけていた。肴(さかな)は相も変らずメザシで、自分でメザシと決めたものの、さすがに恵之助も近頃ではうんざりしている模様であった。

「うん。マグロのトロが食べたいもんだなあ」

 恵之助はうらめしげに、立て膝の膝頭を撫でさすって、ひとりごとを言った。

「見ろ。この膝頭だって、すっかりかさかさになって、脂が抜けてしまったぞ」

 折しも泉宅のくぐり戸のかげで、長い影と短い影がひしと寄り合った。新築場からここまで、一子が竜之助を送ってきたものらしかった。

「ね。泉のおじさまが前非を悔いているという話、とてもお父さんにはきき目があったのよ」

 一子は竜之助にささやいた。

「だから泉のおじさまにも、その手を使えば、きっと効果があると思うわ。是非使ってみてね」

「うん。使ってみるよ。では、おやすみ」

「おやすみ」

 一子は竜之助からつと離れると、ネッカチーフを頭に冠り、小走りにかなたの闇に消えて行った。

 竜之助は身をひるがえしてくぐり戸を入り、音もなく玄関に忍び入り、扉をしめてかけ金をおろした。靴を土間に脱ぎ、かろやかに廊下を踏んだ。

「竜之助!」

 茶の間から恵之助老の声が飛んだ。いくらかろやかに踏んでも、廊下に面する茶の間の障子があけ放たれてあるのだから、見つけられるのも当然である。

「はい。ただいま」

 竜之助は居直って茶の聞に入り、父親に向い合ってあぐらをかいた。

「どこに行ってたんだ。こんなに遅くまで」

 そして恵之助はいぶかしげに鼻をくんくんと鳴らした。

「おや。お前の身体には、何か旨(うま)そうな匂いがただよっているな。はて、何の匂いだったかな、こいつは?」

 お土産の折包みから溶んだタレが、竜之助の服のどこかに付着しているらしい。それをごまかすために、竜之助は笑い声を立てた。

「匂いなんかするもんですか。そりゃお父さんの幻覚だよ。メザシばっかり食べてるから、そんな幻覚がおこるんだよ」

「そうかな。メザシのせいかな」

 恵之助はあっさりと納得した。

「そう言えば近頃、わしは耳も遠くなったようだし、眼のかすみようもひどくなった。とうとう鼻にも狂いが来たか」

「そうだよ。何もかもメザシのせいだよ」

 竜之助は声を高くした。

「僕だって近頃、身体の調子が、とても変なんだよ。やはり時には、マグロのトロなんかを――」

「トロの話はよせ!」

 耐えがたきを耐えるような顔になり、恵之助は息子を叱りつけた。

「一体今までどこを歩き廻ってた? カメラは取り返したか?」

「そ、それがダメなんだよ」

 竜之助は悲しげにどもった。

「やっぱり一六銀行に入ってたんだよ」

「なに、やっぱり一六銀行だと?」

 恵之助は息子をにらみつけた。

 

「うん。だからね、僕は明日、陣太郎さんのお使いで、加納明治という小説家の家に行くんだ」

 竜之助は自信なさそうに、語尾の調子をくずした。

「そこで金が貰える手筈になっててね、それでカメラを出すということになってんだけどね」

「大丈夫かい。あの陣太郎という風来坊は」

 恵之助は不機嫌そうに、焼酎をチュッとすすった。

「膝ががくがくするが、とにかくわしは明日、新築の進行状態を視察してくる」

「膝ががくがくするというのに、大丈夫?」

 竜之助は心配そうに父親の顔を見た。

「明日は大風が吹くそうだよ。さっきラジオがそう言ってたらしい」

「大丈夫だ。やせても枯れても、まだ風如きに吹き倒されたりするようなわしじゃない!」

「進行状態って、この間からまだ全然進んでないよ」

 そして竜之助は膝をぽんとたたいた。

「あっ、そうそう。あの新築を始めたことについて、三吉おじさんはすっかり後侮してるそうだよ。こんなことになるんなら、建てなきゃよかったと、ひしひしと前非を悔いてるという話だよ」

「な、なに?」

 恵之助は焼酎のコップを、すとんと畳にとり落し、あわてて座蒲団で拭った。

「前非を悔いてると? あの三吉が?」

「そうだよ」

「そ、それは誰に聞いた?」

「実はね、あそこに一子という嬢がいるでしょう。あれと今日、街でぱったり出会ったんだよ」

「一子だと? お前はあのバカ娘と口をきいてるのか?」

「いえ。向うから強引に話しかけて来たんだよ。三吉が前非を悔いてるから、お父さんにとりなして呉れないかって」

「そうか。三吉が前非を悔いてるか。ざまあ見ろ」

 恵之助はさも嬉しそうに大口をあけてばか笑いをした。

「それであの建てかけのやつは、一体どうするつもりだい?」

「それがまだメドが立たないらしいよ。金繰りがつかないもんだから、当分あのままの状態で放って置くらしい」

「そりゃもったいない話だ」

 恵之助は笑いを中止して、眉をひそめた。

「この間お前が話してた、あの芝居小屋のことだな」

「うん」

 竜之助はごそごそと膝を乗り出した。

「実はわしには蓄えが少しある。これだけは手をつけずに、お前に残そうと思ってたのだが――」

「わあ。蓄(たくわ)えがまだあったんですか」

 竜之助は慨嘆にたえぬ声を出した。

「それで毎日々々メザシはひどいなあ」

「毎日々々メザシだからこそ、蓄えがそっくり残っているのだ!」

 恵之助は息子を叱りつけた。

「もし三吉が前非を悔いて、わしにあやまって来るなら、あれを芝居小屋にするという条件で、わしがその蓄えを出資してやってもいい。そしてその芝居小屋は、わしと三吉との共同経営とするのだ」

 

 猿沢家の娘部屋は燈が消えていた。が、二人の娘たちは眠っているわけではなかった。それぞれの寝具に腹這(ば)いになり、暗がりの中で、ごしごしとヤキトリを食べていた。

 二十串ばかりのヤキトリは、またたく間に二人の腹中におさまった。

「おいしいわねえ。ヤキトリって、こんなにおいしいものだとは、知らなかったわ」

 二美は闇の中で、溜息をつきながら言った。

「もっともっと、おいしいものを食べたいわ」

「あたしだってたまには、おいしいもの、食べたいわよ」

 折しもずっと離れた茶の間で、ハナコがそう怨(えん)ずるような声を出した。三吉夫妻はチャブ台に向って、コブ茶を飲んでいた。

「毎日々々、芋飯と納豆(なっとう)じゃ、身がつづかないわよ」

「お前の言うことはよく判る」

 三吉はやや面目なげに頭を垂れた。

「でもあれは、陣太郎君のおごりだから、仕方がない」

「いくらおごりでも、自分だけがいい目を見るという法はないわ」

 ハナコは食い下った。

「それで、陣太郎さんの方はどうなの? 邸に戻りそう?」

「うん。まだはっきりしないんだがね、一子のことはほめてた。体格もいいし、しとやかなお嬢さんだって」

「はっきりしなきゃ仕様がないじゃないの。あの建てかけの三吉湯、あのままで放って置くと、雨ざらしになって、腐ってしまいはしない?」

「それはわしも心配している」

 三吉はコブ茶を不味(まず)そうにすすった。

「心配しているだけでは、どうにもならないわ。あれが建たなきゃ、泉湯さんは参ったとは言わないでしょう」

「いや。そうでもないらしいぞ」

 三吉の声はにわかに元気づいた。

「今日の一子の話ではだな、恵之助の野郎が近頃になって、しみじみと前非を悔いてるそうだ」

「え? 前非を?」

「うん。つまり、十二円に値下げしたことを、後悔しているのだ。今頃後悔したって、もう遅いが、全然後悔しないよりもましだろう」

「後悔したなら、あやまりに来ればいいのにねえ。あやまりに来れば、みんな元の十五円に戻るんでしょ」

「うん。わしは戻してもいいと思っている。ところが、恵之助の野郎が、後悔はしてるくせに、何かぐずぐず言ってるらしいのだ」

「何をぐずぐず言ってるの?」

「うん。あの建てかけのやつだな、あれが完成すると、お客を皆取られるから、他のものにして呉れと言ってるらしい」

「他のもの?」

「うん。芝居小屋とか、映画館とか、そんなものにだね」

 三吉はふうと溜息をついた。

「あいつの立場も、わしは判らんではない。しかし、風呂屋として建てかけたものを、今更他のものにして呉れなんて、そんなムチャな横車を――」

「でも、毎日芋飯よりは――」

 言いかけてハナコははらはらと落涙した。それを見て三吉は怒声をあげた。

「お前までそんな弱気で、どうする!」

 

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