奇異雜談集巻第六 目錄・㊀女人死後男を棺の内へ引込ころす事
[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。【 】は二行割注。本篇ではダッシュを一部で用いた。
因みに、本篇は、前回と同じ仕儀がなされてある。則ち、同前の原著「剪灯新話」の和訳である。それも同原著の中でも、最も本邦の怪談としてインスパイアされ続けた「牡丹灯記」のそれである。前回と同様に、私の五月蠅い注と同じく、作者の解説が冒頭からガッツリと本文に繰り込まれているから、それが五月蠅いとする御仁は、原作の原書の原文を読まれるに若くはない。「中國哲學書電子化計劃」のこちらから、影印本で視認出来るから、これが一番良い(但し、右にある電子化されたものはダメである。機械判読で、とんでもない字起こしになっているから)。「中国語では読めない。」と言う方、ご安心あれ! これ、実は、逆輸入(後の本文の私の注を参照)版で、日本語の訓点附きなのだ!
なお、高田衛編・校注「江戸怪談集」上(岩波文庫一九八九年刊)に載る挿絵(本篇では二幅ある)をトリミング補正して、適切と思われる箇所に掲げた。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]
竒異錄談集卷第六
目錄
㊀女人死後(しご)男(おとこ[やぶちゃん注:ママ。])を棺(くわん)の内へ引込(ひきこみ)ころす事
㊁干將莫耶(かんしやうばくや)が剱(けん)の事
㊂弓馬(きうば)の德(とく)によつて申陽洞(しんやうとう[やぶちゃん注:ママ。])に行(ゆき)三女(ぢよ)をつれ歸り妻(つま)として榮花(えいくは)を致(いた)せし事
㊀女人《によにん》死後男を棺の内へ引込ころす事
唐(から)には、正月十五日の夜、家々の門(かと[やぶちゃん注:ママ。])に、ともしびをあかし、種々(しゆじゆ)、いぎやう[やぶちゃん注:「異形」。]のとうろう[やぶちゃん注:「灯籠」。]をはりて、門《かど》にかくるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、男女(なんによ)諸人(しよにん)、是をみて、曉(あかつき)にいたるまで、あそびありく事、日本(にほん)の盆(ぼん)のごとくなり。是は、「三元下降(《さん》げんげかう)の日《ひ》」といふて、一年に三度、天帝(てんてい)、あまくだりて、人間の善業(ぜんごう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])・惡業(あくごう)を記(き)する日《ひ》也。正月十五日を「上元《じやうげん》」といふ。此の夜を「元宵(げんせう)」とも「元夕(げんせき)」ともいふなり。七月十五日を「中元《ちゆうげん》」といふ。十月十五日を「下元《げげん》」といふなり。此のゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、唐には、上元の夜、家々(いけいへ)の門に、ともしびを、あかして、天帝を、まつる。すなはち、是、七月否卦(ひのけ)十五日に、鬼霊(きれう[やぶちゃん注:ママ。])をまつる日に、あたるなり。
「牡丹灯記(ぼたんとうのき)」 牡丹の枝(えだ)
のさきに、花、二つ、あひならふ[やぶちゃん注:ママ。]
形を、灯籠に、はるたり。是を「双頭の牡丹灯」と
いふなり。
[やぶちゃん注:「鬼霊」。中国語では、本来、「鬼」はフラットに死者を指す。従って、ここでは「亡き人の霊」の意である。]
元朝(げんてう)のすゑの至正(しせい)年中のことなるに、明州(みやうしう)の鎭明嶺(ちんめいれい)のもとに、喬生(きやうせい)といふものあり。妻をうしなひて、やもめにして閑居す。
正月十五夜にいたりて、諸人、みな出《いで》て、灯籠を見て、遊び行(ありく)といへども、喬生は、ひとり、門(かど)に、たゝずみて、みちに出《いで》あそばす[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]。
夜半のすぎになりて、道に、人もなく、月のみ、あきらかなるに、丫鬟(あくはん[やぶちゃん注:ママ。「あくわん」が正しい。以下同じ。]/びんづう[やぶちゃん注:右左のルビ。左は意訳。以下同じ。])の童女、一人《ひとり》ありて、双頭の牡丹灯を、かたに、かかげて、さきにゆけば、後(あと)に、窈窕(ようぢやう[やぶちゃん注:ママ。「えうてう」が正しい。]/みやびやめ[やぶちゃん注:「雅や」(かなる)「女(め)」。])たる美女一人、したがつて、西(にし)にゆく。
喬生、これを見て、やむことをえず、すなはち、出行(いでゆき)て、ちかくみれば、はなはだ、すぐれたる美女なり。年に約(やく)せば、十七、八、くれなゐの裙(もすそ)、みどりの袖(そで)にして、ゆるやかに步む。氣(け)だかき躰(てい)、まことに国をかたぶくべき色(いろ)なり。
[やぶちゃん注:「至正年中」元の順帝(恵宗)トゴン・テムルの治世で用いられた元号。一三四一年から一三七〇年。一三六八年に元が大都(現在の北京)を追われた後も、北元の元号として使用された。但し、原作では冒頭、「方氏之據浙東也」(方氏(はうし)の浙東(せつとう)に據(よ)るや)とあり、「方氏」は元末の戦乱の嚆矢となった反乱指導者の一人であった方国珍(一三一九年~一三七四年)で、浙江で反乱を起こし、浙江省東部を占拠した。当該ウィキによれば、『塩の密売を行っていたが』、至正八(一三四八)年に『海賊と繋がっているとの讒言を受け、やむを得ず』、『数千の衆を集めて弟の方国瑛と共に反乱を起こした』。『元はこれに対して討伐軍を出してくるが、その軍は弱く、方国珍は大勝し』、『江浙行省参知政事ドルジバル(朶爾直班)を虜にした。討伐が難しいと思った元政府は方国珍に対し』、『県尉の役職を授けて懐柔しようとし、方国珍も』、『一旦は』、『これを受けて矛を収めたが、その後』、『再び背』き、『再び送られた政府の討伐軍は』、『また』して『も敗れ、江浙行省左丞相ボロト・テムル(孛羅帖木児)は虜となった。その後、方国珍に対し』、『政府は前よりも高い官職を授けた』。『その後、何度もこれを繰り返し、その度に官職が高くなり、最終的に』至正二六(一三六六)年九月に『江浙行省左丞相・衢国公にまで登』ったとある。彼は後に、明の初代皇帝となる朱元璋に降伏している。なお、彼は『朱元璋と争った群雄の中で』、『唯一』、『天寿を全うした』ともある。実は原作では「至正庚子之嵗」とあるので、さらにユリウス暦で一三六〇年に限定出来ることになる。
「明州の鎭明嶺」現在の浙江省寧波市であるが、岩波文庫の高田氏の注よれば、「鎭明嶺」は『市内の小高い街区の名』とある。グーグル・マップ・データ航空写真で同区を見るに、現在では、元は丘陵地であったかと思わせるものでしかない。
「喬生」「生」は中国語では「~の者」を指す名詞を作る語素である。なお、岩波文庫では『喬正』となっている。
「丫鬟」現代中国語の音写では「ィア フゥァン」。岩波文庫の高田氏注に、『頭髪を両脇にまとめた少女の髪型。転じて、少女をいうことがある』とあり、ここでも後者で、「年少の侍女・召使い・婢」を指す。より正確には、髪を左右に分けて角形(丸い塊り状)に結った髪型で、本邦の「あげまき」(総角)に相当する。中文サイト「中文百科」の「丫環」に写真がある。]
喬生、心もまどふばかりにて、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]あとにしたがひ行く。あるひは[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、さきになり、あるひは、あとになりて、ゆくこと、半町[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]ばかりにして、美女、たちまちに、喬生を見て、微哂(すこしわらひ)ていはく、
「旧(もと)、見し人に、あらず。月下(げつか)に、はしめて[やぶちゃん注:ママ。]見る。もと、知(しる)の心に、似たり。」
といへば、喬生、よろこんで、さしよりて、いはく、
「我家(わがいへ)、ほど近し。來たりて、やどり給はんや、いなや。」
といへば、女、すなはち、うけがふ。
丫鬟(あくわん)をば、名を「金蓮」といふ。牡丹灯をかかげて、さきにゆくぞ。
すなはち、女の手をとりて、我家に引《ひき》て入れり。
金蓮をば、はしのま[やぶちゃん注:「端の間」。]に居(きよ)せしめ、女を中堂(ちうのま)に請(しやう)じいるゝなり。
「はからざるの佳遇(かぐう)。」
とて、帳(とばり)を、たれ、枕を、ならべ、はなはた[やぶちゃん注:ママ。]、歡悅(くわんえつ)を、きはむ。
世にたぐひなき、多情(たせい[やぶちゃん注:ママ。])なり。
[やぶちゃん注:「多情」(たじやう)情が深くて、感じやすいこと。
「もと、知(しる)の心」高田氏の注に、『以前からの知り合いのように思われる、の意』とある。]
因(ちなみ)に、その姓名と居所(きよしよ)をたづねとへば、女のいはく、
「姓は符氏(ふし)、名は麗卿(れいけい)、字(あざな)は芳叔(はうしゆく)。すなはち、故(こ)奉化州判(はうくはしうはん)の娘なり。先人《せんじん》、早く、さつて、父母兄㐧(《ぶも》けいてい)もなく、親類一族も、なし。家居(いへゐ)もれいらく[やぶちゃん注:「零落」。]し、世の緣も、おとろへつきて、たゝ[やぶちゃん注:ママ。]金蓮と二人、居(きよ)を湖西(こせい)によするのみなり。こよひの、にひまくら[やぶちゃん注:「新枕」。]、わするへからす[やぶちゃん注:総てママ。]。鳥(とり)、なき、天(そら)、あくる。」
と、いふて、出《いで》さるなり。
[やぶちゃん注:「奉化州判」高田氏の注に、『「奉化」は浙江省奉化州。「州判」は裁判所の書記官』とある。「奉化州」は現在の浙江省寧波市奉化市(市轄区:グーグル・マップ・データ)。
「湖西」この湖は後に出るが、月湖(げつこ/がつこ)である。先の鎮明区の西直近にある(グーグル・マップ・データ:地区は寧波市海曙区)。その西岸の意。地図を見られると判る通り、この湖は「三日月」の形を成しているのである。当該ウィキによれば、『人造湖』であって、初『唐の貞観』一〇(六三六)『年に開鑿され、当初は町の西にあることから西湖と呼ばれていたが、宋の元祐年間』(一〇八六年~一〇九四年)『に現在の規模に整備され』、『三日月に似た形状から、月湖と名付けられる』とある。]
喬生、ゆめのさめたるがごとくして、人と、かたる事なく、よろこび、たのしめり。
夜(よ)にいたりて、美女、また、きたる。
これより、夜夜(よなよな)、きたり、朝朝(あさなあさな)にさること、まさに半月(はんげつ)ならんとす。
[やぶちゃん注:底本の大きなそれはこちら。髑髏(どくろ)の麗卿と対していながら、それに気づかない喬生。右手端に覗く隣家の老翁。下方左手の屋外の軒下に牡丹燈籠を持った、何となく不思議な姿勢で固まって突っ立っているように見える(これは確信犯の描き方で、後で判明する)金蓮。但し、この挿絵は原話に即して中国の景物で描かれてあり、例えば、喬生と髑髏の麗卿のいるのは、中国でも相応の富人の家の御堂風の中で、隣りの老翁は、本文では実際に同じ棟の長屋のような構造の隣り合せであって、壁にあった穴から喬生の部屋の怪異を覗くことになっており、金蓮も喬生の家居の別の部屋にいることになっているから、甚だ違和感がある。]
隣家(りんか)の老翁(らうをう)、これを、うたがひ、壁の穴より、これをうかゞひみるに、粉(こ)をぬり、よそほひしたる髑髏(どくろ/されかうべ)の女、一人、ともしびの下に、喬生とならび居《を》るを、見る。
老翁、おほきにおどろきて、明日《みやうじつ》、これをつぐれば、喬生、祕(ひ)して、さらに、いはず。
老翁の、いはく、
「ああ、なんぢにわざわひ[やぶちゃん注:ママ。]あり。なんぢは、すなはち、いたつて、さかんなる陽氣(やうき)、かれ[やぶちゃん注:かの者(存在)。]は、すなはち、いたつて、けがれたる陰氣(いんき)なり。今、汝、骸骨(がいこつ)の妖魅(ばけもの)と、おなじく座(ざ)して、しらず。邪氣(じやき)の幽霊と、おなじく臥(ふ)して、さとらず。汝、日々《ひにひに》に、きりよく、おとろへ、つき、家に、時々、さいなん、出(いで)て、をかさん[やぶちゃん注:「犯さん」。「災難が出来(しゅったい)して、それに致命的に襲われることになるぞ!」。]。おしゐかな[やぶちゃん注:総てママ。]、若年(ぢやくねん)の身にして、にはかにめいど[やぶちゃん注:「冥土」。]の人とならん事、かなしまざるべけんや。」
といへば、喬生、はしめて[やぶちゃん注:ママ。]おとろき[やぶちゃん注:ママ。]おそれて、つぶさに、その由來をかたる。
老翁のいはく、
「かれ、『湖西に居を寄(よす)』と、いひしや。しからば、なんぢ、まさにゆき、ねんごろに、よく、たづねば、しかるべし。」
といふ。
喬生、そのをしへのごとく、月湖(くわつこ[やぶちゃん注:ママ。])の西にゆき、長堤(ちやうてい)の上、高橋(かうきやう)の下《もと》に、ゆきゝして、所の人に、とひ、旅人(たび《びと》)に、とへは[やぶちゃん注:ママ。]、みな、しらざるなり。
日、まさに暮れんとす。
喬生、湖心寺(こしんじ)の門《もん》に入りて、東(ひがし)の廊架(らうか)[やぶちゃん注:「廊下」に同じ。]を、ゆきつくして、西の廊架に、うつりて、ゆけば、らうかの、つくる所に、一《ひとつ》の小堂(せうだう)あり。
内に、柩(ひつぎ)あり。
白紙(はくし)に、その名を、かきて、貼(をし[やぶちゃん注:ママ。])したり。[やぶちゃん注:押し貼り付けてあった。]
文(もん)にいはく、
――故(こ)奉化(はうか)符州判(ふしうはん)のむすめ麗卿の柩――
と云々。
前に、双頭の牡丹灯を、かけ、下に、一(ひとつ)の丫鬟(あくはん)の童女(どうによ)を立《たて》たり。
そのうしろに「金蓮」の二字、あり。
喬生、これを見て、身(み)の毛(け)だち、鳥(とり)はだ立《たち》て、はしりて、寺を出《いで》て、後(うしろ)をかへりみずして、かへるなり。
[やぶちゃん注:「潮心寺」高田氏の注に、『月湖の中の島にあった寺院』とする。種々の論文その他をさんざん調べた結果、現在の月湖の中の島の中にある、かの本邦の画僧雪舟を記念した「雪舟紀念館」が、旧湖心寺の跡地に建っている(グーグル・マップ・データ)ことが確定的に判った(航空写真に切り替えた場合は、大きなズレが生ずるので注意されたい)。
「丫鬟の童女」高田氏の注に、『原話「明器婢子」。童女人形』とある。「中國哲學書電子化計劃」影印本版では、ここで(【 】は二行割注。一部は所持する太刀川清「牡丹灯記の系譜」(平成一〇(一九九八)年勉誠社刊)の巻末にある「剪灯新話句解」所収の原文で補った)、『燈下ニ立ツ二一ノ盟【音明】器婢子ヲ一【器。禮ノ喪服小記ニ陳器ノ註ニ從ㇾ葬ニ明器也此レ乃レ明器蒭人也】背上ニ有二二字一曰フ二金蓮ト一』とある。何となく、お判り戴けると思うが、太刀川氏の当該書本文冒頭にある「『剪灯新話』と「牡丹灯記」」の中で、国書刊行会昭和六二(一九八七)年刊の『叢書江戸文庫』の「百物語怪談集成」の月報に載る高田衛氏の「百物語と牡丹灯籠怪談」の引用があり(実は私は同書を所持しており、同書の怪奇談の総てを電子化注終えているのだが、その作業中、当該「月報」を、どこかに放置してしまい、今、見出せないため、孫引きにて悪しからず)そこに、『「冥器婢子」(侍女の人形、死者への副葬品)』とあって、金蓮は、その人形が化した呪的人形(ひとがた)であったことが明らかになっているのである。この太刀川氏の著書は、私が読んだ漢籍関連の論考(偏愛する李賀の論考類は別にする)では、甚だ興味深い論文であった。例えば、この章の、この前後では、「牡丹灯記」に於ける、この人形(ひとがた)の呪的人形(にんぎょう)でしかない「金蓮」こそが――麗卿ではなく、である――主人公を致命的な災厄へと導くところの、魔的にして深刻な、おぞましい誘導・起動装置に他ならず、それこそが、ここに現れた「翁」によって何よりも第一に『糾弾され弾劾されなければならな』いところの呪的存在であった、と太刀川氏(高田氏も含めて)は指摘されておられるのである。なお、太刀川氏は『金蓮とは纏足』(てんそく)『の美称であり、「金蓮歩」と言って美女の艶麗な歩みをおいう語でもある』とあり、既にして、この名にも男が魅了されてしまう呪的意義が含まれているのであった。]
此の夜、となりの、おきなが家に宿(やど)をかりて、つぶさにかたりて、うれへ、おそるゝなり。
老翁の、いはく、
「玄妙觀(げんみやうくわん)の魏法師は、政開府(せいかいふ)の王眞人(わうしんじん)の弟子なり。符(ふ)のきどく[やぶちゃん注:「奇特」。]、當時(たうじ)㐧一とする也。汝、急(きう)に、ゆきて、是を、もとめよ。」
と云ふ。
[やぶちゃん注:「玄妙觀」道教の道観(寺院)の一つの固有名詞。所持する竹田晃他編著になる二〇〇八年明治書院刊の『中国古典小説選』第九巻「剪灯新話<明代>」によれば、『現在の浙江省鄞県にある道教の寺』とある。現在は、浙江省寧波市鄞(ぎん)州区(グーグル・マップ・データ)。
「政開府」不詳。
「王眞人」不詳。但し、「眞人」は、老荘思想や道教に於いて「人間の理想像とされる存在や仙人の別称」として、よく用いられる語である。
「符」護符。高田氏の注には、『道教で、福を招き、災』(わざわい)『をさけ、魔物をおさえ、鬼神をつかうためのお札』とある。]
明旦(みやうたん)に、喬生、玄妙觀の内に詣(けい)ずれば、法師、その至(いた)るを見て、驚きて、いはく、
「妖氣(ばけもの)、をかす[やぶちゃん注:ママ。]事、はなはだ、深く、染(しみ)たり。いかんしてか、こゝに、來たるや。」
と。
喬生、すなはち、座下(ざか)に拜(はい)して、つぶさに、その事をかたば、法師、朱(しゆ)の符、二つう[やぶちゃん注:「通」。]を、さづけて、一《ひとつ》をば、門(もん)に、をき[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、一をば、座(ざ)に、をかしむ。これを、いまめて、いはく、
「ふたゝひ[やぶちゃん注:ママ。]、湖心寺に行くこと、なかれ。」
と、かたく、しめすなり。
[やぶちゃん注:「座」原作では「榻(とう)」で、寝台。「座」にはその意味はない。]
喬生、符を受けて歸りて、そのいふがごとくすれば、かの霊(りやう)、はたして
、きたらざる事、一月《ひとつき》あまりなり。
喬生、知音(ちん)に語りて、いはく、
「われ、衮繡橋(こんしうきやう)のあたりにゆきて、友を、とはん。」
と、いひし。
[やぶちゃん注:「衮繡橋」の「中國哲學書電子化計劃」の影印本や明治書院刊の『中国古典小説選』版では、この「衮」の字を用いている。岩波文庫は「袞」を当てている。迷ったが、底本の崩し字は、どちらかというと「衮」に近く見えたため、かくした。但し、これ、同字の異体字である(リンク先は「グリフウィキ」の「袞」)から、実際にはどちらでも問題はない。なお、『中国古典小説選』版ではこの橋名に注があり、『現在の浙江省鄞』(ぎん)『県の西南にある橋』とある。しかし、岩波文庫の高田氏の注は、『月湖にかかる橋の名』とする。もし、前者であるとすれば、その現行の地区(先に出した寧波市鄞(ぎん)州区)で同じであるなら、わざわざ月湖を通って行く必要は、ない。寧ろ、高田氏の言うそれなら、どこにその橋が架かっているか判らないが、その橋の西側(月湖の西岸一帯のどこか)に友がいるとなら、月湖を大きく南回りするか、或いは北回りして、月湖を渡らずに行くことは可能であり、それほど面倒とは言えない(計測してみたが、短ければ、二キロ程度、長くても、三~四キロである)から、されば、往路では、魏法師の禁制を守って、それを選んだとすれば、すこぶる、腑には落ちるのである。但し、その友人の家が月湖の西岸のほぼ中央附近にあったとすれば、月湖に架かる湖心寺の脇(南)を通る橋を横切った方が、確実に近いことは確かである。]
そのゝち、數日(すじつ)、喬正を、みざれば、知音、その、久しく歸らざることを怪しんで、衮繡橋の邊(へん)にゆきて、その友の家を、とへば、友のいはく、
「喬生、數日《すじつ》さきに、こゝにをいて[やぶちゃん注:ママ。]、酒をのみて、よひて、かへる。湖心寺の道を行くとみて、そのゝちは、しらず。」
といふ。
[やぶちゃん注:「よひて」は「醉(ゑ)ひて」の誤りなら、ママ注記で済ますところだが、実はこの妙に細かい部分は、原作にないので、何とも言えない。原作では、友と溜飲してしまい、魏法師の戒めを、うっかり忘れて、湖心寺の脇を抜ける橋を渡ってしまったところが、寺の門のところで……金蓮が礼拝して彼を待っていた……(以下のカタストロフは実景として語られてある。影印本はここ)。さて、数日、喬生が帰ってこないことを心配して、探しに出たのは、隣りの老翁で、湖心寺へ直行しているのである。「知音」は登場してこないである)。何故なら、岩波文庫版では、ここの原文が『夜(よ)びて』となっており、高田氏は注して『夜になって』とされておられるからである。]
知音の、おもへらく、
「酒にゑひて、魏法師の戒めを、わすれ、又、湖心寺にゆくや。」
と、いひて、湖心寺の門に入《いる》。
西廊を、ゆきつくせば、古堂(こだう)の内に柩(ひつぎ)あり。「ひつぎ」の間より、衣(きぬ)の裳(も)、すこし、出でたり。
是、喬生が裳、よく、見しりたり。
柩のめい[やぶちゃん注:「銘」。]、白紙(はくし)にかける所、さきに、喬生が、かたる所、ならびに、双頭の牡丹灯を、かけ、童女(どう《ぢよ》)のうしろに、「金蓮」の二字等(とう)の事、まつたく、さきにきく處と、おなし[やぶちゃん注:ママ。]。
寺僧につげて、柩のふたを、のみ[やぶちゃん注:「鑿」。]をもつて、あけてみれば、喬生、死して、うつぶきて、上に、あり。
女は、あふのきて、下に、あり。
女のかほばせ、いけるがことし[やぶちゃん注:ママ。]。
寺僧、歎(たん)じていはく、
「これは、故奉化州符判君のむすめなり。死せる時、年十七、柩に、おさめて[やぶちゃん注:ママ。]、こゝに、をく[やぶちゃん注:ママ。]。そのとき、親族一家(け)中、皆、こゝにきたる。そのゝち、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]音信を絕(ぜつ)する事、十二年なり。おもはざりき、妖怪となることの、かくのことく[やぶちゃん注:ママ。]ならんとは。」
と。つゐに[やぶちゃん注:ママ。]二つ
のかばねの柩、ならびに、金蓮人形(きんれんのにんぎやう)を、西門(さいもん)の外(ほか)に送りてうづむ。
このゝち、空(そら)のくもるゆふべ、月のくらき夜(よ)、往々(わうわう)に、喬生と、女と、手をたづさへて、おなじく、步あるく。一《ひとり》の丫鬟(あくわん)、双頭の牡丹とうを、かゝげて、さきにみちびき、ゆくを、みるなり。
是にあふものは、すなはち、重病をえて、寒熱(かんねつ)、往來(わうらい)す。
[やぶちゃん注:この病態は熱性マラリアのそれである。]
いのるに、くどく[やぶちゃん注:「功徳」。]をもつてし、祭るに、牢醴(らうれい)をもつてすれば、粗(ほゞ)いゆる事をえ、いなやのときんば、いへえさるなり[やぶちゃん注:総てママ。]。
[やぶちゃん注:「牢醴」高田氏の注に、『牛・羊・豕』(いのこ:ブタのこと)『の三種のいけにえと』、『酒を供えること』とある。]
在所(ざいしよ)の衆《しゆ》、おほきにおそれて、玄妙觀に、きそひゆきて、魏法師にあふて、これを、うつたふれば、法師のいはく、
「わが符(ふ)は、たゞその邪氣の、いまだ、ふかゝらざるを、よく治(ぢ)す。いま、たゝり、ふかくなれり。我(わが)しる所に、あらず。きく、鐵冠道人(てつくわんだうにん)といふ人、あり、四明山(しめいざん)のいたゞきに居(きよ)す。行力(ぎやうりき)[やぶちゃん注:霊験力(れいげんりょく)。神通力(じんつうりき)。]、げんぢうにして、鬼神(きじん)をがうぶく[やぶちゃん注:「降伏」。]す。なんぢがともがら、行《ゆき》て、これを、求むべし。」
といへり。
[やぶちゃん注:「我しる所に、あらず」「自分が持っている力で退治せしめることが可能な範囲を超えてしまっているため、それは不可能である。」。
「鐵冠道人」高田氏の注に、『本名を張中または張景華といい、元末に実在した道教の僧』とある。本邦では、芥川龍之介が大正九(一九二〇)年七月一日発行の雑誌『赤い鳥』に掲載した童話の「杜子春」(リンク先は私の古いサイト版)に登場させている仙人の名「鐵冠子」で、専ら、知られる。但し、原作には登場しない(私のサイト版の杜子春 李復言(原典)⇒やぶちゃん版訓読⇒語註⇒現代語訳を見られたい)。
「四明山」浙江省寧波西方(ピークとしての「四明山」は紹興市の県級市である嵊州(じょうしゅう)市に属する:グーグル・マップ・データ航空写真)にあって、天台山から北東方に連なる山一帯を指す。「日月星辰に光を通ずる」の義から四明山と呼ばれる。寧波の古称である「明州」(めいしゅう)もこの山名に因む。山中には雪竇山資聖寺(せっちょうざんししょうじ)・天童山景徳寺(てんどうざんけいとくじ)・阿育王山寺(あいくおうさんじ)など、歴史的に有名な仏教寺院があるが、道教でも、この山は「第九洞天」と称して尊ぶ。十世紀末、阿育王山寺の義寂(ぎじゃく)に天台を受けた知礼(ちれい)は、明州の延慶寺(えんけいじ)に住して「山家(さんげ)派」と称し、「山外(さんがい)派」の梵天慶昭(ぼんてんけいしょう)・孤山智円(こざんちえん)を論破して「四明尊者」と称され、以後の中国天台宗教学は「四明派」に覆われるに至った。本邦の比叡山山頂を「四明ヶ岳」(しめいがたけ)と称するのも、この山名に因む(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]
衆《しゆ》、みな、山にのぼる。葛(くづ)、藤(ふぢ)を、よぢて、けはしき崕(がけ)をわたりて、すぐに山のいたゞきに、いたれば、はたして、草庵、一所あり。
道人(だうにん)、几(おしまつき)に、よりかかりて座(ざ)す。
[やぶちゃん注:「几(おしまつき)」「おしまづき」が正しい。物を載せたり、肘(ひじ)や腰を掛けたりする足附きの台・机を言う。音は「キ」。その和訓で「脇息(きょうそく)・机」の意。]
かたはらに、童子(どうじ)、鶴(つる)を愛する、あり。
衆、みな、庵下(あんか)に、つらなつて、拜す。つぶさに、上來(しやうらい)[やぶちゃん注:今までのかの霊を見てしまうことによって生ずる悪しき事態全般。]のゆへ[やぶちゃん注:総てママ。]をつぐれは[やぶちゃん注:総てママ。]、道人の、いはく、
「山林(さんりん)の隱士(いんし)、旦暮(たんぼ)に、かつ、死せん。いづくんぞ、きどく[やぶちゃん注:「奇特」。]あらん。君がともがら、誤ち聞けり。」
[やぶちゃん注:「儂(わし)は巷間(こうかん)を厭うて、このような深山に隠棲した者であって、今日の暮れか、明日の早朝にでも、直ちに死んじまうような老いぼれに過ぎん! どうして、ぬし等(ら)が言うような、そんなありがたい通力(つうりき)を持っていようはずはないんじゃ! あんたら、何かの聴き違いをしたんじゃて!」。]
人衆(にんしゆ)をこばむこと、はなはだ、いつくし[やぶちゃん注:極めて頑固であった。]。
衆の、いはく、
「それがし[やぶちゃん注:複数形。「わたくしども」。]、もと、しらず。けだし、玄妙觀の魏法師、さしをふる[やぶちゃん注:「差し敎ふる」。]ところ、しかり。」
といへば、はじめて、ほどけたり[やぶちゃん注:苦虫を潰して「解かったわい!」という顔をした。]。
しかうしていはく、
「老夫(らうふ)、山を、くだらざる事、六十年なるに、玄妙觀の小子(《しやう》す)、繞舌(ねうぜつ)に口をきいて、わが出行(しゆつぎやう)をわづらはす。」
[やぶちゃん注:「小子」「小僧っ子めガッツ!」。
「繞舌に口をきいて」「お喋りに過ぎて、ベラベラと吹聴しよるからに!」。
「わが出行をわづらはす」「儂の出動を煩わしおったわッツ!」。]
すなはち、童子と、山をくだる。
行步(ぎやうぶ)かろく、すこやかにして、たゞちに西門(さいもん)の外(ほか)にいたりて、一丈四方の壇(だん)をむすんで、むしろをのべて、端座す。
符をかきて、これを、たけば[やぶちゃん注:「焚けば」。]、たちまちに、符のつかはしめ數輩(すはい)、化現(けげん)す。符の煙(けふり)より、出でたり。
[やぶちゃん注:「つかはしめ」岩波文庫原文では『吏女(つかわしめ)』(同書のルビは悲しいかな、現代仮名遣である)とする。原作では「符吏」(ふり)であり、女の姿を指示していない。呪符によって呼び出されて出現した幽鬼を取り締まる道教の冥府系の断罪をこととする酷吏であり、正直、女の姿はあり得ないと私は思う。]
すなはち、是、道人(だうにん)の吏(つかはしめ)、護法(ごはう)のたぐひなり。
[やぶちゃん注:以上の一文は本書の作者による解説。「護法」は概ね、本邦に於いて広義には、仏法に帰依して三宝を守護する神霊・鬼神の類いを指すが、狭義には、密教の奥義を極めた高僧や修験道の行者・山伏たちの使役する神霊・鬼神を意味する。童子形で語られることが多いため、「護法童子」と呼ぶことが広く定着しているが、実際には、所謂、鬼や、動物のような姿で描かれることも多い。]
そのかたち、みな、黃(き)なるぼうし、にしきの襖(おほころも)、こがねのよろひ、ゑりもの[やぶちゃん注:「彫(ゑ)り物」。]したる戈(ほこ)、おのおの、長(たけ)一丈あまり、みな、壇の下に、
「きつ」
と、たてをきて[やぶちゃん注:ママ。]、身を屈し、かうべをたれて、道人の命(めい)をうけて、うやまひ、おれ[やぶちゃん注:ママ。]り。
道人、これに命じていはく、
「此間(こゝもと)に邪氣のたゝりをなして、人民(にんみん)をおどろかし、わづらはすもの、あり。なんぢがともがら、是をしるべし。かり出《いだ》して、こゝにいたれ。」
といへば、吏(つかはしめ)、すなはち行《ゆき》て、時をうつさず、枷(てがせ)・鎖(くさり)をもつて、三人ともに、ひいてきたり。
[やぶちゃん注:「三人」喬生・符麗卿・金蓮。]
むち[やぶちゃん注:「鞭」。]を、もつて、うつ事、はかりなし[やぶちゃん注:際限がなく、容赦もない責めであることをいう。]。
血、ながれて、やまず。
道人《だうじん》、ことばをもつて、かしやく[やぶちゃん注:「呵責」。]する事、やや久し。
三人のゆふれい[やぶちゃん注:ママ。]、みな、諾伏(だくふく)して、いはく、
「あへて、ふたたび、たゝりをなし、人をわづらはす事、あるべからず。」
と、いふて、拜(はい)し、さつて、見えず。
道人と吏《つかはしめ》と、ともに、さりて、かへるなり。
翌日、衆(しゆ)、みな、山にのぼりて、謝(しや)せんとすれば、たゞ、草庵のみありて、道人、なし。
又、玄妙觀に行《ゆき》て、魏法師に謁(ゑつ[やぶちゃん注:ママ。])すれば、唖(をし[やぶちゃん注:ママ。])にして、物いふ事、あたはざるなり。
けだし、鐵冠道人の、なせるところか。
[やぶちゃん注:本話は、後の浅井了意の「伽婢子」(リンク先で全篇正規表現で昨年電子化注を終えている)の名翻案「卷之三 牡丹燈籠」で、大ブレイクしたことから、そちらを先に読み、ここに至る読者が多いとは思う。他にも、幾つもの、翻案・改作が繰り返されたから、それらの時系列を逆に読んでしまうと、本篇は、ちょっと食い足りない感じは残る。しかし、市井に公刊された「牡丹燈記」の濫觴として、やはり、優れたものであり、本邦の大衆に判るように、注形式ではなく、作者が登場して、解説を本文に差し入れて語っているそれは、まことに画期的と言うべきで、もっと本篇は高く評価されるべきものと思う。私のこの電子化が、その一助となれば、恩幸、これに過ぎたるはない。]