奇異雜談集巻第四 ㊅四条の西光庵五三昧を𢌞りし事
[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。]
㊅四条の西光庵五三昧《ごさんまい》を𢌞りし事
四条の坊門鳥丸に「西阿弥陀仏」といふ、時宗、一人《ひとり》あり、居所(きよしよ)をば、「西光庵」と、がうす。
若年より、心ざし深き、念仏の行人(ぎやう《にん》)なり。
「應仁の亂」中(ぢう)に、人、多く、死するゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、無緣の聖霊(しやうれう)をとぶらはんために、夜な夜な、五三昧をめぐり、念佛を思ひ立つ。
[やぶちゃん注:「五三昧」この場合の「三昧」は墓地のことで、岩波文庫の高田氏の注に、『平安末期に著名だった洛中の』広義の意味で辺縁部にあった『五ヵ所の死体捨て地。五三昧所(ごさんまいしょ)の略』で、『四塚、三条河原、千本、中山、鳥辺野の五所』とある。この内、「四塚」は、高田氏の別注で『東寺四塚』で『朱雀野の南にあった古い三昧地』とあった。さて、この「朱雀野」とは、京が荒廃していた時代に、東寺及び羅城門の南側に広がっていた野原を指すことから、グーグル・マップ・データ(以下同じ)で、現在のこの附近(ポイントは「羅城門」)であり、「千本」が船岡山の西麓の旧蓮台野(南北でそこに通づる「千本通」は、そこへの「野辺の送り」のルートでもある)、「中山」は知られた東山「黒谷」地区と考えられる。「三条河原」はここ、「鳥辺野」はここ(現在。後注参照)である。]
初夜時(しょうやどき)[やぶちゃん注:午後八時頃。]より、頸(くび)に鉦皷(しやうこ)をかけ、身に破衣(やれ《ごろも》)をきて、先(まづ)、東寺四塚に行きて、罷物処(はぶつしよ)において、念仏、一、二百へん、かうじやう[やぶちゃん注:「高声」。]に唱ふ。てんせい[やぶちゃん注:「天性」。]、音聲(をんじやう[やぶちゃん注:ママ。])よき人なり。
[やぶちゃん注:「罷物処」三昧(墓地)に併設された死体捨て場(高田氏はその特定地を指すとする)、或いは、火葬場を指したようである。]
次に三条河原に行きても、また、一、二百へん、となへ、また、千本(せんぼん)にゆきて、罷物處に於て、一、二百へん、となふ。
東にゆき、河をわたり、中山の罷物處に行きて、また、一、二百へん、となへ、また、延年寺に行《ゆき》ても、一、二百へんとなへ、回向して、あかつき、京にかへる。
[やぶちゃん注:「河」鴨川。
「延年寺」高田氏注に、『鳥辺山・鳥辺野は、平安開都以来の墓所』で、『本来は愛宕郡烏部郷の阿弥陀ケ峰とその麓の扇形に開けた裾野を広くさした。その後、親鸞の西大谷廟背後にある延年寺が墓地として増大し、鳥部山の称を独占するようになっていった』とある。]
毎夜、かくのごとく、やうやく、三年に到る。雨雪(あめゆき)の夜(よ)はゆかず。
ある夜、西院(さいゐん)の地藏堂の北堤(きたつゝみ)より、上(かみ)へ、二、三町ゆけば、松、茂りて、深夜のやみに、小女(こ《をんな》)のこゑにて、
「是、まいらせ[やぶちゃん注:ママ。]む。」
といふ。
[やぶちゃん注:「西院」高田氏の注に、現在の『右京区西院高山寺町』(こうざんじちょう)『の高山寺』(こうさんじ)。『黒谷浄土宗日照山。中近世を通じて本尊の地蔵尊に対する信仰で知られていた』とある。ここ。この西院から桂川にかけては、嘗つては、やはり三昧であった。]
ひだりの手を、さし出《いだ》せば、布(ぬの)きれを、かけたり。
「たそ。」
と、とへば、また、をとも、せず、かたちも、みえず。
『是は。ゆふれい[やぶちゃん注:ママ。]なり、』
と思ふて、鉦皷(しやうご)を、たたき、しきりに、念佛す。
布ぎれ、手にあるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、しゆせう[やぶちゃん注:ママ。「殊勝」。]に思ふて、弥《いよいよ》、ねんぶつして、北にゆき、例のごとく、三昧を、めぐりて、我家(わか[やぶちゃん注:ママ。]いへ)に歸り、夜《よ》あけて、みれば、かの布、れきぜんとして、あたらしき布なり。
是は、りんじうわうじやうの具にせんとて、念仏百遍をかきて、經(きやう)かたびらにそへてをく[やぶちゃん注:ママ。]なり。
「わが願(ぐわん)、すでにじやうじう[やぶちゃん注:ママ。]するゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、ゆふれいより、布施(ふせ)をえたり。」
と、喜ぶゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、また、三年、さきのことく[やぶちゃん注:ママ。]に、此行(ぎやう)をしゆ[やぶちゃん注:「修」。]するなり。
此の人、平生の行儀、實容(じつよう)なり。恭謙(つつみへりくだり)て、おごらず、窮困(きうこん)にして、へつらはす[やぶちゃん注:ママ。]、みだりなることをかたらす[やぶちゃん注:ママ。]、笑顏(ゑめるかほ)、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]和順(わじゆん)す。
[やぶちゃん注:「實容」見せかけを飾らぬこと。修行や人格が誰にもはっきりと等身大に理解されること。]
草庵をきれいにはき、佛檀をしゆせう[やぶちゃん注:ママ。「殊勝」。]にかざる。勤行、けだい[やぶちゃん注:「懈怠」。]なく、念仏、やすむ時、なし。
請用[やぶちゃん注:日常に使用する衣類その他。]にけつかう[やぶちゃん注:「結構」。取り立てた準備万端。]を嫌ひ、酒を一滴ものまず、嚫金(しんきん)[やぶちゃん注:布施。]を多くむさぼらず、月忌日(かつききひ[やぶちゃん注:ママ。])をかへず[やぶちゃん注:自分の都合に合わせて変えることは決してなく。]、出《いづ》るに褻晴(けはれ)なく、行くに扈從(こせう[やぶちゃん注:ママ。])なし。
つねに淨敎寺(じやうきやうじ)に來入(らいにう)して、安心決定(あんしんけつぢやう)の法門をきく。談義の時は、毎日、早く來たつて、佛殿に行《ゆき》て、鉦皷を、たたき、ひとり、高声(かうしやう)にねんぶつす。
[やぶちゃん注:「淨敎寺」高田氏の注に、『灯籠堂とも。京都寺町通り四條辺にあった中世以来の念仏道場』とある。]
そのこゑ、淸亮(せいりやう)にして、かれうびんが[やぶちゃん注:「迦陵頻伽」。]なり。諸人(しよにん)、先(まづ)、はやく、きたりて、西阿弥陀佛の念仏を、ちやうもんするなり。をのづから[やぶちゃん注:ママ。]、だんぎ[やぶちゃん注:「談義」。]、くんじゆ[やぶちゃん注:「群集」。]す。
[やぶちゃん注:「かれうびんが」高田氏の注に、『仏教で想像上の鳥をいう。妙音鳥の意で、美しい声で鳴く』とする。
「だんぎ」高田氏の注に、『時宗で行う讃仏の儀式を談義という』とあった。]
此の人、とし、八十にすぎて、わうじやうす。
無病そくさいにして、みづから、死期(しご)の時をしりて、行水(ぎやうずい)し、身をきよめ、經かたびらを、したにきて、かの布(ぬの)ぼうしを着て、みつから[やぶちゃん注:ママ。]鉦皷を、たたき、念佛、百へん、となふ。
声、ぜんぜんにおとろへ、がんしよく[やぶちゃん注:「顏色」。]、變じ、(しもく[やぶちゃん注:ママ。「撞木」。鉦を叩くための小さな棒。])、弱るゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、弟子、鉦皷を、たたき、助音(じよいん)念佛すれば、禪定(ぜんぢやう)にいるがごとくにして、いき、すでにたえおはり[やぶちゃん注:ママ。]ぬ。
かくのごこきのわうじやう、世にまれなり。
その身、不肖(ふせう)なるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、世にきこえざるなり。弟子、聖鎭(しやうちん)、先師(せんし)を反異(へんい)するのみ。
[やぶちゃん注:「不肖」高田氏の注に、『ここでは、めだたない、の意』とある。
「反異」高田氏注に、『はんい。世評を否定し、真実を述べること』とある。しかし、この注の訳では、意味がとりにくくなってしまわないか? これは西阿弥陀仏には、ただ一人の「弟子」に「聖鎭」なる者が居たが、彼は「先師」に背いて、その優れた事績を伝えていなかった。だから、ここで私(著者)が敢えて書く、という意ではあるまいか? 何より、本篇は「布きれ」のシークエンスのみが怪奇仕立てで、それ以外は、一貫して、西阿弥陀仏という稀なる修行僧を細部に至るまで正確に描くことに徹しているのである。]