佐々木喜善「聽耳草紙」 一五〇番 鰐鮫と醫者坊主
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。「鰐鮫」は「わにざめ」。]
一五〇番 鰐鮫と醫者坊主
或渡場で、乘合ひの船が突然動かなくなつた。すると船頭はお客一同に、これは鰐鮫がお客樣方の中の誰かを見込んだためだから、どうか銘々の持ち物を一つ宛《づつ》海へ投げて下さい、さうすると見込まれない人のは、そのまゝ流れるが、見込まれた人のは水の中に沈むからと言つた。
そこでみんなは夫々《それぞれ》持ち物を一つづゝ取り出して海に投げ入れた。するとゲンナさんという醫者坊主の投げた手拭《てぬぐひ》だけが、引き込まれる樣に沈んで行つた。ゲンナさんも斯《か》うなつては一同の難儀を救ふためなら仕方がないと覺悟して、藥箱を肩にかけて、水の中に飛び込んで、鰐鮫に呑まれた。
ゲンナさんは鰐鮫の暗い腹の中で考へて居たが、やがて襷《たすき》がけで、藥箱の中から一番苦味《にが》い藥を取り出して、それを一生懸命に鰐鮫の腹の中一面になすりつけた。鰐鮫はあんまり苦《にが》くて頻りに嘔吐(フイ)たが、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]我慢が出來なくなつてゲエツと吐いた。それと一緖にゲンナさんも吐き出されて、渚の砂の上へ投げ出された。
船の人達はそれを見て、それツと言ひ乍ら、船を岸に漕ぎ寄せて、靑い顏をして居るゲンナさんを介抱した。そして鰐鮫の腹の中はどんな風だつたと訊いた。ゲンナさんは、いろいろと話しをして聞かせた。それで一同はともかくゲンナさんが助かつたからと云つて、砂濱でお祝ひの酒盛りを初めた。そして先づゲンナさん、お前が先に一つ踊らツしやいと一同が促《うなが》すので、ゲンナさんも其氣になり、立ち上つて、鉢卷をして、
鰐鮫エに呑まアれて
そして又吐アき出さアれ…
と歌ひながら踊つた。すると海の中から鰐鮫が顏を出して、
ウナ(汝)よな臭ア坊主
呑んだことねア
こんど初めて
呑んでみたツ
と罵つた。
(ゲンナ醫者の歌を間を引いて流暢に歌つた後、鰐鮫の罵言《ばげん》を早いテンポで、無器用に怨しさうに歌ふところにこの話の瓢輕《へうきん》な面白味があるのである。森口多里氏から頂戴した物の中の三。)
[やぶちゃん注:附記は本文同ポイントにして引き上げた。「瓢輕」は普通は「剽輕」(ひょうきん)と書くが、江戸時代に「瓢輕」と書く例があった。「駒澤大学総合教育研究部日本文化部門 情報言語学研究室」の公式サイト内の「ことばの溜め池」のこちらの冒頭の「瓢軽」の解説を参照されたい。
なお、偶然だが、二段落目までとシークエンスが似ている怪奇談「奇異雜談集巻第三 ㊄伊良虞のわたりにて獨女房舩にのりて鰐にとられし事」の電子化注を二日前にアップしているので、そちらも読まれたい。「鰐鮫」の注も、そちらの私の注や、その私の別なリンク先に譲ることとする。]
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