佐々木喜善「聽耳草紙」 一六一番 上方言葉
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]
一六一番 上方言葉
或所に田舍の物識男があつた。村のことばかり知つて居たつて、本當の物識りとは言はれないから、これから一つ上方へ上つて、上方言葉を覺えて來るべえと思つて、上方へ上つた。
上方へ行つて、或町の宿屋に着いた。すると番頭が出て來て、お早いお着きで御座ります。お客樣はお上洛で御座(ザ)[やぶちゃん注:二字の間に打たれている。以下も同じ。]んすか、お下洛で御座(ザ)んすかと訊いた。何の事だかと思つて目をパチパチさせて居ると、ええ京都の方へお上りで御座んすか、京都から田舍の方へお下りで御座んすかと言つた。そこで上ると云ふことは上洛と云ひ、下ると云ふことは下洛と言ふんだなア。これア一つハヤ覺え込んだと喜んで手帳に書きつけた。
其宿屋から朝立つ時、其家の主人が魚頭《うをがしら》を出して、おいおいこの魚頭(ギヨトウ)を投げろやエと下女に言ひつけた。なるほど頭《かしら》のことはギヨトウかと又手帳に書きつけて其宿屋を出た。
行くと今度は普請場があつて、向うから大きな石を大勢で、ヨイコラサ、ヨイコラサと
掛聲《かけごゑ》して引いて來た。其所《そこ》へまた恰度《ちやうど》子供を連れた女房が通りかゝつて、泣く子を賺《すか》しなだめて、あれあれさう泣かないで、ヨイコラサ、ヨイコラサを御覽と言つた。そこで成程これは石のことだ。ヨイコラサとは石のことなりと又手帳に書き入れた。
又行くと大きな店屋があつて、表看板には朱膳朱椀と書いてあつたが、見れば赤い膳や椀が並べられてあつた。そこで赤い物は朱膳朱椀と云ふなりと手帳に書き入れた。
そして又行くと、丁度お晝頃になつたので、道傍《みちばた》の茶屋へ入つて憩《やす》んだ。ところが其所の娘が團子を一つ手にして、カメや團子をやるからチンチンしろよ。ハイチン、ハイチンと犬に言つた。成程ハイチン、ハイチンとは田舍の下《くだ》されたいとか貰ひたいとか云ふことだな。これもよしとて手帳に書き入れた。そしてもうこれ位覺えれば大丈夫だと思つて、故鄕へ歸つた。
秋になつた。裏の柿の木へ上つた親父が、足を踏み外して墮ちて怪我をした。そこで早速上方仕込みの新知識を利用して、醫者のところへ手紙を書いた。
今般愚父儀裏之柿之木へ上洛仕り候處下洛、ギヨトウをヨイコラサに打ち多くの朱膳朱椀出し、手をつけ不被申依而《まふされざるによりて》早速妙藥一服ハイチン、ハイチン。
(老母の談話。)
[やぶちゃん注:「不被申依而」「口もきけない状態で御座いますので」或いは「言いようもないひどい有様で御座いますので」の意か。]
« ブログ1,980,000アクセス突破記念 南方熊楠「南方閑話」正規表現版 始動 / 扉・本文標題・「傳吉お六の話」(その「一」・「二」・「三」・「四」) | トップページ | 佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版 「骰子を咏みて身を寓するに似たり」金陵妓 »