只野真葛 むかしばなし (72) 眞珠尼のこと
一、忠山樣御代に、十一にてめしかゝへられし人、後に「眞珠」とて、尼に成(なり)し。ワ、つとめし比は、七拾餘(あまり)なりし。
[やぶちゃん注:「忠山樣」既出既注。仙台藩第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の諡号。]
十一にて、四書五經をそらにし、大字(だいじ)を書(かか)れ、狩野家の繪を書(かき)し。藝にて、召し出されしなり。
「哥(うた)は、十八の年より、よみ習(ならひ)し。」
と、いひしが、後は、專ら、御姬樣方の御師範、申上たりし。
繪は、御家(おんけ)へ上(あが)りて後も、御世話被ㇾ遊しや。彩色、殊に上手なりし。十一にては、あれほどには、覺ゑ[やぶちゃん注:ママ。]まじ。
此人、むかし、宿下(やどざが)りして有(あり)し人の元へ、用、有(あり)て、文(ふみ)をやりしを、其内へ來(き)かよう人の、
「此文がら、見ても、よきや。」
と、いひしとぞ。
させる用にてもなかりし程に、
「よし。」
とて見せしに、その人は、
「墨色を見る人なりし故、見しことにて、此人、眞珠が氣性・諸藝・顏色・かたちまで、よく、あてたりし。」
とぞ。
其人、上りて、そのよしを語しかば、なにかは、うわきの若人(わかうど)たち、
「われも。われも。」
と、墨色を見てもらひに、やりし、とぞ。
其中に、表封じをして、印おして、こしたるが、一ツ有(あり)しを、人の中にて、あらそひ、見ず、懷中して行(ゆき)しを、後に、
「何事、書(かき)し。」
と、きけども、語らず。
殊の外、ゆかしがりて、人々、
「どこに有(ある)か、見たしく[やぶちゃん注:ママ。]。」
といふ事なりしに、眞珠は、
「相部屋故(ゆゑ)、人が、せめる。其身も、見たし。どふせふ。」
と、當番、留守中に、小だんすの上の引出しを、少(すこし)明(あけ)て、みたれば、くるくると卷(まき)て入れ有(あり)しを、開き見しに、
「其方樣(そのはうさま)のを、かよふ[やぶちゃん注:ママ。]に封じたるは、外の事ならず。至(いたつ)て、好色、深し。誰(たれ)とても、このまぬ人は、なけれど、つゝしまずば、身を、あやまつ事、あらん。」
と書(かき)て有(あり)しを、眞珠、
「心、『パツと、評判しては、あしからん。』と思(おもひ)て、人には、見つけず。」
と、いひて有しが、忠山樣は、勝(すぐれ)たる御美男にて入(いら)せられしを[やぶちゃん注:表現上、文法的に問題があるが、「おられましたが」の意であろう。]、其人、つけ文(ぶみ)を上(あげ)しにより、御暇(おんいとま)出(いで)たりし、とぞ。
「其後、見し事は、語りし。」
となり。
「左樣の氣ざし有(あり)し故、人も、いさめしならん。」
と、いはれし。
其(その)相(あひ)見し人は、上總の大百姓なりしが、道樂者にて、若き妻を、一人おきて、江戶にばかりゐて、遊びしほどに、其妻、身重(みおも)に成(なり)しとぞ。
其あいては、手代の〆(しま)り人なりしを、人々に、くみて、つげしかば、
「幸(さいはひ)、子共なければ、養子するには、ましなり。すぐに、うませて、子にする。」
とて、かまはざりしとぞ。
[やぶちゃん注:「手代の〆り人」手代を凡て監督指導する番頭格ということであろう。]
「壱人(ひとり)置(おい)たから、其はずなり。」
と道理をつけしは、今の世にては、珍らしからぬやうなれど、昔は、珍らしき事に、人、いひしとぞ。
お末の者に、何の故もなく、頰のはれし事、有(あり)しを、
「それ、はやりの、うらかた。」
とて、聞(きき)にやりしに、
「『是は、此人のばゞなどの、しきりに逢たくおもゑて[やぶちゃん注:ママ。]、死せしならん。にくし、と思ふにはあらねど、おのづから、つめて、思(おもひ)し念の、來たるならん。』と、いひて、こしたりしに、やどよりも、在所のばゞ、少しばかり、わづらひて、死(しし)たるよし、知(しら)せ來りしが、『殊の外、逢(あひ)たがりし。』と、いひし故、ふしぎの如く、云(いひ)あへりし。」
とぞ。
[やぶちゃん注:「はやりの、うらかた」「流行(はやり)の、占方(うらかた)」で、所謂、当時、よく当たると評判だった易者・占い師に、この異変を内々に占わせてみた、ということであろう。]
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