ブログ開設十八周年記念 梅崎春生「つむじ風」始動 (その1) 「魚眼」
[やぶちゃん注:本篇は昭和三一(一九五六)年三月二十三日附『東京新聞』で連載が開始され、同年十一月十八日附同新聞で完結した、梅崎春生の長編小説の一篇である。翌昭和三十二年三月刊の角川書店「つむじ風」で単行本化された。因みに、この単行本刊行の前月の十五日夕刻、私は生まれている。
底本は昭和五九(一九八四)年十二月発行の沖積舎「梅崎春生全集 第五巻」に拠った。同全集は全八巻(本巻七巻・別巻一巻)は「第一期」と名乗っており、梅崎春生の全作品を網羅してはいない。但し、現在に至るまで、「第二期」は刊行されていない。私は、このブログ及びサイト「鬼火」で、同第一期分の同全集の殆んどを電子化注してきた(「青空文庫」(ここ)で私よりも先行電子化された分の同全集中に含まれている十一篇(「日の果て」・「風宴」・「蜆」・「黄色い日日」・「Sの背中」・「ボロ家の春秋」・「庭の眺め」・「魚の餌」・「凡人凡語」・「記憶」・「狂い凧」を除く。以上は順列を私の底本全集の並びに変えてある)。全ての私の梅崎の電子化注ラインナップは、
私のサイト内の「心朽窩旧館」の「■梅崎春生」
及び、
及び、ブログ版(孰れも前リンク先「心朽窩旧館」にPDF一括版がある)
と、
そして、
を参照されたい。残るのは、而して、沖積舎全集の本長篇「つむじ風」一篇のみとなった。彼の著作権満了の翌日である二〇一六年一月一日から始めた、私のマニアックに五月蠅い注附きの梅崎春生の電子化も、七年目にして、もう遂に終わりに近づいた。国立国会図書館デジタルコレクションの本登録で沖積舎全集に載らない作品を幾つかコレクションしてあり、それらを視認して、まだ続けるつもりではあるが、私の「梅崎春生の季節」の大きな一つは、本篇を区切りとすることとする。
太字は底本では傍点「﹅」。ブログでの分割公開となるが、一行空け部分が新聞連載の一回分ではあろうが、それを再現するのもちまちまとして私自身が厭だから、一応、作品内の「見出し」毎の電子化注とする。
なお、本電子化注始動は、二〇〇五年七月五日夜に開設した、この「Blog鬼火~日々の迷走」(リンク先は二〇〇五年七月分)の十八周年記念として始動する。【二〇二三年七月五日早朝】]
つ む じ 風
魚 眼
運ばれてきたモリソバをしゃくり上げて、どっぷりと汁につける。箸の先で完全に汁の中に沈没させ、それからおもむろに引き揚げて口に運ぶ。ソバ食いとしては邪道だが、名の通った店でなく、東京都メン類標準店のしるしをかかげたありきたりの店なので、そういう食べ方も止むを得ない。二箸目を汁にひたしながら、浅利圭介(あさりけいすけ)は声をかけた。
「また汁を甘くしたね」
「そうですかね。そうでもないんだがね」
仕切台の向うから、あるじが顔をのぞかせた。はちまきをして、無精ひげを生やしている。
「もっとも今の一般のこのみが甘くなったんだあね。甘くしないと、お客が寄りつかねえんだ」
「そうかね」
「ことに若い人がそうですよ。学生に若い勤め人」
あるじは仕切台をくぐって、のそのそと店に出て来た。時計が午後の七時をさしている。客は圭介ひとりだ。あるじは手を伸ばしてパチンとテレビのスイッチを切った。客がただのひとりだから、もったいないと考えたのだろう。
「戦前は本返(ほんがえ)しをつくるのに、醬油樽二本、ミリン一本。それに砂糖の五百匁[やぶちゃん注:一・七八五キログラム。]ぐらいで済んだんだが今じゃ一貫目[やぶちゃん注:三・七五キログラム。]だね。一貫目入れなきゃ、お客がよろこばない」
「そんなものかね」
「甘いもんだから、どうしてもソバをどっぷりつけて食うようになる。若えのはみんな、そんな食い方をするねえ」
何箸目かをどっぷりひたそうとして、圭介はあわてて中止した。半分ひたしたところで、口に持って行った。圭介はもはや若者ではない。今年で三十九歳になる。
「だからソバが残っているのに、汁がなくなってしまう。すると若いのは、どうするか。汁のお代りをするんだよ。まったくかなわねえよ」
あるじははちまきを取り、腹立たしそうに上っ張りの裾をはたいた。一盛りのソバよりも、一杯の汁の方が、元価は高くついてるんですよ。くやしいねえ。と言って、おかわり代を取るわけにも行かねえしねえ」
「つまり若い世代の――」圭介はなぐさめるように言った。「味覚がかわって来たんだろう」
「そうなんですよ、近頃の若いもんは、ホンモノの味が判らねえんだ」
標準店のあるじに似合わぬ気骨のある語調を見せた。
「ホンモノよりニセモノの方が、通りがいいんだ。うちのソバなんかもそうですよ。この間までは、ウドン粉とソバ粉の割を、四でやってたんだ。それを試みに、七三にしてみたら、とたんに旨くなったと言いやがる。だからそ以来、おれんとこは七三さ」
「七三かいこれ」
圭介は情なさそうにソバをつまみ上げた。七三か六四か知らないが、急にソバの味が水っぽく感じられて来た。
「そうだよ。七三だよ」
表の黄昏(たそがれ)のアスファルト道を、奔走する自動車の音がした。するどい短い警笛と共に、タイヤがぎぎっときしんだ。濡れ雑巾を床にたたきつけたような音がした。
圭介は思わず立ち上った。
[やぶちゃん注:「東京都メン類標準店」「東京都麺類協同組合・東京都麺類生活衛生同業組合」公式サイトによれば、「標準営業約款(Sマーク)の申請窓口」の「店頭表示ステッカー」の画像とともに『組合は「めん類飲食店営業」に関する標準営業約款(Sマーク)の申請窓口です。決められたいくつかの条件を満たせば取得することができます。〝安心・安全〟なお店を消費者にPRする手段の1つとして利用されています。また、標準営業約款を取得すると㈱日本政策金融公庫の融資制度の一部で利率が優遇されます』とあり、こちらにPDFで「東京都麺類生活衛生同業組合 加盟店リスト」一覧がある。但し、こうした標準店認定制度が開始されたのが、何時かは調べ得なかった。なお、ウィキの「蕎麦」によれば、『いわゆる蕎麦屋にも任意登録の品質基準に蕎麦粉割合の規定が存在する』『が、登録料が必要な点と』、『蕎麦打ちの能力とは異なるマネジメント能力が必要になる点からか』、『普及していない』とあり、そこに「めん類飲食店営業に関する標準営業約款規程集」の「第3条(役務の内容又は商品の品質の表示の適正化に関する事項)」が載るが、そこには、『(1)そば粉の含有率の表示』として、『営業者が提供する「そば」は、そば粉の割合は70パーセント以上とし、その旨を店頭又は店内に表示するものとする』とあり『(2)めん及びつゆの製法の表示』には、『営業者が提供するめん及びつゆは、自家製であることとし、その旨を店頭又は店内に表示するものとする』とあった。]
自動車二台が、やっとすれ違える程度の、お粗末なアスファルト道路だ。
もう物のかたちがはっきり見えないくらいの暗さで、ソバ屋の入口から十米余り離れたかなたに、自動車が一台むこう向きに停止していた。
と見る間に、ぐらりとその自動車は動き出した。スピードを加えた。尾燈が見る見る遠ざかる。何かを振り切って逃げるような速さであった。自動車は物質だけれども、その動きはなにか表情があった。
「何だか妙な音がしたようだったね」
のれんをわけて、ソバ屋が首を出した。
自動車がスピードを加えようとした瞬間に、浅利圭介はその番号札の数字を読みとっていた。自動車という物質のあやしげなそぶりが、圭介を本能的にそうさせたのだ。
「スリップの音じゃなかったな。何かがぶつかったんじゃないか」
「あ。あそこに何かがいるよ」
自動車が停止していた地点の、すぐそばの生籬(いけがき)の根元に、うずくまっている黒い影が、わずかに動いた。手を地面について、頭をもたげた。
「はね飛ばされたんじゃないか」
ソバ屋がのれんをはじいて走り出した。そのあとに圭介はつづいた。
反対の方角には店がぼちぼちあるが、そちらの方は住宅街で、生籬や板塀がつづいていて、したがって光に乏しい。しかし、そこに頭をもたげたのは、犬や猫のたぐいでなく、人間であることは、その輪郭や色合いでも直ぐに判った。
それは生籬にとりすがって、ひょろひょろと立ち上った。
「大丈夫かい。あんた」
ふらふらと立った男の右腕を、ソバ屋がかけ寄って抱き支え、はげますように声を高めた。
「しっかりせい。傷は浅いぞ」
「ええ。別段、傷はないようです」
男は大きな呼吸をしながら返事をした。
「このリュックのおかげでたすかったらしい」
二十七、八に見えるほそおもての若者で、リュックサックを背にかついでいる。リュックサックの背面が泥だらけになっているところを見ると、はね飛ばされたのか自分で飛びのいたのか知らないが、とにかく生籬の裾に、あおむけに転倒したのらしい。
若者はやや演技的な動作で、大きくあえぎながら、繰り返した。
「ええ。もう、大丈夫、です」
「大丈夫かい、ほんとに」
ソバ屋はためしに支えた腕を離し、その若者を見守った。自動車が逃げた方向に顔を向けながら、若者はつぶやいた。
「ひどい自動車だなあ。あぶなく轢(ひ)かれるところだった」
「しまった。番号を見とくんだったな」
ソバ屋は膝をたたいてくやしがった。圭介に向って、
「あんた、見ませんでしたかね?」
「え。番号?」
圭介はもそもそと唇を動かした。
「おれんちで汚れをおとしたがいいよ」
ソバ屋は若者のリュックサックに手をかけた。
「これ、おれが持ってやるよ」
若者は素直にリュックサックをソバ屋の手にゆだねた。
ソバ屋と若者の姿は、ふらふらと道路を横切り、ソバ屋ののれんのかげに消えた。
浅利圭介は棒杭のように立っていた。自分が割箸を持ったままであることに、その時彼は初めて気付いた。圭介はそれを役げ捨でるかわりに、そこにしゃがみこんで、生籬の下のやわらかい地面に、箸で3・13107[やぶちゃん注:底本では縦書単数字全角一列。]という数字を書きつけた。一ヵ所でなく、三ヵ所も四ヵ所も。
昏(く)れかかった地面のその文字を、圭介はしゃがんだまま、しばらくにらみつけていた。
やがて立ち上ると、油断なくあたりを見廻し、地面の文字を靴の裏でさんざんに踏みつけた。そして口の中で言ってみた。
「三・一三一〇七。三・一三一○七」
若者はソバ屋の調理場で、あるじが貸して呉れた濡れタオルで、手足や服の汚れを拭いとっていた。調理場では、釜から立ちのぼる湯気さえも、ウドン粉のにおいがした。
「あぶないところだったなあ」
善良なソバ屋のおやじは、まるで自分が若者の生命をたすけたかのような気分になって、詠嘆的に言った。
「気をっけなきゃ、いけないよ。若い身空で、片輪にでもなったら、一生台なしだからなあ」
若者はぼんやりした表情で、濡れタオルを折り返し折り返し、丹念に神経質に、汚れをぬぐっていた。
「ここらじゃあんまり事故はおきないんだがなあ。見通しはきくし――」
浅利圭介は割箸を投げ捨て、つかつかと道路を横切り、ふたたびソバ屋の前に立った。頭でのれんを分けて入った。さっき食べ残したソバはのびていた。圭介は奥に向って声をかけた。
「モリひとつ」
汚れをぬぐい終えた若者が、仕切台をくぐって店に出て来た。圭介は若者の顔を見た。若者は言った。
「水を一杯ください。おれ、のどが乾いちゃった」
「おなかは空いてないのかい?」
圭介は探るような眼付きで若者を見ながら言った。
「おなかが空いているなら、僕と一緒に食べないか」
若者は返事をしなかった。黙ってまじまじと圭介を見返した。その若者の顔には、妙な特徴があった。これと同じような感じの顔を、どこかで見たことがある。そう思いながら、自分の記憶をかき探りながら、圭介も若者の顔を凝視していた。
「水だよ」
あるじの手が大きなコップを什切台の上に乗せた。
若者は手を伸ばして、コップをとった。一口ふくんで、しばらく味わうように、首をかたむけた。圭介は卒然と思い当った。
(そうだ。あの顔だ!)
それは水族館の水槽で、正面から見たある魚の顔に、どこか似かよっていたのだ。眼と眼の間隔が広くて、顔の両側についているような印象。それが若者の顔に、ある異様な雰囲気をただよわしている。
若者は一口目をやっとごくりと飲みこんだ。それから残りの水を咽喉ぼとけをつづけざまに上下させながら、一気に飲み乾した。コップを仕切台に戻した。
「夕食はもう済んだのかい?」
圭介は押しつけた声で、同じ意味の質問をふたたび繰り返した。
運ばれてきた大ザルソバの、そのてっぺんの幾筋かを、若者の箸がつまみ上げた。汁にひたした。
その一口目を、若者は味を確かめるように、しばらく口を動かしながら、首をかたむけていた。それはさっきの水の飲み方と同じやり方であった。
(妙な若造だな)
浅利圭介は頰杖をつき、横目でそれを眺めている。
一口目をのみこむと、残りのソバを若者は大へんなスピードで、さらさらと平らげてしまった。タンと舌を鳴らした。圭介はたずねた。
「もう一つ取るかね?」
若者はうなずいた。よほどの空腹状態にあるらしかった。
スピードは相当に落ちたが、それでも若者は二つ目もきれいに平らげた。頰杖をついたまま、圭介はふたたび訊く(たず)ねた。
「君は何という名前だね」
「陣内」
若者はそして首をかしげた。まるで自分の名前を憶い出そうと努力するかのように。
「陣内、陣太郎」
「へえ、変った名前だ。頭韻(とういん)を踏んでいるよねえ。それ、本名かい?」
「本名?」
陣内陣太郎はまた首をかしげた。
すこし頭がヘンなんじゃないか、とそろそろ圭介は本気で考え始めていた。顔の感じだけじゃなく、この男の態度や動作の全部に、どことなく妙なところがある。やがて陣内陣太郎は気の抜けたような声で言った。
「本名。本名は、別にある」
「ねえ、さっきの自動車――」
圭介はすこし猫撫で声になった。
「あれから、どんな具合に、はね飛ばされたんだね?」
「おれにもよく判らないんですよ」
陣太郎は苦痛の色をありありと顔にうかべた。
「横からどしんとリュックにぶっかって、おれはひっくり返ったらしい。あぶないと思ったから、おれはそのまま死んだふりをしてたんですよ。死んだふりをして、薄眼をあけていたんだ」
「死んだふり?」
圭介の声はますますやさしく、また誘導的になった。
「何故死んだふりをする必要があるんだね?」
「死んだふりをしなけりゃ、轢(し)くでしょう」
「何故轢くんだね?」
「それはおれにもよく判らない」
陣太郎はけろりとした顔で言った。
「おれが薄眼で様子をうかがっていると、向うもこちらの様子をうかがっていた。おれがころがったのは、生籬(いけがき)の下でしょう。おれを轢くためには、どうしても自動車は生籬に突っ込まねばならない。だから自動車はためらっていたんですよ。どうすればいいかと思って、死んだふりをしながら、おれ、胸がどきどきしちゃった。つらかったなあ。あの五分間」
「五分開?」
仕切台からソバ屋がはちまきの頭を出して、大きな声を出した。
「五分間、そんな……」
「あんたは黙ってなよ」
圭介はソバ屋を手で制した。そして本式に陣太郎の方に向き直った。
「そのとたんに、どこか打たなかったかい。たとえば、頭とか――」
「頭?」
陣内陣太郎は自分の頭を撫で廻した。
「いや、頭は打たないですよ。頭は身体の中でも、一等大切なところだから」
「頭のうしろにも、泥がくっついていたようですぜ」
ソバ屋が浅利圭介をかえり見て目をはさんだ。
「やはり打ちつけたんじゃないのかな」
「死んだふりの薄眼で――」
圭介はソバ屋の言葉を黙殺し、陣太郎を見据えるようにして言った。
「自動車のナくハーを見たかね?」
「見ないですよ。へッドライトがぎらぎらとまぶしくって」
陣太郎はのそのそと立ち上り、店のすみのリュックサックまで歩いた。片方の肩にかついで、陣太郎は圭介を振り返った。
「ソバの代、おれが払うんですか?」
「いいんだよ。おれがおごるよ」
ソバ屋が言った。陣太郎の生命を救ってやったという錯覚に、ソバ屋はまだ落ちていて、それでそういう気前を見せたものらしかった。
「気をつけて行くんだよ。夜道はあぶないからな。行く先はどこだい?」
陣太郎はまた小首をかたむけた。離れ離れの双方の眼に、きらきらと妙な光が走った。
「行く先は、ない」
「それじゃあ困るじゃないか」
陣太郎は瞳を寄せるようにして黙って土間に佇立(ちょりつ)していた。圭介は腕組みをして、何かしきりに考えていた。ガラス戸をがたがたと引きあけて、出前持の少年が戻ってきた。ソバ屋がまた口を開いた。
「今まではどこにいたんだね?」
「イトコのところに居候になっていたんです。居候もいい加減いやになったから、今朝、飛び出した」
「そのイトコの家って、どこにある?」
「本郷」
ソバ屋はうたがわしげに質問を重ねた。
「名前は?」
「松平というんです」
電話のベルが鳴った。出前の少年がそれにとりついた。それで会話が中断した。その間ソバ屋の眼は、陣太郎の全身を計るように、ぐるぐると動いていた。
「どこにも行くあてがないんなら、おれんちで働かないか」
電話が終ると、ソバ屋がつくった声で陣太郎に話しかけた。
「うちも今、人手が足りないし、それにうちの前で轢かれかかったんだからな。袖すり合うも他生の縁ということわざもあるし、あんた、自転車に乗れるかね?」
圭介は腕を組み、むっつりした顔で、心のなかではわらっていた。このソバ屋は人使いが荒く、だから人の居付きがわるく、しょっちゅう使用人がかわっていることを知っていたからだ。ソバ屋がうながした。
「どうだね?」
陣太郎はやはり黙っていた。黙って店の中をぐるぐる見廻していた。困っているようでもあり、迷っているようでもあり、また怒っているようでもあった。
「行く先がなければ、僕んとこに来てもいいよ」
圭介が口を出した。陣太郎はぎょっとした顔になって、圭介を見た。
夜道には沈丁花(ぢんちょうげ)が匂った。夜気はねっとりと重苦しい。けつまずいてよろめいたりしながら、陣内陣太郎が言った。
「道が相当に悪いですな」
「うん。道が悪いんだ」
浅利圭介は応じた。
「ここらはどんどん家が建っている。一年前から見ると、見違えるようになった。その割には道は一向によくならない。周囲が畠であった頃から、全然変っていないんだよ。区の怠慢だね」
「小父さんは、ずいぶん前から、ここに住んでいるんですか」
「小父さんはよせ」
暗がりの中で、圭介は眉をひそめた。
「浅利さんと呼びなさい。僕がここに住みついたのは、あいつと結婚してからだから、昭和十六年かな。十六年の十二月八日だ。まったくいやな日にあいつと結婚したもんだよ。その頃ここらは一面の畠で、丘などがあって、桃や桜がきれいだったな。家なんかほとんど見えなかった。それが今となると、こんなにうじゃうじゃと建っている」
圭介は両手で前途の闇をひっかき廻すようにした。
「家の増加がある程度に達すると、必ずソバ屋が出来る。さっきのソバ屋なんかがいい例だね。あれは一年前に出来たんだ。あの店のソバは、あまり味が良くない。近所のソバ屋がうまいかまずいか、これは住宅の条件の中でも重要なものの一つだね。日当りがいいとか悪いとか、それに次ぐほどの重大な条件だ。なにしろ一日に一度か、少くとも二日に一度くらいは、どうしても食べることになるからな。あのソバ、まずかっただろう」
陣太郎は返事をしなかった。大盛り二杯を平らげた関係上、返事が出来なかったらしい。
「ここらの家の殖え方に比例してあのソバ屋は大きくならない。早く店を拡げて人手をふやさなければ、他にもう一軒が店開きする余地が出来る。だからあのおやじ、あせっているんだ。あせるあまりに人使いを荒くし、そして使用人に逃げられてしまう。君もあんなところに勤めなくてよかったよ」
「小父さんの家は――」
陣太郎はそう言いかけて、あわてて言い直した。
「浅利さんのお宅は、日当りはいいのですか?」
「うん。全体的には日当りがいい」
そして圭介は忌々(いまいま)しげに舌打ちをした。
「ただし、僕の部屋は、日当りが悪い。だから、その点に難癖をつけて、六畳間を三千円に負けさせた」
暗がりの中で、陣太郎は腑(ふ)におちぬ顔付きになった。
「浅利さんの御一家は、間借りなんですか?」
「御一家じゃない。間借りしているのは、僕だけだ」
圭介の声音(こわね)はやや沈痛な響きを帯びた。
「先月から間代を払わせられることになったんだ。僕だって、せっぱつまっているんだよ。この世の人間は、みんなみんなせっぱつまっている」
闇の中から、また沈丁花がかおってきた。近頃出来の家は、軒下には沈丁花、仕切りにはバラのアーチ、とかくそんなのを植えたがるようだが、あれは何故だろう。圭介はつづけた。
「僕の家に、おばはんという女性がいる。それにはあまりさからわない方がいいよ」
[やぶちゃん注:何も主人公浅利圭介を作者自身がモデルと考える必要はない。事実、浅利は「昭和十六年」「十二月八日」に結婚したと述べているが、梅崎春生は戦後の昭和二二(一九四七)年に恵津さんと結婚している。ただ、以上の浅利の台詞の内、「その頃ここらは一面の畠で、丘などがあって、桃や桜がきれいだったな。家なんかほとんど見えなかった。それが今となると、こんなにうじゃうじゃと建っている」という謂いである。梅崎春生は、本篇発表の前年である昭和三〇(一九五五)年に練馬区の建売住宅に当選し、練馬区豊玉中(とよたまなか)に転居している(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。私は二歳から六歳まで、ここより西寄りの練馬区大泉学園(東大泉。「東映通り」沿いで、クレージー・キャッツなどのタレントが、よく家の前を通って行ったのを覚えている)に住んでいたが、家からすぐ北には、田畑と河原が広がっていたが、居住地の周辺には、新居がどんどん建っていた。区の建売住宅といっても、当初は野良地も多かったことは、同時期の梅崎自身をモデルとした作品群で容易に知り得る。則ち、この浅利の台詞には、多分に急速な住宅地化をする梅崎が当時住んでいた練馬区の変化をモデルとして如実に語っていると私には思えるのである。]
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