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2023/07/19

梅崎春生「つむじ風」(その15) 「風強し」

[やぶちゃん注:本篇の初出・底本・凡例その他は初回を見られたい。]

 

     風 強 し

 

 朝八時、加納明治は銅鑼(どら)の音で、目を覚ました。頭がしんしんと痛んでいた。

 いつにない夜更かし、冷酒のがぶ飲み、それが原因に違いなかったが、がぶ飲みの後の行動の記憶も、思い出すとさっぱり面白くない。

「ううん、チェッ。アチャラカパイ!」

 屈辱の記憶を頭から振り払うために、加納はうなり声を出し、でたらめの呪文をとなえた。思い出したくないことを思い出した時、そんなでたらめを口辷るくせが加納にはあるのである。

[やぶちゃん注:「アチャラカパイ!」「あちゃらか」は小学館「日本国語大辞典」によれば、『「あちら(西洋)か(化)」の変化した語という』とあり、『深い意味もない、滑稽なしぐさや、にぎやかなふるまいで観客を笑わせる芝居。オペラを換骨奪胎したもので、昭和の初年流行。どたばた喜劇』とある。「パイ!」は「アチャラカ」をお笑いの殺し文句や呪文のようなものに変じさせるものか、いなすような投げやりな感動詞であろう。本小説よりもずっと後のことだが、色川武大に戦前から敗戦前後の浅草を舞台に活躍した軽演劇の芸人の実話を小説とした「あちゃらかぱいッ」(そこでは主に浅草芸人土屋伍一が描かれる。初出は『別冊文藝春秋』に二回分(一九七九(昭和五四)年・一九八〇年)、『オール讀物』に第三回 (一九八七年)。単行本は「浅草葬送譜」と合わせて一九八七年文藝春秋刊)があるが、一九九〇年に文春文庫化されたのを機に初めて彼の作品を読み、大変面白く、一年程、色川はマイ・ブームになった。未読の方は、是非、お薦めである。

「口辷る」はママ。「くちすべる」と読むしかないないが、「口を辷らす」「口を滑らす」ならまだしも、この表現は私は見たことがない。思うに、私は「口走る」「口走らす」がしっくりくる表現で、その誤記か、「口走る」の誤植のように思われる。それは、「辷る」の場合、梅崎はルビを振るのが癖だからでもある。]

 銅鑼はふたたび鳴りわたった。

 その銅鑼の音は、何をぐずぐずしてるんだという催促と、ざまあ見やがれという嘲笑と挑戦のひびきを持っていた。持っているように加納には感じられた。

 加納は蒲団を足ではね飛ばし、さながらシャコの如くはね起きた。はね起きたのはよかったが、酔いがまだ残っているので、ふらふらとよろめいて、傍の柱にしがみついた。

 洗面所で洗顔、大急ぎで身支度をととのえ、加納は仏頂面で食堂に出た。

 塙女史はいつもと同じく、調理台を背にして、じっと立っていた。いつもとちがうのはその顔で、いささかの表情もなく、デスマスクみたいに動きがなかった。もちろん口ひとつきかず、入ってきた加納の顔を見ようともしない。

 食卓上には、朝食がととのえられていた。これもいつもと回じ、ハンコでも押した如く、果汁、半熟卵、トースト、マーマレードなどが並んでいる。

 ぶすっとした顔のまま、加納は椅子にかけ、塙女史に声をかけた。

「水と肝臓薬を持ってきて下さい。どうも二日酔のようだ」

 塙女史は石像のように、身じろぎもしなかった。返事もせず、眼はあらぬ方を眺めて、つんとしている。

 加納明治はむっとした。むっとして卓をたたいた。

「肝臓薬ですよ。肝臓薬!」

 塙女史は依然として沈黙。加納はややいきり立った。

「返事をしないのか。返事を!」

「…………」

「ははあ。口をきかないつもりなんだね」

 無念やるかたない表情になって、加納は腕を組んだ。

「さては昨夜のことにこだわってるんだな。酔った揚句(あげく)のことにこだわるなんて、塙女史らしくないぞ」

「…………」

「酔っぱらって、人を殺して、それで無罪になった例もあるんだよ。それが、なんだい、たかが寝室に侵入したくらいで」

「…………」

「寝室に侵入したのも、女史に反省を求めるためだったのだ。誤解するな」

「…………」

「肝臓薬!」

 ついに加納は怒声をあげた。

「持って来なきゃ、僕がとってくるぞ!」

 加納は椅子をはね飛ばして立ち上り、廊下をばたばたと書斎にかけ戻った。

 薬箱をあけて、肝臓薬をとり出そうとしたが、ふと思ひ直して、一升瓶の方に膝を移した。

 茶碗にどくどくと注ぐと、加納はそれをきゅっと一息にあおった。迎え酒というわけである。

 

 一杯の冷酒はたちまちにして、加納明治の二日酔の症状を鎮め、精神を爽快にした。覿面(てきめん)なものである。

「ざまあ見ろ。だからお酒を飲ませろってんだ」

 加納はひとりごちながら、ワサビ漬、ガンヅケ、その他の刺戟性食品を、ひとまとめに手に持ち、書斎を出て、また食堂に戻ってきた。

 塙女史はさっきと同じ姿勢で、視線をあらぬ方に向けたまま、調理台の前につっ立っていた。

 椅子に腰をおろし、加納はおもむろに紙包みをひろげた。わざと手荒く、音がするように、がさがさとひろげた。

 しかし塙女史は、相変らずつんとして、そっぽを向いている。

 加納はトーストをつまみ上げ、バターナイフでワサビ漬をぐいとえぐり、焦げた表面にべたべたとなすった。ついでに半熟卵にもガソヅケをこてこてとまぶしつけた。

「うまいなあ」

 トーストにがぶりと嚙みつき、加納は嘆声を上げた。もちろん塙女史に聞かせるための嘆声である。

「うん。実にうまい。ワサビ漬というやつは、実にトーストに合う」

 そっぽを向いていた塙女史の眼が、急にピカッと光って、こちらを見た。眼は見る見る大きく開かれて、ワサビ漬をにらみつけた。唇がやや動きかけたが、すぐに真一文字に戻ったところを見ると、女史はあくまで無言の行を貫徹する方針であるらしい。

 加納は内心にやりと笑って、卵の皿に手を伸ばした。

「このガソヅケ卵はどうかな」

 加納は皿を口に引き寄せ、フォークを使って一気に口の中に押し込んだ。もぐもぐと頰張りながら、犬げさに嘆賞した。

「うん、これもうまい。滅法うまい。兵隊の位に直せば、大将だ!」

[やぶちゃん注:「兵隊の位に直せば」若い読者のために言っておくと、放浪の画家で、戦後、「日本のゴッホ」「裸の大将」と呼ばれた山下清の名台詞として知られたものである。]

 しかし次の瞬間、加納は椅子を蹴立てて立ち上り、口を押さえ、よろめきながら流しの方に突進した。口に含んだものを全部はき捨て、大急ぎで水道の栓をひねり、コップでがらがらとうがいをした。

 塙女史の咽喉(のど)は痙攣(けいれん)した。しかし、驚くべき自制力によって、それは声にはならなかった。

 うがいを済まして加納が卓に戻る時も、まだ女史の咽喉(のど)は無音の痙攣をつづけていた。

「ふん。笑ってるな。笑いたけりゃ、声に出して笑えばいいじゃないですか」

 加納はやや不興気に言い捨て、たおれた椅子を起し、腰をおろしながら呟(つぶや)いた。

「うん。滅法辛かったなあ。まるで口の中が、大火事になったみたいだった」

 今度はガソヅケは敬遠し、ワサビトーストのワサビのついてない部分を少し嚙り、果汁をぐっとあおって、加納は立ち上った。ワサビ漬のたぐいを小脇にかかえた。置き放しにすると、塙女史から塵芥箱(ごみばこ)に捨てられるおそれがあるからだ。

 書斎に戻ってきて、ワサビ類を押入れにしまい、また加納はしき放しの寝床にもぐり込んだ。

 咽喉(のど)まで見えるような大あくびをすると、加納はまたうとうとと眠りに入った。二日酔には眠るのが一番よろしい。

 正十二時、昼食の銅鑼(どら)の音で、加納はふたたび眼を覚ました。

 

 ぐっすりとひと眠りしたので、二日酔の症状はとれ、加納明治の気分は快適であった。加納は寝床に半身を起した。

「おや、もう昼か」

 違い棚の置時計は、きっかり十二時を指していた。風が出て来たらしく、窓ガラスががたごとと鳴っている。

「さて。昼飯か」

 そうひとりごとを言いながら、加納は寝床を這(は)い出し、一升瓶の方に四つん這いで歩いた。もう二日酔は直ったのだから、迎え酒の必要はないのだが、好きな時いつでも飲めるという自由を、加納は行使して見たかったのである。

 茶碗にどくどくと注いで、ぐっと一あおり、加納は刺戟性食品を小脇にかかえ、軒昂として廊下に出た。

[やぶちゃん注:初回で注したが、再度言っておくと、梅崎春生は「注ぐ」「注いで」を「つぐ」「ついで」と読んでいる。「そそいで」ではないので注意されたい。この注はこれ以降は、もう注さない。]

 食堂には昼食の用意がととのっていた。野菜入りイタメウドン、野菜ドレッシング、果物盛合せ。相も変らぬ料理が面をつき並べている。

「風が出てきたようだね」

 椅子にかけながら、加納は塙女史に話しかけた。塙女史はいつもの場所につっ立っていたが、加納のあいさつが全然聞えないそぶりで、つんとそっぽを向いていた。

「折角話しかけたんだから、あいさつぐらい返したらどうです?」

 がさがさと包みをひろげながら、加納は言った。さっきの冷酒が気分を高揚させているので、塙女史の意地張りも、それほど癪(しゃく)にはさわらない。

「僕が自由に酒を飲むことが、そんなに口もきけないほど口惜しいのか」

 包みの中から七味唐辛子(とうがらし)を取出し、ウドンの上にこてこてに振りかけた。その動作を塙女史は横目で、無念げににらみつけた。加納はそれからコショウを取出し、これも振りかけた。

 加納は箸をとったが、思い直して箸を置き、立ち上って流しに歩き、大コップに水をなみなみとたたえ、また食卓に戻ってきた。今朝のような失敗を繰り返さないためにだ。

 加納はウドンを食べ始めた。唐辛子だのコショウは、これはデモンストレイションにかけたのであるから、実際にあたってはそこを避けて食べる。

「どうしても口をきかないと言うんだね」

 ウドンを口に運ぶ間の手に、加納は厭味を言い始めた。

「もう永久に口をきかないつもりかね」

「昨夜の絶叫が、あれが晨後の発言かね」

「舌切り雀のお宿はどこだ」

「短刀なんか、僕に無断で所持されては、困りますよ」

「時に女史はピンクの寝巻を着ていたが、あれは何という生地かね」

「女史にピンクはあまり似合わないね」

「ピンクが似合うという歳でもないでしょう」

 つっ立っている塙女史の表情が少しずつ動きを見せ始めた。しめたとばかり加納は厭味をつづけた。

「時に女史のバストはどのくらいですか」

「ウエストは六十五センチぐらいかな」

 加納は図に乗って、ウドンを皿からつまみ上げ、両手の指でささげ、丸橋忠弥みたいに目測をした。塙女史の眉がきりきりとつり上った。

[やぶちゃん注:「丸橋忠弥」彼については、かなりの私の記事で注してあるが、中でも、「老媼茶話巻之弐 惡人(承応の変始末)」、及び、「老媼茶話拾遺 丸橋忠彌」がよい。私もかなりの注を附してあるが、何より、後者の本文が強烈なリアリズムを与えていて凄い。未見の方は、是非、お薦めである。「目測」というのは、河竹黙阿弥の歌舞伎の「樟紀流花見幕張」(くすのきりゅうはなみのまくはり:通称「慶安太平記」・「丸橋忠弥」)で泥酔した中間に変装した彼が、江戸城攻撃に備えるため、掘の深さを測量しようとするシーンを指すか。私は文楽好きの歌舞伎嫌いなので、見たことがない。この推測は同歌舞伎のウィキを読んでの推量である。]

「時に女史のヒップは一メートル――」

 とたんに加納はウドンを皿に取り落した。玄関でブザーが鳴ったからだ。

 

 加納は厭味を中止して、箸の動きも止め、じっと塙女史を見た。塙女史はこめかみをびくびくさせながら、頑固に姿勢をくずさず、そっぽを向いていた。

「お客さまだよ」

 加納はうながした。

「僕の言葉が聞えないだけでなくブザーも聞えないのか」

 塙女史は姿勢を動かさなかった。ブザーがふたたび鳴りわたった。

「ツンボとあれば致し方ない。では、僕が出るとしよう」

 捨台詞を残して、加納は箸を置き、立ち上った。玄関に出た。玄関には二十七八に見える、ほそおもての若者がつっ立っていた。眼に特徴があった。

「加納先生ですか」

 いくらか傲岸な口調で若者は言った。

「そうです」

 ふところ手をしたまま、加納は重々しくうなずいた。処世の術として重々しいポーズをとることには、かねてから慣れている。

「先生にちょっと相談したいことがあるんですが」

 下に置いたリュックサックの若者は持ち上げた。

「上にあがらせて呉れませんか」

「相談?」

 文学青年らしいけれども、ちょっと図々しいな、と考えながら加納は反問した。

「何の相談だね?」

「だから上にあがって話しますよ」

「ふん」

 若者の顔から靴先まで、加納は見廻した。

「それよりも先ず、姓名を名乗りなさい。それが礼儀というもんだ」

「おれの名ですか。おれは松平陣太郎というものです」

 陣太郎は昂然と胸を張った。

「先生は、おれの姿に、見覚えはありませんか?」

「君の姿に、見覚えが?」

 加納はいぶかしげに、も一度陣太郎の頭のてっぺんから靴の先まで、じろじろと観察した。見覚えはなかった。あの時は、すこし酔っていたし、大狼狽もしていたから、全然対象を観察する余裕はなかったのだ。

[やぶちゃん注:「あの時」は傍点「﹅」。無論、読者には「あの時」は前に語られてはいない。梅崎春生の確信犯の仕儀である。]

「見覚えはないね。どうしてそんなことを言うんだね?」

「見覚えなければいいです」

 陣太郎は合点々々をしながら、靴の紐をとき始めた。

「とにかく上って話します」

 その強引なやり方に気押されて加納は黙っていた。

 陣太郎は靴を脱ぎ、リュックサックをぶら提げたまま、のそのそと玄関に上り、あちこちを見廻した。

「応接間はどちらですか。いや、書斎がいいな。大事な話だからな。先生の書斎はどちらですか」

「勝手にのそのそと上り込んで」

 加納もさすがに憤慨の色を見せた。

「書斎はどちらかとは、いくらなんでも、ちょっと図々し過ぎるぞ」

「いや。これには深い仔細があるのです」

 陣太郎は加納の正面に立ち、その魚のような眼で、じっと加納を凝視した。加納はたじろいだ。おっかぶせるように、陣太郎は命令した。

「書斎に案内して下さい!」

 書斎には、寝床がしき放しになっていた。

 加納明治はその寝床を、二つ折りにして隅に押しやり、おもむろに机の前にでんと坐った。

 陣太郎ものそのそと書斎に入り、机をはさんできちんと正坐した。両掌を畳につき、髪が畳に触れるほど頭を下げて、あらたまったあいさつをした。

「松平、陣太郎と、申します。今後とも、なにぶん、よろしく」

「ぼ、ぼくは加納」

 ばか丁寧な頭の下げ方をされて、加納はちょっとどもった。

「一体相談とは、何だね。原稿のことか」

「それもあります」

 陣太郎は身体をねじり、書斎にまで持ち込んだリュックサックの紐を解き、一束の用箋を引っぱり出した。

 その間に加納は、机の上の原稿用紙、辞書、日記帳のたぐいを、手早く整頓した。

 陣太郎は用箋束を差出した。

「これはおれが書いた小説です。御一読下さい」

「御一読下さいと言ったって――」

 百枚以上もありそうなその用箋を、ぺらぺらめくりながら、加納はうんざりした声で答えた。

「僕だって、たいへん忙しいんだからね。直ぐというわけには行かない。二ヵ月か三ヵ月、悪くすると、二年や三年ぐらいは、おや?」

 加納は最後の一枚に眼をとめた。

「これはまだ完結してないじゃないか」

「今、書きつつあるのです」

 陣太郎はゆったりと答えた。

「あとを書いたら、次々に持って来ます」

「すこし長過ぎるねえ」

 加納は渋面(じゅうめん)をつくった。

「も少し短いのはないのか」

 陣太郎は返事をしなかった。腕組みをして、上目使いにじっと加納を観察していた。妙な沈黙が書斎を領した。

「時に、先生の自動車は、今から半月前に――」

 腹話術師のように唇を動かさず、陣太郎は奇妙な発声法をした。

「正確に言うと、今から十六日前の午後六時二十分、三の一三〇七のナンバープレートをつけた自動車が、運転をあやまって、人をはね飛ばした!」

「あ!」

 加納は愕然として、身をうしろに引いた。

「ど、どうしてそれを知ってる?」

「おれは見たのです」

 陣太郎は右手を上げて、まっすぐ加納を指差した。

「おれは素早く、正確に、その番号を脳裡に刻みこんだ」

 切迫した沈黙が来た。その沈黙の中で、陣太郎は手をおろさないで、指差したまま差しっ放しにしていた。

「そ、その手をおろして呉れ」

 加納は悲鳴に近い声を出した。

「指差されていると、まるで公敵ナンバーワンというような気分になってくる」

 陣太郎はしずかに手をおろし、元の腕組みに戻った。

「と、ときに君は一体――」

 やや加納は落着きを取り戻した。

「僕にどうしようと言うんだ?」

「相談ですよ。先ほども言ったように」

 そして陣太郎は顎で一升瓶をさした。

「あれでも飲みながら、相談しましょう」

 

 加納明治邸の食堂では、今しも塙女史が食卓のそばに立ち、加納の残したウドン皿に顔を近づけていた。

「ふん。やっぱり七味唐辛子の部分は、残してあるわ。いくらなんでも、あんなにこてこてかけて、食べられる筈がない」

 軽蔑したような声で、塙女史はひとりごとを言った。無言の行のつらさを、ひとりごとでおぎなっているらしい。

「もうそろそろ五十になろうというのに、なんて先生は意地っ張りなんだろう」

 自分の意地っ張りを棚に上げて彼女はつぶやいた。

「こんな憎たらしいものを、こんなにたくさん買い込んで来て。みんなゴミ箱に捨ててやるから。なんだい、こんなもの」

 さも憎々しげに、塙女史は紙包みのままつかんだ。小脇にかかえて調理台の方に歩こうとした。

 廊下の方に足音がして、加納明治が急ぎ足で入ってきた。塙女史が小脇にかかえた包みに眼をやり、加納はあわてて叫んだ。

「そ、それを、どこに持って行く?」

 塙女史はさっと身がまえ、包みをうしろにかくした。

「さてはゴミ箱に捨てようという魂胆だな。そうはさせないぞ。こちらに寄越せ!」

 塙女史は首を振った。

「寄越せったら寄越せ。お客さんが来てるんだぞ。酒の肴に必要だ!」

 女史はじりじりとあとしざりした。加納もじりじりとそれを追いながら、おどすような声を出した。

「早く、おとなしく寄越せ。さもないと、痛い目に合わせるぞ。客が待ってるんだ!」

 その客の陣太郎は、書斎において、手を束ねて待ってはいなかった。獲物をねらう猫のように、あちこちを見廻し、手探りし、ついに机上の辞書の下から、加納の日記帳を探し出した。

「ふふん」

 妙な笑いを頰に浮べ、しかし指は忙しく頁をめくった。十六日前の頁を探し当てた。陣太郎は目を皿にして、それを読んだ。

 

 『夕方山本邸ニテはいぼーる二杯。若干酩酊シ、

  自動車ニテ戻ル。ソノ帰路、道ニ迷イ、アセリ

  テすぴーどヲ出シタルガ身ノアヤマリ。行人ヲ

  ハネ飛バス。場所ハ定カナラネド、近クニソバ

  屋アリタル記憶アリ。はんどるヲ切リ猛すぴー

  どニテ遁走ス。

   心配ノタメ、ホトンド終夜輾転トシテ眠レズ』

 

 次の日の日記に、陣太郎は目を移した。

 

 『八時起床、早速朝刊ヲ見タルニ、輪禍ノ記事別

  ニナシ。ホット安心ス。朝食後散歩、角ノ交番

  ニ昨日ノ輸禍ノ掲示アリ。死亡○、重傷三、軽

  傷十八、物件二十四トアリ。予ガ轢殺セザリシ

  コト確実ナリ。予サエ口ヲ開カネバ事伴ハ永久

  ニ迷宮入リトナラン。アブナカリシ次第ナリ』

 

 陣太郎はあたりを見廻した。ぱたりと頁を閉じると、大急ぎでリュックサックの口を開き、日記帳をごしごしと押し込んだ。

「ひどい野郎だなあ。何があぶなかりし次第なりだ!」

 陣太郎は忌々(いまいま)しげに呟(つぶや)いた。

「おれの方が、よっぽど危かりし次第だったよ」

 そして陣太郎は、ごそごそと一升瓶の方に膝行(しっこう)し、口をつけてラッパ飲みをした。

 

 塙女史は食堂の一隅に追いつめられた。せっぱつまった女史は、紙包みもろとも両手をたかだかと差し上げ、爪立ちをした。

 女ながらも八頭身の長身であるから、加納明治よりも一寸五分[やぶちゃん注:四・五センチメートル。]ぐらい高い。それが手を差し上げたのだから、加納に届くわけがないのである。

「よこせったら、よこせ!」

 加納はじれて、ぴょんと飛び上って、包みを奪取しようと企てた。しかし同時に、塙女史もぴょんと飛び上ったので、それは不成功に終った。跳躍力だって、歳が若いだけ、女史の方に分がある。

「よし。どうしてもよこさないと言うか」

 満面に朱をそそいで、加納は怒鳴った。

「よし。それならこちらも、考えがある」

 加納の両手はぱっと動いて、差し上げた塙女史の両腕のつけ根、すなわち脇の下を、すばやくこちょこちょとくすぐった。

「キャッ。くすぐったい!」

 塙女史が悲鳴をあげ、身もだえして両手をおろした。勢い余って紙包みは、ぐしゃっと床に落ちた。加納は腰をかがめ、すばやく紙包みを拾い上げ、ふところにおさめた。

「まったく世話をやかせやがる」

 ふところをぽんと叩いて、加納は勝ち誇った声を出した。

「無言の行も破れたね。今、くすぐったい、とはっきり言ったよ」

「なんて失礼な!」

 無言の行が破れたものだから、女史も眉を逆立て、おおっぴらに口をきいた。

「淑女のこんなところに、無断で触れるなんて、それが紳士のなさることですか」

「他人のワサビ漬を持ち逃げするなんて、僕は淑女と認めない!」

 加納は怒鳴り返し、くるりと背を向けて、すたすたと食堂を出て行った。その後姿を忌々(いまいま)しげににらみつけ、塙女史はつぶやいた。

「あたし、あくまで戦って見せるわ!」

 書斎では黒檀の机の前に、陣太郎が腕組みのまま、きちんと正坐していた。そこへ加納明治は揚々として戻ってきた。

「さあ。サカナを持ってきたよ。一杯やりながら相談と行こう」

 声がやさしいのは、やはり弱味をつかまれたひけ目からであろう。加納は自ら一升瓶と茶碗二個を黒檀机に運び、両方にどくどくと冷酒を充たした。包みをがさごそとひろげて、陣太郎にすすめた。

「さあ。どうだね」

「では、御馳走になります」

 陣太郎は神妙に手を伸ばして、茶の湯でもやっているような手付きで、茶碗を口に持って行った。

「さすがはいい酒ですな」

「そろそろ相談にとりかかろう。その前に訊ねたいことがある」

 加納は探るような眼になった。

「僕にはね飛ばされた人のことだがね、どんな人だった? 傷ついたのか?」

「もちろん傷ついたですよ。かなりの重傷だった」

「では、病院に運んだのだね。何という病院だね?」

「病院?」

 陣太郎の表情に、一瞬困惑の色が走ったが、すぐに立ち直って、

「いや、病院には運ばないです。直接、本邸の方に運びました」

「本邸?」

 加納明治は反問した。

「本邸というと?」

「おれの本邸ですよ」

 陣太郎は悠揚迫らず答えた。

「つまり、世田谷の松平邸です」

「ふうん」

 加納はいぶかしげに、眼をぎろぎろさせて、陣太郎を観察した。

「君が連れて行ったのか?」

「おれは行かなかった。タクシーに乗せて、行先を教えてやっただけです」

「すると、はね飛ばされたというのは――」

 加納はますます眼付きをするどくした。

「君の知合いかね?」

「おれの家の家令です」

「家令? 何故いっしょに君は、自動車で行かなかったんだね?」

「その時、おれは、家出中の身分だったからです」

 おうような手付きで陣太郎は、茶碗酒を口に持って行った。

「あそこの近くにソバ屋があった。御記憶ですか?」

「うん。そう言えばあったような気もするな」

「そのソバ屋で、おれは家令の浅……」

 と言いかけて、陣太郎はあわててせきばらいでごまかした。

「つ、つまり家令の某と、会見した」

「ソバ屋とは、ケチなところで会見したもんだね」

「このおれに帰邸して呉れと、家令は老いの眼に涙を浮べて、嘆願した」

 陣太郎はとり合わずに説明した。

「しかし、おれは、断ってやったです」

「何故断ったんだね?」

「家令は失望して、ふらふらとソバ屋を出て行った」

 陣太郎の声はすこし高くなった。

「そしてそこに、三の一三一〇七という自動車が疾走してきた」

 恐縮したように加納は首をちぢめた。

「その疾走ぶりが怪しかった。ふらふらと揺れていた。加納先生。先生はその時酔っぱらっていましたな!」

「そんなに酔っていなかった」

 首をちぢめたまま、加納は小さな声で返事をした。

「そ、それで、その家令さんの負傷は、どうだった。医者にかけたんだろうね」

「もちろんかけましたよ」

 陣太郎は眉を上げて、加納をにらみつけるようにした。

「全治三週間という重傷です。その病床における苦しみ方たるや、見るにたえなかった」

「はて。君はさっき、家出の身分だと言ったな」

 加納の視線は探るように、陣太郎の顔をなめ廻した。

「その後本邸に戻ったのか?」

「いいえ。戻りませんよ」

「では、全治三週間などと何故判った? また、病床における苦しみ方だなんて、君はどこでそれを見たんだ?」

「お、おれが直接、見たわけじゃありません」

 陣太郎もすこしへどもどとした。

「電話をかけて見たら、そういう話だったですな」

 

「それで、君は一体、どうしようと言うんだね?」

 陣太郎のへどもどを見抜いて、加納明治はすこし大きく出た。

「何か僕に要求しようとでも言うのか」

「要求?」

 陣太郎は眼をきらりと光らせた。

「おれは何も要求はしませんよ。しかし、加害者が先生だということを、世界中で知ってるのはおれだけです」

 

「それは君だけかも知れない」

 加納はわざとゆったりと、茶碗を口に持って行った。

「しかし、そんなこと、何も君の自慢にはならないよ。君が被害者じゃないんだから」

「そうです。披害者は本邸で寝ています」

「君は家出中だと言ったな」

 加納はじろりと、陣太郎の服装を観察した。

「すると君は、この事件においては、一応局外者のわけだ」

「局外者だなんて、そんな――」

「だって君は、家令の代弁者じゃないんだろう。治療費とか慰籍料の請求を、託されてるわけじゃあるまい」

「しかし、おれは見たんですよ!」

「見たことに何の価値がある!」

 加納はきめつけた。

「写真にでも撮ったというなら別だが。家出中の風来坊が――」

「風来訪とは何です!」

「風来坊は取消そう」

 加納は老獪(ろうかい)に声を低めた。

「しかしだね、家出中の君が見たと言う。見たのは、君だけだ。そしてこの僕が、そんな覚えはない、人をはね飛ばした覚えは全然ないと否認したら、その信憑性はどちらに傾くと君は思うね?」

「ふうん」

 陣太郎は腕組みをしてうなり、そしてにやりと笑った。

「なるほどね。流行作家と風来坊か」

「ね、そうだろう」

 加納は得意げに鼻翼をふくらませた。

「世の中のことって、なかなかうまく行かないもんだよ。一体家令さんの治療費は、いくらかかった?」

「約二十万円です」

 陣犬郎は平然として答えた。

「それに、精神的ショックを受けたから、その分が、そうですな、十五万円ぐらいもいただきますか」

「治療費が二十万?」

 加納は眼を剝(む)いた。

「どんな治療法をしたか知らないが、そんなにべらぼうにかかるわけがない」

「でも、実際にかかったんですよ。なんなら医者の請求書を持って来ましょうか」

「いや、それよりも、電話をかけて聞いてみる」

 加納は腰を浮かせた。

「世田谷の松平邸だったな」

「ちょ、ちょっとそれは待って下さい」

 さすがの陣太郎も狼狽の気配を示し、両掌で加納を押しとどめた。

「そんなことをすると、かえって事が荒立ちますよ。それだけは止めて下さい。そのかわりに、全部で二万円にまけましょう」

「二万円?」

 加納は腰を元に戻した。

「ずいぶん気前よくまけたもんだな」

 

 加納明治はふらふらと立ち上り、書棚の本のうしろから、ふくらんだ封筒をつまみ出し、それをぶら下げて元の座に戻ってきた。

「うん。二万円か」

 加納は惜しそうに封筒の中をのぞき込んだ。

「たかが番号を見たくらいで、二万円とはぼろ儲けに過ぎるな」

「冗談じゃないですよ」

 陣太郎は口をとがらせて嘆息した。

「これでも十分の一に切り下げたんですよ。それをぼろ儲けだなんて」

「しかしだね、君」

 加納は封筒をふところにしまい込んだ。

「君がしかるべき筋に訴え出たとしても、僕が家令をはね飛ばしたという確実な証拠がない。君の証言だけで、物的証拠というものがないのだ。僕の自白でもあればいいが、僕は絶対に自白しない。一万円にまけなさい」

「そんなムチャな」

「君に二万円渡しても、どうせ君は家令のところには持って行かないだろう。家出中で、金に困ってるから、僕をしぼってやれとたくらんだのだろう。一万円でたくさんだ」

「そ、それじゃあ、おれの立つ瀬はない」

「では、こうしよう」

 加納は坐り直して、陣太郎をにらんだ。

「世田谷の邸に電話をかけ、他の家令にでもここに来て貰って、その立合いの上で、二万円を君に渡そう」

「じょ、じょうだんじゃないですよ」

 陣太郎は加納の方に、両掌をひろげて突き出した。

「そんなことをしたら、おれはたちまち本邸に連れ戻されてしまう」

「そうだろう。だから一万円にしなさいと言うんだ。物的証拠もないことだしね」

「ううん、物的証拠か」

 陣太郎はちらと傍のリュックサックを横眼で見、さも無念そうになって腕を組んだ。

「よろしい。仕方がありません。一万円にまけましょう。しかし驚きましたねえ。三十五万円が一万円になっちまったよ」

「大体そんな相場だよ」

 加納はふところの封筒から紙幣を取出し、ぺらぺらと器用に十枚を数えた。

「物的証拠でもあれば、十万や二十万ぐらい、僕も出すよ。君が見ただけでは、幻かも知れないからな」

「幻だなんて、おれは夢遊病者じゃないですよ!」

 値切られた揚句、夢遊病者あつかいにされて、陣太郎は憤然とした。

「早く一万円下さい」

 突き出した陣太郎の掌の上に、加納は千円紙幣を十枚、ふわりと乗せてやった。

「これであの夜の事件については、君は沈黙を守る。それを約束してくれるね」

「約束します」

 陣太郎はポケットに紙幣をねじ込んだ。

「新しい証拠が出ない限りはね」

「さあ、これで片付いたと」

 加納はほっとした表情になって、陣太郎に酒を注いでやった。

「せいぜい勉強して、いいものを書くんだね。いいのが出来たら、雑誌社に紹介して上げるよ」

「よろしくお願いします」

 陣太郎は殊勝げに頭を下げ、茶碗の方ににゅっと手を伸ばした。

 

 風強き午後、陣太郎はリュックサックを背負って、富士見アパートの玄関に、のそのそと入って行った。

 猿沢三吉からすでに話は通じてあったらしく、陣太郎は管理人によって、直ちに二階の一室に案内された。便所に隣接した四畳半である。

「チエッ。便所の脇か」

 管理人が立ち去ると、陣太郎は舌打ちをしてリュックサックをおろし、部屋中を見廻した。風が窓ガラスをかたかたと鳴らしている。畳もよごれてすり切れているし、ガラスも紙で補綴[やぶちゃん注:「ほてい」。]してあるし、どう見てもわびしい部屋である。

「三吉おやじめ。ずいぶん安部屋を見つけやがったな」

 十分後、陣太郎の姿は富土見アパートの玄関を出て来た。リュックサックは持っていなかった。

 それからまた二十分後、陣太郎はリュックサックに一組の蒲団を乗せ、またアパートの玄閲に戻ってきた。新品でないところを見ると、どうも貸蒲団屋あたりから借りて来たものらしい。

 リヤカーを玄関脇に引き込むと、陣太郎はエイヤッとかけ声をかけて、蒲団一組を肩にかつぎ上げた。そのままひょろひょろしながら玄関に入り、階段に足をかけた。

 そのまま登れるかどうか、ちょっと足だめしをしたが、下は土間だから蒲団をおろすというわけには行かない。おぼつかないまま、陣太郎は右に傾き、左によろめきながら、えっちらおっちら登り始めた。

 その時二階から、かろやかに足音をひびかせて、真知子が降りて来た。

 真知子は踊り場に足をとめ、眼を丸くして陣太郎を見おろした。見おろすといっても、陣太郎の顔は見えない。陣太郎は蒲団のかげになって、酩酊した鉢かつぎ姫みたいに、左に揺れ右に揺れながら、登ってくる。

[やぶちゃん注:「鉢かつぎ姫」古典の「お伽草子」の話の一つ。ウィキの「鉢かづき」を参照されたい。]

 非力の陣太郎にとって、一重ねの蒲団は重過ぎるらしく、顔は汗だらけとなり、膝もがくがくと慄え、一歩毎に陣太郎は笛のような声を出した。

 その傍を真知子がすり抜けるには、階段はいささか狭過ぎた感があった。

 だから、すり抜けを強行しようとした真知子に、非があったかも知れない。

 すり技けようとした真知子に、陣太郎がよろよろと傾き、すなわちそこで正面衝突の形となった。キャッと真知子は叫んで、階段に尻もちをついた。

 陣太郎の方はといえば、限度に達していた重量が、衝突によってその限度を突破し、これまた不思議な叫び声と共に、へたへたとうずくまった。うずくまった拍子に蒲団の山はぐらりと揺れ、ばたんばたんと階下に向って落下した。

 陣太郎の身体も、それを追うようにして、階下にごろごろところがり落ちた。

 幸運なことには、先行した蒲団の上に落下したものだから、打ち身やすり傷も全然うけなかったようである。蒲団の上で一回転して、陣太郎の身体は自らあぐらをかいた形で、静止を取り戻した。

「おほほほほ」

 尻もちをついた姿勢で、真知子はけたたましい笑い声を立てた。陣太郎のその恰好が可笑しかったのであろう。

「笑いごとじゃないですよ」

 あぐらをかいたまま、陣太郎は憤然と声を上げた。

[やぶちゃん注:以上のパートは正直、冒頭に違和感がある。陣太郎は実は富士見アパートの位置を知らないため、三吉老人に車で引っ越しを頼んでいるからである。それを少なくとも辻褄が合うように語る部分がないと、読者は躓く。それを語るのが、梅崎は面倒になったのであろう。

 

 真知子は笑いやめた。

「ごめんなさい。だって、何となく、可笑しかったんですもの」

 笑いやめたとは言うものの、真知子の咽喉(のど)はまだ間歇(かんけつ)的に痙攣(けいれん)した。

「何となく可笑しいとは、何ですか!」

 陣太郎は憤然とあぐらの膝をたたいた。

「そちらからぶっつかっておいて、あやまりもせず、けらけら笑うとは何ごとだ」

「あら。あたしがぶっつかったんじゃなくってよ」

 なじられて真知子も真顔になった。

「あんたがよろけて、あたしにぶつかったんじゃないの。失礼ねえ」

「いや。おれはまっすぐに登っていた」

 陣太郎は階段上をにらみ上げたが、すぐにまぶしそうに眼をそらした。腰かけたままの真知子の姿態が、白い内腿までのぞかせているので、具合が悪かったらしい。

「これを見なさい。折角借りてきた蒲団が、ほこりまみれになったじゃないか」

「そんなこと言ってる間に、立ち上って、蒲団のほこりをはらったらどう?」

「それよりも、そちらが立ち上ったらどうだ」

 陣太郎は顔をそむけたまま、真知子を指差した。

「若い女がそんな恰好をするもんじゃない」

「あら」

 真知子はあわててスカートをずりおろし、立ち上った。

「それならこちらを見なきゃいいじゃないの。お下劣ねえ」

「お下劣は、そちらのことだ」

 陣太郎もしぶしぶ立ち上り、徒手体操のようなことをして、身体の異状なしを確かめ、のろのろと蒲団をまとめ始めた。真知子も階段をかけ降りて、それを手伝ってやった。

「これだけをいっぺんに担ごうなんて、あんたにはムリよ」

 陣太郎の体格を眼で測りながら真知子はたしなめた。

「担ぐだけでもムリなのに、階段を登ろうとするなんて、暴挙もはなはだしいわ。ひょろひょろしてたじゃないの」

「ひょろひょろしたって、大きなお世話だ」

「あたしが半分持って上げるわよ」

 陣太郎の肩から、掛蒲団一枚を真知子は奪い取った。再び全部を担いで登る自信がなかったのか、陣太郎はするままにさせた。

「部屋はどこなの?」

 真知子は先に立って登りながら訊ねた。

「いつ引越してきたの?」

「今日だよ。部屋は便所の横だ」

 仏頂面で答えながら、陣太郎はまたよろめいた。一枚減らされても、まだ重いらしい。

「まだよろよろしてる」

 真知子は呆れ顔で、陣太郎を振り返った。

「あんた、弱いのねえ。昼飯は食べたの?」

「まだだよ」

 加納邸で茶碗酒二杯を飲んだきりだから、腹に力が入らないのも無理はない。

 二人は階段を登り切って、廊下を歩き、便所脇の四畳半につつがなく蒲団を運び込んだ。真知子は部屋をぐるぐる見廻して、嘆息した。

「まあ、しけた部屋ねえ。これで間代はいくらなの?」

 そして陣太郎に向き直った。

「あたしの部屋にいらっしゃい。トーストぐらいなら焼いてあげるわよ」

 

 真知子が焼いて呉れたトーストに、あるいはバター、あるいはジャムをこてこてとまぶしつけ、陣太郎はのろのろと四五片を食べ終った。その食べ方を真知子はじっと観察していた。

「あんたは何という名?」

 紅茶をいれながら真知子は訊ねた。

「陣太郎。松平陣太郎」

 陣太郎は腹を撫でながら答えた。

「ああ。すこしおなかがふくらんだ。君の名は?」

「西尾真知子よ」

 真知子という名を聞いて、陣太郎はぎくりとしたらしく、とたんにしゃっくりを出した。真知子はいぶかしげに陣太郎を見た。

「あら、どうしたの。トーストはもういい?」

「もう結構だ」

「あんまりおなかは空いてなかったのね」

 紅茶を差出しながら、真知子は言った。

「だって、あんまりがつがつした食べ方をしなかったもの」

「腹がへっても、おれはがつがつしない」

「あら。どうして?」

「小さい時から執事や家令にそう躾(しつ)けられて育ったんだ」

 陣太郎は紅茶を口まで持って行き、飲まずにまた元に戻した。

「それに猫舌だというせいもある」

「猫舌ねえ」

 急に興味をもよおした風(ふう)に、真知子は陣太郎をじろじろと見廻した。

「ふん。松平か。松平というと、会津系? それとも浜松系?」

 陣太郎はきょとんとしてまたしゃっくりを一つ出した。

「松平家というのは、たくさんあるんだよ。まあ会津も浜松も、おれんちの親類筋ではあるけどね」

「じゃあ、あんたの松平は、何さ?」

「おれんちはただの松平だよ」

 やや面目なげに陣太郎は首をすくめた。

「おれんちにある古文書に、寛政重修諸家譜(ちょうしゅうしょかふ)というのがあるんだけどね、それによると寛政年間にすでに松平家は、五十七家もあったんだ」

「あんたんちはその一家なの?」

 陣太郎はうなずいた。

「では、あんたんちのお邸は、どこかにあるわけでしょう。お城は?」

「お城はない。明治になって売り払った」

 陣太郎は惜しそうに舌打ちをした。

「邸は、その、世田谷の松原町にある」

「どうして屋敷にいないで、こんなアパートに引越して来たの?」

「家出をしたんだ」

「なぜ家出を?」

「相続問題などで、いろいろごたごたしてね、おれはもうあんな家柄というものに、嫌気がさしたんだ」

 そして陣太郎は、食い入るような視線で、真知子の表情をうかがった。

「お、おれは嫡嗣(ちゃくし)じゃない。妾腹[やぶちゃん注:「しょうふく」。]なんだ。つまりメカケの子さ」

「そう。メカケだって、いいじゃないの。あたしだって――」

 言いかけて真知子は口をつぐんだ。初対面の陣太郎に、やはりはばかったのであろう。

「君も妾腹の子か」

 ちゃんと事情は知っているくせに、陣太郎はとぼけて反問した。

 

 富士見アパートの電話室で、陣太郎はせっせと電話帳を繰っていた。

「ええと、カの部、加納明治と」

 ダイヤルを廻した。

「もしもし、加納先生おいでですか」

「ちょっとお待ち下さい」

 女の声がして、受話器ががちゃりと置かれた。陣太郎は呟いた。

「ふん。あれがこちこちの女秘書というやつか」

 やがて電話の向うに加納明治が出て来た。

「もしもし、加納先生ですか。おれは松平陣太郎です」

 そして陣太郎は声をはずませた。

「あの物的証拠の件ですがね、出て来たんですよ」

「物的証拠? どこから出て来た?」

「おれのリュックサックの中からですよ」

「リュックサック?」

「ええ。アパートに戻ってね、リュックをあけて見て、おれはアッと驚きましたよ。何時の間にか入り込んでいたんです。一体どこから入りやがったんだろうなあ」

「な、なにが入ってた?」

 加納の声は乱れを見せた。

「先生の日記帳なんですよ。ふしぎですなあ。いつ日記帳がごそごそと、おれのリュックに這入り込んだのか。まさか先生が入れたんじゃないでしょうね」

「ぼ、ぼくが入れるわけがあるか」

 加納の声はうわずった。

「早く返せ!」

「あの日の日記を読みましたよ」

 陣太郎は落着いて言った。

「その帰路、道に迷い、あせりてスピードを出したるが身のあやまり。行人をはね飛ばす。とありましたよ。やはり、これ、物的証拠になりますねえ」

「早く返せ!」

 じだんだを踏んでいるらしい気配が、受話器に伝わって来た。

「他人の日記を、黙って持って行くなんて、りっぱな窃盗罪だぞ。早く返さないと、こちらにも手段があるぞ――」

「お返ししますよ。明日」

「明日?」

「明日、秘書を連れて、そちらに参上します」

「秘書なんか連れて来なくてもいい。君一人で返しに来い」

「でも、おれひとりだと、おれは心細いです」

「何が心細いんだ?」

「だって、おれひとりだと、先生は暴力でもって、おれから日記帳を取り上げるでしょう」

 陣太郎はにやにやと笑った。

「だから、秘書を連れて行きます。おれの秘書は、背が六尺五分[やぶちゃん注:一・八三メートル。]もあって、毎日ボディビルで身体をきたえてるんですよ」

「君は僕を脅迫する気か」

「いえ、いえ、決して。とにかく明日、秘書帯同の上、参上いたします」

 そして陣太郎は、がちゃりと電話を切り、またダイヤルを廻した。相手が出た。

「もしもし、ああ、竜之助君か。おれ、陣太郎だよ」

 陣太郎はヒクッとしゃっくりを出した。

「君、いいカメラを持ってたな。今晩あれを持って、れいのヤキトリキャバレーに来い。判ったな。それから明日、加納明治に会わせてやるよ」

 

 黄昏(たそがれ)のヤキトリキャバレーは、相変らず喧噪(けんそう)をきわめていた。陣太郎と泉竜之助はその一隅に陣取って、額をつき合わせ、ちびちびとハイボールを砥め、ヤキトリを齧(かじ)っていた。ことに竜之助の方の皿は、空串(からくし)がもう十数本も並んでいた。

「相変らずがつがつしているな」

 空串の数をじろりと読みながら、陣太郎は言った。

「相変らずメザシばっかりか」

「そうなんですよ」

 竜之助はしょげた顔付きになった。

「それにおやじは、メザシから梅干に切り下げようなんて、言ってるんですよ。一体これはどうしたらいいでしょうねえ。陣太郎さん」

「うん。その陣太郎さんは、二人きりの時はいいが、明日はまずいな。君は秘書だということにしてあるんだからな」

 陣太郎は腕を組んで、首を傾けた。

「やはり、秘書なんだから、加納明治の前では、おれのことを先生と呼んで貰おうか」

「陣太郎先生ですか」

「うん。陣太郎先生はまずい。松平先生がいいな。その方がぴったりする」

「承知しました。それからカメラは何に使うんですか。加納明治をうつすんですか」

「いや、その用途は後日話して聞かせる」

 陣太郎は話題を転じた。

「三吉湯とのにらみ合いは、その後どうなってるかね?」

「その後相変らずですよ」

「湯銭の値下げは、まだやらないのか?」

「お、おやじもいろいろ考えて――」

 竜之助はちょっとへどもどした。

「チャンスを、ねらっているらしいです」

「値下げの時期を促進しろと、あれほど君に言ったのに――」

 陣太郎はそのへどもどを見逃さなかった。

「君はやらなかったんだな」

「そ、それが値下げをすると、毎日のおかずが梅干になりそうなんで」

 竜之助は顔をあかくして弁解した。

「梅干でけっこうじゃないか」

 陣太郎はつっ放した。

「どうせ泉湯と三吉湯の間柄は、腫(は)れものみたいなもので、ウミが出なきゃ治りゃしないのだ。だから、早くウミを出す算段をした方がいい。そうしないと、お前さんもいつまで経ったって、幸福になれっこないぞ。君だけじゃなく、一(かず)ちゃんもだ」

「え? 一ちゃん、知ってんですか」

「知ってるさ。調べたんだ。猿沢一子。こともあろうに、敵の娘と情を通じるなんて、おれ、ほんとに、恵之助老に言いつけてやるぞ」

「じょ、じょうだんじゃありませんよ」

 竜之助は首をすくめた。

「そんなことをされたら、僕は勘当されちまう」

「そうだろう。だからおれに逆らうなと言うんだ」

「どうしてこの世のおやじたちはあんなつまらないことでいがみ合って、我々若い世代を不幸におとし入れるんだろうなあ」

 竜之助は長嘆息をした。

「まったく大人の気持は判らない」

「医学が発達したからだよ」

 陣太郎はハイボールをぐっとあおり、自信あり気に断定した。

「医学の発達が、人間を愚かにした」

 

「医学の発達?」

 目をぱちぱちさせて、泉竜之助は反問した。

「おやじどもの喧嘩は、あれは医学の発達のせいなんですね?」

「そうだ」

 陣太郎は重々しくうなずいた。

「予防医学や薬学の大発達で、人間はなかなか病気にかからないし、かかっても直ぐになおってしまう。昔の人はそうじゃなかった。朝[やぶちゃん注:「あした」。]の紅顔が夕[やぶちゃん注:「ゆうべ」。]の白骨なんてなことはザラだった。肺病なんてものは、死病だったんだ」

「そうらしいですね」

「つまり昔の人間は、常住死と隣り合わせて生きていたんだ。死と隣り合わせていたからこそ、彼等は生を知っていた。生の尊さ、生の烈しさを、つまり生そのものの意義を知っていたのだ。だからバカな生き方をあまりしなかった」

 陣太郎は卓をどんと叩いた。

「ところが現代の人間は、医学の発達によって、死から遠ざかった。死と隣り合わずに、生きて行けることになった。そのとたんに、生の意義が失われたんだね。自分が何のために生きているのか、その核心がつかめなくなって、ただのんべんだらりと生きている。そして、のんべんだらりと生きていることに耐えられなくなって、摩擦とか刺戟、何かおろかな事件をひきおこしで、そこでじたばたして、自分の生を確かめようとするんだね。しかし、そういうやり方では、生を確かめるわけには行かない。だから連中は、ますますあせって、連鎖反応的に愚行をかさねて行くということになる。泉湯と三吉湯の喧嘩なんて、そのいい例だね。加納明治もそうだ」

「え? 加納明治も?」

「そうだ。何のために生きているか、加納にも全然判っていない」

「では、僕は?」

 竜之助はおそるおそる訊ねた。

「お前さんだって、原則的にはそうだ。のんべんだらりの組だ」

「では、陣太郎さんは?」

「おれか?」

 陣太郎の双眼はきらきらと妖(あや)しく光った。

「おれはのんべんだらりじゃない。おれは今、ある重大なものと隣り合った、一種の極限状況にいる。おれはおれ自身を、意識的にその極限状況に追いつめたんだ」

「それを具体的に言うと?」

「具体的にか。それは今は言えない。しかし、後日になると、おれの生き方、剣の刃渡りのような緊張した生き方が、君にも判るだろう。その時はもう、おれは居ないがね」

「はてね」

 竜之助は小首をかしげた。

「では、この間の話の、素(す)十五の――」

「素十五じゃない。素十六だ、間違えるな!」

 何かカンにさわったらしく、陣太郎は竜之助をにらみつけた。

「素十六なんて生き方は誰にも出来ることじゃない。ことに現代人にとってはだ。これはたいへんな賭けだからな」

「そうですか」

「おれは、死とは隣り合っていない。といってのんべんだらりと生きるのはイヤだ」

 酔いが廻ってきたのか、陣太郎の声は少々激してきた。

「おれはおれの生き方を定めた。つまり、現代人のアンチテーゼとして生きようと、はっきり心に決めたんだ。判るか?」

 

 加納明治は黙々として、昼食をとっていた。昨日来の強風が、窓ガラスをかたかたと鳴らしている。今日の献立ては、サンドウィッチ、果物盛合せ、ヨーグルトで、加納はヨーグルトを舐め、サンドウィッチを不味(まず)そうにもぐもぐと嚙みながら、ひとりごとを言った。

「ちくしょうめ。あの野郎!」

 調理台の塙女史の眼がきらりと光ったが、野郎という言葉で、自分のことでないと判ったらしく、直ぐにまた眼を伏せた。

「今日来やがったら、ただじゃ置かねえぞ!」

 そんな強がりを呟いてはいても、加納がしょげていることは、食欲もあまりなさそうだし、ワサビ漬その他を食卓に持参してないことでも判る。日記帳のことにすっかり気をとられて、塙女史と張り合う気分は失せてしまったのだ。

「水!」

 サンドウィッチもヨーグルトも半分残し、果物にも全然手をつけず、加納は声を上げた。塙女史が大コップ一杯の水を持ってきた。それをごくごくと三分の二もあおった時、突如として玄関でブザーが鳴りわたった。

「そら。来やがったぞ」

 加納はコップを卓に置き、椅子を蹴立てて立ち上り、小走りに玄関に走った。玄閲の扉が半開きに開かれて、皮鞄をぶら下げた長身の若者が顔をのぞかせていた。

「僕は松平先生の秘書で、泉竜之助と申す者ですが――」

 そして竜之助はかるく頭を下げた。

「加納先生はいらっしゃいますか?」

「僕が加納だ」

「ああ、それはお見それいたしました」

 竜之助は顔を門の方に向け、手まねきをした。足音が近づき、陣太郎が悠然と胸を張って玄関に入ってきた。丁寧な頭の下げ方をした。

「昨日は失礼いたしました」

「まあ上りたまえ」

 両方の掌がおのずから拳固の形になるのを、むりやりに拡げながら、加納は言った。

「れいのもの、持って来たか?」

「持参いたしました」

 陣太郎はごそごそと靴を脱いだ。竜之助もつづいて脱靴した。

[やぶちゃん注:「脱靴」は「だっか」と読む。聴き慣れないかも知れないが、学校の下足箱の置かれている場所を古くは「脱靴場(だっかじょう)」と呼んでおり、自衛隊用語に「脱靴許可(だっかきょか)」がある。兵装している際に、正規の自衛隊専用ブーツではなく、運動靴を履くことを許可することである。]

 陣太郎は胸を張り、竜之助は長身ゆえに背を曲げ、加納のあとにつづいて、書斎に入って行った。音もなく玄関に出てきた塙女史の視線が、いぶかしげにその一行のあとを見送った。

 黒檀机の向うに、加納明治はわざと無頼めかして、でんと大あぐらをかいた。なめたら承知しないぞと言う示威なのである。

「君たちもらくにしなさい」

「はい」

 直ちに陣太郎は、正坐をあぐらに切り換えた。横眼で見て、竜之助もそれにならった。

「けしからんじゃないか」

 加納は陣太郎をにらみつけ、押しつけるような声を出した。

「他人の日記を黙って持って行くなんて、不心得もはなはだしいぞ。出来心か?」

「おれが持って行ったんじゃないですよ」

 陣太郎は口をとがらせた。

「昨日電話で申し上げたように、アパートに戻ってリュックをあけたら、それが入ってたんですよ。出来心もくそもありません」

「日記帳に脚が生えてるとでも言うのか」

 加納は忌々しげに舌打ちをした。

「まさか、ムカデではあるまいし!」

 

「ではおれが、無意識裡に、持って行ったとでも言うのですか」

 陣太郎は肩をいからせた。

「この間もおれのことを、夢遊病者あつかいに――」

「もういい。判った」

 加納は掌をにゅっと出して、陣太郎の発言を封じた。

「その、日記帳、持ってきただろうね」

「持参いたしました」

「では、ここに出しなさい」

 加納は発声のしかたに威厳をこめた。

「黙って戻すんなら、一切を不問にする」

「不問にするって、何を不問にするんですか」

 陣太郎は眉をぴくぴくとさせた。

「そちらが不問にしたって、おれの方が不問にしませんよ」

「何を不問にしないんだい?」

「判ってるでしょう。日記帳の内容のことですよ」

 陣太郎はすこし声を高めた。

「あれはりっぱな物的証拠ですよ。可哀そうに、おれんちの家令は、まだ足腰が立たず、寝たっきりなんですよ」

「じゃあ、どうしろと言うんだ?」

「治療費ぐらい出しても、当然でしょう」

「治療費って、いくらかかった?」

「この間、申し上げたでしょう。二十万円」

「二十万円? ムチャを言うな!」

 加納明治は長嘆息をした。

「いくらなんでも、二十万円とは高過ぎるよ。健康保険には入ってないのか」

「そんなものなんかに入ってるもんですか」

 陣太郎は軽蔑したように、指をぱしりと鳴らした。

「さあ、二十万円。出すんですか。出さないんですか」

「出したくっともだね」

 加納は老獪(ろうかい)に声を低めた。

「僕の家の家計は、すべて秘書の塙女史が握っていて、僕の自由になる金は、せいぜい五万円どまりだ」

「雑誌社のどこかで前借りすればいいじゃないですか」

 陣太郎は更に声を高めた。

「この間先生は、物的証拠さえあれば、二十万や三十万は即座に出すと、そう言明しましたね。あれはウソですか」

「よし。二十万、出そう」

 加納も声を荒くした。

「その前に、実際に二十万かかったかどうか、世田谷に電話してみる」

「そ、それはやめたがいいでしょう。それならおれたちは、帰ります」

「帰ってどうするんだ?」

「あの日記を警視庁に持って行き新聞記者立会いのもとに、渡します」

「おい、おい。あんまりムチャなことを言うなよ」

 加納は両掌を前に突き出した。

「そんなことをされたら、一体僕はどうなるんだ」

「そうでしょう。だからおれは、素直に二十万出しなさいと言ってるんですよ」

 そして陣太郎は、手首から腕時計を外しながら、伝家の宝刀を引っこ抜いた。

「二十万円、出すか、出さないか、おれは一分だけ待ちましょう。いいですか。あと五十五秒。……五十秒」

 

「よし。出そう」

 加納明治は無念げに腕を組み、はき出すように言った。

「致し方ない」

「そうでしょう。そう来なければウソです」

 陣太郎は腕時計を元の手首に巻きつけた。

「二十万円とは安いですよ」

「出すとは言ったが、二十万とは僕は言わなかったぞ」

 加納は手を伸ばし、違い棚の置時計をわしづかみにして、どんと机の上に置いた。

「僕は十万円だけ出す。それ以上は、ビタ一文も出さない。十万円で不服なら、日記帳を警察でもどこでも、持って行ったがよかろう。十万円で否か応か、僕は一分間だけ待とう。あと六十秒」

 意外の逆襲に、陣太郎は眼をぱちくりさせた。

「あと五十秒……四十秒……」

 苦悶と焦慮の色を、陣太郎は顔にうかべながら、上目使いに加納の様子をうかがった。加納は決然として秒を読んだ。

「二十秒……あと十五秒!」

「よろしい。まけましょう」

 加納の表情から決死の覚悟を読みとったらしく、陣太郎ははたと手を打って、十方円を承認した。

「そうだろう」

 加納は時計を違い棚に戻した。

「そう来なければウソだ」

「捲き返し戦術とは、うまくやられたなあ」

 陣太郎は憮然(ぶぜん)として腕を組んだ。

「なかなかいい気合でしたねえ、先生。さすがのおれも、圧倒されましたよ」

 皮鞄をかかえ、緊張していた泉竜之助も、ふうと溜息をついて、合点々々をした。

「では」

 加納はにゅっと右掌をつき出した。

「日記帳、返していただこうか」

「ダメですよ。まだ。引替えということにしましょう」

「そうか。仕方がない。では外出用意だ」

 加納は立ち上り、のそのそと次の間の洋服簞笥の前まで歩き、着換えを始めた。竜之助はひょろ長い上半身を、陣太郎の方に曲げ、耳打ちをした。

「すごいですなあ、陣太郎さんは」

「しっ」

 陣太郎は耳打ちをし返した。

「陣太郎さんは止せ。松平先生と呼ぶんだ」

 しょうしゃな背広姿となり、ハンチングをぶら下げて、加納明治が次の間から姿をあらわした。

「さて。雑誌社に出かけるか」

「はい」

 先生と秘書は異口同音に立ち上り、加納のあとにつづいて、玄関から外に出た。加納はさっさと車庫の方に歩き、自動車の扉をあけた。

「さあ。二人とも、これに乗りなさい」

「え。これで行くんですか」

 陣太郎は尻ごみをした。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ。心配するな」

「心配するなって、先生はこの間このおれを、いや、おれの家令を、はね飛ばしたんだからなあ」

「心配するな。今日は酔っぱらってないから」

 加納は二人の背を押してむりやりに客席に押し込んだ。

 

「ここを通るたびに、実におれは妙な気分になってくるんですよ」

 窓外を指差しながら、陣太郎は運転中の加納明治に話しかけた。自動車は今、半蔵門から三宅坂へ走っていた。

「何が妙な気分だね?」

「だって、あそこは、大体がおれんちなんでしょう」

 陣太郎の人差指は、濠の向うの宮城の緑の斜面を指していた。斜面の上の石垣に、衛士が立っているのが見える。

「おれのお先祖様があれをつくり、だからもともとおれんちの筈なのに、おれんちと関係のない人が、のうのうと住んでいる。眼鏡をかけた、すこし猫背の、口髭を生やした男が――」

「それ、天皇のことを言ってるのか?」

「そうですよ、もちろん」

 陣太郎は語気を強めた。

「おれんとこなのに、よその人が住んでるなんて、実に奇妙な気分がするもんですよ。おれのこの気持、先生は小説家だから、判って下さるでしょう」

 加納は返事をしなかった。黙ってハンドルを動かした。

「相続問題がこじれて家出をしたんだと、君は言ってたが――」

 日比谷の交叉(こうさ)点を越えかけた時、加納は口を開いた。

「どういう具合にこじれたんだね。君の相続に邪魔でも入ったのか」

「そこにはいろいろ複雑な事情がありましてねえ」

 陣太郎の声はかすれた。

「御譜代会というものがあるんですよ」

「ゴフダイカイ?」

「ええ。そうです。御譜代会」

 陣太郎はうなずいた。

「御譜代会と申しますと、つまり徳川家を中心にした会、松平の同窓会みたいなものです。三河以来の徳川の臣下である大名、その後裔(こうえい)たちが構成分子で、年に一回それが開かれるですな」

「ふん。ふん」

「そこでおれんち、すなわち世田谷の松平家の相続が問題になった」

 陣太郎の声は低く、また暗鬱になった。

「おれ、すなわち陣太郎に相続させようという派と、陣太郎ではダメだ、陣二郎にさせようという派と――」

「陣二郎とは何だね?」

「おれの異母弟です。そこらの入組み具合がたいへん複雑で、一朝一夕には説明しきれない。とにかくそこらがこじれて、おれ自身もイヤになり、飛び出してしまったんですよ。手ぶらで飛び出したんで、こんなひどい恰好はしてるけど」

「家令にでも金を持って来させればいいじゃないか」

「おれもそう思っていたんだけれど――」

 陣太郎は加納の背中を指でつついた。

「先生がはね飛ばしてしまったじゃないですか。おれ、ほんとに迷惑しましたよ」

 加納は黙った。黙ったまま、自動車を停めた。加納につづいて、陣太郎と竜之助は車を出た。

「ここでお茶でも飲みながら、待ってて呉れないか」

 加納は前の喫茶店を指差した。

「僕はちょっと出版社に行ってくる」

[やぶちゃん注:「御譜代会」そのような組織はネットで検索しても見当たらない。徳川将軍家譜代の大名及旗本並びに御家人等の幕臣の子孫が集う「柳営会」というのは現在もあるが、ここで言うような徳川松平家の相続関係に係わる判断や許可をする会などということは、民法上、許されるものではない。]

 

 喫茶店の席につくと、陣太郎は指で女を呼び寄せ、注文した。

「コーヒー二つに、サンドウィッチ」

 そして泉竜之助に顔を向けて訊ねた。

「君は何人分食べる?」

「僕は一人前でけっこうです」

「では、サンドウィッチ、三人前。早いところ頼むよ」

 陣太郎は指をぱちんと鳴らした。

「ああ。おなかがすいた。近ごろおれは、実におなかがすくな。どういう訳あいのもんだろう」

 サンドウィッチが運ばれてくると、陣太郎は一皿を竜之助に与え、二皿を自分の前に引寄せて、黙々として食い始めた。がつがつするなと、いつも竜之助に訓戒を与えているくせに、陣太郎の食べ方はスピードが早く、竜之助がまだ一皿を食べ終らないのに、陣太郎は二皿そっくりを食べ終っていた。

「ああ。これで力がついた」

 ぬるくなったコーヒーを旨そうにすすりながら陣太郎は言った。

「さて。つづいてケーキでも注文するか」

 陣太郎は指を上げて女を呼び、またケーキを注文した。

「よく食べますねえ」

 竜之助は感嘆の声を発した。

「大丈夫ですか」

「大丈夫だよ。どうせ加納明治が支払うんだ」

 高貴の出にしてはずいぶんケチな発言を陣太郎はした。

「しかし、二十万円のところ、十万円とは、ずいぶんあこぎな値切り方をしたもんだなあ」

「しかし陣太郎さんも、よくまけましたね」

「うん。敵も決死の覚悟だったらしいからな」

 運ばれてきたケーキを陣太郎はつまんだ。

「それに、あの日記の頁、ちゃんと写真に撮ってあるからな。また後(あと)口がきくよ」

「え? 僕のカメラをそれに使ったんですか」

 つづけようとして、陣太郎は口をつぐんだ。扉を押しわけて、加納明治がつかつかと入ってきたからである。

「さあ」

 席に腰かけるや否や、加納明治は内ポケットから紙幣束を取出し、催促した。

「日記帳を早く出せ」

 陣太郎は竜之助に目くばせをした。竜之助は皮鞄をがちゃりとあけ、うやうやしく日記帳を取出した。加納は紙幣束を卓に置き、いきなり日記帳をひったくった。

「ほんとに、これだけの金を前借するんだって、僕はずいぶん哀訴嘆願したんだぞ」

「しかし、家令の苦痛を思えば、それくらい何でもないですよ」

 陣太郎は紙幣束をつかみ、その中から千円紙幣十枚を数え、竜之助の方ににゅっと突き出した。

「さあ。これが今月分の秘書手当だ」

「ありがとうございます」

 竜之助はそれをかるく押しいただき、内ポケットにおさめた。その手付きを、忌々(いまいま)しげに横眼でにらみながら、加納は言った。

「もう日記帳はこちらのものになったし、もうこれ以上、家令のことについて、僕に迷惑をかけるなよ」

「ええ。出来るだけそういう具合に、努力します」

 

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