佐々木喜善「聽耳草紙」 一四九番 生命の洗濯
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。「生命」は「いのち」と読んでおく。]
一四九番 生命の洗濯
相撲《すまふ》芝居は命の洗濯と謂ふ諺がこの地方にある。その起原(オコリ)は斯《か》うである。
ある時、若い衆三人が長い土手を步いてゐると、向ふから一人の按摩がやつて來た。三人は相談してその按摩にハツキヨ(八卦)おいて貰つた。按摩はハツキヨおいて見て、お前がた三人は明日の晝時頃に死ぬと占つた。三人は心配しながら家へ歸つたが、翌日になつて、三人のうちの二人は度胸を定(キ)めて、死ぬなら死ねと覺悟して、芝居を見に行つた。他の一人は親戚や知人をよんで別れを惜しみ、此世の名殘《なご》りに甘《うま》いものをウント食べたりして居たが、占いの通りお晝食(ヒル)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]頃に死んでしまつた。芝居に行つた二人は、何もかにも忘れて見て居たが、死ぬと謂ふ時刻が來ても死なないで見物を續けて、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]死なないでしまつた。これが相撲芝居は命の洗濯のゆはれ因緣である。
(森口氏の御報告の分の二。同氏の話には明日の一時半頃とあるが、私の祖父はお晝飯頃と語つて居たから、報告者には不忠であつたが此部分だけを私見にして置いた。)
(私の祖父は、一人は相撲見物に行き、一人は芝居見物に行つていて…と語つて居た。)
[やぶちゃん注:附記二条は引き上げてポイントも本文と同じにした。最後の附記で諺の「相撲」の不審が解けた。]
« 「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「四」の「牛疫予防」 | トップページ | 佐々木喜善「聽耳草紙」 一五〇番 鰐鮫と醫者坊主 »