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2023/07/25

佐々木喜善「聽耳草紙」 一七二番 馬鹿聟噺(二十一話)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。本章は非常に長い。]

 

      一七二番 馬鹿聟噺

 

        金屛風(其の一)

 舅家《しうとのいへ》から、馬鹿聟殿に、今度屛風を買つたから見に來てけさと言傳《ことづて》があつた。嫁子《あねこ》は知つて居るので、金屛風に竹ばかりで、それが物足りなく、何か書き添えたいと言つて居たぢ、竹には虎が附きもんだから、これに虎を書き添へればよいなアと言はさいと敎へて出してやつた。舅家へ行くと案の定その金屛風を取り出して、いろいろと眺めすかして居た舅殿は、時に舅殿、この屛風は竹の繪ばかりでは見ぐさいしだい、何かうまい事は無いものかと訊いた。馬鹿聟殿は腕組《うでぐ》みして、考へる振りをして居たが、昔から竹に虎ぢます、虎があれば竹がピンと跳ねるもんだと聞きましたと言つた。舅殿は大喜びをした。

 それから日が少し經つと舅家からまた、何だか聽きたいぢと云つて使ひが來た。嫁子も今度は何の用か分らぬので其儘出してやつた。馬鹿聟殿は俺はこれでも物識りだと言つて大威張りで行つた。舅殿は床《とこ》について、うんうん呻《うな》つて居た。そして聟殿の見えたのをひどく喜んで、これはこれは聟殿よく來てくれた。實は昨夜からこれが病《や》めて死ぬやうだと言つて、大きな仙氣睾丸《せんききんたま》を橫腰から出して見せつゝ、何とかよい妙藥でもあるまいかと訊いた。馬鹿聟殿はそれを橫から見たり、屈んで見たりして居たが、それこそ大聲を出して、竹に虎だツと叫んだ。

[やぶちゃん注:「仙氣睾丸」「仙氣」は「疝氣」が正しく、これ自体が、漢方で、下腹部や睾丸(こうがん)が腫脹して痛む病気の総称である。下半身の睾丸を含む全体的な腫脹は、リンパ系フィラリア症(象皮病)があるが(私の『「想山著聞奇集 卷の參」 「戲に大陰囊を賣て其病氣の移り替りたる事   附 大陰囊の事」』を参照)、この舅は睾丸のみが腫れ上がっているので、他の部位に全く腫れが認められないとならば(ロケーションが東北地方であるので、象皮病は本邦では、嘗ては、日本の温暖な西日本や南日本地域に多かったことから、ちょっとクエスチョンである)、精巣腫瘍・陰嚢水腫・精液瘤・精巣上体炎・精巣捻転症・精索静脈瘤などを疑った方がよいかも知れない。]

 

        物貰ひ(其の二)

 馬鹿聟殿が舅家の秋振舞ひに呼ばれて行つて、しこたま御馳走になつたあげく、翌朝、歸りに十文錢を緡(サシ)にさして貰つた。それを持つて山路へかゝると、沼に鴨がずつぱり(多く)下りて居たから、それを捕るべと思つて、錢を投げつけてみんな失くしてしまつた。そのうちに鴨鳥はばツとみんな飛び去つたので馬鹿聟殿は手振八貫(テブリハチクワン)で家さ歸つた。[やぶちゃん注:「秋振舞ひ」収穫の終った後の祝いの飲食を指す。「八貫」三十キログラムであるが、何を言ってるのか、不明。自身の体重にしては、軽過ぎるし、一緡(銭百文又は千文)の重量としては、重過ぎる。後の別なシークエンスでも繰り返されるので、単に「何も持たずに軽いこと」を言っているようである。]

 家へ歸ると、母親(オツカア)が、ざえざえ舅どんから何も貰はなかつたかと訊くと、聟殿は、舅どんから十文錢一緡貰つたつた[やぶちゃん注:今言うところの「貰ったった」。]けれども、山澤(ヤマサワ[やぶちゃん注:ママ。])の沼に鴨鳥がずつぱり居たのでみんな投げつけて來たますと答へた。それを聽いて母親は歎いて、なんたらお前も馬鹿だべなア、そんな錢を貰つたら、財布に入れて大事にして持つて來るもんだにと言つて聞かせた。すると馬鹿聟殿は、あゝ、俺アよく分つた。尤も尤もと言つていた。

 其次に舅家へ行つた時は、ぜえぜえ聟殿の家にア馬コが無かつたから、馬コ一匹けツからと言つて、勇みの駒を一匹貰つた。そこで馬鹿聟殿はこゝの事だと思つて、その駒を財布の中に入れべえとして、駒の頭に財布をかぶせて尻を打つて打つて、遂々《たうとう》打ち殺してしまつた。そして、あゝオメトツタ、オメトツタ(苦勞した)と言ひながら家ヘ歸つた。

 母親がまた今日ははア舅どんから何も貰つて來なかつたかと訊くと、舅どんではお前のところには馬コがなかつたから、これをけツからと言つて、馬コ一匹もらつたけが、俺ア財布さ入れべとして、打ツ叩いて、打ツ叩くと遂々くたばつた(死んだ)から、街道傍《かたはら》さぶん投げて來たのシと言つた。母親はそれを聽いて、ひどく歎いて、何たらお前も馬鹿だべなア、馬コもらつたら、首さ手綱を結びつけて、はいはい、どうどうと掛聲しながら曳いて來るもんだがと敎へた。聟殿はそれを聽いて、あゝ訣《わか》つた訣つた、今度こそはと言つて居た。

 其次に舅家さ行つた時ア、聟どんの家にア茶釜コが無かべから、これを持つて行けと言つて、立派な茶釜を貰つた。馬鹿聟殿はこゝだと思つて、茶釜の鉉(ツル)コに繩を結びつけて、凍(スミ)カラの上を、がらがら、がらがらとひきずつて來た。すると茶釜ははつぱりと打ち壞れて鉉コばかりをからからと引いて家へ持つて來た。[やぶちゃん注:「凍(スミ)カラ」凍った道の意か。]

 家さ歸るとその態(サマ)を母親が見て、それあ何の事だアと叱つた。聟殿は何さ舅どんへ行つたら、お前のところにア茶釜コもなかんべからツて、この茶釜コをもらつたから、これ斯《か》うして曳摺《ひきず》つて來たのシと言つた。母親はそれを聽いて大層歎いて、なんたらお前も馬鹿だべなア、そんな立派な茶釜コなどもらつたら、大事にして手に持つて下(サ)げて來るもんだがやエと敎へると、尤も尤も、今度こそと言つて俯肯(ウナズ[やぶちゃん注:ママ。])いていた。

 其次ぎに舅家さ行くと、ぜえぜえ聟どんの家には下女童(ゲヂヨワラシ[やぶちゃん注:底本では「ゲチヨワラシ」。「ちくま文庫」版を参考に訂した。])がなかつたべから、一人けツから連れて行きもせと言つて、下女童を一人もらつた。馬鹿聟殿はこの時だべと思つて、下女童の帶をとつて右手に引ツ下げると、下女童は魂消《たまげ》て、おういおういと泣きながら逃げて行つてしまつたので聟殿は手振八貫ですごすごと家へ歸つた。

 家に居た母親が、ぜえぜえ舅どんでは何もケなかつたかと訊くと、何さ下女童一人もらつたども、腰を抱いて引ツ下げべとしたら、泣き立てゝ逃げて行つたから、構(カモ)ねで[やぶちゃん注:構わずにそのままにして。]來たシと言つた。母親はそれを聽いて、何たらお前も馬鹿だことでア、下女童などもらつたら、自分の後(アト)さ立てゝ、それア靜かに來(コ)らやい、今日は天氣アええなア、お前アええ童だなアと言つてダマシ(慰め)て來るもんだと言ふと、聟殿はああ尤も尤も、今度こそ今度こそと言つて居た。

 其次ぎに舅家さ行つた時は、聟どんの家にア屛風コも無かんべから、これをケツからと言つて、屛風をもらつた。ははアこれとて下げたりなんかしては惡い。この時だと思つて、舅家の門口を出ると往來に屛風を立てゝおいて、さあさあ靜かに來ウやい。今日は天氣はええなア、本當にいい、メンコ(可愛い)だ、メンコだなアと言つて、眞直ぐに家へ歸つた。

 家に居た母親が、今日は舅どんでは何もケなかつたかと訊くと、ああ今日はお前の家には屛風コもないこつたからと言つて、屛風コをもらつたから、後に立てゝ置いて、靜かに來らやい。今日はお天氣がいゝなアツてダマして來たシと言つた。

 母親はそれを聽いてひどく歎いて、何たらお前も馬鹿なこつたべなア、そんな時には、はアこれやどつこいしよツと、肩さ擔いで來るもんだにと訓(サト)したら聟殿はあゝ分つた分つた。今度々々、尤も尤もだと言つていた。

 其次ぎに又舅家さ行くと、聟どん聟どん、お前らにヤ牛(ベコ)コもなかつたべから、一疋けツから曳いて行きもせと言つて、赤斑《あかまだら》の牛コを二疋貰つた。馬鹿聟殿はこゝだと思つて、牛の下腹《したばら》さもぐり込んで、どつこいしよツと擔《かつ》ぎ上《あ》げべえとすると、めイめイと大きな聲で啼いて、馬鹿聟殿を向角(ムカツノ)で、どいら突き飛ばした。聟殿はおつたまげて、おういおういと大泣きに泣いて家に歸つた。

 そこで母親もこの聟殿があんまりな馬鹿者なのに呆れ返つて、二度と再び舅家などへは行くなと言ひつけた。

(參考のために出羽の「山の與作《よさく》」の話をする。この話は普通の「馬鹿聟噺」の型を破つた、不思議な哀話であつた。それは出羽の庄内、立谷澤《たちやざは》と云ふ所の山奧に、與作といふ愚直な男があつた。獨身者《ひとりもの》であつたので、或人の世話で、麓の村から嫁子を貰つた。其嫁子の名はお初と云つた。

 お初は與作がどんな馬鹿なことをしても、決して厭な顏をしたり、小言を言つたりした事がなく、それはそれはまめまめしく聟鍛に仕へた。村の人達でお初のことを褒めぬ者はなかつた。

 與作は春になつたので山の蕨《わらび》を採つて來て、それを舅の家へ土產に持つて行つた。舅姑《しうと・しうとめ》は大層喜んで、そのお禮に小判を一枚出して、聟殿々々これを持つて行つて何かの足しにと言つてくれた。與作はそれを貰つたが、途中でどうも其小判が不思議でならず、力任(チカラマカ)せに平たい石の上に叩きつけてみると、チヤリン、チヤリンといふ音がした。これは面白い物だと思つて幾度も幾度もさうして叩きつけて鳴らした。其中《そのうち》に小判がひしやげて見惡《みにく》くなつたから、川の中にブン投げて歸つた。

 お初は家で夫を待つて居たが、夕方やつと歸つたから、お前は里から何か貰つて來なかつたかと訊くと、與作は何だか薄いピカピカ光る金《かね》を貰つたども、石に打つけると面白い音がするから、打ちつけ々々々々して遂々仕舞ひには川さ投げ棄てて來たと言つた。お初はそれは小判と云ふものであつたべに、今度それを貰つたら、これに入れて大事に懷中にしまつて持つて[やぶちゃん注:底本は「持つた」。「ちくま文庫」版で訂した。]來さいと言つて財布を渡した。

 それから間もなく谷澤に蕗《ふき》が生へる時になつた。與作はその蕗を採つて、舅の家へ土產に持つて行つた。舅姑は大層喜んで、今度は、お前のとこらには無いだらうからといつて、靑馬を一匹くれた。それを曳いて來る途中で、いつかお初から聽いた話を思ひ出して、ふところの財布を出して馬を入れようとすると、馬はハヒヒヒンと高噺《たかいなな》きをして何處かへ逃げてしまつた。家へ歸つて其事をお初に話すと、お初は歎いて、馬を貰つたら綱を着けて、はいはいと言つて曳いて來るもんだと敎へた。

 それから間もなく筍《たけのこ》が生へる季節になつた。與作はその筍を採つて籠に入れて、舅の家へ持つて行つた。すると舅姑はひどく喜んで、これを持つて行つて使へと言つて立派な茶釜をもらつた。それを持つて來る途中で、ざえざえさうだつた。お初があゝ云つたつけと漸く思ひ出して、茶釜の鉤(ツル)に綱をつけて、石カラ路をがらがらと曳き摺つて來た。そしてはつぱり茶釜は壞れてしまつて、鉤ばかりを家へ曳いて來た。お初はそれを見て歎いて、なんたらことだ。茶釜を貰つたら手ささげて來るもんだと敎へた。

 其中《そのうち》に秋になつた。山には澤山、菌《きのこ》や葡萄やコウカ[やぶちゃん注:「紅花」(べにばな)のこと。被子植物門双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ属ベニバナ Carthamus tinctorius 。]などが實つた。今度はそれらの物を採つて籠に入れて背負つて、舅の家へ行つた。舅姑はいつもいつも珍しい物ばかり貰う[やぶちゃん注:ママ。]と言つて喜んで、これを曳いて行つて木でもつけろと言つて、一匹の斑牛《まだうし》をくれた。與作は其牛を貰つて曳いて來る途中で、あゝさうだつた、お初があゝ言つたつけと思ひ出して、斑牛の頭をつかまへて引上げやうとした。すると斑牛はひどく怒つて與作を角で突き殺してしまつた。

 其日の夕方、お初は家に居て、夫の歸りを待つて居たども、なかなか歸らなかつた。あんまり遲いものだから、松火《たいまつ》をつけて迎ひに行くと、山路《やまみち》の途中で夫は牛に腹を突き破られて死んで居た。それを見てお初は大層歎き悲しんで、其所の千丈ケ谷と云ふ難所から夫の屍《しかばね》を抱《いだ》いたまゝ身投げして死んでしまつた。それ以來此村では、與作、お初と云ふ名前をつけぬと謂ふことである。

此話のみは雜誌『話の世界』一卷七號、大正八年十二月號に載つた。淸原藍水と云ふ人の物であるが、こんな機會にでも採錄して置かぬと自然と忘れられてしまふから記錄して置いた。)

[やぶちゃん注:以上の附記はポイント落ち字下げを行わずに、本文同ポイントで引き上げた。最後の段落の冒頭の字下げがないのは、そのままで、これは佐々木自身の形式であって、誤りではない。なお、私は昔、本章本文を読んでいる最中、既にして、牛の角に突かれたら、死ぬかもしれない、ふっと思ったのを思い出す。而して、以上の哀話落ちを読んで、思わず、二人の最期を想起し、与作とお初の冥福を心の中で祈ったものであった。

「出羽の庄内、立谷澤」現在、山形県東田川(ひがしたがわ)郡庄内町(しょうないまち)立谷沢(たちやざわ:グーグル・マップ・データ航空写真)があり、南端近くに月山が、北の域外の近くに羽黒山が位置する山間地である。但し、旧「立谷澤村」は「ひたたGPS」の戦前の地図で見ると、羽黒山まで含まれていることが判った。なお、「千丈ケ谷」はそちらで調べてみたが、見当たらなかった。月山の東直近には「千本松山」と「念佛原」があるが、与作が麓の里から帰る途中のロケーションでなくてはならず、こんな南の奥の高山部ではあり得ない。]

 

        馬買ひ(其の三)

 馬鹿聟殿が、或日馬ア買ひに小袋をさげて行つた。さて買つた馬を小袋に入れて持つて歸るべえとしたが、馬はどうしても小袋に入らなかつた。家へ歸ると爺樣に、聟殿聟殿馬買つて來たかと訊かれた。そこで聟殿は聲を張り上げて、

   馬がア―

   逃げたア風(ふ)だア…

 と歌つた。すると直ぐそのあとに續いて、馬が、インヒヽン、インヒヽンーと嘶《いなな》いた。

 次に婆樣が、聟殿聟殿馬ア買つて來たかと訊いた。そこでまた聟殿は聲を張り上げて、

   婆アやア

   婆アやア―

   馬が逃げたつだア―

 と歌つた。すると直ぐそのあとへ續いて馬が、インヒヽン、インヒヽンと嘶いた。

 爺樣婆樣の考へでは、どうもこんな聟殿では分らないと言ふので、遂々《たうとう》逐《お》ひ出した。

  (馬鹿聟殿の頓狂な唄聲に續いて、インヒヽン、
   インヒヽンと馬の嘶き聲を付ける、その節𢌞し
   のユーモアが此話の興味である。森口多里氏御
   報告分の六。)

 

        厩舍褒め(其の四)

 舅の家では厩舍《うまや》の新築祝ひで、聾殿にも來いと言つて來たので、これは行かねアばなるまい、さあ行つて來るウと言ふ。嫁子は心配して、家を出る時、あの厩舍には大事な柱に節穴があつけから、此所さ火伏せの御守札を貼ればええなすと言はさえと敎へて出した。

 行つて見れば成程大事な柱に節穴があつたので、聟殿は後からついて步きながら、舅どん、舅どん、あつたら柱に節穴がついてをるが、こゝに火伏せのお守札を貼るとええなすと、オカタから敎はつた通りのことを言つた。舅殿は感心して、俺ア聟どんは少し足りないつて謂ふ評判だつたが、これでは何も不足はないと思つて、さうだアさうだア、聟どんはよいところに氣がついたと言つて、ひどく喜んだ。

 ところが舅殿に褒められて、圖に乘つた馬鹿聟どんは、厩舍の中の雌馬の尻の方を見て居たが、いきなり、あツ舅殿し、この馬の穴さも火伏せのお守札をはんもさえと言つて、大味噌をつけた。

 

        大根汁(其の五)

 或家で聟殿を貰つた。世間の話では、その聟殿は少々薄馬鹿だと云ふ事で、また聟殿自身も人にさう云はれるもんだから、始終内氣勝ちで居たが、本家から箸取振舞(ハシトリブルマヒ)に來いと招《よ》ばれたので、嫁聟二人で行くことになつた。聟殿が本家さ行つて人に笑はれネばよいがと心配すると、アネコ(嫁子)はそれを慰めて、なにもそう心配することアねえ、御馳走はたいてい大根汁にきまつて居るから、大根ヅものアええもんだ。根も食へれば葉も食へてツて褒めらツさえと敎へた。聟殿は喜んで、それを何時《いつ》さう言へばええべと訊くと、嫁子はそれではお前の腰さ細繩コ結び着けて置いて、それをチキツと引張《ひつぱ》るから、其時にそう[やぶちゃん注:ママ。]言はさえと敎へた。

 聟殿は腰に細繩を着けてもらつて、嫁子《あねこ》と一緖に本家へ行つた。お膳が出ると、案の定大根汁であつたので、お膳に向つた時、嫁子はチキツと繩を引張つた。聟殿はこの時だと思つて、ははア大根ズものアええもんだ。根も食エば葉も食つて、と居云つてお辭儀をした。皆は魂消《たまげ》て、なんだかえアニコ(兄聟殿ということ[やぶちゃん注:彼は恐らく長女或いは長男よりも年上の次女等の聟なのであろう。])を世間では薄馬鹿だと言ふが、本當に噂ツてものはあてにならねもんだ。馬鹿聟どころか世間に餘計《よけい》ない[やぶちゃん注:そうしたものが他にいない。]利功者だと感心して居た。

 ところがその中《うち》に嫁子が小用を足しに行つた。その繩の端にはどうしたものか鰯を結び着けて置いたので、猫がそれを見つけて、パクツパクツと引張つた。そこで聟殿はその度每に一生懸命に、大根ズものアええもんだ。根も食エば葉も食ふ…と續けざまに言つたので、すつかり木地をあらわしてしまつた。

(箸取振舞とは、男女新婚の前後に主に婚儀前親類緣者の家に招ばれて行つて、御馳走になり、其上に錢を貰ふことである。此話は盛岡地方の昔話である(橘正一君報)。ところが拙妻の記臆して居た話では、馬鹿聟殿の言ふことばが、少々長くて斯《か》うであつた。――芋ヅものアええもんだ、根も食つて葉も食つて、親ア食つて子食つて、殘るところはケツクラケツのケブカ(毛)ばり…と云ふのであつた。勿論この方は芋汁の御馳走であつたのである。昭和三年十二月二十七日聽記《ききしるし》の分。)

[やぶちゃん注:附記は、やはりポイント落ちはやめて、引き上げておいた。]

 

        小謠(其の六)

 或時、馬鹿聟殿が舅家へ行くと、聾舅どんは小豆團子《あづきだんご》を食つたことが無かんべから、こさへて御馳走すべえと云つて、姑婆樣《しうとばばさま》が小豆團子をつくつて食はせた。それがとても甘《うま》かつたので、聟殿はその團子を仕末するところを、よく見張つて見て居ると、戶棚に入れたから、その夜中に皆が寢沈《ねしづ》[やぶちゃん注:漢字はママ。]まつてから、そつと起きて、戶棚から團子瓶《だんごびん》を取り出して、頭を突ツ込んでうんと食つた。そして鱈腹《たらふく》食つてから、頭を拔くべと思つたら、どうしても瓶から頭が拔けなかつた。そのうちに裏心《うらごころ》がさして來たので、厠舍《かはや》に行つて蹲《シヤガ》んで居ると、舅殿が帶廣裸體(オビヒロハダカ)でうそうそとやつて來たので、馬鹿聟殿は魂消《たまげ》てカキギ箱の中に入つて隱れた。[やぶちゃん注:「裏心」通常は「企みを考えること」の意であるが、どうも合わない。「後ろめたい気持ちが募って」の意であろう。「帶廣裸體」「帶代裸」と同義で「細帯を締めただけの、だらしのない姿」を指す。但し、通常は女性のそうしたあられもない姿を指す。「カキギ箱」「搔木箱」で「「搔木」は糞箆(くそべら)で、大便をした際、尻を拭うのに用いる木片を指す。「捨て木」「籌木」(ちゅうぎ)「ちょう木」「つっ木」「ようど木」「しの木」などとも呼ぶ。]

 そんなことは一向知らない舅殿は、用を濟ましてから、カキギを探したが、箱になかつたので、其所にあつた石を取つて尻を拭(ヌグ)つて、その石をべえアら(いきなり)投げた。するとそれが馬鹿聟殿のかぶつていた瓶に當つて、瓶はガチンと音がして壞はれた。そこで聟舅して、お前が石で拭つたことを俺は喋言《しやべ》らねから、お前も俺の瓶のことを言ふな言わないと約束をして、二人は素知らぬ振りをして朝間《あさま》まで寢て居た。

 或時、親類に婚禮があつて、舅殿もこの馬鹿聟殿も招ばれて行つた。舅殿は、さあさ親類役として小謠《こうたひ》を一つと所望されて、威儀を正しくして、斯《か》う歌ひ出した。

   池の水際(ミヅギワ[やぶちゃん注:ママ。])の

   鶴ら龜エはア…

 馬鹿聟殿はそれを聽いて憤然(ムツ)として、これあ酷いツ、お前は石で尻拭いたケたらと言つた。

[やぶちゃん注:「小謠」謡曲「鶴亀」の一節。しかし、このシークエンスで馬鹿聟が何故むっとしたのかが、私が馬鹿なのか、判らない。何方か御教授願いたい。]

 

        舅禮(其の七)

 馬鹿聟殿は舅禮《しゆどれ》に行くべえと思つて朝早々に家を出たが、さて、何と言つて行つたものか、少しもその見當がつかなかつた。一升樽を下げて道々その事ばかり考へながら行つた。すると大きな川のほとりへ出た。見ると對岸に隣の父(トト)が朝釣りをして居たから、あゝさうだ、彼《あ》の人なら何でも覺えて居る。これは一つ聞いて行つた方がいゝと思つて、ざいざい俺はこれから今舅禮に行くのだが、何と言つたらよいか敎へてケ申せやアと叫んだ。すると川向ひの父は自分の漁のことを聞かれるものと思つて、何今朝《けさ》はわからない。朝飯前にこればかりと言つて、魚籠(ハキゴ)[やぶちゃん注:「魚籠(びく)」のこと。]を頭の上へ高く差し上げて振つて見せた。馬鹿聟殿はあゝ分つた分つたと言つて舅家へ行つた。

[やぶちゃん注:「舅禮《しゆどれ》」の読みはサイト「ふるさと栄会」の「ふるさと昔っこ(畑則子)」の「三人婿(むご)の舅礼(しゅどれ)」の読みに従った(恐らくは「しゅうとれい」の変化したものと思われる)。また、工藤紘一氏の報告「聞き書き 岩手の年中行事」(『岩手県立博物館研究報告』第二十八号所収・二〇一一年三月発行・PDF)で、この「舅礼」行事が確認出来た(4950ページ)。それによれば、初日の期日が決まっており、一月二日で、『昼頃、若夫婦は嫁の実家へ行く。これを舅礼という。結婚後、3年間これを続けなければ、嫁を取り返されるといわれている。土産は酒と魚と餅で、このため婿の家では 1 臼(3 4 升)余分ついたものである。5 日頃には婚家へ戻る』とあった。]

 舅家の玄關へ行くと、そこへ舅姑が出て來たから、こゝだとばかり早速、一升樽を頭の上に差し上げて、はい今朝はわからない。朝飯前にこればかりと大きな聲で呶鳴《どな》つた。舅姑等は面食つて何のことだかさつぱり分らなかつた。とにかく座敷に通していろいろと御馳走をして歸した。

 其歸り路でひよつくりと今朝の隣家の父に出會つた。やや今朝はどうもありがとう、お蔭樣で何事なく舅禮をすまして來たますと言ふと、隣家の父は怪訝《けげん》な顏をして、はあお前は何と言つたいと訊ねた。馬鹿聟殿は、あゝ間違つてゐたかな、今朝はわからない、朝飯前にこればかりと言つたと答へた。[やぶちゃん注:底本は本文が行末で句点がない。「ちくま文庫」版で添えた。]隣家の父は呆れてしまつて、俺はまたお前がなんぼ釣れたと訊くのだと思つて、あゝ言つたが、えらい舅禮をやつたもんだなアと言つて大笑《おほわらひ》した。

 

        茶釜(其の八)

 馬鹿聟殿が或時、舅家の秋振舞ひに招ばれて行つて、うんと御馳走になつて、湯をがぶがぶ飮んだので、夜中になつたら小便が出たくなつた。けれども起きるのが厭だから、我慢をして床の中でもぢもぢして居た。したどもなぞにしても我慢(ガマン)がし切れなくなつて起きた。そして肥料桶(タメオケ[やぶちゃん注:ママ。])を探してうろうろと方々を步き𢌞つたけれども、どうしても見付からなかつた。其中《そのうち》に腰がはちきれさうになつたので、仕方なく爐傍《ろばた》へ來て、茶釜に睾丸《きんたま》を入れてたれた。それからあゝええと思ふと、茶釜の中でうるけて[やぶちゃん注:「ふやけて」の意。]、どうしても拔けなくなつてしまつた。

 斯《か》うなつてはいくら馬鹿聟でも、おせうしく(恥かしく)なつて、室《へや》の隅(スマ)コに縮(スク)くまつていると、その家の姑樣が朝間早起きをして、その態《ざま》を見た。そして子供を背負つて搖《ゆす》ぶりながら斯う云ふ歌をうたつた。

   佛の前の白べのこヤエ

   凍水(スガミズ)かければ

   スポンと拔けるもんだヤエ

   ねんねんこヤエ

   ねんねんこヤエトサア…

 それを聞いて、馬鹿聟殿は流し前へ行つて、前に凍水をかけると茶釜が取れた。

 

        (其の九)

 馬鹿聟殿が舅家へ招ばれて行つて泊まつて、そして初めて枕と云ふ物をして寢た。どうも頭の工合《ぐあひ》が惡くて、ろくろく寢つかれなかつた。そこで側《そば》に寢て居る嫁子《あねこ》に、ざえざえ、これは何と云ふもんだと訊ねた。嫁子は自分の名前を訊いて居ることゝ思つて、おれお駒シと言つた。

 朝間《あさま》起きて家内一緖に膳に向つての朝飯時に、馬鹿聟殿は、やあやあ昨夜は一目も眠れない。お駒をするべえするべえと思つて、押しつければおぞり(退き)おぞり、やつと壁側に押つけてからして寢たと言つた。それは箱枕のことであつた。

(此頃八戶の『奧南新報』と云ふ新聞に出て居た。三戶《さんのへ》郡階上(ハシカミ)村赤保内(アカボナイ)邊の話として左の如き報告があつた。馬鹿聟は枕を知らず、いつもごろりと寢て居た。嫁が來るといふので、ある人が枕をこしらへてやつた。これ誰ざい。だれづいと言つた。嫁は自分の名だと思つて、せん子ジますと答へた。朝間皆のゐる所へ來て、ゆうべひとつも寢なや、はめればぬぐ、はめればぬぐして、と言つたと云ひす云々。)

[やぶちゃん注:附記はやはりポイントを落とさず、引き上げた。最後の「云々」の後には句点はないが、「ちくま文庫」版で補った。

「三戶郡階上(ハシカミ)村赤保内(アカボナイ)」青森県三戸郡階上町赤保内(グーグル・マップ・データ)。南東の端の山岳部が岩手県に接している。]

 

        屛風の話(其の一〇)

 馬鹿聟殿が舅家へ行つた。いろいろ話をして居たが、寢る時、これを立てゝ寢ろといつて屛風を出してやつた。馬鹿聟殿はこんなものは初めて見るので、どう立てゝよいものか見當がつかず、眞直ぐに立てゝは轉《ころ》ばし、足を踏み伸ばしてやつては蹴飛《けと》ばしたり、轉がし轉がし、遂々《たうとう》一晚中屛風のうんざい(仕末)ばかりしていた。朝間《あさま》の飯時《めしどき》に、あれは誰だいと訊ねると、舅殿は家の娘のことと思つて、ちょう子ズますと言ふと、馬鹿聟殿はやつきとなつて、ちょう子だか何だか、俺ら昨夜十八遍ばかりおつ立てたと言つた。

 

        雪降りの歌(其の一一)

 或長者どんから花嫁子《はなあねこ》をもらつだ[やぶちゃん注:ママ。]馬鹿聟が、舅禮に行くのに何も持つて行くものがないから、ありあわせの蕎麥粉《そばこ》を出して、蕎麥粉搔餅(《そばこ》ケモチ)をこしらえて、それを藁ツトに入れて、負(シヨ)つて出た。嫁子《あねこ》はいやがつて、なんたらおらそんな物を持つて行かば厭《や》んたすと言つた。聟も持餘《もてあま》して、そんだらこれえ何(ナゾ)にすべえと訊《たづ》ねると、そんな物何所《どこ》さでもいゝから、ブン投げてがんせちやと言つた。けれども聟は育ちが貧乏であるから、せつかくのものを投げ棄てるのも惜しくて、路傍に匿《かく》して、そのしるしに糞をひつて置いた。

 其晚舅家でうんと御馳走になつて、翌朝起きて見ると、外はのツそりと雪が降つてゐた。聟は慨嘆して、斯《か》ういふ歌を唄つた。

   雪降りてヤイ

   しるしの糞も見えざれば

   我が蕎麥ケモチは

   いかになるらむ

 それを舅殿が聽いて、聟どんは何云つて居るでやと訊《き》いた。嫁子は何さ斯う言つてますたらと言つて、歌を左のように直して聽かせた。

   雪降りて

   しるしの松も見えざれば

   我が古里は

   何處(イヅク)なるらむ

 そこで舅殿は、おら聟殿は薄馬鹿だと聞いて居たが、なんのなんの偉《えれ》え歌詠みだと感心した。

 

        團子(其の一二)

 馬鹿聟殿は、舅家へ秋振舞ひに招ばれて行つて、小豆團子を御馳走になつた。それがあんまり甘《うま》かつたので、家へ歸つたなら、早速母親(アツパ)にこしらえて貰つて食ふべえと思つた。そこで夜寢てから、側のオカタ(妻)にそつと、ざいざい先刻《さつき》夕飯時に食つたものは、あれや何と云ふもんだと訊いた。するとオカタは、なんたらことを言ふ、あれは團子だましたらと敎へた。

 翌日聟殿は家に歸る路すがら、忘れてはならぬと思つて、團子團子團子と言ひ續けて來た。ところが其途中に小さな流れがあつたが橋がないので、其所を、ウントコ! と掛け聲して跳び越えた。それからはウントコ、ウントコと言ひ續けて家に歸つた。

 家へ歸ると母親(アツバ)は爐傍《ろばた》で麻糸(イト)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を紡《つむ》んで居た。聟殿は家の中へ入るといきなり、ぜえアツパ、ウントコをこしらえて食わせもせと言つた。母親がそれは何のことだと聞くと、うんにやウントコだと言つてきかなかつた。それでも母親は何のことだか譯が分らぬものだから、たゞ呆氣《あつけ》にとられて居ると、息子はもどかしがつて、其所にあつた火箸をとつて、ウントコだつてばツと言つて、母親の額をコキンと叩《たた》いた。すると見て居るうちに母親の額に大きな瘤《こぶ》が出た。母親は呆《あき》れ返つて、なんたらこつたツこれや見ろ、俺の額さ團子のやうな瘤が出來たがやと歎いた。息子は其時、あゝあゝその團子のことだつたと言つた。

(多分此の話は「紫波郡昔話」にも出ていたと思う。重復[やぶちゃん注:ママ。]の嫌《きらひ》はあるけれども、言葉など一寸變つているから、再錄した。小豆團子ではなく、ソクシレ團子と私等は祖父母から聽いたものであつた。また言ひ間違つた掛け聲を、ウントコ、セツト、ドツコイと云ふやうに、土地々々で多少の相違がある。江刺郡米里村地方でも同話を聽いたが殆ど同じ故《ゆゑ》略す。)

[やぶちゃん注:附記はポイントを上げ、引き上げた。

「紫波郡昔話」佐佐木喜善の本書より五年前の著「紫波郡昔話」(大正一五(一九二六)年郷土研究社刊)のそれ。国立国会図書館デジタルコレクションで見ると、ここ。標題は『(一〇四) 小豆餅(馬鹿聟噺其九』となっている。なお、紫波郡は現代仮名遣では「しわぐん」で旧郡域は当該ウィキを見られたい。

「ソクシレ團子」不詳。識者の御教授を乞う。

「江剌郡米里村」現在の奥州市江刺米里(えさしよねさと:グーグル・マップ・データ)。遠野市からは南西に当たる。]

 

        (其の一三)

 馬鹿聟殿が正月舅家へ呼ばれて行つて、小豆餅をうんと御馳走になつた。其夜奧座敷に寢せられたが、夜半に小便が出たくなつて起きた。そして座敷中を這ひ𢌞つたが、どうしても出口が分らぬので大變に困つた。其中《そのうち》に迚《とて》も耐え切れなくなつたので、疊を起《おこ》して床板《ゆかいた》の節穴を見付けて、其所からスンズコ[やぶちゃん注:ちんぽこ。]を入れてじこじことして居た。ところが其床下《ゆかした》は鷄舍(トヤ)になつて居たので、馬鹿聟殿のスンズコをひよつこどもがつつ突き切つて生呑《なまの》みにしてしまつた。

 多くのひよつこの中に鳴きやうの變つたのが一羽居た。初めの中《うち》は、キンキンキンと鳴いて居たが、大きくなつて時を立てるようになると、いきなり、

   Kintama

   Kintama

 と鳴いたとさ。

  (村の農婦高室千早婆樣が、醉ふと常に語り聽かせた

   話であつた。)

 

         相圖繩(其の一四)

 馬鹿聟殿は新聟で、舅家から嫁子《あねこ》と一緖に來いと言つて使ひが來たが、嫁子は聟殿が薄馬鹿なことをシヨウシ(恥かし)がつて一緖に步くのを嫌つた。そしておら先さ行つて居るから、あんたは後《あと》から來さいねン。あんたの來る途々《みちみち》さば小糠《こぬか》をこぼして行(エ)くから、その通り步いてございン。さうすれば間違ひなくおらの實家さ着くからと、くれぐれも言ひ含めておいて先に出て行つた。

 そこで馬鹿聟殿はあとから家を出て、小糠のこぼれてゐるとほりに步いて行くと、途中で風が吹いて小糠が水の乾(カ)れた堰《せき》や小川へ飛び散らけて居た。それでも馬鹿聟殿は小糠の落ちてゐる通り、何所までも何所までも、步いて行かねばならぬものと思つて、堰に入つたり、小川へ入つたりして、紋付や袴をさつぱり泥ぐるみにしてしまつた。そして溝鼠《どぶねづみ》のやうな格好になつてやつと舅家へ辿り着いた。嫁子はその態(ザマ)を見て、アンダ何シしたでや、この態アと、うんと叱つた。そしてすつかり裸體(ハダカ)にして衣物《きもの》を洗つてやつて、やつと其晚は舅家のお客になつた。

 ところが、嫁子は舅殿が御馳走の座敷で何から先に食べていゝか、一向知らないのが氣がかりで聟殿を蔭に呼んで、大事なところに紐を結びつけて、其端を持つて居て、人に知れないやうにツツと引いたらお汁(ツケ)を吸ひなさい[やぶちゃん注:底本では「さない」。「ちくま文庫」版で訂した。]。又ツツツツと引いたら御飯を食べなさい。又ツツツツツツと引いたらお肴《さかな》を食べさんしと吳々《くれぐれ》も言ひ含めて置いた。いよいよ御馳走が始まつたが、嫁子が約束通りの合圖の紐を引いてくれたので、聟殿は箸を取つて、はい御飯、はいお汁、はいお肴と間違ひなく食事をすることが出來た。お客樣達はこれを見て、はてこの聟殿は薄馬鹿だと云ふ評判だが、斯《か》うちやんと物を順序に食べるところを見ると、まんざらでもないらしいと心の中で思つて居た。ところが其中《そのうち》に嫁子は小用を達したくなつたので、ちよつとの間ならよからうと思つて、紐を柱に結びつけて置いて厠《かはや》へ立つた。その𨻶に猫がやつて來て、紐に足を引つ掛けて、もがいて、無茶苦茶に紐を引つぱつたので、馬鹿聟殿はそれを嫁子の合圖だと早合點して、この時だとばかり、大狼狽(アワ)で汁も飯も肴もアフワアフワ呻《うな》りながら一緖くたに口に搔攫《かきさら》ひ込んだ。それを見てお客樣達は、成程こいつア名取者《なとりもの》だと初めて知つた。

(陸中水澤町附近に行はれて居る話。森口多里氏の御報告の七。同氏は「團子の名を忘れた馬鹿聟。」「澤庵漬で風呂の湯を搔き𢌞した話。」、和尙と小僧譚の第三話の、「頓智で餅を食べる小僧話」と共に、同地方での尤も普遍的な、そして亦尤も屢々《しばしば》語られる昔話であると言つておられた。)

(舊南部領、遠野地方に行なわれて居る話では、細紐を馬鹿聟殿の龜頭に結びつけたとしてある。又此合圖も御馳走ではなくて、舅殿との對座の御會釋《ごゑしやく》であつて、一つ引張つたらハイと言へ、二つ引張つたら、ハイハイと言へ、三つ引張つたら、三度續けてハイと言ふのだと吳々も言ひ含められて行つた。ところが嫁子が小用に立つたあとで、猫が其糸に引絡《ひつから》まつたので、引張られることが非常に急劇[やぶちゃん注ママ。]で、且つ强いので、聟殿はしつかり弱り、ハイハイハイハイの頭首(カラクビ)が引きちぎれ申しアンすと言つて、化けの皮が露見に及んだと物語る。)

[やぶちゃん注:附記はやはりポイントを上げ、上に引き上げた。「頓智で餅を食べる小僧話」に句点がないのはママ。「ちくま文庫」版では前の二つの「話」の後の句点も除去されてある。

「水澤町」現在の奥州市水沢町(グーグル・マップ・データ)。

『和尙と小僧譚の第三話の、「頓智で餅を食べる小僧話」』先行する「一七一番 和尙と小僧譚(七話)」であるが、「ちくま文庫」版もそのままであるが、「第三話」は恐らくは「第二話」の誤りと思われる。

 

        シヤツポと茶釜(其の一五)

 馬鹿聟殿が何かの用事で往來を步いて居ると、ぽつかりと知り合ひの人に出會つた。天氣でいゝなと、その人が冠物《かぶりもの》を取つたら、馬鹿聟殿がそれや何だと訊いたので、これかこれはシヤツポだと敎へた。

 馬鹿聟殿もそのシヤツポをかぶりたくなつて町へ行き、まづ宿屋へ泊つて訊いて見ることにした。そして宿屋の女中さんにお前樣、シヤツポを知らねえか知つておれば買つて來てくれと賴んだ。[やぶちゃん注:底本は読点だが、「ちくま文庫」版で訂した。]すると女中はシヤツポをチヤツボと聞き違へて、早速茶壺の大きなのを買つて來た。聟殿は喜んでそれをかぶつて步いた。 

  (八戶の奧南新報紙上に「村の話」としてあつた
   ものの中から、自分の村でも現に話して居るも
   ののみを取つてみた。此所に其の重復を明らか
   にして置く。)

[やぶちゃん注:「奧南新報」は明治四一(一九〇八)年から昭和一六(一九四一)年にかけて、青森県八戸市で発行された新聞。]

 

        飴甕(其の一六)

 舅禮に行つた馬鹿舅殿に、餅を燒いて御馳走したが、餅が燒けてもくもくとふくれ上るのを見て怖れをなして、馬鹿聟殿は、おつかないおつかないと言つて手をつけなかつた。

 馬鹿聟殿は恐ろしくすいた腹をこらへて寢て居たが、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]我慢が仕切れなくなつて、側に寢ている嫁子《あねこ》を搖《ゆす》ぶり起して、ざいざい何か食ふもんは無いかと訊くと、嫁子は臺所に飴《あめ》を入れてある甕《かめ》があるからそろツととつて食べなさいと敎へた。そこで馬鹿聟殿は起き上つて、物につまづいては音を立て立てしてやつと甕を探し當てゝ、早く喰う[やぶちゃん注:ママ。]べえとして、一度に兩手を甕の中に押し込んだら、手が取れなくなつたので飴甕《あめがめ》を寢床へ持つて行つて朝間《あさま》まで抱《だ》いて寢た。

 

        柊の椀(其の一七)

 或馬鹿聟が舅家の秋振舞ひに招ばれて行くのに、何と言つて會釋《ゑしやく》をしたらいゝかと、心配して居ると、嫁子が、何にも心配してがんすな。おらほさ行つたらきつと、柊《ひひらぎ》のお椀コ出すこつたから、そしたら爪先きでピンと彈(ハヂ[やぶちゃん注:ママ。「ハジ」でよい。])いて見て、カチツと音コがしたら、ははあこれあ柊(ヒヒラギ)のお椀だなと言つてがんせと敎へた。

 舅家へ行くと、案の定立派な膳椀が出た。そこで聟は家で敎はつて來た通りに、お椀を目八分《めはちぶん》に持ち上げて、ピンと爪で彈くと、カチツと音がしたから、しめたと思つて、ははアこれはヒイラギのお椀だなシと言つて、皆を驚かした。そしてひどく面目《めんぼく》をほどこして其晚は泊つた。[やぶちゃん注:「目八分」物を丁重に差し出す時や、かざす際に、両手で、目の高さよりも少し低くして、捧げ持つことを言う。]

 ところが其夜中に舅殿が疝氣を起して大騷ぎになつた。默つても居られぬので、聟は厭々《いやいや》ながらも起き出して行つて見ると、舅の仙氣睾丸《せんききんたま》が腫れ上つて、恰度《ちやうど》大椀《だいわん》のやうな工合《ぐあひ》になつて居た。そこで馬鹿聟はまた褒められるべえと思つて、舅の側へうやうやしく這ひ寄つて行つて、内股から餘つて居る睾丸を爪先きでピンと彈いたら、堅くてカチツと音がした。馬鹿聟殿はこゝだと思つて、大きな聲で斯《か》う言つた。ははアこれもやつぱりヒイラギのお椀だなシ。

[やぶちゃん注:「柊」シソ目モクセイ科 Oleeae 連モクセイ属ヒイラギ変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus 。樹高は四~八メートル。私は不学にして、低高木であったから、木材としての同種の用途を認識していなかったが、当該ウィキによれば、『幹は堅く、なおかつしなやかであることから、衝撃などに対し強靱な耐久性を持っている。このため、玄翁と呼ばれる重さ』三キログラム『にも達する大金槌の柄にも使用されている。特に熟練した石工はヒイラギの幹を多く保有し、自宅の庭先に植えている者もいる。他にも、細工物、器具、印材などに利用される』とあったのには、ちょっと驚いた。]

 

        蛸振舞ひ(其の一八)

 或時、馬鹿聟殿が舅家へ招ばれて行つて、蛸の御馳走になつた。その蛸がとても甘《うま》かつたので、みんな寢沈《ねしづ》まつた夜半に窃《そ》つと起き出して、戶棚から蛸の殘りを探し出して、手摑《てづか》みで、むしやむしやと食つた。すると鮹の汁がだらだらと流れて睾丸《きんたま》にかゝつた。さア睾丸が痒くて痒くて堪《たま》らなくなつたので、大桶(コガ)の隅(スマ)コヘ行つて躇(シヤガ)んで居て、斯《か》う唄つた。

   チヤンプク茶釜に

   毛が生えたア

   ピヨララ

   ピヨララ…

 

        饅頭と素麵(其の一九)

 舅禮に行つた馬鹿聟殿に、蒸したての饅頭を出したら、湯氣がぼやぼやと立ち上るのを見て、怖(オツカ)ないから、殺して食ふと言つて天井裏へ投げつけた。

 素麵《さうめん》の膳に向へば、そのまゝ、これは長い長いと言ひながら類に卷き卷きして十六杯食つた。だから馬鹿聟である。

 

        澤庵漬(其の二〇)

 舅禮に行く馬鹿聟殿に嫁子《あねこ》が、家さ行けばきつと風呂を沸かしてるから、その時は糠《ぬか》を貰つて體《からだ》をこするんだまツちよ。糠を忘れないやうに氣をつけて、と敎へた。馬鹿聟殿は、道々糠々々と糠を繰り返して行つたが、ハツと石につまづき、糠を忘れて澤庵漬澤庵漬と言ひ代へて繰り返して行つた。

 舅家では一番風呂に入れた。そこで馬鹿聟殿は湯の中から大きな聲を出して、澤庵漬々々々と言つた。下女が[やぶちゃん注:風呂焚きの下女であろう。]食(アガ)るのなら、切つて上げアんすべと言ふと、いやいや長いの一本と言つて、澤庵漬を貰つて、一生懸命にそれで體をこすつた。

(森口多里氏御報告分の八。なほ下閉伊郡岩泉町地方に殘つて居る話に、舅家へ行つたら御飯の時の湯などが餘り熱かつたら、家でやるように[やぶちゃん注:ママ。]、音を立てゝフウフウ吹かないで、菜ツ葉漬を入れて搔き𢌞して飮むもんだと敎へられて行つた。厠家《かはや》へ行くと足洗湯《あしあらひゆ》を出されたが、あんまり熱いので、大きな聲で早く菜ツ葉漬菜ツ葉漬と言つて、漬物を貰つて搔き𢌞して足を洗ひながら、盥《たらひ》の緣《ふち》を叩《たた》いて四海波《しかいなみ》を歌つた。(昭和五年六月二十六日夜、同地の野崎君子氏談話の九。))

[やぶちゃん注:附記はやはり同ポイントで引き上げた。

「下閉伊郡岩泉町」岩手県下閉伊郡岩泉町(グーグル・マップ・データ)。

「四海波」謡曲「高砂」の「四海波靜かにて」から「君の惠ぞ有難き」までの祝言小謡としての通称。「四海静穏で国内のよく治まっていることを祝う」もので、婚姻・祝賀の席でしばしば謡われた。また、正月三日の「謠初め」には必ず出されるので、「謠初め」そのものの異称ともなっている。]

 

         船乘り(其の二一)

 或妻が、每夜夫に歌をかけた。その歌は斯《か》うであつた。

   磯ぎわに[やぶちゃん注:「わ」はママ。]

   繋いだ船に

   なぜ乘らぬ

 聟殿は薄馬鹿であつたので、その歌を解きかねて、お寺の和尙のところへ行つて訊くと、返歌を敎はつた。その歌は、

   荒浪ゆへに

   乘るに乘られず

 と言ふのであつた。その歌を詠むと、妻は聟殿の偉さを初めて知つて、それから夫婦仲が良くなつた。

  (村の農婦北川いわの殿の話であつた。)

 

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