奇異雜談集巻第四 ㊆三条東洞院鳥屋末期に頭より雀の觜生出る事
[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。【 】は二行割注。]
㊆三条東洞院鳥屋(とりや)末期(まつご)に頭(かしら)より雀(すゝめ[やぶちゃん注:ママ。])の觜(くちばし)生出(をひ[やぶちゃん注:ママ。]いづ)る事
三條ひかし[やぶちゃん注:ママ。]の洞院の東頰(ひかしかわ[やぶちゃん注:総てママ。])に鳥屋あり。
むかしより、ひさしき鳥屋なり。亭主、つねに、黐黏竿(とりもちざほ)をもつて、㙒山を、かけまはり、もろもろの色鳥(いろとり)[やぶちゃん注:奇麗な可愛いい鳥の意であろう。]をとり、籠(かご)にみてゝ[やぶちゃん注:「滿てて」。]、家にかへり。
をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、べち[やぶちゃん注:「別」。]の籠に、わけて、をき[やぶちゃん注:ママ。]て、うる。
生(いけ)てうるゆへに、つみ、なを[やぶちゃん注:ママ。]、じんぢう[やぶちゃん注:「深重」。]ならず。
[やぶちゃん注:「じんぢうならず」これらについては、観賞用の飼い鳥として売るため、殺生をしている訳ではないからであろう。]
あるひは[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、とりさしざほをもつて、村里(むらさと)を、ゆきまはり、雀(すゞめ)をとる事、はかりなし。
家にかへり、籠ひとつに、これを入《いれ》、鷹(たか)の餌(ゑ)のために、人、おほく、これを、かふ。あるひは、しめころして、うり、あるひは、生(いけ)てうるも、また、人、これを、ころす。そのつみ、いくばくぞや。
享主、とし、八十に、をよぶ[やぶちゃん注:ママ。]まで、此職(しよく)を、なせり。
ある時、いはく、
「白髮(しらが)、愧(はづかし)。浄教寺(じやうけうじ[やぶちゃん注:ママ。])にまいり[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]て、髮をそり、入道(にうだう)せん。」
と、いへど、だゞ、あらましのみにして、とげず。
[やぶちゃん注:「浄教寺」京都市下京区寺町通四条下ル貞安前之町(ていあんまえのちょう)にある浄土宗多聞山(たもんざん)鐙籠堂(とうろうどう)浄教寺(じょうきょうじ:グーグル・マップ・データ)。前身は承安年間(一一七一年~一一七五年)に、かの平重盛が東山小松谷の邸内に四十八間の御堂を建てて、一間毎に、四十八体の阿彌陀如来を安置し、四十八燈の燈籠を掲げ、「鐙籠堂」と称されたのが始まり(「京都オフィシャルサイト 京都観光Navi」の同寺の解説に拠った)。]
こゝに、明應年中[やぶちゃん注:一四九二年から一五〇一年まで。]のころ、はからざるに、やまひに、かゝりて、死す。
妻子、しうたん[やぶちゃん注:ママ。「愁嘆(歎)」。]かぎりなし。
妻(め)のいはく、
「さきに、『浄教寺にまいりて、入道せん。』といへり。その心ざしをもつてのゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、今、御僧、二人を請(しやう)して、剃刀(かみそり)をあてんと思ふ。」
といふ。
子息、すなはち、浄教寺にまいりて、此をもむき[やぶちゃん注:ママ。]を申せぱ、長老の、いはく。
「ふびんのしだいなり。やすき事、僧を、やるべし。」
とて、すなはち、僧二人、剃刀をもちてゆく。
その家に、時宗、兩人ありて、沐浴を、なせり。
浄教寺の僧、よりて、ひとり、剃刀をもつて、頂(いたゞき)にあて、
「流転三界中恩愛不能断棄恩入無爲眞實報恩者(るてん《さん》がいちうをんあいふのうたんぎをん《にふ》むゐしんじつほうをんしや[やぶちゃん注:総てママ。])」
の文をとなへ【「淸信士度人經」。】、かみ、そらむとするに、かしらの皮(かは)に、物、あり。
砂(すな)のごとし。
剃刀、ゆかず。
見るうちに、かたち、まさりて、麦(むぎ)つぶのごとし。
よくみれば、「雀のくちぱし」なり。
上、とがり、下、ふとし。
おほくして、あひだ、すくなければ、剃(そる)こと、あたはず。[やぶちゃん注:頭皮一面に雀の嘴が生えていたのである。]
ただ、髮を、手にとりて、刈(かり)、みな、おぢ[やぶちゃん注:ママ。]さりぬ。[やぶちゃん注:意味不明。「落ち去りぬ」で、雀の嘴の上のところで引っ張り上げた髪を、剃刀で削ぎ切ってばさばさと落とし尽したというのであろう。無論、それでは剃髪入道にはならない。]
浄教寺の僧、おどろき、をそれて[やぶちゃん注:ママ。]、さつて、寺にかへりて、かたりしなり。
うつゝに、いんぐは[やぶちゃん注:ママ。]を見する事、かくのことき[やぶちゃん注:ママ。]は、まれなり。
予、まのあたり、これをしれるゆへに、しるせる也。
[やぶちゃん注:「その家に、時宗、兩人ありて、沐浴を、なせり」唐突であり、後にも彼らが関わった事柄は、一切、述べられてはいない。なお、時宗は浄土宗の分派であるから、この鳥屋の家に、当時、二人の時宗関係者が滞在していても、何らの不審はない。親族かも知れず、故人の親しい友人かも知れない。そもそも「沐浴」というのは、亡くなった鳥屋の湯灌(ゆかん)のことを指している。されば、親族である可能性が非常に高い。しかし、この一行が意味するのは、この二人の人物が、以下の奇体な怪異を間近に目撃したことを意味し、何より、最後に作者自身がその場に弔問に来ていて、一部始終を「予、まのあたり、これをしれる」と言っているのである。則ち、一見、不審な以上は、同席していた作者の視線で描いた、とっておきのリアリズムのシークエンスとして挿入されたものなのである! これは、なかなか、真正怪奇実話としては、超弩級の凄い書き方だ! 参った!
「流転三界中恩愛不能断棄恩入無爲眞實報恩者」作者が割注する通り、「淸信士度人經」(現代仮名遣「せいしんじどにんきょう」)の一節だが、この経典は散佚して、経典としては存在していない。部分が、諸仏典に引かれていることから、伝わる。大分県日田市の真宗大谷派の「願正寺」公式サイト内のこちらによれば、これは「流転三界の偈」(るてんさんがいのげ)と呼ばれるもので、『剃髪式等にとなえる偈文』とあった。信頼出来る諸記載を見、総て正字化して推定訓読すると、
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三界(さんがい)の中(うち)を流轉(るてん)して、恩愛(おんあい)を斷(た)つこと能(あた)はざれども、恩を棄(す)てて無爲(むゐ)に入(い)るは、眞實報恩(しんじいつほうおん)の者(もの)なり。
*
と読むようである。]
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