梅崎春生「つむじ風」(その13) 「入玉」
[やぶちゃん注:本篇の初出・底本・凡例その他は初回を見られたい。
この章の標題は「にゅうぎょく」と読み、将棋用語で「一方の玉将」又は「王将が敵陣(相手側の三段目以内)へと移動すること」を指す語である。]
入 玉
浅利圭介は風呂敷包みをかかえ、浮かぬ顔をして、黄昏(たそがれ)の道を歩いていた。ソバ屋の前まで来ると、ちょっと立ちどまり、小首をかしげて呟(つぶや)いた。
「ソバも倦(あ)きたな。今日の夕飯はおばはんとこにしよう」
圭介は包みを持ちかえて、またとことこと歩き出した。風呂敷の中には、塩せんべい、ウィスキーボンボンなどが、ぎっしり詰められていた。
これらの菓子は、圭介が買ったものでなく、今日も加納明治宅を訪問、れいの如く塙女史に追い返される際に押しつけられたものである。行くたびに何か押しつけられるところを見ると、加納明治のイントク物資は、その度に塙女史によって摘発、押収の憂き目を見ているらしい。
「行く度に何か呉れるんだからな。ふしぎな女だ」
圭介は我が家の玄関をくぐった。玄関の扉をがたごとと引きあけた。
「ただいま」
「おっさん?」
いつもの気の抜けた声と違って、直ちにはずんだ声が茶の間から飛んできた。
「ちょっと茶の間に来なさい。話があるから」
「はい」
圭介は靴を脱ぎ、素直に茶の間に入って行った。どうせ茶の間で夕食をとるつもりだったから、ためらうことはなかった。
「おばはん。僕はおなかがすいた。何かあるか」
「用意してありますよ」
ランコはチャブ台の上の白い布をとった。夕食の膳がそこにあらわれた。圭介は風呂敷包みをとき、部屋の隅の圭一の寝顔を眺めた。
「塩せんべいは圭一は好きじゃないし、チョコレートは好きだが、こいつは中にウィスキーが入ってるし、も少し気の利(き)いたものを呉れるとたすかるんだがなあ」
「また何か貰って来たの?」
「今日はこれだ。今日も何か呉れるだろうと思ったから、風呂敷を用意して行ったら、案の定(じょう)役に立った」
ランコは紙袋の中をのぞき、ウィスキーボンボンをひとつつまみ、ぽいと口の中に投げ込んだ。
「ふん。これは割に上等のボンボンよ」
圭介は上衣を脱ぎ、チャブ台の前にどっかとあぐらをかいた。ランコはまたボンボンをつまみ、御飯をよそった。
「話って何だい?」
箸をとり上げながら圭介が訊ねた。
「いや、今日ね、ソバ屋のおやじさんがうちに来たのよ」
「ソバ屋のおやじ? まさか陣太郎の勘定取りにじゃあるまいな」
「いいえ。呼出電話がかかって来たと言うのよ」
「電話? 僕にか?」
「おっさんにじゃない。あたしによ」
「誰から?」
「だからあたしすぐソバ屋に飛んで行ったのよ。電話がかかってくる心当りはないし、とにかく電話口に出てみたの」
「誰だった?」
「それがね、松平家の家令だというのよ」
ランコはまたボンボンを口に含んだ。
「若様がそちらにいらっしゃるということだが、それは本当かって」
「松平家の家令?」
圭介は思わず箸の動きを中止した。
「それでなんと答えた? いるといったのか?」
「いいえ。そこをごまかしたのよ」
ランコはまたウィスキーボンボンを口にほうり込んだ。
「いると言ったら、迷惑がかかるかと思ってさ」
「迷惑って、誰に?」
「もちろんおっさんによ」
おっさん呼ばわりはしていても、さすがに亭主思いのところをランコは見せた。
「だって、あの陣太郎さんは、おっさんが連れて来たんでしょ。松平家としては、誘拐されたと思ってやしないかと思って」
「誘拐?」
圭介は失笑した。
「誘拐なんてものはね、子供に対してだ。せいぜい十四、五どまりだね。陣太郎君ぐらいの年頃にもなれば、自由意志で動く。で、いないと言ったのか?」
「いないとも言わない」
折角亭主思いのところを見せたのに、失笑されて、ランコはいささか気分をこわした。
「時々やってくるし、また泊ることもあるって、そう言っといたのよ。世渡りというものは、用心第一ですからね」
「その家令、いくつぐらいの男だった?」
「電話ですもの。判るわけないわよ」
今度はランコが失笑した。
「で、若様が今度やってきたら、伝言願いたいって」
「どういう伝言?」
「すぐ本宅に戻ってこいってさ。何でも京都から、十一条家の今嬢がやって来るんだって」
圭介は眼を宙に据え、箸を忙しく動かし、またたく間に一杯目を食べ終えた。空茶碗をにゅっと突出した。
「ふん。十一条家の娘か」
煮魚の平目の緑側のところをほじくりながら、圭介はつぶやいた。
「すると、見合いの話も、ほんとかな。しかし、どうして松平の家令が、僕の家を知ったんだろう。陣太郎が連絡するわけはないし」
「そうよ。そこをあたしも疑問に思ったのよ」
二杯目をよそって差出しながら、ランコが相槌を打った。
「だからそのことを聞いたら、いや、なに、とかごまかして、向うから電話を切ったの」
「へんだな」
「へんよ」
そこで夫婦の会話は途切れた。ランコは縫物にいそしみ、圭介は食べることにいそしみ、おのおのいそしみながら、何か別々のことを考えていた。四杯目を食べ終えると、圭介は茶を所望し、チャブ台の端に五十円玉をひとつ、パチンと置いた。それを横目で見てランコが言った。
「それ、ボンボンと差引きにしとくわよ」
圭介は五十円玉を台から引き剝がし、ポケットに入れた。茶を飲み終えると立ち上った。
「陣太郎君が帰って来たら、すぐ納戸に来るように言って呉れ」
圭介はそう言い捨てると、廊下を踏みならすようにして納戸(なんど)に歩きながら、ひとりごとを言った。
「すこし食べ過ぎた」
陣太郎はなかなか戻って来なかった。
待ちくたびれた浅利圭介は、蒲団をしいて腹這(ば)いになり、ウィスキーをちびちびなめながら、夕刊を読んでいたが、そのうちうとうととして、そのまま眠ってしまった。
眼がさめたら、朝になっていた。ふと見ると、傍の蒲団の中に、陣太郎の頭が見えた。
陣太郎は眼を閉じたまま、うなっていた。うなされているらしい。
圭介は半身を起した。枕もとのウィスキー瓶が、昨夜のままになっている。それをしまおうとつまみ上げたとたん、それがおそろしく軽くなっていることに気がついた。圭介は渋面(じゅうめん)をつくって呟いた。
「おや。昨夜そんなに飲んだかな。おかしいぞ。まさかこいつが――」
圭介は陣太郎の顔を見た。陣太郎は眼をつむったまま、うなりを断続させている。圭介は手を伸ばして、その陣太郎の肩を乱暴にゆすぶった。
「おい。陣太郎君。おい。しっかりせえ」
陣太郎はがくがくゆすぶられ、うなりを中止して、ぱっちりと眼をあけた。ごそごそと半身を起した。眼をぱちくりさせて深呼吸を二、三回した。
「ああ。夢だったのか」
「夢を見てたのかい」
圭介は注意深く陣太郎を観察しながら言った。
「また君が慶喜将軍になって、江戸城から追い出される夢かね?」
「いや。いくらなんでも、いつも同じ夢は見ませんよ」
陣太郎は両手の指を曲げて、頭髪をごしごしとかきむしった。
「おい。ふけが飛ぶじゃないか。いい加減にしなさい」
「女どもに追っかけられて、おれ、どうしようかと思ったよ。しかし、きれいな女たちだったなあ」
髪のかきむしりを中止して、陣太郎はぬけぬけと言った。
「五十人ぐらいの女どもが、一人残らずおれに惚れやがってね、弱っちゃいましたよ。逃げ出すのに苦労したよ」
「君は女が嫌いなのかい?」
「嫌いじゃないけど、あんなに大勢だと困りますよ。そいつ等がみんな真裸(まっぱだか)と来ている」
「真裸?」
圭介はごそごそと膝を乗り出した。
「そんないい夢なのに、うなされるなんて、もったいない話じゃないか。僕なら逃げ出さないな。甘んじて捕虜になる」
「おっさんならそうでしょうな」
陣太郎はけろりとした顔で言った。
「でもおれ、この間人相見に、人相を見て貰ったんですよ」
「人相?」
「その人相見がね、おれの顔には女難の相が出ていると、そう言うんですよ。女難とは弱ったねえ」
「時に君は――」
圭介は蒲団の上で坐り直して、きっと陣太郎を見据(す)えた。
「十一条家の娘と見合いするというのは、本当かね?」
「え? どうしてそれを知ってるんです?」
「昨日、電話がかかって来たんだよ。松平家の家令という人から」
「家令?」
陣太郎はとんきょうな声を出して、ごそごそと坐り直した。
「どうしておれがここにいることが、下島にわかったんだろう?」
「ああ、そうだ。今思い出したが――」
浅利圭介は膝をぽんとたたいた。
「おばはんが僕のことを、君んちの家令に推薦したそうだが、僕はイヤだよ。お断りするよ。今更カレイやシチュウなんかになりたくない」
「なろうたって、なれやしませんよ。下島がいるんだから」
「なぜ? 下島って男は、そんなにうるさいのかい?」
「うるさいうるさくないは、関係ありませんよ。そうだな。おっさんがなれるのは、さしずめ家従だな」
「家従? 聞き慣れない言葉だね。どうして僕が家令になれないのか――」
「家令というのは、大体一人に決っているんです。だからダメなんですよ」
陣太郎はあわれみの眼で圭介を見た。
「使用人の中の最高の位です。つまり使用人の束ねをする役ですな」
「家従というのは、家令の下か?」
「家令の下は、家扶です。家扶の下に、家従がある」
「家従の下は?」
「その下はない。行き止まりです」
「じゃあ庭番だとか下男だとか――」
「ああ、それは家従の中に含まれる」
「ふうん」
圭介はすっかり気分を害したらしく、不機嫌に息をはき出した。
「僕の相場は下男並みか。はっきり言明して置くが、僕は家令もイヤだし、まして家従はまっぴらだよ。ランコが何と相談持ちかけたか知らないが、全然お断りだよ」
「それで、下島、何と言ってました?」
「君に本宅に戻ってきて呉れってさ。戻ってやったらどうだい?」
圭介はつっぱねたような言い方をした。
「戻って、十一条の娘と見合いでもするんだね。こんなあばら家でごろごろしていることはないだろう」
「あばら家とはごけんそんですな」
陣太郎はにやにやと笑った。
「おれんちだって、ここと似たり寄ったりですよ。戦前はよかったが、戦後はさっぱり、斜陽階級というわけで――」
「十一条家はどうだね?」
「それも似たり寄ったりですな」
退屈そうに陣太郎はあくびをした。
「おれ、もう、あんな淀んだ世界は、すっかりイヤになったんですよ。小説を書いている方が、ずっと自由でたのしい。アッ、そうだ。おっさんの係りの加納明治は、どうなりました? 会えましたか?」
「会わせて呉れないんだよ。あの女秘書」
圭介はしょげた顔つきになり、煙草を取出して火をつけた。陣太郎も当然の権利の如く、圭介の煙草を一本抜き取った。
「行く度に何か呉れるんだけどね」
「昨日は何を貰いました?」
「塩せんべいにボンボン」
「それじゃつまらないな。せめてウィスキーか何か――」
「アッ、そうだ」
圭介は眼を剝いた。
「君は昨夜帰ってきて、僕の枕もとのウィスキーを飲みゃしなかっただろうな」
「飲んだというほどじゃありませんよ」
陣太郎は圭介の煙草の火を借り、煙をふわりと吹き出した。
「せいぜい二杯か三杯ぐらいなものです」
「グラスにか?」
「いいえ。茶碗で」
「茶碗で三杯?」
圭介の眉は上り、両掌は自然に拳固の形になった。
「殴るよ、ほんとに。茶碗で三杯も飲んで、飲んだというほどじゃないとは、何という言い草だ。あのウィスキーは高いんだぞ!」
「高いといっても、加納明治からタダで貰ったんでしょう」
「貰ったのは僕だ。黙って飲む権利は君にない!」
圭介は憤然としてきめつけた。
「君はこの間も、僕の眼を盗んで、僕のウィスキーを飲んだ。君には盗癖があるんじゃないか?」
「盗癖? 失礼なことを言わないで下さいよ。臣下の分際で」
「なに。臣下だと。僕はまだ君の家来になった覚えはないぞ。取消せ!」
「じゃあ取消しましょう」
陣太郎は渋々と失言を取消した。
「でも、昨夜は、おっさんは、ぐうすか眠ってたじゃないか。ずいぶんゆすぶったんですよ。どうしても眼を覚まさないし、それにおれ、くたくたに疲れて、神経がささくれ立って、ウィスキーでも飲まなきゃ眠れない状態だったんですよ」
「何でそんなに疲れたんだい?」
「偵察ですよ」
「まだ図上作戦をやってるのか」
圭介は呆れ果てたような声を出した。
「のんびりしてるなあ。もうあの日から二週間も経ってるじゃないか」
「作戦は密なるをもってよしとす、ですよ」
陣太郎は陳腐で月並な言葉をはいた。
「こういうことは、どんなに時間をかけても、かけ過ぎるということはない」
「へえ。それで、あとどのくらい作戦を練るつもりだね?」
「それは昨日で終りました」
「終った? じゃ何時[やぶちゃん注:「いつ」。]行動を開始するんだ?」
「今日ですよ」
陣太郎は自信あり気に胸を反(そ)らせた。
「いよいよ今日、おれは猿沢三吉にぶっつかって見るつもりです」
「大丈夫かね?」
「大丈夫ですよ。おっさんとは違う」
陣太郎は声を大にした。
「おっさんは一体全体、何度加納邸に行き、何度むなしく帰ってきたんです? 他人のことを大丈夫かなどという資格は、おっさんにはありませんよ。今後どうするつもりです?」
「明日、も一度行って見るよ」
「明日、ダメだったら?」
「明日は大丈夫」
圭介は小さな声になった。
「多分大丈夫だと思う」
「明日もダメだったら――」
陣大郎はかさにかかって声を大きくした。
「加納明治の係りを、おっさんから剝奪することにしますよ。判りましたね」
「剝奪してどうするんだい?」
「おれがやりますよ。おれが」
陣太郎は自分の胸をどんとたたいた。
「おれにまかせて置きなさい」
午後三時の三吉湯の番台に、猿沢三吉は鬱然たる表情で坐っていた。
女湯の方はいくらか混んでいたが、男湯の方には一人も浴客がいなかった。
もっとも男湯と女湯とでは、混む時間がちがう。男湯が一番混むのは五時から六時頃、そしてその時間は女湯はがら空きというわけで、三時から四時となると、その逆になる。三時というと、男はおおむね働いているが、女にとっては一番暇な時間なのだろう。
いくら働いているとはいえ、浴客の姿が一人も見えないのは、いささかうらさびしい。
「ちくしょうめ。やはりこれもテレビのせいだな」
三吉は舌打ちをして、男湯の板の間の一隅をにらんだ。そこには縁台みたいなものがあって、将棋盤がその上に置かれてあるのだ。
「やはり将棋では、テレビと太刀打ちは出来ないのか。ああ、わしは頭が痛い」
将棋盤から三吉は視線を女湯の方にうつした。眼をするどくして女客の数を数え始めた。
着物を脱ぎつつある女、着つつある女、全裸の女、こちら向きの女、あちら向きの女。さまざまの恰好と姿態と年齢の女性が、三吉の眼界にうごめいているのだが、三吉は微塵(みじん)も欲情することはない。一箇十五円の物体にしか見えないのである。風呂屋の主人としては、当然のことであろう。真知子の裸体には欲情するくせに、番台に黙って坐ればピタリと欲情しないのだから、職業的偏向というか馴致(じゅんち)というか、おそるべきものである。
もっとも風呂屋の主人にいちいち欲情されては、険吞[やぶちゃん注:「けんのん」。]で女たちは銭湯には行けないであろう。
「ううん。やっぱりいつもより少い」
数を読み終り、三吉は低くうなって腕を組んだ。
「やはり女もテレビが好きなのか」
ビキニにおける核爆発が、すぐ日本全土に悪影響を及ぼすように、泉湯に設置されたテレビは、たちまちにして三吉湯のお客を減少させたもののようであった。
「これは戦術を変えねばならないかな」
その時男湯の扉をがらりとあけて、石鹸箱とタオルをぶら下げた陣太郎が、勢よく入って来た。ごそごそと十五円をポケットからつまみ出し、じろりと三吉を見上げた。
「いらっしゃいませ。毎度ありがとうございます」
いつもの三吉なら、こんな安っぽいお世辞は言わないのだが、がらがら空きの男湯に、飛び込んで来て呉れたのだから、ついそんな感謝の言葉が口から出た。
陣太郎はそのお世辞を背にしてふわりと板の間に上った。手早く着ているものを脱いだ。
いよいよ敵にぶつかる前に、お湯に入って気分をしずめようとの魂胆なのであろう。
十五分経った。
相変らず男湯はがら空きで、客は陣太郎ひとりであった。
子供用の湯槽からざぶりと上り陣太郎は身体を拭き上げ、悠々と板の間に戻って来た。ふと一隅の縁台に眼をむけた。
「ふん。将棋か」
陣太郎はその縁台の端に腰をおろし、うちわを使いながら、ひょいと駒の一つをつまみ上げた。裏返したり、指で撫でたり、窓の方にすかして見たりした。
それを見て、三吉の顔はおのずからむずむずとほぐれた。思わず声に出た。
「お客さん。将棋は好きかね?」
「おれですか?」
陣太郎はきょとんとした顔を、番台の猿沢三吉に向けた。
「将棋。将棋はあまり好きでない」
「じゃあ指せないんだね」
「指せますよ。なかなか上手だ」
「上手だと言うのに、なぜ好きでない?」
「王様のエゴイズム――」
陣太郎は王様の駒をつまみ上げ、指でぽんとはじいた。
「つまり、自分本位の身勝手ですね、それがおれにはイヤなんだ」
「自分本位?」
陣太郎の奇妙な発言に、三吉はにわかに興を催したらしく、膝を乗り出した。
「王様ってやつは身勝手ですかねえ」
「身勝手ですよ」
陣太郎は言葉に力をこめた。
「王様というやつは、自分の家来や家族をギセイにして、つまり身代りにして殺して、そんなことまでして、あくまで逃げのびようとする。そういう身勝手が、おれにはイヤなんですよ」
「ヘヘえ」
三吉はすっかり感服した。
「そういう考え方もあるか。そんなに王様の身勝手がきらいなら、あんたは身勝手でない指し方をすればいいじゃないか」
「そ、それはそうだが――」
虚をつかれて、陣太郎はどもった。
「一丁指しますか」
すかさず三吉は指で、駒を動かす形をして見せた。
「わしも相当指しますよ」
「指すか」
陣太郎も受けて立った。
「お房さん。ここを頼むよ」
板の間で籠の整理をしている女中に声をかけ、三吉は喜色満面、番台から降り立った。久方ぶりの将棋だから、頰がむずむずとほころぶのも、当然というものだろう。
陣太郎も手早く衣類を着用、将棋盤をはさんで縁台に対坐、駒をパチパチと並べ始めた。男湯の客はまだ陣太郎一人で、誰も入って来るものはない。
駒を振って、三吉が先手。
「えい。やったあれ」
れいによって坂田名人の手を真似て、三吉はかけ声と共に端歩を突いた。
端歩とは、陣太郎にも驚きだったらしく、眼をパチパチさせたが、すぐに気を取り直した風(ふう)で、
「えい」
と、低いかけ声と共に、向かい合った端歩を突いた。
すると三吉はすかさず、力をこめて、反対側の端歩を突き出した。陣太郎も同じく端歩をもって応じた。それで両陣営は端歩のツノを生やした珍しい形となった。
それから両者とも、ろくに考えもせず、パッパッと駒を繰り出して、大乱戦の模様となった。
将棋の腕前にかけては、陣太郎の方がずっと上のようであったが、先ほど王様のエゴイズムを云々した手前もあり、家族や家来をそうそうギセイに出来ないという束縛があって、のびのびと戦えない。そこになると三吉の方は、下手(へた)ながら天衣無縫、のびのびと指せる強味がある。
互角の形勢のまま、中盤戦に入った。
中盤までは、乱戦模様ながら、ほぼ互角の形勢で進んだが、中盤以後はそろそろ実力の差があらわれて来た。いうまでもなく猿沢三吉の腕前の方が下である。
しかし陣太郎は、何か策略でもあるのか、三吉の陣地を攻めることはあまりせず、妙な手ばかり指していた。
陣太郎の王将、並びにその一族郎党は、徐々に盤の左辺に集結、王将を中心として、金銀桂香がそれをぐるりととり囲み、しだいに前進し始めた。飛車と角がその先頭に立ち、露払いの役目を受持った。
「ややっ!」
陣太郎の意外の陣構えに、三吉が声を出しておどろいた時は、もう遅かった。陣太郎の輪型陣はすっかり完成、それに対してそれを進撃すべき三吉の陣営は、全然手薄な状態にあったのである。
「しまったなあ。いつの間にそんな構えをつくったんだい?」
「おっさんがこちらを見てないから、いけないんだよ」
陣太郎は三吉に対しても、平然としておっさん呼ばわりをした。
「さあ。これで大進軍だ」
「さては全員力をあわせて入玉する気だな」
三吉は額をたたいてくやしがった。
「こちらの駒組みばかりに気を取られて、うっかりしてたなあ。それ、その形、あまり見慣れないようだけれど、何という名の駒組みだね?」
「松平流陣構えと言うんですよ」
陣太郎はぬけぬけと答えた。
「自動車の形にヒントを得て、考案したんだよ」
「自動車?」
露払いの形で並んでいる飛車と角を差して、三吉はほとほと感服の声を上げた。
「なるほど。これがヘッドライトというとこか」
「感心ばかりしていないで、早く指しなさい」
陣太郎が催促をした。
そこで三吉も、首をひねりひねり、動員可能の駒を右翼に右翼にと動かしたが、時すでに遅し、三吉のばらばら駒は、ヘッドライトの飛車や角に次々に食べられ、陣太郎の輪型陣は自動車が車庫におさまる如く、すっぽりそのままの形で、一気に三吉の陣地に突入した。
「とうとう入玉されたか」
やや血走った眼で、そこらあたりをぎろぎろにらみつけながら、三吉は無念そうに絶叫した。
「なるほどなあ。自動車とは考えやがったな!」
「時に、おっさんの自動車は、今から半月前に――」
陣太郎の声は急に低く押しつけられ、すご味を帯びた。
「正確に言うと、今から十五日前の午後六時二十分、おっさんの自動車はどこにいましたね?」
「自動車?」
三吉はびっくりして顔を上げた。
「そ、それ、一体何の話だね?」
「おっさんの所有にかかる自動車だよ」
陣太郎は三吉をきっと見据(す)えたまま、つめたく無表情な声を出した。
「番号は三の一三一〇七だ。三の一三一〇七のナンバープレートをつけた車が、今から十五日前の午後六時二十分、どこにいたか!」
「いかにも三の一三一〇七はわしの車だが――」
猿沢三吉はいぶかしげに陣太郎の顔を眺めた。
「それがどこにいようと、君に何の関係があるんだね?」
「しらばっくれるのは止めなさい」
陣太郎は能面のように無表情のまま、抑揚のない発声法をした。
「おれは、ちゃんと見たですよ」
「おかしなことを言う人だな。縁起でもない」
三吉はしぶしぶ胸のポケットから、日付け入り小型手帳を取り出した。
「十五日前だと。十五日前の午後六時と――」
三吉はぺらぺらとノートを繰って、該当する頁に眼を据(す)えたが、たちまち、
「アッ!」
と驚愕の声を立てて、ノートをぱたりと閉じた。その日付けの箇所には、次の如く記されていたのである。
『夕方よりマ。二時間ばかり』
「君は何者だ?」三吉は大狼狽のていで、ノートを今度は内ポケットの奥深くしまい込んだ。マという記号は、真知子のところに通ったその心覚えのメモなのである。狼狽を感じたのもムリはなかろう。
「君は何者だ。名を名乗れ。え。一体誰に頼まれた?」
「松平、陣太郎」
陣太郎は涼しい顔で名乗った。その狼狽ぶりからして、轢き逃げの犯人は三吉だと断定したらしい。ゆったりと胸を張って、
「もちろんおれは、被害者から、頼まれて来たんですよ」
「被害者?」
三吉は押しつぶされたような声を出した。真剣な顔で首をひねり、探るようなおどおどした眼付きで、
「つ、つまり、被害者とは、ハナコのことか? そ、それとも、泉恵之助か?」
陣太郎は一瞬動揺し、はてな、という表情になった。が、たちまち陣容を立て直して、トウカイ戦術に出た。[やぶちゃん注:「トウカイ」「韜晦」。自分の本心や真意・目的などを押し隠すこと。]
「いろいろ各方面に、被害を与えていると見えますな」
「誰だ。誰に頼まれた?」
三吉はいらだった。
「わしは脅迫には負けんぞ!」
「脅迫? では、おれは、脅迫はやめましょう」
陣太郎は手を伸ばして、入玉の輪型陣をがしゃがしゃとくずした。
「おれは出るところに出ますよ。あとで後侮しなさんな」
「ま、まって呉れ」
三吉の両手はおのずから、おがむような形になった。
「出るところというと、ハナコのところか。そりゃ困る。待って呉れ。な。わしが悪かったよ。あやまるよ」
「おれだって、なにも、決裂を望んでいるわけじゃない」
陣太郎はまるでどこかの外交官のように大きく出た。
「も少し話し合って、解決のメドを見つけたい」
「ああ。それでたすかった」
三吉がほっと胸を撫でおろした時、男湯の扉ががらりとあいて、ハナコが入って来た。縁台の上で、坐ったままの姿勢で、三吉は三寸ばかり飛び上った。
幸いにして三吉の飛び上りは、ハナコに気付かれなかったようである。がらんとした男湯を見渡して、ハナコはすこし眉をひそめた。商売不振をまのあたりに見ては、ハナコといえども眉をひそめざるを得ない。
「まあ。一人も入っていないじゃないの」
ハナコはのそのそと板の間に上り、縁台に近づいてきた。
「うん。ど、どういうわけか、今日はめっきりとお客がすくない」
三吉はへどもどと応答した。
「だから、こ、このお客さんと、景気づけに、一番指していたところだ」
「それはそれは、御苦労さまでございます」
ハナコは陣太郎をにこやかにねぎらった。陣太郎はおうようにうなずいた。
「こちらはお若いのに、なかなかお強い」
三吉は掌を陣太郎の方にひらひらと動かした。
「さすがのわしも、すっかり負かされた」
「まあ。お強いのねえ」
ハナコは感嘆これを久しくした。ハナコも世の常の女房なみに、亭主の実力を過大評価しているのである。
「どこで修業なさいましたの?」
三吉如きを負かすのに、修業もへったくれもないから、さすがの陣太郎も返事のしようがなく、上品な面(つら)つきで黙(もだ)していた。
「いや。とにかくお強いもんだ」
状況をごまかす時を稼ぐために、三吉は手振りをまじえて、ますます多弁となった。
「なにしろ松平流の陣構えに妙を得ておられる。わしなんか遠く及ぶところではない」
「ほう。松平流をねえ」
将棋のことは何も知らないくせに、ハナコは嘆息した。そこで陣太郎も、そんなにほめられた関係上、扇でもパッと取出して打ち開き、悠々と胸元をあおぎたいところであるが、生憎(あいにく)と扇子(せんす)の持ち合わせがなかったので、縁台上のうちわで代用、バサバサと顔をあおぎ立てた。
「あなたもこの方について、修業してみたらどう?」
「うん。それはいい考えだ!」
三吉ははたと膝をたたいた。
「週に二回とか三回とか、ここに出張していただいて、お客さまたちに教授を願おうか。そうすれば、お客さまもぐんと殖えるだろう」
「でも、この方のお都合もおありでしょうからねえ」
ハナコも好もしげな眼付きで、陣太郎を見た。
「ほんとに、一芸に秀でるということは、容易なことではないわねえ」
陣太郎はますます力をこめて、自分の顔をあおぎ立てた。あまりにもほめられ過ぎて、てれくさくなったのであろう。
三吉は縁台から腰を浮かせながら、人差指でハナコをまねいた。
「ちょっと」
縁合からすこし離れたところに行き、三吉はハナコの耳に口をつけ、何かぼそぼそとささやいた。陣太郎はおっとりと構え、そっぽを向いている。
やがて三吉は、ハナコの耳から口を離し、あたふたと縁側に戻ってきた。そして今度は、陣太郎の耳に口を近付けた。
「君。ちょっとそこらまで、顔を貸して呉れないか。話があるんだ」
「そうですか」
陣太郎は悠然と答えた。
「では、参りましょう」
女中にかわって、ハナコが番台にでんと坐った。そのハナコに、三吉は下駄をつっかけながら、声をかけた。
「じゃちょいとそこらまで、出かけてくるよ」
「行ってらっしゃい。あんまり血圧にさわるようなものを、飲み食いしないでね」
「大丈夫だよ。心配しないでもよろしい」
三吉はのれんをくぐって外に出た。陣太郎もそのあとに続いた。
外の空気に触れると、三吉の全身から、今まで押さえていた冷汗が、どっとあふれ流れ出た。ハンカチで顔をごしごし拭きながら、三吉はひとりごとを言った。
「ちぇっ。驚かしやがる。こっちの方がよっぽど血圧にさわるわい」
「え? 何か言いましたか」
陣太郎がそれを聞きとがめた。
「ひとりごとを言ったんだよ。ひとりごとを」
三吉は襟筋にハンカチを突っこみ、忌々しそうに答えた。
「そこらをぶらぶら歩きながら話をしよう。それともそこらで、冷いものでも飲むかね?」
「飲みものより、食べる方がいいですな」
陣太郎はおなかをぺこりと凹ませて見せた。
「おれ、まだお昼を食べてないのです」
「では、そこらで、ラーメンでも食べながら――」
「いいんですか。大切な話だというのに」
陣太郎はじろりと三吉を見て、声を大きくした。
「ラーメンを食べながら、話をすると、隣の卓につつ抜けですよ」
「アッ、そうか。他人に聞かれちゃまずいな」
「座敷みたいなところはどうですか」
「そうだなあ。ええと、座敷といえば、どこにあったかなあ」
「あそこのポストから、右へ曲って二軒目に――」
陣太郎は手を上げて指差した。
「ウナギ屋がありますよ。あそこの二階は、一部屋しかない。秘密の相談には持ってこいの場所です」
「時にあんたのお宅は、どちらだね?」
初めて気がついたように、三吉は陣太郎の顔をじろじろと見た。
「この近くかね? あまりお見かけしないようだが」
「郊外ですよ。ここから二里ぐらいある」
陣太郎は右掌を額にかざし、いかにも遠いという恰好をして見せた。
「元家令の家に住んでいるのです」
「モトカレイ?」
「ええ。つまり家来ですな」
そして陣太郎は、急に探るような眼付きになって、三吉の顔をぐっとのぞきこんだ。
「その元家令がね、この間自動車にはね飛ばされてね、大怪我をした」
「そりゃあぶないな」
三吉は淡々と答えた。はね飛ばしの犯人ではないのであるから、動揺するわけがない。
「そんなに遠くに住んでいて、よくここらの地理を、ウナギ屋の所在まで、あんたは知ってるなあ」
「そりゃ調べたんですよ」
「調べた?」
三吉はぎくりとした口調で問い返した。
のれんを頭でわけ、陣太郎が先に立って、ウナギ屋の階段をとんとんと登った。三吉は渋々とあとに続いた。
陣太郎の言の如く、二階は四畳半の小座敷ひとつしかなかった。
三吉は直ちに窓をあけたり、押入れをあけて見たりして、ぬすみ聞きする者のいないことを確かめた。やっと安心して坐ろうとすると、陣太郎がすでに床の間の上座をしめているので、むっとした表情で下座に廻った。
女中がおしぼりを持って上って来た。
「何になさいますか?」
「おれにはウナ重の一番いいのを下さい」
おしぼりで手を拭きながら、陣太郎は平然と注文した。
「三吉湯の旦那さまは?」
「うん。わしは何にしようか。ウナギは高血圧に悪いし――」
三吉は肥った首をかしげたがやがて憤然とした口調で、
「ええい。わしはカバヤキだ。大串を頼むよ。血圧なんてヘっちゃらだ。ついでにお酒を一本。わしの分としてだよ」
「おれもお酒一本。」
すかさず陣太郎は口を入れた。
「ぬる𤏐にして下さい。おれは猫舌だから」
「はい。かしこまりました」
女中が降りて行くと、三吉は坐り直して、ぐっと陣太郎を見据(す)えた。
「君は、秘密探偵かね?」
「探偵?」
陣太郎はやや憤然とした顔になった。
「探偵じゃありませんよ。探偵なんて、身分のいやしい者がやる仕事だ」
「じゃあ、わしの自動車のことなどを、何故調べるんだ」
三吉は手を上げて、陣太郎の顔を指差した。
「十日ばかり前、上風タクシーに、三の一三一〇七の番号を調べに来たのは、君だろう――」
「おれじゃありませんよ」
「うん。そう言えば、あれは四十前後のぼさっとした男だと言っていたな」
「ぼさっとしてましたか?」
陣太郎の頰の筋肉が、ぴくぴくと痙攣(けいれん)した。こみ上げてくる笑いをかみ殺したものらしい。
「おれはぼさっとしてないですよ」
「しかし、一体君は、何のために、わしの自動車の所在を問題にするんだ?」
三吉の顔にあせりの色が浮んだ。
「一体何のためだ。誰かに頼まれたのか?」
「それは、つまり――」
獲物をねらう猫のように陣太郎は眼をするどくさせた。
「つまり、それは、正義人道のためですよ」
「正義人道?」
大上段にふりかぶったようなその言葉に、三吉は眼をぱちぱちさせた。
「あれ、正義人道に反するかねえ」
「反しますよ!」
陣太郎は卓をどんと叩いた。
何か言おうと口を動かしかけたとたん、階段を足音が登ってきたので、三吉はむっと口をつぐんだ。
「お待遠さま」
女中が入ってきた。熱𤏐の方を三吉に、ぬる𤏐の方を陣太郎の前に、それぞれ置いた。三吉は女中に掌を振って言った。
「ちょいと密談があるんだから――」
女中の足音が階下に消えてしまうと、三吉は手酌の盃をぐっとあおって言った。
「君はそう言うけれど、わしのどういう点が正義人道に反するんだい?」
「反しますよ。自分の胸によく手を当てて、考えてごらんなさい」
三吉の事柄の内容が、まだよく判らないものだから、陣太郎も慎重な口をきいた。
「それとも正義人道に、まるまるかなっているとでも言うのですか?」
「まるまるかなっているとは言わん!」
三吉も少しずつ釣り出された。
「しかしだね、あれは、今は人道に反するとも言えようが、わしが若い頃は、あんなことは普通だった。むしろ男の甲斐性(かいしょう)とされていたぐらいだよ」
「昔と今はちがいます」
陣太郎はぬる爛をぐっとあおった。
「昔は甲斐性でも、今は罪悪です」
「一体君は、どういうつもりで――」
三吉は盃の手をわなわなとふるわせた。
「囲ってるのは、わしばかりじゃない。他にもたくさんいる。それをよりによって、このわしばかりを――」
「カコっている? ふん。しかしですね、カコい方にもいろいろある」
「わしのなんか、罪が軽い方だ」
三吉はくやしげに唇を嚙んだ。
「しかも質素なものだ。アパートだからな。どうしてもっと君は、大物をねらわないんだい?」
「アパート。カコう」
陣太郎はクイズでも考えるような顔付きになり、またぐっと盃をあおった。いつもの陣太郎に似ず、カンが働かないらしい。
「しかし、質素であろうとぜいたくであろうと、カコうということに問題がある」
「君の青年らしい正義感は、わしも認めるよ」
三吉は方針を変えて、懐柔策に出た。
「しかしだね、君のお父さんやお祖父さん、またその祖先さまたちも、わし同様に囲ったかも知れないよ」
「いや、わが松平家に限って、そんな者はおりません」
陣太郎は大見得を切った。
「いやしくも松平を名乗るもので、カコったものは一人もいないです」
「松平? 松平姓にいない?」
三吉は低くうなって、腕を組んだ。
「いや。あるぞ。この間講談本で読んだぞ。たしかそれが原因で、お家騒動になる話だった」
「何という講談本でした?」
「題は忘れた。なんとかの方という愛妾が出てくるんだ。これでもいないと言い張るか」
「愛妾?」
そして陣太郎は膝をポンとたたいて、頭を下げた。
「参りました。そう言えば御先祖さまに、そんなのがいたかも知れない」
「それ、見なさい」
三吉は胸を反らして、鼻孔をふくらませた。
「その子孫の君に、わしを責める資格はないぞ。正義人道のためじゃなかろう。誰に頼まれたんだね。あの背高ノッポか」
「背高ノッポというのは、泉恵之助ですか」
陣太郎はまっすぐ三吉を見ながら言った。
「それとも、泉竜之助の方ですか?」
「ううん。やっぱりそうだったな」
猿沢三吉は力まかせに自分の膝をひっぱたいた。
「泉親子の名前まで知ってるんだから、間違いはない。おい、君。君はいくらで頼まれた?」
陣太郎はぬる𤏐を含み、にんまりと謎めいた笑みをうかべ、返答をしなかった。
三吉は泉湯の方角に眼を据(す)え、威嚇するように拳固をふり上げた。
「あの背高ノッポの糞じじい。わしと真知子のことを探り出し、ハナコにそれを告げ口をして、わしの家庭の平和を攬乱しようとたくらんだな。テレビといい、今度の件といい、何という卑劣な奴だ。もう許しては置けんぞ。あのゾーリ虫野郎!」
「もしもし。あまり亢奮(こうふん)すると、血圧にさわりますよ」
見かねて陣太郎が注意した。
「ここらで脳出血で倒れられては、元も子もなくなる」
「おい、君」
三吉は拳固をおさめ、陣太郎に向き直った。
「いくらで君はこの仕事を請負った? プラスアルファを出すから、こちらに寝返りを打って呉れ。な、頼む!」
「条件次第ですよ」
「条件? どんな条件でも容れるから、わしの側について呉れ。な、よく考えて見なさい。わしの三吉湯は、今出来つつあるのも入れて四軒。背高ノッポは古芭蒼然たる泉湯がただの一軒。わしが中共とすれば、背高ノッポは国府みたいなもんだ。てんで太刀打ちになりゃしない。こっちについたがトクだぞ」
「損得で動いているんじゃありませんよ」
陣太郎はまた謎めいた笑い方をした。
「時に、あの新築中の三吉湯ですね、あれはもう差配する人がきまってるんですか?」
「差配する人?」
三吉はきょとんとした。
「いや。まだきまっていない」
「おれの知人で、今ちょっと失業してる奴がいるんですがね」
思わせぶりな言い方を陣太郎はした。
「ちょっと見にはぼさっとしてるけれど、根は善良で働き者です」
「それを差配にすいせんしようと言うのか」
「イヤならイヤでいいですよ」
陣太郎は両腕を上に伸ばしてわざとらしい欠伸(あくび)をした。
「ああ。ウナ重はまだかなあ。おれ、おなかがぺこぺこだ」
「イヤだと言ってやしないよ」
ここで陣太郎の機嫌を損じては大変なので、三吉も狼狽した。
「そ、その知人というのは、いくつぐらいの人だね?」
「四十前後です。つまりおれの元家令ですよ」
「元家今というと、自動車にはね飛ばされたという人か?」
「そうですよ。しかしもう傷はなおった」
「それじゃ一度逢って見ることにしよう」
そして三吉は念を押した。
「条件はそれだけだね」
「じょ、じょうだんじゃないですよ」
陣太郎は呆れた声を出した。
「愛妾の件とこれと相殺にされては、おれは立つ瀬がない」
階段に足音がした。ウナギが焼け上ったものらしい。
ふたたび女中が階段を降りて行くと、陣太郎はおなかをぐうと鳴らしながら、急いでウナ重の蓋をとった。旨そうな鰻香(うなぎか)が、ぷんとそこらにただよった。
「いただきます」
粉山椒(こなざんしょう)をふりかけ、陣太郎はいきなりウナギに食いついたが、アツツと悲鳴を上げて、あわててそれをはき出した。空腹のあまりに、自分が猫舌であることを、すっかり忘却したらしい。
「ふん。大した猫舌だな」
三吉はそう言いながら、自分の蓋を取った。カバヤキをむしゃむしゃと頰張りながら、
「そう言えば、さっき君は、子供用の湯槽に入ってたようだね。全身これ猫舌か」
「わが松平家の人間は、みんなそうですよ」
陣太郎はカバヤキを箸でつまみ上げ、ぶらぶらと打ち振った。早くさめさせようとのつもりであろう。
「食物を調理して、毒見役が毒見をし、それから運んで、やっとおれたちの口に入る。幼い時から、熱いものを口に入れることがないから、自然と猫舌になってしまうんですよ」
「ふうん」
三吉は箸を動かし止めて、上目使いに陣太郎を見た。少少畏敬の念がきざして来たらしい。
「毒見役というと、それ専門の?」
「いや。家令やなんかがやりますな」
「ふうん」
三吉はふたたびうなった。
陣太郎はぶらぶらさせていたカバヤキを、ちよっと舐(な)めてみて、もう安心だと見当をつけたのだろう、ぱくりと嚙みついた。またたく間の早さで一片(ひときれ)を吞み込んでしまった。驚嘆の面もちで、三吉はそれを眺めていたが、陣太郎が二片(ふたきれ)目を振り出したのを見て質問した。
「どうして、あんたは、昼飯を抜いたんだね?」
「金がなかったからですよ」
「金がない」
三吉は怪訝(けげん)そうに首を傾けた。
「家令を使おうという御曹子が、一体どういうわけで、金を持たないんだね。お金は不浄だからか?」
「お金が不浄だなんて」
陣太郎はけたたましく笑い出した。
「おれ、家出をしたんですよ。うっかりして、金を持たないで飛び出したから、今は金がない」
「なぜ家出を?」
「先代が死んじまってね、その相続の問題がひどくこじれて、おれのところにお鉢が廻って来そうになったんですよ。だから、おれ、泡をくって飛び出した」
「ああ。何てえもったいねえことを――」
「刀の二、三本も持ち出しゃよかったなあ」
陣太郎は二片目のカバヤキを口に放り込んだ。
「一本で百万円ぐらいには売れたのになあ。しまったことをした」
「一本で百万円?」
三吉は眼をまるくして反問した。
「なんであんたは、相続がイヤなんだい?」
「イヤですよ。あんなコチコチの世界」
陣太郎は徳利を口にあて、残りのぬる酒をごくごくと飲み干した。
「おれはもっと世の中を勉強して、それを小説に書きたいんだ」
ウナ重がさめて行くにつれ、陣太郎の食べ方にはスピードが加わった。三吉の方はあまりおなかが空いていないので、箸でカバヤキを千切(ちぎ)り千切(ちぎ)りすこしずつ口に運んでいた。
陣太郎は一粒残さず食べ終り、ふうと溜息をついた。
「ごちそうさまでした」
「いいえ。お粗末でした」
三吉は反射的にそう言って、冷えた酒を盃についだ。
「家に戻りさえすれば、そんなにがつがつしないでも、ウナギなんか毎日でも食える身分じゃないか」
「そりゃまあ、そうです」
「もったいない話だなあ。戻ったらどうだい?」
さっきからそのことばかりを考えていたらしく、三吉は膝を乗り出して、熱心な口調になった。
「わしがあんたの後楯になって上げる。是非戻って、相続しなさい」
「戻る気になったら、相談に来ますよ。もうその話はよしましょう」
陣太郎は掌をひらひらと振った。
「時に、あんたの愛妾の件、あんたの愛妾は、何という名だったかな」
「真知子、だよ」
三吉は顔や身体を緊張させた。
「もうあの背高ノッポに、報告はしないだろうな」
「そうですな。一応保留ということにしときましょう」
そして陣太郎は首をかしげ、ひとりごとのような、また三吉に聞かせるような、あいまいな口調で言った。
「さて。浅利の家もそろそろ立ち退かねばならないし、どこに行こうかな。金の持ち合せもないし――」
「浅利って、それ、何だね?」
「元家令の名ですよ。おれがそこにいることを、どうも今の家令がかぎつけたちしい」
陣太郎は眉を上げて、まっすぐ三吉の顔を見た。
「どこかに部屋をさがして呉れますか?」
「部屋ねえ。ちょっと――」
「イヤならイヤでいいんですよ」
陣太郎は投げ出すように言った。
「おなかもいっぱいになったし、おれ、そろそろ帰らして貰おうかな」
「イ、イヤだと言ってやしないよ。そんなにわしをいらいらさせるな。高血圧なんだぞ」
酒を飲み、ウナギを食ったくせに、都合のいい時だけに、三吉は高血圧を持ち出した。
「部屋の心当りがないでもない」
「どこです、それは?」
「富土見アパートだよ」
「富土見アパート?」
「知らないか、君は?」
三吉は大声を出した。
「富士見アパートを知らないとは――」
「ああ、知ってる。知ってます。あそこね」
三吉の声が大きかったので、陣太郎はあわてて合点合点をした。
「あれはいいアパートですね」
「うん。あのアパートの一室を借りて上げるには、ひとつの条件がある」
「何です、それは?」
「真知子の行状を、そっと監視して貰いたいんだ」
「ああ。真知子。富士見アパート。なるほど、なるほど」
すっかり納得が行ったらしく、陣太郎はまた合点合点をした。
「どうも君には探偵の才能があるらしい」
三吉は陣太郎に言った。
「あれほど巧妙に、ひたかくしにしていたわしのあの一件を、自動車の番号から、探り出したくらいだからな。全くおどろくよ」
「それほどでもありませんよ」
「その才を見込んでお願いするのだ」
そして三吉は声を低くした。
「どうも真知子は、ひょっとすると、浮気をしているんじゃないか、と思われる節がある。この間もへんな学生が来ていた」
「且那になるのも、骨が折れますな」
「うん。骨が折れるよ。アプレ娘なんかを、メカケにするもんじゃない」
「部屋はそれで片づいたとして――」
陣太郎は空の重箱を横に寄せて、開き直った。
「生活費はどうして呉れるんです。まあ今のところ、一万円もあれば――」
「生活費?」
三吉は悲痛な声を出した。
「生活費まで、わしに持たせようと言うのか!」
「イヤならイヤでいいんですよ」
「イ、イヤだとは、まだ言ってないじゃないか」
「おれに部屋を提供し、月一万円の生活費を出すかどうか、おれは一分間だけ待ちましょう」
らちあかずと見たか、陣太郎はれいの奥の手を出した。腕時計を外(はず)して、卓の上に置いた。
「いいですか。一分間!」
三吉の顔に苦悶の色が浮んだ。秒針がこちこちと秒を告げる。三吉はあわてて掌をつき出した。
「一分間だなんて、そんな無茶な。こんな大切な問題を」
「あと、三十秒!」
陣太郎は冷然と言った。三吉は苦しそうにあえいだ。
「ま、まって呉れ。こういうことは、お互いによく話し合って――」
「あと十秒!」
「そんな無情な、わしはただ!」
「あと五秒!」
時計を見詰めながら陣太郎は冷然たる声で秒を読んだ。
「あと三秒。二秒。一秒――」
「わ、わかったよ」
三吉は笛のような声を立てた。
「君の言い分をのむ。これ以上いじめて呉れるな。ああ、わしの血管はまだ大丈夫か。まだつながっているか?」
三吉の指は、自分の額やこめかみの怒張した血管を、もそもそとまさぐった。
「大丈夫ですよ」
時計を手首に巻きつけながら、陣太郎は言った。
「血管が切れたり破れたりすれば、そんなはっきりした口はきけませんよ」
「秒読みというやつはつらいなあ」
血管に異常のないことを確かめて、三吉は少し安心して手をおろした。
「専門棋士たちの苦労がよく判るよ。おい、君。君はどこで、こんな秒読みなんて手を覚えた? やはりそれも、松平流か?」
「まあそう言えば、そう言えるでしょうな」
陣太郎はやや得意そうにうなずいた。
「時に、その、今月分の一万円、今日欲しいんですよ。おれ、現在、嚢中(のうちゅう)無一文で、電車賃にもこと欠く有様です」
「ああ。今日はなんという凶(わる)い日だろう」
ウナギ屋ののれんをかきわけ、表に出ながら、三吉は小さな声でぼやいた。久しぶりの将棋に妙な負け方をしたことに端を発して、ウナギはおごらされるし、へんにおどかされて、部屋の提供を約束し、しかも月一万円支給の約束もさせられた。しかも今月分は今日よこせという。これでは高血圧ならずとも、頭の痛くなるのは当然であろう。
「いろいろごちそうさまでした」
表で待っていた陣太郎が、ペコリと頭を下げた。
「今日のウナギは実においしかったです」
「わしはあまり旨くなかった」
夕方の巷(ちまた)に肩を並べて、三吉は鬱然と、陣太郎は足どりかろやかに、三吉の自宅に向った。
自宅の玄関に到着、三吉は靴を脱ぎながら、陣太郎に声をかけた。
「君も上りなさい」
物音を聞きつけて、奥から次女の二美が走り出て来た。
「お父さん。おかえりなさい。あら、お客さま」
「お客さんだけど、お茶なんか持って来なくてもいいよ」
聞きようによっては、失礼な言い方を三吉はしたが、失礼のつもりではない。一万円授受の現場を子供に見られ、それを母親に報告されたりしたら困るという、深慮遠謀なのである。
「お茶もお菓子もいらないし、もちろん水もいらない」
「そう」
二美は陣太郎をいぶかしげな眼で眺め、そのまま奥に引込んだ。
三吉は廊下を先に立ち、茶の間でなく、自分の私室に陣太郎を案内した。私室というのは、小さな床の間つきの三畳間で、机の上には帳簿や硯箱なんかが置かれ、壁には小さなつくりつけの金庫がはめこまれていた。
陣太郎は窮屈そうに坐り、ものめずらしげに部屋のあちこちを見廻している。
陣太郎に見られないように、三吉は金庫にかぶさるようにして、カチャカチャと扉を開いた。
札束を取り出し、ぺらぺらと十枚数え、残りは元に戻し、がちゃりと扉をしめた。明日にでも建築業者に支払うべき分から、流用したのだろう。
机の前に戻り、三吉は勿体(もったい)なそうにその一万円を、陣太郎につきつけた。
「さあ。今月の分だ。受取りを書いて呉れ」
「承知しました」
硯箱をひらき、あり合わせの半紙に、陣太郎はさらさらと受領証を書いた。不器用な陣太郎にしては、めずらしく達筆であった。
三吉はそれを受取り、すみからすみまで眺め廻した。
「何だい、この名前の下に、ぐしゃぐしゃっと塗りたくったのは?」
「花押(かおう)です。ハンコのかわりですな」
陣太郎はすました顔で説明した。
「おれはハンコは使わない。一切花押で間に合わせているんです」
「その一万円は、あれだよ」
三吉は未練がましく口を開いた。
「君が相続するまで、立替えて置くんだよ。相続したら、利子をつけて、戻して呉れるだろうね」
「いいですよ。三倍にも五倍にもして、返して上げますよ」
二美は足音を忍ばせるようにして、廊下から子供部屋に入った。長女の一子(かずこ)は畳の上に横になり、脚を上げたり反(そ)りくりかえったり、せっせと美容体操にいそしんでいた。二美が言った。
「お父さん、へんなお客を連れて来たわよ」
「なに。へんなお客って?」
「三十ぐらいの男よ。その顔がね、金魚にそっくりなのよ。金魚が服を着て立ってるみたいで、あたし笑っちゃった」
「そうかい」
一子はむっくりと起き直り、机上に手を伸ばして、甘食パンをつまみ上げた。
「美容体操をやると、とてもおなかが空(す)くわ」
「お父さん、そのお客を、茶の間じゃなく、金庫の部屋に案内したわ。そしてあたしに、お茶なんか持って来るなってさ」
「近頃のお父さん、何を考えてるんだろうねえ」
甘食パンを頰張りながら、一子は嘆息した。
「泉のおじさんとは大喧嘩はするし、ほんとにこちらは大迷惑よ。竜ちゃんだって、かげでは悲恋に泣いてるわ」
「ほんとねえ。お父さんといい泉のおじさんといい、更年期の男性って困りものねえ。やはりホルモンの不調から来るのかしら」
「ナマイキ言うんじゃないよ。まだ子供のくせに」
一子は眼を三角にして、妹をたしなめた。
「ほんとに何も知らないくせに、おませなことを言うんじゃないの。更年期障害だなんて、今度そんなことを言ったら、お父さんに言いつけてやるから!」
その更年期障害の三吉親爺は、今しも三畳の金庫部屋で、陣太郎とひそひそと密談にふけっていた。
「その真知子のやつがね、もし自分が浮気をしたら、二号を辞めると言うんだね。だから浮気をしているかどうか、その確証を――」
「おれに探れと言うんですね」
「そうだ。浮気の確証が得られれば、わしはチョンと真知子をクビにして、支度金その他を回収することが出来るんだ。そしてその支度金でもって、別の若いおとなしいメカケを――」
「すると真知子が、浮気をしていることを、あんたは望むんですか?」
「うん。万止むを得ない[やぶちゃん注:「ばんやむをえない」。]。泣いて馬謖(ばしょく)を切る気持だ」
三吉は妙にむつかしい表現を用いた。とかく学のないのが、難解な言葉を使いたがるものである。
「顔も美人だし、いい身体もしているが、なにしろ口答えはするし、わしの言うことを素直に聞かないんだよ。時に、いつ富士見アパートに、あんたは引越すかね?」
「近日中に」
「じゃあわしから、アパートの管理人に話して置こう」
「でも――」
陣太郎は柄になくもじもじした。
「では、こういうことにしましょう。おれ、荷物をまとめて、こちらにお伺いする。そしてあんたの自動車で、富士見アパートに運んで貰うということに――」
「そんな面倒くさいことをせずに、直接行けばいいじゃないか」
「いや、それはちょっと事情があって――」
富士見アパートの所在はどこだと訊(たず)ねるわけには行かないものだから、あれこれと陣太郎は苦慮の様子であった。
[やぶちゃん注:「泣いて馬謖を切る」「泣いて馬謖を斬る」は「私情を捨てて法を守り、綱紀を粛正するために親しい愛する者を処断すること」を言う故事成句。蜀の知将諸葛孔明は、劉備の没後、その遺詔を奉じて宿敵の魏を討ったが、「街亭の戦い」で指揮に反して大敗した部将の馬謖を、その輝かしい過去の戦功と親交にも拘わらず、泣く泣く斬罪に処して、一軍への見せしめとした、と伝える「蜀誌」の「馬謖伝」などの故事に拠る。]
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