梅崎春生「つむじ風」(その10) 「接触」
[やぶちゃん注:本篇の初出・底本・凡例その他は初回を見られたい。]
接 触
小説家の加納明治と、その秘書塙佐和子女史の第二の衝突は、書棚の本のうしろにかくされたウィスキーの瓶に始まった。
秘書といっても、近頃の塙女史はその実[やぶちゃん注:「じつ」。]強力な支配者の位置をしめていて、加納はすでにものを書く人間器械にまでなり下り[やぶちゃん注:「さがり」。]かけていた。ウィスキーを書棚の奥にかくしたというのも、器械にまでなり下りたくないという加納の隠微なレジスタンスのひとつで、書棚の奥にはウィスキーの角瓶の他、数種の外国タバコも同時にかくされてあった。
いくら小説作製の能率を上げるためとはいえ、煙草は一日に十本、酒は週に二回と制限されては、生きて行くたのしみがない。といって、増額を申し出ても、承諾するような塙女史ではない。
衝突の数日前の夕食時も、加納は酒タバコの増額を申し出[やぶちゃん注:「もうしで」。]し、最初の大激論となったのである。加納の要求額は、煙草は一日に二十本、酒は毎日二合乃至四合というのであった。
こういう大幅な増額を申し出る気になったのも加納がれいの自家用自動車を買い入れ、それであちこちドライブすることによって、自由というものの愉(たの)しさ、制限というもののつらさを、しみじみと再認識したからである。
いうまでもなく、塙女史はその要求を一蹴した。
「ダメでございますよ、先生。煙草の日に十本、酒の週に二回だって多過ぎると、あたしは思っておりますのよ。増額どころか、これを更に半分に――」
「半分になんて、そんな無茶な――」
加納は天をあおいで嘆息した。
「ねえ、女史は一体、僕のことを、どう思っているか知らないが、僕はこれでもれっきとした人間だよ。器械じゃありませんよ。それなのに女史は、僕のことをミシンやミキサーなどと同一視している」
「同一視しておりませんわ」
「いや、同一視している。僕を人間だと思うなら、もっと人間らしい待遇、人間としての嗜好を認めて欲しいんだ。つまり、酒やタバコ――」
「そりゃお話が違いはしませんか。先生」
塙女史は色をなした。
「最初の約束はそうじゃありませんでしたわ。最初の日、先生はこうおっしゃいました。この僕をして、如何にして良き小説をたくさん生産させるか、そこに重点を置いて計画を立てて呉れ。ぐずぐず言うなら、ひっぱたいてもよろしいと、先生はその時おっしゃいました。生活の全部、箸の上げおろしから友達付き合いまで、全部あたしに任していただけるという約束でした」
「でもね、塙女史」
加納もあとには退かない。ここでしりぞくと、酒タバコを更に半減されるおそれがあるのだ。
「酒やタバコが、実際に身体や精神にわるいかどうか――」
「悪うございますとも。酒は肝臓や心臓や胃腸、タバコは肺癌、神経障害、不眠――」
「そ、そんな常識的なことを女史は言うけれどね、あの英国の前首相ウインストン・チャーチルを見なさい。彼は八十歳にして、ノーペル賞を受けた。その頃の彼の食生活はどうであったか。驚くべき分量の食事と、一日十八本の葉巻、一壜の四分の三のブランデー、それに一本のシャンペン。以上を毎日欠かさなかったこと。当時のニューズウイーク誌が伝えているではないですか!」
ウインストン・チャーチルを引き合いに出されて、さすがの塙女史もちょっとたじろいだ。が、すぐに気持を取り直して、
「ほんとですか。そんなことがニューズウイーク誌に出ていましたかしら?」
「出ていたとも」
加納は勢いこんで言った。
「ウソだと思うんなら、書斎から持って来て、見せて上げるよ」
加納ははりきってリビングキチンから小走りに出て行った。塙女史は壁によりかかったまま、何か対策を練るように、口の中でぶつぶつ呟(つぶや)きながら、眼をつむっていた。やがて加納が、古ぼけたニューズウイーク誌をふりかざし、打ち振るようにして戻ってきた。その記事のところを指でつきつけた。
「どうだ。ここを読んで見なさい。何と言いてあるか」
塙女史は眼をそこに据(す)えて黙読した。某女子大学の英文科卒業であるから、女史にもそのくらいの語学力はある。加納は得意そうな声でうながした。
「どうです?」
「これにはそう書いてありますわね」
女史はそっけない声で返事して、ニューズウイーク誌を押し戻した。
「しかしでございますね、先生、日本の植物学の泰斗(たいと)牧野富太郎博士は、今年九十四歳になられましたけれど、あの方は生れてこのかた、一度も盃を手にせず、煙草も全然手にしたことがおありにならないそうでございますわ。絶対の禁酒禁煙主義であったればこそ、九十四歳というー――」
[やぶちゃん注:「牧野富太郎」は文久二年四月二十四日(一八六二年五月二十二日)生まれで、本作の連載が終わった二ケ月後の昭和三二(一九五七)年一月十八日に循環器系の虚脱により亡くなっている。この年齢は数え年で連載当時は満九十三から九十四歳であった。なお、言っておくと、私は牧野富太郎は「大嫌い」である。彼は南方熊楠を批判して(粘菌を独立した生物群として別にタクソンを主張したことが原因であろうと私は思っている)、「ろくな学術論文を出していない奴が何を語るか。」として、馬鹿にした。英文で幾らも「学術論文」出している南方熊楠を、かくも馬鹿にした(単純に知らなかったのだ!)彼を、私は絶対に許せないからである。朝ドラで、如何にもブレイクしているらしいが、私はゼッタイに見ないことにしている。]
「そ、それはいろんな人もあるでしょう」
反撃を食って、加納も眼をパチパチさせた。
「しかし、現にチャーチルは、大食、大酒、大タバコ――」
「チャーチルは今いくつでございますか?」
塙女史は声を高くした。
「まだ八十歳台じゃありませんか。牧野博士は九十四歳でございますのよ。八十台と九十四歳を一緒に論じるなんて」
「八十台、八十台と女史は言うけれど、そりゃ生れ落ちるのが遅かったんだから、仕方がない」
加納は不服そうに口をとがらせた。
「それにまだ、チャーチルは死んでいない。生きている。まだまだ生きて、九十台、やがては百歳を越すでしょう。禁酒禁煙で百まで生きる人もいるだろうが、片や大酒大タバコで百まで長生きしようという人もいる。僕をして選ばしめるならば、僕は後者の方を――」[やぶちゃん注:かのウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill)は一八七四年十一月三十日生まれで、本作の連載終了から十年後の一九六五年一月二十四日、満九十歳で亡くなっている。但し、当該ウィキによれば、一九六〇『年代に入った晩年のチャーチルはひどく老衰し、言葉の意味もよく分からなくなって』おり、また、『頻繁に涙を流すようになったという』。一九六五年一月八日、『脳卒中で左半身が麻痺し』、一月二十四日午前八時『頃、家族に見守られながら永眠した』。『最後の言葉はなかったという』とあった。]
「チャーチルは英国人でございますのよ」
塙女史はきめつけるように言った。
「チャーチルは英国人で、牧野博士は日本人ですわ。そして先生は?」
「僕も日本人ですよ」
気を悪くして、加納も仏頂面になった。
「しかし、職業上だね、ものを書くという点で、僕はチャーチルに似ている」
「牧野博士もものをお書きになります!」
塙女史はとどめを刺した。
「ヘリクツはおよし遊ばせ。どうあっても酒タバコは、小説生産の能率を低下させます。絶対に増額は出来ません!」
「どうあってもダメか?」
加納はすこしいきり立って、唇の端をピリピリとけいれんさせた。
「どうしてもダメだというなら、僕にも考えがあるよ」
僕にも考えがあるよ、と勢い込んで宣言してみたものの、特別の考えが加納明治にあるわけではなかった。せいぜい書棚の奥のかくし場所を強化して、女史の制限のうらをかいてやろうという程度である。
そんなにつらいのなら、かりそめにもこちらは雇い主であるのだから、塙女史をチョンとクビにしてしまえばいいではないか。
それもかんたんにそういうわけには行かない。女史がいろいろと加納を圧迫、制限を加えてくるのは、加納を憎んでやっているのではなく、そうすることが加納のためになるのだという、強烈な信念でやっているからである。
とにかく信念を持っているやつは強い。それが悪しき信念にしろ、信念を持っている人間に対して、信念を持たない連中は、手も足も出ない。そういう塙女史に対抗し得る別の大義名分を、生憎(あいにく)と加納明治は持ち合わせていなかったのだ。
その上、塙女史のやり方が不成功であるとか失敗であるというならともかく、それは一見大成功の様相を呈しているのである。
塙女史を雇い入れて以来、加納の健康状態はめきめきと良くなった。血圧も正常に復したし、胃腸も丈夫になり、頭脳も明晰になったし、不眠ということも全然なくなった。適度の運動や散歩によって、手足や胸にも肉がつき、体重も増して来た。身体の調子が良くなったのは、食事の関係も大いにあずかって力あるらしい。
女子大英文科を出て、栄養研究所につとめた経歴もあるので、女史の給食方針は大体ゲイロード・ハウザー説にのっとっている。
[やぶちゃん注:ベンジャミン・ゲイロード・ハウザー(Benjamin Gayelord Hauser 一八九五 年~一九八四年)はアメリカの栄養士で自己啓発作家。二十 世紀半ばに「自然な食事法」を推進し、ビタミンBが豊富な食品を奨励し、砂糖と小麦粉の摂取を控えるように提唱した。彼は講演会や社交界で人気があり、多くの著名人の栄養アドバイザーを務め、当時の多くの映画スターらから支持されていたが、しばしば医学界と対立した。彼は廃糖蜜・ビール酵母・スキムミルク(脱脂粉乳)・小麦胚芽・ヨーグルトという五つの「驚異の食品」を摂取することで寿命を延ばせるとしたが、一方で、「食の流行主義者」として批判され、彼のダイエットの考えは医師らから疑似科学的でインチキだと評された。ハウザーは肺炎の合併症によって、八十九歳で亡くなったが、直前まで元気な健康状態を保った、と彼の英文ウィキにはあった。]
ハウザー流であるからして、小麦胚芽、粗製糖蜜、脱脂粉乳、醸造酵母のたぐいが、入れかわり立ちかわり、姿をかえては三度の食膳にあらわれてくる。
「強い消化液、ゆっくりと規則正しい鼓動、よい便通、明るい希望。これらが先生にいい作品を産み出させる原動力ですわ」
と塙女史は言うのだが、それはそれに違いないのだけれども、ハウザー流も三度三度ではうんざりする。
ハウザー食は身体や頭脳には好影響をあたえても、精神には悪影響しかあたえないものだと、いつか加納は力説して、塙女史に。憫笑(びんしょう)された。
「頭脳の他に精神が存在するなんて、オホホホ」
女史は口を押さえてコロコロと笑った。
「頭脳の働きがすなわち精神でございますわ。そんな非合理なバーバリズムの考え方を、先生の口から聞こうとは意外でしたわ」[やぶちゃん注:「バーバリズム」barbarism。「野蛮・未開性」、「野蛮な行為。無作法。反文化的行為」の意。]
ウインストン・チャーチルと牧野富太郎博士を引き合いに出したあの大論争も、いつもの通り塙女兜からていねいに言いまくられて加納明治の一方的敗北となった。
むしゃくしゃした加納は、そそくさと夕食をかっこんで、
「今度書く小説に、夜の新宿が出てくるんだから、ちょっと車で調べてくるよ」
そう言い捨てて、ギャレージかられいの自動車を引っぱり出し、のろのろした速力で新宿に向った。ある事情から、加納は近頃あまりスピードを出さないことにしている。
新宿では大いに買い物をした。ウィスキーや煙草。塩せんべいや甘納豆など。
塩せんべいや甘納豆のたぐいもハウザー先生が推拳していないという理由で、口にすることを加納は禁止されているのである。
新宿で買い求めた禁制品のかずかずを、加納明治は自動車に乗せ、のろのろと自宅に戻ってきた。
塙女史の居室は、玄関を入ったすぐ脇にある。だから玄関からそれらをかかえて、堂々と入って行くわけには行かない。いきなり扉が開かれて、塙女史から見とがめられでもしたら、たいへんだ。
そこで加納は自宅のすこし前で車をとめ、ルームライトを消し、ウィスキーその他をかかえ、足音を忍ばせて台所から入った。薄氷を踏む思いで書斎にたどりつくと、くらやみの中を手探りをして、かかえた品物を書棚のそれぞれの場所に隠匿(いんとく)した。闇の中だから時間もかかり、その操作は至難をきわめたが、周到な注意と配慮によって、加納はやっとその難事業に成功した。
(ここはおれの家だというのに――)
書斎から忍び足で退出しながら、加納はなさけない気持で考えた。
(主人であるこのおれが、コソ泥みたいに出入りしなければならないとは、何たることだろう)
首尾よく台所から抜け出すと、加納は自動車にたどりつき、アクセルを踏んで、警笛を鳴らした。直ぐに停車してハンドルを廻し、自動車をギャレージにしまい込んだ。
足音も高く玄関に入ってくると、塙女史が居室から飛び出して、あいさつをした。
「おかえりなさいませ」
「うん。ただいま」
加納は主人の威厳を見せながら、おうように答えた。
「もう遅いからおやすみなさい」
塙女史はグリーンのナイトガウンをまとっていた。今は深夜だし、女史は八頭身の硬質の美人だし、この家にいるのは他には雇い婆さんだけだし、その婆さんもすでに白河夜船に眠っていることだし、グリーンのナイトガウンの生地(きじ)は柔かそうだし、何か加納の情緒を刺戟してくるものがあってもよさそうなものだが、それが全然ないのである。
それは加納が齢をとって、情緒が硬化したわけではなく、塙女史の方にその因があるらしい。
「おやすみなさいませ」
玄関に鍵をかける音を背後に聞きながら、加納はゆうゆうと廊下をあるき、ちょいと振り返って見て、書斎に辷(すべ)り入った。扉をしめて、燈をつけた。
「ざまあみろ」
自嘲とも他嘲ともつかぬ呟(つぶや)きをもらしながら、加納は書棚の前に立ち、本のうしろからごそごそとウィスキーと塩せんべいの袋を取り出した。それをたずさえて机の前に坐った。コップを取り出し、ウィスキーをなみなみと注いだ。瓶とせんべい袋は、机の下にかくした。机の下ならば、いきなり扉が外からあけられても、見付からないという寸法なのである。
コップに唇をつけて、一口ごくりと飲むと、加納明治は日記帳をひらき、ペンをとり上げた。
『夜、視察ノタメ新宿ニオモムク。行人雑然タリ。
ういすきい、洋煙草、菓子ナドヲ買イ求メ戻ル。
価安カラザレドモ、致シ方ナシ。コレラノ禁制
品ナクシテハ、予ノ精神ハヤガテ窒息スルニ至
ラン。理由ナキ反抗ナリト、後人笑ワバ笑エ』
もっと齢をとって小説が書けなくなれば、こんな日記を新聞雑誌に切り売りをして生活しようとの算段なのだから、いい気なものである。
一日の中、午後三時という時刻は、人間にとって一番疲れやすいし、また刺戟を欲する時刻でもある。おやつがこの時刻に出るのも、故なしとしない。
塙女史はれいのリビングキチンにおいて、おやつの準備をしていた。オレンジを皮のままきざみ、糖蜜と水と氷片と共に電気ミキサーの中に入れ、スイッチを廻した。ミキサーは低いうなり声をたてながら、オレンジと氷片をこなごなにした。女史はスイッチをとめ、内容を大型コップにうつした。ヨーグルトと一緒に盆の上に乗せた。
加納明治は書斎において、執筆に倦(う)んでいた。両手を上に伸ばして大きなあくびをした。それから油断のならない眼付きで周囲を見廻し、机を離れ、ごそごそと書棚まで膝で歩いた。
違い棚の上の外国製の置時計が、その時丁度(ちょうど)三時を指していた。もし加納がその時計を見ていたならば、彼は書棚に膝で歩くことをしなかっただろう。三時とは、塙女史がおやつを持ってくる時間だったからだ。
加納は並んだ本のうしろに手を廻し、ウィスキーの瓶をとり出した。コップに急いでどくどくと注ぐと、中腰のまま一口含んだ。強烈な液体は舌の根をやき、食道から胃に沁みわたった。眠気はすっかりけし飛んだ。
加納はさらに手を本のうしろに廻して、海苔つきの小さな塩せんべいを五つ六つ摑(つか)んだ。軽く舌を鳴らして、そのひとつをポイと口にほうり込み、またウィスキーを含んだ。
その時扉がコツコツとたたかれた。
加納はびっくり仰天して、コップの残りを口にあけ、塩せんべいを摑んだまま、また大急ぎで膝で机の前に戻ってきた。塩せんべいは座蒲団の下に押し込んだ。ペンを持ち、頰杖をついて、さもさも何か考え込んでいるようなポーズになった。ウィスキーの瓶は、本のうしろにかくすのを忘れたので、それはぼんやりと畳の上に立っていた。
「ぐふん!」
加納は返事ともせきばらいともつかぬような声を出した。
扉が開かれ、塙女史が盆をささげもって入って来た。
「おやつでございます」
「うん。おやつか」
初めて放心から覚めたような声で、加納は頰杖をとき、女史の方を見た。
オレンジュースとヨーグルトを机の上に並べながら、女史はいぶかしげに加納の顔を見た。
「どうなさいましたの?」
「どうもしないよ」
加納はオレンジェースの方に手を伸ばした。
「考えごとをしていたんだ」
「お身体、苦しくありませんの?」
塙女史は加納の顔をのぞきこみ、手を伸ばして加納の額にふれた。
「おや、すこしお熱があるのかしら」
「うん。そういえば、すこし身体がだるいような気がする」
加納は顔をひいて、オレジュースの大コップを、両頰に交互に押し当てた。頰のほてりをしずめようというつもりである。
「体温計を持って来て呉れないか」
次の瞬間、加納はアッと声を立てた。書棚の前の畳の上に、しまい忘れたウィスキーの瓶に気付いたのである。
「アッ。これは――」
「え? どうなさいましたの? 先生」
塙女史もちょっとおろおろ声になって、加納明治の手首をとり、脈をはかった。脈はドキドキと急調子を打っていた。
「まあ。顔がまっかだし、脈までがお早いですわ」
ウィスキー瓶の方ばかり見ては、気取られるおそれがあるので、加納はあらぬ方に視線をむけ、いかにも病人らしい深刻な表情をつくっていた。
「は、はやく体温計を!」
とにかく塙女史を、ひとまずこの部屋から追い出す必要があるので、加納は必死の声をしぼった。
「水、水を一杯。大急ぎで!」
「『応急手当法』という本がございましたわね。どこにしまってあったかしら」
体温計や水の訴えを黙殺して、『応急手当法』なる本に思いをいたしたのは、さすがに女子大出身だけあって、理知的なものである。塙女史は加納の手首をはなして、書棚の方に向き直った。
「…………」
加納は首をちぢめ、眼をつむった。
しばらくして眼をひらくと、塙女史はウィスキーの瓶をわしづかみにして、机の向うにきちんと正座していた。その陶器でつくったようなつるつるした美しい顔の、眼がするどく光り、眉がすこしつり上っていた。
「先生はこのウィスキーを召し上ったんですのね」
声は低く静かで、乱れを見せていなかったが、それだけに妙な迫力があった。
「どうもおかしいと思いましたわ。先生の御健康には、わたくし万全を尽しておりますから、妙な発作(ほっさ)がおきる筈はございませんものねえ」
「…………」
「このウィスキー、どこで手にお入れになったんでございますの?」
「山本君から貰ったのだ」
加納はやむを得ず、ウソをついた。わざわざ買いに出かけたとなれば、それは計画的ということになる。
「この間山本君が来たとき、お土産に貰ったのだ」
「何故わたくしに連絡をしていただけませんでしたの?」
言葉はしずかであったが、瓶をわしづかみにした手がぶるぶると慄えていた。加納はそのせっぱつまった短い時間に、芥川竜之介の「手巾」という短篇を思い出した。
「召し上るもの、お飲みになるものについては、先生の健康保持上、こちらにも周密な計画がございます。こんなものをかくしてお飲みになっては、わたくしの立つ瀬がありません。一体どういうつもりで、しかも昼間っから、こんなものをお飲みになったんですか?」
「ウィスキーがそこにあったからだ」
英国の高名な登山者のようなせりふを加納ははいた。
「何故飲むか。そこにあるからだ。僕にも飲む自由がある」
「それはいけません。先生」
塙女史は屑をかんだ。
「こんな強烈な酒は、肝臓をいため、心臓をいため、胃腸障害をおこさせ、神経系統をめちゃめちゃにします。そうなれば必然的に、作品活動は低下いたします。そうお思いになりませんか。先生!」
[やぶちゃん注:『芥川竜之介の「手巾」』は芥川龍之介が大正五(一九一六)年十月発行の『中央公論』に初出した小説。後、処女作品集「羅生門」(大正六年阿蘭陀書房刊)に収録された。読みは「はんけち」である。「青空文庫」にこちらにあるが、新字旧仮名で気に入らない。国立国会図書館デジタルコレクションの『ログインなしで閲覧可能』の大正一二(一九二三)年新潮社刊の後発版「羅生門」のそれをリンク(本文開始ページ)させておく。標題ページには『大正五年九月』とあるが、これは脱稿のクレジットである。この小品の小説、私は好きである。大学時代、三島由紀夫の批判に対し、反駁する短評を同人誌に書いたことがある。]
「僕は必ずしもそうは思わない。ねえ、塙女史」
加納の口調はやや妥協的となり、また説得の調子を帯びた。
「ウィスキーは肝臓や胃腸をいため、神経系統をいためると言うが、作品なんてものは、むしろそういう状態から出て来るものなんだよ。古来ずいぶんその例はある。女史が僕の健康について、いろいろ気を配って呉れるのは感謝するが、そこを何とか――」
「病的な状態から良い作品が出ることは、そりゃ時にはございますわ」
塙女史も英文科の卒業だから、その事実は認めた。
「しかし、それは一時のことでございます。不健康な状態で、長い間にわたって持続的に、旺盛な作品活動した例はありませんわ。過度の飲酒は、絶対に作品を低下させます」
「僕の作品は低下してもいい!」
ついに加納はかんしゃくをおこした。
「僕は僕の好きなだけ飲む。好きなだけ飲み食いをする。作品なんか、すこしぐらい低下したって、かまわない」
「そ、そんなエゴイスティックな!」
塙女史も負けずに声を高くした。
「先生の作品は、もう先生のものではありません。万人のものです。それを先生の身勝手から、作品の質を低下させようなんて、エゴイズムもはなはだしいことですわ。わたくしは先生の芸術のために、先生と闘います。先生のエゴイズムと闘います。ええ、わたくしの生涯をかけても、闘い抜いて見ますわ!」
「だって僕という人間は、いつも言っているように、調和型の作家じゃなく、どちらかというと破滅型――」
「破滅型もクソもありますか!」
相当に亢奮(こうふん)していると見えて、女史は淑女らしからぬきたない言葉を使った。
「破滅型の作家はでございますね、決して自分で自分のことを破滅型などと――」
玄関の方でブザーの音が鳴った。塙女史は言葉を止め、ウィスキーの瓶を抱いたまま、きっと加納の顔を見据(す)えながら、そろそろと立ち上った。あとしざりして、扉から廊下へその姿は消えた。
加納はがっくりと肩を落し、座蒲団の下から塩せんべいをつまみ出して、ぽりぽりと喰んだ。ひとりごとを言った。
「おれの仕事は、もうおれのものでなくなったのか」
塩せんべいは味はなかった。おがくずのように不味(まず)かった。
「そうすると、このおれというのは何だろう?」
塙女史はウィスキー瓶を小脇に抱き、つかつかと玄関にあるいた。扉に設備された小さなのぞき窓から外をのぞき、玄関の錠をはずした。押売りや学生アルバイトではないと見極めたのだ。四十前後の齢ごろの男が、のっそりと玄関に入って来た。
「加納先生、いらっしゃいますでしょうか」
男はハンチングを脱いで、かるく頭を下げながら、そう言った。
「もしおいででしたら、ちょっとお目にかかりたいと思いまして」
「あなた、どなた?」
塙女史はやや高飛車に出た。あまり有利な客でないととっさに判断したのである。男はあわてて名刺を取出し、不器用な手付きで塙女史に手渡した。塙女史は低い声でそれを読んだ。
「浅利圭介――」
「どういう御用件ですか?」
塙女史は切口上で言った。
「え? 今申し上げたでしょう」
浅利圭介は手にしたハンチングを、二つに折り曲げたり、くしゃくしゃに丸めたりしながら答えた。
「つまり、加納さんに、お目にかかりたいのです」
「だから、先生にどんな御用件かと、お聞きしてるんですよ」
塙女史はいらいらしたように、手に持ったウィスキーの瓶をゆすぶった。液体はごぼごぼと音を立てて鳴った。
「どんな用事?」
「そ、それは、直接お目にかかって――」
圭介はすこし動転していた。ちょっとマネキン人形を思わせるような、硬質の美しさを持った八頭身女性などを、相手にするのは圭介には大の苦手であった。それに当人にあうまでは、自動車のことは絶対に口にしてはならぬと、この間の図上作戦の折、くれぐれも陣太郎から釘をさされているのである。
「一体あんたは、何ですか。奥さまですか?」
「奥さまじゃありません」
塙女史はつっけんどんに答えた。あんたと呼ばれたのが面白くなかったらしい。圭介は時折、女性に対する呼びかけ方を間違えて、失敗することがある。ランコをおばはん呼ばわりしたのもそうだったし、この場合もそれであった。塙女史は心証を害した。
「あたしは加納先生の秘書兼助手です。一体何の用事ですか?」
「ええ。ええと、それは――」
圭介は困惑して、ハンカチで頸(くび)筋をごしごしと拭いた。
「雑誌関係ですか?」
「いいえ」
「文化団体ですか?」
「いいえ」
頸筋を拭いている圭介の顔を、塙女史はつめたい眼で見下した。
「では、紹介状か何かお持ちですか?」
「紹介状?」
圭介はきょとんと顔を上げた。
「そんなものが要るんですか?」
「初対面だったら、そんなものが必要です。どなたの紹介状をお持ちですか?」
「弱ったなあ」
圭介は今度は顔の汗をふいた。
「持って来なかったんです。忘れたんですよ」
「では今から行って、貰っていらっしゃいませ」
「弱ったなあ。誰に頼めばいいんだろう」
圭介は鎖につながれた犬のような、哀願的な眼付きになった。
「あんた、書いてくれませんか」
「あたしが、紹介状を?」
「ええ、そうすれば僕もたすかるんだがなあ」
圭介は自分の思い付きに満足してにこにこした。
「秘書の、いや、秘書さんの紹介状だったら、加納さんも会って下さるでしょう」
「加納先生、とおっしゃい!」
塙女史は片足をトンと踏みならした。
「あたしに紹介状を書けだなんて、そんなばかげた話がありますか。一体あなたはここに、なんの用事でやってきたんです!」
「そ、それがとても、重大な用件で――」
浅利圭介はハンチングをくしゃくしゃにして身悶えた。
「加納さん、いや、加納先生は、今御在宅なんですか?」
「いらっしゃいますよ。只今お仕事中です」
そして塙女史はふと気がついたように、手にしたウィスキー瓶をにらみつけた。
「お仕事中は、一切面会謝絶です」
「お仕事の時間は?」
「一日八時間ですわ」
「では、その仕事の時間を避けて、参上すればいいのですね」
「そうカンタンには行きませんよ」
塙女史はあわれみの視線を圭介に向けた。
「何故カンタンに行かないんですか」
圭介はいくらか憤然たる口調になった。意地になっても会わせまいとしているな、と考えたのである。
「仕事が八時間、眠る時間がかりに十時間だとしても――」
「十時間? 先生がそんなに眠るもんですか。せいぜい八時間ですよ」
塙女史はつめたい笑いを見せた。
「あなたは十時間も眠るんですか?」
「はあ。僕はたいてい十時間から十二時間眠ります。時には十五時間ぐらい。今僕は失業しているんでね」
何が可笑しいんだという表情で、圭介は答えた。
「じゃ先生は、仕事八時間、眠り八時間。残った暇が八時間あるわけですね」
「暇じゃありませんよ。その間に、三度の食事、酵素風呂、散歩、運動と、スケジュールがぎっしり組まれてんですからね」
「いくらぎっしり組まれていたって」
圭介は呆れ声を出した。
「寸暇をさいて人に会うぐらい――」
「その寸暇がなかなかさけないんですよ。題材探しや調査のために、自動車でお出かけになるし――」
「自動車」
圭介は緊張の色を示した。
「そうですよ。自動車ですよ。なにしろ忙しいんですからね。それに街のてくてく歩きは、身体にも悪うございましてねえ」
「三の一三一〇七」
圭介のその声は、うわごとに似ていた。
「一三一〇七。確かにそうだった」
「何ですか、それ?」
あれこれとよく気がつく塙女史も、加納の自動車の番号までは記憶していなかった。自動車の番号というものは、たとえば電話番号などと違って、あまり暗記をして置く必要のないものである。
「とにかく面会は謝絶です!」
面倒くさそうに塙女史は、最後の断を下した。
「そ、そんな殺生な!」
「どうしても面会をお望みなら、紹介状を持参してくるとか、用件を書面にして提出するとか、とにかく出直していらっしゃることですわ」
そして塙女史はいきなり、ウィスキー瓶をけがらわしそうに圭介に押しつけた。
「はい。その代りにこれを差し上げます」
「はあ」
瓶を押しつけられ、圭介は何が何だかわけも判らず、きょとんとしてお礼をはった。
「ありがとうございます。こんな結構な品をいただいて」
「どうぞお引き取り下さい」
塙女史は扉を指差した。
猿沢三吉が経営している銭湯は、目下新築中のを除くと、三軒あった。三軒とも、どれもこれも似たりよったりのつくりであるが、第一・三吉湯が年代的には一番古く、つづいて第二。第三が三つの中で一番新しかった。
その第一・三吉湯の浅い方の湯槽に、大きな窓から入る昼下りの明るい光線の中で、陣内陣太郎がのんびりと言を浮かしていた。湯に反射した光線が縞になって、陣太郎の顔に揺れている。タオルで顔をしめしながら、陣太郎の瞳は油断なく動いて、番台の様子や客の出入りを観察していた。
「……百戦あやうからず、か」
陣太郎はもそもそした声でひとりごとを言った。先日浅利圭介と打ち合わせた図上作戦の一環として、三吉湯の現状を偵察にやって来たのだろう。
やがて彼はざぶりと湯槽から脱出、タオルをしぼって身体を拭き上げた。板の間のカンカンで体重をはかった。十四貫[やぶちゃん注:五十二・五キログラム。]丁度(ちょうど)。板の間を観察しながら、衣服を着用。石鹸入れをタオルで包み、下駄をつっかけた。その節[やぶちゃん注:「せつ」。]番台越しに、女湯を観察することも、陣太郎は忘れなかった。のれんを頭でわけ、外に出た。
[やぶちゃん注:「カンカン」「看貫秤(かんかんばかり)」の略。ここは知られた台秤のこと。古く明治の初めに、生糸の取引の際、生糸の重量を改めて正確に量り看たことに由来する。]
二十分後。
陣太郎の首は、今度は第二・三吉湯の湯槽にぽっかりと浮いていた。首自身はのんびりと浮んでいたが、やはり眼だけは抜け目なく、客の出入りや建物の木口などを仔細に観察していた。陣太郎の唇が動いた。
「この木口の古さからすると、第一が建てられて、十年ぐらい経って、これが建てられたんだな」
陣太郎は湯槽を出、カランの前にぺたりと坐った。石鹸のあぶくをタオルに沢山まぶしつけ、頭のてっぺんから足の先まで、ていねいに洗った。第一・三吉湯でも丹念に洗ったこと故、これはムダな行為というべきであったが、陣太郎にしてみれば偵察の関係上、ムダな時間をついやす必要もあったのであろう。
[やぶちゃん注:「カラン」kraan。オランダ語。水栓金具のこと。ここは、当時の風呂屋のお湯及び水の蛇口の二本のそれを指す。今は混合栓化して一本になった。]
また湯槽に飛び込み、しばらくして上り、板の間でカンカンに乗る。針は十三貫九百匁[やぶちゃん注:五十二・一二五キログラム。]を指した。
「おや、百匁[やぶちゃん注:三百七十五グラム。]も減ったぞ」
陣太郎はげんなりした声でつぶやいた。
下駄をつっかける時、巧妙な視線で女湯を観察。丁度(ちょうど)その時二十前後の女が、こちら向きのまま衣類をすっかり脱ぎ捨てたところなので、さすがの陣太郎も視線をうろうろさせ、やや狼狽気味に第二・三吉湯を飛び出した。
どうも近頃の若い女は、羞恥心というものを持たないから困る」
ゆだった顔を風にさらして歩きながら、陣太郎はぼそぼそとぼやいた。
「あんなにあけっぴろげでこちらを向かれちゃ、偵察なんか出来ないじゃないか」
第三・三吉湯に向う途中、あまりゆだり過ぎてお腹がすいたと見え、陣太郎は「勇寿司」と染め抜かれた店に飛び込んだ。これはかつて猿沢三吉と泉恵之助がつかみ合いの大喧嘩をした店である。陣太郎はつけ台の方には行かず、隅の卓に腰をおろした。
「イナリ鮨」
まことに陣太郎らしい鮨を、陣太郎は注文した。
運ばれてきたイナリ鮨を、またたく間に平らげると、陣太郎はまたタオルと石鹸入れをわしづかみにして、勇寿司を出た。
「さあ。あと一軒だ」
陣太郎は少し前のめりになって、第三・三吉湯へ向けててくてくと急いだ。
第三・三吉湯の隅のカランに、老人が二人尻を並べて、身体を洗いながら世間話をしていた。どちらも歯がほとんど抜けていて、声がはっきりしないので、話の内容をぬすみ聞こうとするなら、その傍に寄って聞く以外にはなかった。
陣太郎も、もう身体を洗うのはイヤになっていたらしいが、その話を聞くために老人と尻を並べ、タオルに石鹸をごしごし塗りつけ、顔から肩、胸から腹をあぶくだらけにし始めた。
「今度また三吉湯が一軒ふえるだろ」
「うん」
「泉湯の大将だって、これには困らあね」
「いくらも離れてねえからな」
発音が不明瞭な上に、湯を流す音、タオルを使う音がまじるので、ところどころしか聞き取れない。
「……勇寿司の大喧嘩以来……」
「……なに、新築場でも……」
「……伜(せがれ)の竜之助……」
陣太郎は全身白いあぶくに包まれたまま、猟犬のようにきき耳を立てていた。老人たちのぼそぼそ会話は、やがて気の抜けた笑い声とともに終った。老人たちは湯槽に入った。
陣太郎も急いで石鹸を洗い流し、追っかけて湯漕の中に入った。第一、第二・三吉湯では、陣太郎は浅い子供用の湯槽に入ったのだが、今回ばかりは老人たちの話を聞く関係上、深い熱い方の湯槽に飛び込まざるを得なかった。
猫舌だと自称するだけあって、熱い方に入るのは大へんな苦痛らしく、陣太郎は金太郎みたいにまっかになってうめいた。
「うん。ううん。熱い。こんな熱い湯におれを入れて、おれの身体からスープでも取るつもりか」
老人たちは平気で全身をひたし会話を続けていたが、陣太郎はそれをぬすみ聞く余裕もなく、それでも五十秒ぐらいは頑張ったが、ついにたまりかねて、飛沫を上げて飛び魚のように湯槽から飛び出した。へたへたと坐り込みタイルの上をごそごそとシャワーまで這(は)い、水をかぶることによってやっと元気を取り戻した。身体をぬぐい、板の間によろめき戻りながら、陣太郎はいまいましげにつぶやいた。
「ああ、熱かった。あと十秒もつかっていたら、煮えてしまうところだった」
三たびカンカンに上り、目盛を眺めながら、陣太郎は首をかしげて舌打ちをした。針は十三貫八百匁[やぶちゃん注:五十一・七五キログラム。]を指していた。
「おかしいな。さっきイナリ鮨を食べたというのに、また百匁も滅ったぞ」
衣類をまとい、下駄をはきながら女湯を観察、陣太郎は第三・三吉湯を出た。
十分後、れいの角地の新築場の前に、陣太郎はタオルをぶら下げて立っていた。
槌の音やカンナの音、セメントをまぜる音、掘抜き井戸から粘土質の水を汲み上げる器械音。それらががちゃがちゃと混って、その町角に一大騒音地帯をつくり上げていた。
陣太郎はしばらく人と器械の動きを眺めていたが、更にくわしく観察する必要を感じたのであろう、とことこと囲いの中に入り、下駄のまま材木の山に登り始めた。
棟梁(とうりょう)風の男がそれを見とがめた。
「おい、おい。土足でのぼっちゃダメだ。何だい、お前さんは」
陣太郎は素直に降りて、かるく頭を下げた。
「ちょっとうかがいますが、泉湯という風呂屋はどちらですか?」
泉湯の番台で、泉竜之助は長身の背を丸く曲げ、膝の上の翻訳小説を一心不乱に読みふけっていた。
まだ時刻が時刻なので、男湯も女湯も客は四人か五人程度で、番台の仕事もさほどいそがしくはない。だから女中頭のお種さんも、若旦那のその所業を大目に見ているのである。もしお客が立てこんできたら、お種さんは暴力をふるっても、その小説本を取り上げるだろう。近頃お種さんは、大旦那の恵之助から事態をこんこんと説明され、相当な筋金入りになっているのだから。
ガラス戸ががらりとあいて、タオルと石鹸入れをわしづかみにした陣太郎が、のそのそと入ってきた。
竜之助は視線を小説に吸いつけたまま、条伴反射的に長い手を客の方にニューッと突き出した。
陣太郎はポケットを探り、十円玉ひとつを、つまみ出し、女湯の方をしげしげと観察しながら、ぽいとそれを竜之助の掌の上にのせた。五円玉をついでにつまみ出さなかったのは、時間をかせぐつもりだったのだろう。
ところが竜之助の掌は、十円玉を握ったままで、すっと引込んだ。再びニューッと突き出てくるかと待っているのに、一向に出て来ないので、陣太郎は下駄を脱ぎ、いぶかしげに番台をのぞき込んだ。
竜之助はそれにも気付かず、読書に没顛している。
陣太郎はにやりと笑って、籠を出して服を脱ぎ始めた。服を脱ぐのも、今日はこれで四度目だから、すっかり慣れて手早かった。
やがて陣太郎の身体は、浅い方の湯槽に沈没、首だけ浮かして、あたりをじろじろと観察にとりかかった。
カランの前で、裸の客たちが世間話をしている。
すなわち陣太郎はその傍に陣取り、また頭のてっぺんから足の先まで、石鹸のあぶくだらけにした。
客の世間話がまた湯槽に移動したので、陣太郎も早速あぶくを洗い落し、深い方の湯槽にちょっと足指を入れたが、たちまち首をすくめて足指を引っこ抜き、浅い方の湯槽にくらがえをした。
世間話がなかなか終らないので陣太郎も思わず長湯、顔がゆでだこのようになって来た。
番台の竜之助はその頃、やっと一区切りを読み終え、顔を上げて、視力を調節するために、天井や湯槽の方を眺めていた。
すると浅い方に入っていた客のひとりが、ぬっと湯槽を出、そのまま身体をふくこともせず、ふらふらと板の間ヘ歩いてきた。
「のぼせたのかな。あのお客さん」
そのお客さんはカンカンの前に立ちどまり、両手を胸のあたりに上げ、身もだえするような恰好になったかと思うと、そのままどさりとマットの上にぶっ倒れた。飛沫が板の間に飛び散った。
「たいへんだ」
竜之助の長身はバネのようにはずみをつけて、番台から板の間に飛び降りた。
お種さんは急いでカランに走りタオルに水を含ませてかけ戻って来た。ぶっ倒れた陣太郎の心臓の上にタオルを乗せた。陣太郎はうめいた。
図上作戦もほどほどにすればいいのに、短時間に四回も入浴するなんて、いくら陣太郎でも不覚をとるのは当然である。
お種さんは長年泉湯で働いているから、お客の一人や二人くらいがのぼせたり、脳貧血をおこしたりしても、さほど驚かない。すぐにてきぱきと手当をほどこす。
しかし泉竜之助の方は、近頃から番台に坐り始めたのだし、根が気弱なたちと来ているから、たちまち驚いて、お種さんが制するのも聞かず、
「医者だ。お医者さまを呼ぼう」
と、大あわてして泉湯を飛び出し、五分後に医師の手を摑んで、かけ戻ってきた。
陣太郎はマットの上にぐったりと伸び、冷水タオルを身体のあちこちに乗せられ、四方からうちわであおられていた。
「単純な脳貧血ですな」
かんたんな診察の後、医師はそう診断、鞄をごそごそと開いて、注射を一本打った。陣太郎は薄眼をあけてあたりを見廻し、また物憂(う)げに眼を閉じた。医師はその陣太郎の皮膚をあちこちつまみながら、いぶかしげにひとりごとを言った。
「おかしいな。この人はまだ若いようだが、皮膚がかさかさだな。すっかり脂肪がぬけている」
通計四回入浴、四回とも石鹸のあぶくをたっぷりつけて洗い立てたのだから、脂肪がすっかり抜けてしまうのも当然だ。
「なるほど。まるでサラシ鯨みたいでございますね」
お種さんも気味悪そうに、陣太郎の皮膚に触れ、そう相槌をうった。
「元気が回復したら、脂肪(あぶら)ものでもどっさり摂るんですな。トンカツとかウナギとか」
そう言い捨てて、医師はそそくさと戻って行った。
医師の姿が見えなくなると、陣太郎はやや元気になって、のろのろと半身をおこした。顎(あご)をしゃくって衣類籠を指し、お種さんにそれを持って来させ、悠然たる動作で衣服を着用した。失神中に裸をさんざん眺められたという羞恥の情は、微塵(みじん)も陣太郎の表情にはあらわれていなかった。
「大丈夫かい、君」
竜之助が心配そうに訊(たず)ねた。
「何なら僕の家に行って、しばらくやすまないか」
番台で竜之助が読みふけっていたのは、西欧の某人道主義作家の作品であったから、その後味が胸に残っていて、それが竜之助をしてこのような隣人愛的な発言をさせた。
[やぶちゃん注:「西欧の某人道主義作家」私は即座にロマン・ロラン(Romain Rolland 一八六六年~一九四四年)を想起した。私は小学生五年から二十歳頃まで熱烈なファンで、あらかたの著作を読み漁ったものだった。]
「そうだな。そうさせて貰おうか」
おうようとも横柄とも見える答え方を陣太郎はした。
「君の自宅はこの近くかい?」
「すぐ裏なんだよ」
竜之助はその方角を指差した。
「お種さん。あとをたのむよ」
「番台をからにしておくと、大旦那様がうるさいですから、早く戻ってきて下さいませね」
お種さんが釘をさした。
「ああ、判ってるよ。判ってるよ」
二人そろって泉湯を出、裏に廻ってくぐり戸をくぐった。竜之助が先に玄関に入った。玄関脇にころがっているバーベルを、興味ありげに眺めながら、陣太郎もあとにつづいた。竜之助は電話の前に立ち、陣太郎をふり返った。
「君、おなかの具合はどうだね?」
「ぺこぺこだよ」
陣太郎は悠然と答えた。
泉竜之助は受話器をとりあげながら、また訊ねた。
「何を食べる?」
「ご馳走して呉れるのかい」
じろじろとあたりを観察しながら、陣太郎は答えた。
「何でもいいよ」
「脂肪分を摂ったがいいって、医者がいってたよ」
そして竜之助はいたましそうに陣太郎の皮膚を見た。
「今日は朝からなにを食べた?」
「朝?」
陣太郎は首をかしげた。
「朝はモリソバ。昼は、ええと、昼はイナリ鮨を食べたよ」
「イナリ鮨ねえ。イナリ鮨にはいくらか脂肪はあるが――」
竜之助は指にはずみをつけて、ダイヤルをぐるぐると廻した。
「もしもし、こちらは泉ですがね、トンカツの特大を二つ。ええ、二人前。大至急」
がちゃんと受話器を置くと、竜之助は陣太郎をかえりみた。
「さあ。僕の部屋に行こう」
廊下を先に立つ竜之助の顔には、憐憫(れんびん)の情とともに、自分のヒューマニティーに酔った色がありありとあらわれていた。廊下の尽きるところに、れいの穴だらけの障子があった。
「すこし散らかっているけどね――」
竜之助は障子をあけながら弁解をした。
「僕はあまりかまわない方なんだ。整頓ということが大のニガテでね、いつも親爺から叱られる」
「ずいぶん本を持っているんだなあ」
あちこちに積み重なった本を見廻しながら陣太郎は言った。
「古本屋でも開業するつもり?」
「古本屋? 冗談じゃないよ」
竜之助はちょっと気分を害し、顔をしかめて手を振った。
「僕は本が好きなんだ」
「そう言えば、番台でも何か読みふけっていたようだね。あれは小説かい?」
そして陣太郎は無遠慮に、竜之助の煙草に手を伸ばした。
「番台はあけて置いてもいいのかね?」
「お種さんがいるから大丈夫だよ」
竜之助も煙草に火をつけた。
「番台坐りがまた、僕には大のニガテなんだ。それに僕が坐ると、たとえば今日みたいに読書にいそしんでるだろう、そこにつけ込んで湯銭をごまかす奴がいるんだ」
「悪い客がいるもんだなあ」
自分も十円しか出さなかったくせに、陣太郎はけろりとして言った。
「それじゃ商売が成り立たないだろうね。よその風呂屋との競争もあるだろうし――」
「うん。そこなんだ」
竜之助はたちまち誘導訊問にひっかかって、勢い込んで答えた。
「うちの親爺と、三吉湯の親爺とが、将棋か何かのことで仲違いしてさ」
「三吉湯?」
陣太郎はとぼけて反問した。
「うん。あそこの角地に、風呂屋の新築が始まってるだろう。あれがそもそも――」
その時玄関の方から声がした。
「毎度ありい、トンカツ二丁持って参りました」
二皿のトンカツを陣太郎が食べ終えるのに、一時間近くもかかった。それは揚げ立てで熱く、陣太郎が猫舌のゆえでもあったし、文字通り特大で、硯(すずり)箱ぐらいのかさがあったせいでもあった。さきほどイナリ鮨を食べたばかりなので、二皿目の終りの方は、陣太郎もかなり苦しそうであった。
しかし、一時間もかかった最大の原因は、陣太郎が質問にいそがしく、竜之助の答えに耳を傾けるのにいそがしかったという点にある。
また竜之助もよくぺらぺらと答えた。番台に坐っているよりも、こんな風来坊的人物を相手にしている方が、はるかにたのしい風情(ふぜい)で、よくよく竜之助という男は風呂屋向きには出来ていないのである。
トンカツの最後の一片を、フォークで口にほうり込んだ頃には、泉湯と三吉湯の家族構成、仲たがいのいきさつなど、もろもろの知識を陣太郎は仕入れてしまっていた。脳貧血でぶったおれたのは一期(いちご)[やぶちゃん注:「一生」に同じ。]の不覚であったが、それを手がかりにしていろんなことを探り得たのは、作戦としては大成功の部類に属するだろう。
「ううん。すこしはアブラが戻って来た」
フォークを置き、陣太郎は両掌で腹部を撫でさすった。さっきまでサラシ鯨のようだった皮膚も、すこしに艶を取り戻してきたようである。
「どうも御馳走さまでした。では」
陣太郎はあっさり言って、腰を浮かせた。得るべきものはすでに得たから、退散にしくはなしと判断したのだろう。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」
竜之助はあわてて呼びとめた。せっかく御馳走してやったのに、あっさりと帰られては間尺に合わない[やぶちゃん注:割に合わない。損になる。]。
「君、帰る家はあるのかい?」
「家ぐらいはあるよ」
浮浪者あつかいをされて、陣太郎はむっとした顔になった。
「もっともおれの家じゃないけれど」
「下宿?」
「うん。ううん。下宿、かな。そうでもないな。何と言ったらいいか――」
「居候?」
「居候じゃないよ」
陣太郎はまた唇をとがらせた。
「知合いだ。元おれの家の家令をやっていた男のとこにいる」
「カレイ?」
「うん。でも、近いうちにそこも立退くことになるだろう」
竜之助は上目使いになって、しげしげと陣太郎の顔を見据(す)えた。すこし経って言った。
「君は何という名?」
「陣太郎」
「いや、姓だよ」
「松平。松平、陣太郎」
そして陣太郎は、急にするどい眼付きになって、周囲を見廻した。
「でも、今は、ある事情があって、陣内姓を名乗っているんだ。だから、陣内陣太郎」
「どういう事情で?」
陣太郎は苦悶の表情をつくり、返答はしなかった。
「その家令の家というのは、この近くですか?」
竜之助の口調はすこし改まり、丁寧になった。陣太郎は苦悶の表情のまま首をふった。
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