「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「四」 の「飯降山」 / 「續南方隨筆」電子化注~本文完遂
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。
なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。
本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。
また、本篇の対象論考は「選集」の編者注によれば、『三宅光雄「飯降山」』であるとある。この「飯降山」は「いふりやま」と読む。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。当該ウィキによれば、『福井県福井市と大野市との境にある山で』、『標高』は八百八十四・三『メートルで福井市としては最高峰の山である。近隣の山は荒島岳』(千五百二十三メートル。本篇にも出る)。『越前大野の町割りの山あての山であり、地元では五穀豊穣、治療の神の山と昔から言われ、通称は御岳さん(おたけさん)』と親しまれ、六『月には松明を持っての参詣登山の行事がある』。『越前大野の地図や都市図によると、篠座神社』(しのくらじんじゃ:ここ。グーグル・マップ・データ航空写真。神社を拡大してみると、同神社の参道は確かに飯降山に向かって直線を成していることが判る)『の参道の延長は飯降山の頂上になっている。篠座神社は大己貴命』(おおむなちのみこと)『を祀る神社で、神苑の霊水は眼の病を治すと伝えられている』(同神社のウィキには、この飯降山が『古くからの神体山と考えられ』てきており、『春分・秋分の日には、鳥居・社殿の延長線上である山頂に日が沈む』と書かれてある)。山名は『泰澄大師が、この山にいたときに、飯が天から降ってきたと伝えられる縁起からだという』。また、『別の話としては、昔この山で三人の尼が修行をしていたところ、毎日』、『飯が降ってくるようになったが、いつの日かこの飯を一人で食べようと考えるようになり、次々と他の二人を深い谷に突き落としたら』、『飯が降らなくなってしまったという伝説から来ている』ともあった。
なお、一部のインドでの尺度のカタカナ書きの読みは、「選集」にあるものを使用してある。
さて。本篇を以って「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附は完遂した。この続篇の本書に取り掛かったのが、昨年の七月二十二日であったから、ほぼ一年で完遂出来たことになる。私の神経症的な注につき合って下さった数少ない読者の方々に、心から御礼申し上げるものである。次いで「南方閑話」に取り掛かりたいのだが、ちょっと熊楠の文体(というか表記)に疲れたので、何時、起動するかは、ちょっと判らない。気長に、お待ちあれかし。悪しからず(藪野直史記)。]
○越前の飯降山(三號一八二頁) の神が、荒島山より馬の鞋《わらぢ/くつ》の高さの半分斗《ばか》り低いのを殘念で、五月五日の祭日に、一握《ひとにぎり》の土《つち》、一片《ひとかけら》の石でも、持登《もちのぼ》る者の、所願、一つ、聞《きい》てやる、と。三宅君の報告に對し、面白い事は、五年前見た、東牟婁郡小口《こぐち》村鳴谷《なきたに》は、甚《はなはだ》しき難處で、高い山の上に谷が多く有る。里人言ふ、「昔し、高野山を他處《よそ》へ移さうとて、此處《ここ》を尋ねあてたが、四十八谷《だに》有《あつ》て、今一つ、高野に比して不足だつたので止《よし》た。」(三號一八三頁「岩の室屋」參照[やぶちゃん注:「選集」の編者割注で著者を『中西利徳』とする。])。主立《おもだつ》た谷の端より直下する瀧を、逈《はる》か上の絕崖《ぜつがい》に一本立《たつ》た扁柏《へんぱく/ひのき》にすがりて見下《みおろ》したが、絕景でも、極《ごく》危難でも有《あつ》た。其瀧は、那智の一の瀧よりも米《こめ》三粒《みつぶ》丈《だけ》短い、という。「鞋の厚さの半分」とか、「米三粒」とか、里俗には、妙な尺度の標準が有る。一笑に附し去《さら》ずに、一々、聚《あつ》めたら、有益な理則を見出だす事と思ふ。印度の尺度は、「極微《バラマヌ》」を、最小、拆《わか》つべからず、とす。其を七倍して「微《マヌ》」、其を七倍して銅水、これはビールの「西域記」英譯に、水を受くる銅盃の小孔の大《おほき》さだらうと註せり。其から、順次、七倍して、「兎毫《うさぎのけ》」、「羊毛」、「牛毛」、「隙塵《ごみ》」、「蟣《きささ》」、「虱《しらみ》」、「麥粒《むぎつぶ》」、「指節《ゆびひとよ》」と、段々、大きく成る。是も、最初は、手近い指や、麥や、虱を標準として、追々、小六《こむづ》かしく、極微《きよくび》迄、理想的に割出《わりだ》したに違ひ無い。英譯、ハクストハウセンの「トランスカウカシア篇」(一八五四年板、四〇九頁)に、其地方で殺された人の創《きず》を大麥《おほむぎ》の粒で測り、一粒の長さ每《ごと》に、一牛を下手人に課す、とある。
[やぶちゃん注:「東牟婁郡小口村鳴谷」恐らくはこの附近と思われる(グーグル・マップ・データ航空写真)、
『ハクストハウセンの「トランスカウカシア篇」(一八五四年板、四〇九頁)』「トランスカウカシア」(Transcaucasia)は「南コーカサス」の英語。この附近(グーグル・マップ・データ)。「ハクストハウセン」はドイツの経済学者アウグスト・フランツ・ルーディング・マリア・フォン・ハクストハウゼン(August Franz Ludwig Maria von Haxthausen 一七九二年~一八六六年)。ロシア農学に関する研究者で、特に農奴制に関する深い実態分析を行い、農業及びプロシアとロシアの社会関係に関する著書を多く著わした。また、グリム兄弟とともにドイツの伝説、特に民謡を初めて収集した人物としても知られる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。‘Transkaukasia: Reiseerinnerungen’(「トランスカウカシア――旅の思い出」)。「Internet archive」の英訳本は‘Transcaucasia, Sketches of the Nations and Races between the Black Sea and the Caspian’ (「トランスカウカシア、黒海とカスピ海の間の国家と人種のスケッチ」)。英訳原本当該箇所はここ。正直、熊楠の略述より、原文の方が、判り易いので、是非、見られたい。]
扨《さて》、飯降山の祭禮を五月五日に行なう理由は知《しら》ぬが、紀州田邊近傍では、近時迄、「三月三日、山に入れば、『モクリコクリ』、出《で》る。」とて、山に遊ばず、濱に遊び、五月五日、海に入れば、かの怪、出《いづ》るとて、海に近づかず、山に往《ゆ》き、「寶《たから》の風《かぜ》を吹《ふか》しに往く。」と云ふた。昔し、彼輩《かのやから》、異國より攻來《せめきた》つたが、端午の幟《のぼり》の威光で、悉く、敗死した。其亡靈が、殘り居《を》る、と云ふ。「モクリコクリ」は、麥畑中《むぎばたけぢゆう》に、忽ち、高く、忽ち、低く、一顯一消《いつけんいつしやう》[やぶちゃん注:寸時に出現し、寸時に消え去ること。]する、人の形《かたち》したる怪物と、信ずる者、有り。神子濱《みこのはま》にて云ふは、「鼬樣《いたちやう》の小獸《しやうじう》、麥畑に居《を》り、夜、麥畑に入る者の、尻を拔く。」と。是は、田鼠《うごろもち》と、河童を、混製したらしい。凡て、不文[やぶちゃん注:文盲。]の民は、色々の心得違ひから、飛《とん》でも無き誤說を生じ、其《その》誤れるを知《しら》ずに、固く信ずる例、多し。例せば、毒草マンドラゴラは、最初、東方諸國で媚藥として尊《たつと》ばれたが、色々の俗信が加はり、十八世紀迄、佛國の村民は、此草から轉じて、光榮の手(マン・ド・グロ-ル)とて、田鼠の樣《やう》な物が土中に棲み、其れに、每日、食を供へると、飼主《かひぬし》を富《とま》す、と信じた(一八八四年板、フォーカールド「植物俚傳(プラント・ロワール)」四二八頁)。
[やぶちゃん注:「神子濱」現在の和歌山県田辺市神子浜。
「鼬」食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela に属する多様な種群を指すが、実はそのイタチ類自体が、本邦の民俗社会では、近代初期まで、妖怪視され、様々な怪異を起こす妖獣とされていた。詳しくは、「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」(寺島良安は誤って鼬を「鼠」の仲間としている。まあ、分らぬではないが)の本文と、私のかなりリキの入った注を参照されたい。
「毒草マンドラゴラ」ナス目ナス科マンドラゴラ属 Mandragora の植物。当該ウィキによれば、『根にトロパンアルカロイドのヒヨスチアミン』・『クスコヒグリンなど』、『数種のアルカロイドを含』み、『麻薬効果を持ち、古くは鎮痛薬、鎮静剤、瀉下薬(下剤・便秘薬)として使用されたが、毒性が強く、幻覚、幻聴、嘔吐、瞳孔拡大を伴い、場合によっては死に至るため』、『現在』、『薬用にされることはほとんどない』とある。詳しくは、「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(1)」の私の「歐州の曼陀羅花(マンドラゴラ)」の注を参照されたい。
『一八八四年板、フォーカールド「植物俚傳(プラント・ロワール)」四二八頁』リチャード・フォルカード(Richard Folkard)の一八八四年刊の‘ Plant lore, legends, and lyrics ’ (「植物の伝承・伝説・歌詞」)。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が視認でき、また、「Project Gutenberg」のこちらで、一括版で電子化されてもある(右にページ・ナンバー有り)。]
「和漢三才圖會」によると、「モクリコクリ」は「蒙古・高句麗」だが、此二國の軍勢が、文永と弘安、二度迄、吾が猛兵と大風《たいふう》に、大《おほい》に破られたのは、十月と七月、又、應永二十六年[やぶちゃん注:一四一九年。]、朝鮮・韃靼《だつたん》連合兵が、對馬で大風に遭ひ、大敗したのが、六、七月間《あひだ》の出來事だ。ずつと前に、刀伊賊《といのぞく》が、筥崎《はこざき》を襲はんとして、烈風に妨《さまた》げられ、尋《つい》で、九州人に擊退されたは、寬仁三年四月じやつた。五月に外寇を敗つた例は、「和漢三才圖會」七二、城州藤杜社、祭神舍人親王、每年端午日祭禮、被二甲冑一、帶二兵仗一、騎射等有ㇾ之云々、相傳、天應元年、蒙古國賊兵將ㇾ來、早良親王奉二征伐之勅一、先詣二當社一、祈二加護一、五月五日、揃二旌旗甲冑一、調二軍勢一、於ㇾ是猛風、破二賊船一、未ㇾ及二一戰一、敵軍敗北、平安焉、自ㇾ此當社焉二弓兵政所一、每五月五日祭禮、著二兵器一、且民家旗冑立二於戶前一、亦其遺風也云々〔城州の藤杜社(ふじのもりのやしろ)。祭神舍人(いへひと)親王。每年端午の日に祭禮に、甲冑を被り、兵仗(へいじやう)を帶(たい)し、騎射等(とう)、之れ有り云々。相ひ傳ふ、天應元年、蒙古國の賊兵、將(まさ)に來たらんとす。早良(はやら)親王、征伐の勅を奉り、先づ、當社に詣で、加護を祈る。五月五日、旌旗・甲冑を揃へ、軍勢を調ふ。是(ここ)に於いて、猛風、賊船を破(やぶ)る。未だ一戰に及ばずして、敵軍、敗北し、平安たり。此(これ)より、當社は弓兵の政所(まんどころ)となる。每五月五日の祭禮に、兵器を著(つ)け、且つ、民家、旗(のぼり)・冑(よろひ)を戶前(こぜん)に立つるは、亦、其の遺風なり云々〕。卷四にも、此傳說を載せて、其頃、蒙古襲來之《の》事、甞て、國史に見えぬから、謬說だらう、と有る。田邊近傍の「モクリコクリ」傳說は、一番、此藤杜社の緣起に似て居る。支那では、古くより、此日、競渡(ボート・レース)をする程だから、海に近づくなと云はぬらしい。
[やぶちゃん注:「韃靼」タタール。蒙古系部族の一つ。八世紀に東蒙古にあらわれ、モンゴル帝国に併合された。宋では、蒙古を「黒韃靼」、オングート(同じくモンゴル帝国以前から元代にかけて存在した遊牧民族)を「白韃靼」と称し、明では、元滅亡後、北に逃れた蒙古民族を「韃靼」と呼んでいた。
「和漢三才圖會」の以上の原文は、前と同じく所持する原本と校合した。
「藤杜社」現在の京都府京都市伏見区深草鳥居崎町(ふかくさとりいざきちょう)にある藤森神社(グーグル・マップ・データ)。詳しくは、公式サイトを参照されたい。
「舎人親王」(天武五(六七六)年~天平七(七三五)年)は通常は「とねりしんわう」と読む。天武天皇の第三子で、「日本書紀」の編纂責任者として著名である。母は天智天皇の皇女新田部皇女。子には大炊王(おおいのおう:後の淳仁天皇)・船王・池田王らがいる。奈良時代初期には、皇室(宗室)の長老として尊敬された。「日本書紀」は養老四(七二〇)年に全三十巻・系図一巻として完成した。同年、右大臣藤原不比等が没すると、知太政官事となり、太政官を統轄する立場に任命された。元正・聖武二代の天皇に皇親として仕えて、奈良時代前半の皇親政治の中心的存在であった。神亀五(七二八)年に詔を出した際にも、左大臣長屋王よりも、上の位置に署名して、希有なこととされているが、天武天皇の皇子として、新田部親王と並んで政治的権威を持っていた。また、「万葉集」にも「大夫(ますらを)や片戀せむと嘆けども醜(しこ)の大夫なほ戀ひにけり」など、三首の歌が残されており、歌人としての素養もあった。没後、太政大臣を贈られた。皇子のうち、大炊王が淳仁天皇として即位(天平宝字二(七五八)年)したため、翌年、父として「崇道尽敬皇帝」(すどうじんきょうこうてい)の称号を追贈されている。なお、「延暦僧録」によると、親王の請いによって、僧栄叡が唐へ渡って、戒律を伝える僧を求め、鑑真渡来の契機を作ったということを伝えている(以上は、主文を朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った。]
一八八三年板、リチヤード・コックス「駐日本日記」元和《げんな》三年[やぶちゃん注:一六一七年。徳川秀忠の治世。大御所家康は前年に逝去している。]の條に、五月五日簷(のき)を飾つた草を乾し貯へ、灸を點ずるに、最も神效有る由、記し居《を》る。荊楚歲時記曰、宗則、字文度、常以下五月五日雞未ㇾ鳴時上採ㇾ艾、見二似ㇾ人處一、攬而取ㇾ之、用灸有ㇾ驗。〔「荊楚歲時記」に曰はく、『宗則(さうそく)、字(あざな)は文度、常に、五月五日の、鷄(にはとり)、未だ鳴かざる時を以つて、艾(よもぎ)を採る。人に似たる處を見て、攬《つ》んで、之れを取る。用ひて、灸(きう)すれば、驗(ききめ)有り。〕と有るに據《よつ》たんだろ。又、當時、支那人間《じんかん》に行はれた俗說を聞書《ききがき》して曰く、『昔し、支那《しなの》帝、群臣に、「人の命を續くるに、何が、一番大切の物ぞ。」と問《とふ》た時、能《よ》く進んで對《こたへ》たる者、二人のみ。一人は「鹽。」、他の一人は「砂糖、最も必要。」と申す。其處《そこ》で、帝、親《みぢか》ら、此二物を嘗《なめ》、試《こころみ》ると、鹽味が糖味に劣つたから、鹽、最も必要と答《こたへ》た賢人を、海に沈めた。爾後、永々、天氣、惡《あし》く、少しも、鹽、採れず、帝、是《ここ》に於て、大《おほい》に困り、砂糖よりも、鹽の大必要なるを了《さと》つた。一日《いちじつ》、食に臨んで、鹽無きを歎《かこ》ち居《を》ると、多少の鹽が、案上《つくえのうえ》に降《ふつ》た。其日が恰度《ちやうど》、五月一日だつた。其から、每年、此日に、彼《か》の鹽を讃《ほめ》て、海に沈められた賢人の爲に海上で祭式を行ふに、櫓《ろ》を動かす每に、「ピロ」と呼び、太鼓と鉦《かね》で之に應ずるが恒例で、爲めに、鹽、常に乏《とぼし》からず。「ピロ」とは件《くだん》の賢人の名だ。』と有る。支那の書に見えぬ樣だが、元和頃、來朝した支那人輩が信じた俗說ぢや。「和漢三才圖會」四に、唐人來寓二居長崎一、逢二此日一、則乘二數艘小船一、立二旗幟一而爭ㇾ先、喚曰排龍排龍一、以ㇾ速爲ㇾ勝、乃是競渡也、蓋爲二屈原之靈一逐ㇾ龍之意乎。〔唐人、來(きた)りて、長崎に寓居し、此の日に逢ふときは、乃(すなは)ち、數艘(すさう)の小船に乘り、旗幟(はたじるし)を立てて先を爭(あらそ)ふ。喚(わめ)きて排龍排龍(ハイロンハイロン)と曰ふ。速きを以つて勝(かち)と爲(な)す。乃(すなは)ち、是れ、「競渡(わたしくらべ)」[やぶちゃん注:「船を漕いで競うこと。競漕。船競(ふなきおい)。]なり。蓋し、屈原の靈が爲(ため)に龍を逐ふの意か」。排龍(パイロン)を、コックスが「ピロ」と聞き覺え、俗、支那人の謬《あやまり》を襲(お)ふて人名と心得たのだ。妙な謬說故《ゆゑ》、本文に左迄《さまで》關係無いが、端午の事、書く序でに記し置く。「公事根源《くじこんげん》」に、高辛氏《かうしんし》の惡子《あくし》[やぶちゃん注:性質(たち)のよくない子ども。]、五月五日、船に乘《のり》て海を渡る時、暴風で溺死し、水神と成つて、人を惱ます。或人、五色の絲《いと》もて、粽《ちまき》をして、海に投げ入《いれ》しに、五色の蛟龍《かうりゆう》となる。爾來《じらい》、海神が船に禍《わざはひ》する事止《やん》だ、と有る。往昔、支那に此樣《かやう》の傳說、有《あつ》て、其より「排龍」抔呼ぶ行事も生じた者か。
[やぶちゃん注:「リチャード・コックス」(Richard Cocks 一五六六年~一六二四年)はステュアート朝イングランドの貿易商人。スタフォードシャー州ストールブロック出身。江戸初期に日本の平戸にあったイギリス商館長(カピタン)を務めた。ここに出るのは、その在任中に記した詳細な公務日記「イギリス商館長日記」(Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks:一六一五年から一六二二年まで)知られる。「Internet archive」のこれで調べたが(グレゴリオ暦・ユリウス暦ともに換算して調べ、前年も同様に調べた)、この記事は見当たらなかった。甚だ不審。
「荊楚歲時記」は「中國哲學書電子化計劃」の影印本の当該部で校合し、返り点の不全を訂した。「荊楚歲時記」は南朝梁(六世紀)時に、江陵(湖北省)の宗懍(そうりん)によって著された荊楚地方(揚子江中流域の現在の湖北省・湖南省一帯)の年中行事記。原名は「荊楚記」であったともされる。七世紀になって、隋の杜公瞻(とこうせん)が注釈を附し、「荊楚俊時記」という書名とされるとともに、原書の内容が補足された。その内容は、正月年始の行事に始まり、「競舟」(けいしゅう)などの民俗行事、灌仏会(かんぶつえ)などの仏教関連の行事や諸種の風俗・習慣・民間信仰に至るまでのさまざまな範囲に及ぶ(小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「和漢三才圖會」の巻第四のそれは、「時候類」の「端午」の一節。所持する原本で校合した。一部に誤字や訓読の誤りがあったので訂した。
『「公事根源」に、高辛氏の惡子、五月五日、……』「公事根源」は「公事根源抄」とも呼び、室町時代に一条兼良により記された有職故実書。全一巻。当該ウィキによれば、『後醍醐天皇の』「建武年中行事」や、彼の『祖父二条良基の』「年中行事歌合」『などを参考にして』、『元旦の四方拝から』、『大晦日の追儺までの宮中行事』百『余を』、『月の順序で記し、起源・由来・内容・特色などを記し』たもので、『奥書によると、応永』二九(一四二二)年に『兼良が自分の子弟の教育のために書いたものとあ』る、とある。の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「公事根源新釈」下巻(関根正直校註・大正八(一九一九)年六合館刊)のここから(「八十六 端午ノ節」)視認出来る]
鍾馗《しようき》を、端午の日、祭るのも、唐朝の俗を習《なら》ふたんだらうが、劉若愚の四朝宮史「酌中志」卷廿、「辭二舊歲一〔舊歲を辭す〕[やぶちゃん注:本邦で言う「年忘れ」。]の式を記せるに、室內懸掛福神、鬼判、鐘馗等畫。〔室内に福神(ふくがみ)・鬼判(きはん)・鍾馗等の畫(ゑ)を懸掛(けんかい)す。〕とあれば、明の思宗の頃は、鍾馗を除夜に祀つたものだ。「淵鑑類函」十九、五月五日の條を通覽すると、支那では、餘程、昔から、五月を凶月とし、俗多二禁忌一〔俗に、禁忌、多し。〕」で、端午の日、百方毒氣惡氣を厭《まじな》ひ、延《ひい》て、辟兵《いくさよけ》の符《まもり》抔も作つた。暑候に向ふ月だから、[やぶちゃん注:以下の句点までの部分は底本にはない。「選集」を参考にして補った。]病疫を氣遣ひ、病疫で困つたら世が亂れる故、兵革《いくさ》迄も氣遣つたと見える。「公事根源」に、天皇、武德殿に出御、群臣に酒を賜ひ、又、惡鬼拂ひの藥玉《くすだま》を賜ひ、其後、騎射の事有り、推古帝の御宇より始つた、とある。是も、支那を模《うつ》せし者なるべく、後世、何《いづれ》の國にも鐵砲を放つて、傳染病を攘《はら》ひし如く、邪氣拂ひに、騎射を行ふたんだらう。其樣《そんな》事から、追々、民間にも、男兒持つた家では、此日、弓箭・甲冑を飾り、印地打《いんじうち》抔、始めた處が、元寇來襲の後ち、大捷《たいせふ》[やぶちゃん注:大勝利。]の記念に、彌《いよい》よ、此日を祝ふことと成つたのかと思ふ。兵革と流行病は、動《やや》もすれば、相《あひ》前後して發するから、病疫の禁厭《まじなひ》と、武備の祝儀を、同日に行ふは、最もな事だ。「大英類典」卷十二、又、一八五五年板、英譯、ハクストハウセン著「高加索諸民族誌(ゼ・トライブス・オブ・カウカサス)」などを稽《かんがふ》るに、昔、西亞細亞のシリア等へ、北狄《ほくてき》、幾度と無く攻入《せめい》り、これを禦《ふせ》がんとて、萬里長城如き大壁を建てし事も有り。故に、北狄を魔物視《まものし》して、「ゴツグ」及び「マゴツク」と稱し、後世迄も非常に懼れた。其と等しく、元寇には、吾邦民、前例なき大恐惶を生じ、加ふるに、其前後に、寬仁の刀伊賊や、應永の朝鮮・韃靼《だつたん》軍襲來等の事も有《あつ》たので、每度、結局は勝軍乍ら、所謂、蒙古《もくり》・高句麗《こくり》の亡靈迄をも、惧《おそ》れたに相違無い。因《よつ》て、端午に武備の祝儀を行ふと同時に、亡靈の復讐を慮《おもんぱか》りて、海へ近《ちかづ》かぬ風《ふう》が一般に有たと見える。「淵鑑類函」を見ると、五月五日、山に登る事無く、九月九日、山に登り、菊酒を飮む事有り、惡氣を辟《さけ》て、初寒を禦ぐ意らしい。略《ほぼ》同じ事だから、邦人が、五月五日、海へ近かずに、山へ登ると定《さだま》つて來たので有《あら》う。
[やぶちゃん注:「酌中志」(明の劉若愚の撰になる元・明の宮廷史)は「中國哲學書電子化計劃」の当該書の影印本画像の当該部で校合した。表字に問題があった。「鬼判」を熊楠は「靈鬼」としている。しかし、「鬼判」は冥界の役人・雑用係を指す語であって、「靈鬼」の語よりも遙かに具体な冥吏のことであるから、訂した。
『「淵鑑類函」十九、五月五日の條……』南方熊楠御用達の類書。「漢籍リポジトリ」のこちらで冒頭部に延々と記されてある。
「公事根源」の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「公事根源新釈」下巻(関根正直校註・大正八(一九一九)年六合館刊)のここ(「八十五 五日ノ節會」。前の注と同じ見開き)で視認出来る。そこで、「藥玉」について注釈があり、『「藥玉」は菖蒲』(あやめ)『艾』(よもぎ)『その他雜花十種ばかりを、五色の絲にて飾りとゝのへたるもの』とある。]
此處《ここ》を筆し居《を》る處へ、鄕土硏究の心懸け、甚《いと》厚き楠本松藏なる人、來り、語るらく、「或說には、三月三日は、衆人、濱へ往《ゆき》て、山に往《ゆか》ず、山に往くと、當日、祀《まつ》らずに放置され居《を》る雛人形の靈が、山に衆《あつま》り、泣き居るのを、聞けば、不吉だ。」と。又、言《いは》く、其細君、「幼き時、聞いたは、『モクリコクリ』は、水母《くらげ》樣《やう》の物、夥《おびただし》く群れて、海上に流《ながれ》漂ふのだ。」と。水母は、晝《ひる》見ても、嫌らしく、夜分は、眺めると、心細く成るやうな燐光を放つ。水母群《くらげのむれ》を、蒙古・高句麗兵、水死の靈魂とは、好《い》い思付《おもひつき》だ。今年、陰曆五月朔頃の新紙[やぶちゃん注:新聞。]に、『四國の海へ、四目水母《よつめくらげ》、夥く、漂來《ただよひきた》り、「いりなご」を害する事、甚《はなはだし》く、漁夫、大閉口。』と有《あつ》た。若しくは、水母が、每年五月頃、最も多く浮行《うきゆ》く者なるにや。識者の敎《をしへ》を俟つ。
[やぶちゃん注:「楠本松藏」田辺に住む親しい知人。
「水母は」「夜分」「眺めると、心細く成るやうな燐光を放つ」実際に自ら発光するクラゲはいる。刺胞動物門ヒドロ虫綱軟クラゲ目オワンクラゲ科オワンクラゲ属オワンクラゲ Aequorea coerulescens がそれで(同種はヒドロ虫綱 Hydrozoaでは最大級の大きさを持ち、傘径二十センチメートルにも達する。食性は共食いで他のクラゲを一呑みにする。本種は春から夏にかけて日本沿岸で多く見られる)同種は刺激を受けると、生殖腺を青白く発光させる。この発光現象は古くから知られているが、その機序が明らかになったのは、一九六〇年代で、新しい。既に発光組織から、発光タンパク質イクオリオン(Aequorin)と、緑色蛍光タンパク質(green fluorescent protein:GFP)が発見されている。イクオリオンはカルシウム・イオンと結合して青い色の蛍光を発し、GFPはイクオリオンの蛍光を受けることで、グリーンの蛍光を発する。特にGFPは他の物質と反応することなく、紫外線照射のみで蛍光を発する性質を持つ。GFPの塩基配列は既に決定されいることから、例えば、癌などの播種している遺伝子を追跡する遺伝子に、このGFB遺伝子を組み込んでやると、紫外線照射を合わせてレントゲンを撮ると、たった一つの癌細胞でも、発光させることができ、転移部位が一目瞭然となるという画期的な医療に応用されているのである。他にも、刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科オキクラゲ属オキクラゲ Pelagia noctiluca や、鉢虫綱カムリクラゲ目ヒラタカムリクラゲ科ヒラタカムリクラゲ属ムラサキカムリクラゲ Atolla wyvillei ・鉢虫綱カムリクラゲ目クロカムリクラゲ科クロカムリクラゲ属クロカムリクラゲ Periphylla periphylla 或いはクロカンムリクラゲ属の仲間の傘も、発光することが知られているが、その機序や目的については、未だ謎が多いらしい。オキクラゲは刺激で発光するが、同種の刺胞毒はかなり強いことから、警告発光の可能性もあるか。また、ムラサキカムリクラゲやクロカンムリクラゲの仲間は、天敵に襲われそうな場合に発光することが知られており、そのシグナルが天敵の敵を呼び出すシステムがあると、当該ウィキ等のネット上の記載にはあった(しかし、本当にそんな都合のいい有効な場面があるのかどうか? 私はちょっと怪しい感じがした)。また、クラゲの中には、傘の構造が、一種の鏡の役割を果たし、海上や沿岸或いは海水中の発光生物の光りを反射して「光って見えるクラゲ」も存在する。沿岸に寄ってくるクラゲ類の多くは、春の終りから夏の初めに姿を見せ始める種が多いので、熊楠の問いには、「イエス」と答えて構わないと私は考える(以上はかなりの部分を所持する並河洋・楚山勇著「クラゲガイドブック」(二〇〇〇年TBSブリタニカ刊)に拠った。因みに、私は海産生物フリークであるが、特にナマコ・クラゲには一家言ある人種である)。]
飯降山へ、少々の、土なり、石なり、持ち登る者は、所願、一つ、必ず、叶う、と言うのに似た事は、以前、高野山へ、麓の民が、野菜を、每日、運び、寄進するに、「大師の制戒。」とて、一切、洗淨《あらふ》を禁じ、土ついたまま、運び登る定《さだめ》だつた。是は、少しでも、山の土が、雨風で、減じ往《ゆ》くのを補ふ爲《ため》で、今日、掃除・淸潔を口實にして、樹木の自然肥料を斷つ迄、神林や靈山の落葉を盜ませ、到處《いたるところ》、禿山《はげやま》を仕立《したて》る地方役人抔に、聞かせ度《たき》事ぢや。「塵塚物語」四に、傳敎は、叡山の衰微を好みし故、山門、次第に衰へ、弘法は、高野に如意寶珠を埋めし故、萬法《まんぱふ》滅すれども、此山、彌《いよい》よ繁昌す、とあるは、宛《あて》に成《なら》ぬが、上述の制戒抔、隨分、氣の付《つい》た豪《えら》い坊樣ぢや。塚原澁柹園《つかはらじふしゑん》氏が、去年、大正元年八月十二日の『大阪每日』に出した「昔の富士」にも、『以前、登山するには步《あゆみ》を愼んで、成丈《なるたけ》、石を踏落《ふみおと》さぬ樣《やう》にした、山靈、少しも、山が低く成るを、忌む、と言つたのだ。』と有《あつ》た。木村駿吉博士、敎示に、「田村」とかの謠曲に、山神、神林を掃《は》くを忌む事あり、是も、林下の土の、へるのを惜しむ、との事だつた。紀州西牟婁郡川添村、大瀨と竹垣内の間に、「小石」と云ふ處、有り。其邊の山に籠つた敵を、下から攻《せむ》るに、偵察に登る兵士をして、其都度《つど》、下《した》の河原の石を、少々、持行《もちゆ》き、積置《つみおき》て、屹度《きつと》、任務を勤めた證《しやう》とさせた、と傳ふ。本條に、多少、似て居《を》るから、爰《ここ》に書置《かきお》く。
[やぶちゃん注:「塵塚物語」室町時代の説話集。奥書には天文二一(一五五二)年のクレジット及び藤原某の作とあるが、別に永禄一二(一五六九)年の序文があることから、後者が一応の成立とは考えられる。上代以降、主に鎌倉・室町時代の重要人物の人格・逸話や、徳政などの歴史的な事柄に関する話六十五篇を収める。但し、記載内容は厳密性を欠き、近世的な感覚を含んだ叙述も見られ、その信憑性は低いが、中世の風俗や慣習を多く伝える(概ね平凡社「世界大百科事典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの国民文庫刊行会編「雑史集」(大正元(一九一二)年八月刊)のここで当該部が視認出来る(左ページ十行目以降。標題は「弘法大師奥州鹽川奇異事付漢中事」)。
「今日、掃除・淸潔を口實にして、樹木の自然肥料を斷つ迄、神林や靈山の落葉を盜ませ、到處、禿山を仕立る地方役人抔に、聞かせ度事ぢや」往年の熊楠が尽力した「神社合祀反対運動」が脳裏を掠めて吐いた怨念のようなものである。
「塚原澁柹園」(嘉永元(一八四八)年~大正六(一九一七)年)は小説家。当該ウィキによれば、『鉄砲方の与力を務める代々の幕臣の家で』、『市之丞昌之とタキの子として生まれる。本名は靖(しずむ)』。明治元(一八六八)年、『徳川家に』従って、『静岡藩士となって静岡に移り、沼津兵学校、静岡医学校』、『浅間下集学所で洋学を学ぶ。一時』、『小学教員となるが』、明治七(一八七四)年、『横浜毎日新聞に入社』、明治十一年には『東京日日新聞に変わり、雑報記者として劇評が紙面の売り物になっていたが』、明治二十一年に『翻訳小説「凱法居士」』を翌年には『政治小説「条約改正」』、明治二六(一八九三)年に『「人造洪水」』、明治三七(一九〇四)『年に社会主義小説「虚無黨」など』、『新聞小説家として一世を風靡し、萬朝報の黒岩涙香と人気を二分した』。一方で、明治二五(一八九二)『年に最初の歴史小説「敵討浄瑠璃坂」を連載してからは、多くの歴史小説、髷物小説を書いた』。『東京日日新聞』の『劇評は』、『やがて新しく入った岡本綺堂に書かせるようになり、渋柿園が多くの薫陶を与えた。渋柿園の小説は文語文であるが、後に中学時代の大佛次郎も「間に合わせでない厳格さ」を感じて愛読し、自身の歴史小説にも影響を受けた』とある。
「木村駿吉」(慶応二(一八六六)年~昭和一三(一九三八)年)は物理学者・電信技術者。無線電信の開拓者の一人。幕臣木村喜毅(よしたけ:摂津守芥舟(かいしゅう))の次男として江戸に生まれた。明治二一(一八八八)年帝国大学物理学科を卒業し、第二高等学校教授・海軍教授などを経て、海軍技師に任ぜられた。海軍の艦船に無線電信を設置する計画の下(もと)に「無線電信調査委員会」が設けられ(明治三三(一九〇〇)年)たが、その委員に任命された。彼の作った無線電信機器は兵器として採用され、改良が加えられた。日露戦争における「日本海海戦」(明治三八(一九〇五)年)の勝因は、哨艦(しょうかん)「信濃丸」から発せられた「敵艦見ゆ」との無線電信にあったとされ、その功により、勲三等に叙されている。晩年は弁理士を開業するほか、会社役員などを務めた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「田村」二番目物。作者不詳。五流に現行曲。「今昔物語集」に基づく。「修羅能」として扱われるが、他の能とは全く異なった一種の「霊験(れいげん)能」である。東国の僧(ワキ・ワキツレ)が都の清水寺(きよみずでら)に参詣する。満開の桜のなかを花守(はなもり)の童子(前シテ)が現れて、坂上田村麻呂の建立による、この寺の縁起を語り、月の下の都の名数を教え、田村堂に消える。門前の者(間(あい)狂言)が、僧の求めに清水寺、田村堂のいわれを語る。後シテは坂上田村麻呂の霊で、勅命によって鬼神退治に出で立ち、千手観音の力によって鬼神を絶滅したありさまを演じてみせる。古代の武将という姿を、特に強調し、或いは、中国風の扮装をする演出がある。前段の桜の下に喜戯する風情と、後段の凛々しさ・勇ましさが見事に対比した傑作である(小学館「日本大百科全書」に拠った)。別に、解説と詞章は小原隆夫氏のサイト内の「宝生流謡曲 田村」がよい。
『紀州西牟婁郡川添村、大瀨と竹垣内の間に、「小石」と云ふ處、有り』旧村の「大瀨」と「竹垣内」の二つの地名が「ひなたGPS」の戦前の地図で、確認出来る。されば、この中央に「小石」はあったわけだから、現在の和歌山県西牟婁郡白浜町大瀬のこの中央部(グーグル・マップ・データ航空写真)が、それと、推定される。
なお、この最後に、「選集」では、「『鄕土硏究』一至三號を讀む」全体に就いての編者附記がある。それによれば、『本篇は『郷土研究』一巻一、二、三号掲載の諸論文について、南方熊楠が自説を展開したものである。初出雑誌では、一節は「郷土研究一至三号を読む」、二節は「南方随筆」、三および四節は「南方雑記」と題されていた。岡書院版『続南方随筆』において、多くの増補、追加が行なわれ、「郷土研究一至三号を読む」という論題に統一されたものである』とあったことを附記しておく。]
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