只野真葛 むかしばなし (68)
一、父樣をば、田沼時代の人は、「大智者」とおもゑて[やぶちゃん注:ママ。]有しとぞ。
或時、公用人と、さしむかひにて、用談、終(をへ)て、咄しの内、用人、いふ、
「我主人は、富にも、祿にも、官位にも、不足、なし。此上の願(ねがひ)には、田沼老中の時、仕置(しおき)たる事とて、ながき代(よ)に、人の爲に成(なる)事をしおきたく願(ねがふ)なり。何わざを、したら、よからんか。」
と問合(とひあは)せしに、父樣、御こたへに、
「それは、いかにもよき御心付(おこころづき)なり。さあらば、國を廣(ひろう)する工夫、よろしかるべし。」
問(とふ)、
「それは、いかゞしたる事ぞ。」
答(こたへて)、
「夫《それ》、蝦夷(えぞのくに)は、松前より、地つゞきにて、日本へ、世々(よよ)、隨ひ居《を》る國なり。これを、ひらきて、みつぎ物をとる工面を被ㇾ成かし。日本を廣くせしは、田沼樣のわざとて、永々、人の、あをぐ[やぶちゃん注:ママ。]べき事よ。」
と被ㇾ仰しかば、文盲てやいは、はじめて、かようの事をきゝ、恐れ入(いり)し了簡なり。
「いざ、さらば、其あらまし、主人へ申上度(まうしあげた)し。一書にして、いだされよ。」
といひし故、父樣、書《かき》て出されしを、隨分、うけもよく、感心、有《あり》て、
「其奉行に、父樣をなさん。」
と、いひしとぞ。【書學ある人は、國をひらく、よき事、といふは、誰(たれ)もしるならんを、うたてしき世には、有(あり)ける。[やぶちゃん注:底本では、『原頭註』と記す。]】
我にひとしき人なき世には、なまなかのことはいわれぬもの、父樣は、今更、それはいやともいはれず、又、田沼を拵(ひかへ)て、家中を拔(ぬき)て、公儀衆に成(なり)しといはるゝも、うしろぐらし、大きに御心勞被ㇾ成たりしが、色々、御工夫の上、徹山樣へ打明(うちあけ)て、
「ケ樣ケ樣の事の候が、内々、上にても、『左樣の思召(おぼしめし)有(あり)』とて、上の御いさほに仕(つかまつ)り度(たく)。」
と申上られしに、一段の御機嫌にて、
「それ、至極、宜(よろ)し。」
と、御意なりし、とぞ。
是よりは、心、はればれと被ㇾ成しとぞ。
[やぶちゃん注:「公用人」大名・小名の家中で、幕府に関する用務を取り扱った役を広く指すが、ここは、まさに側用人と老中を兼任した田沼意次の公用人であることは、後半の段落部から明白である。真葛の父工藤平助のウィキに、天明元(一七八一)年四月、平助は「赤蝦夷風説考」下巻を、二年後の天明三年には『同上巻を含め』、『すべて完成させた。「赤蝦夷」とは当時のロシアを指す呼称であり、ロシアの南下を警告し、開港交易と蝦夷地経営を説いた著作であった。また』、この天明三年には、『密貿易を防ぐ方策を説いた』「報国以言」を『提出している。これらの情報は、松前藩藩士・前田玄丹』、『松前藩勘定奉行・湊源左衛門、長崎通詞・吉雄耕牛らより集めたものであった。さらに平助は』、「ゼヲガラヒ(万国地理誌)」や「ベシケレーヒンギ・ハン・リュスランド(ロシア誌)」等の『外国書を入手して、知識の充実に努めた』。「赤蝦夷風説考」は、『のちに田沼意次に献上されることとなるが、これは平助が自ら進んで献上したものではなかった』。真葛の「むかしばなし」に『よれば、工藤家に出入りするなかに田沼の用人がいて、あるとき』として、まさにこの部分の前の段落中の公用人の問いの台詞が引かれており、かく『平助の知恵を借りにきたので、平助は「そもそも蝦夷国は松前から地続きで日本へも随ってくる国である。これを開発して貢租を取る工面をしたなら、日本国を広げたのは田沼様だといい、人びとも御尊敬申し上げるだろう」と答えたという』とあるのである。天明四(一七八四)年には、『平助は江戸幕府勘定奉行・松本秀持に対し』、「赤蝦夷風説考」の『内容を詳しく説明し、松本は』、『これをもとに蝦夷地調査の伺書を幕府に提出した。これがときの老中・田沼意次の目にとまり、そのため』、翌天明五年には、『第一次蝦夷地調査隊が派遣され、随行員として最上徳内らも加わっていた。このころ、平助はいずれ』、『幕府の直臣となって蝦夷奉行として抜擢されるという噂が流れた。しかし、一面では医師廃業と周囲に見なされて患者を失い、しだいに経済的に苦境に陥っていたのが実情であった。なお、寛政』三(一七九一)年に『全巻刊行された林子平の海防論』「海国兵談」は、平助の「赤蝦夷風説考」の『情報に多くを依拠している。それに先立つ天明』六年には、平助は「海国兵談」の序を『書いて』も『いる。これについては、当初、平助は拒否していたが』、『子平の熱意によりついに承諾したものという』とあった。しかし、その直後、天明六年の第十代将軍『徳川家治の薨去により』、『田沼時代は終わりを告げ、こののち、平助の経世家としての名望は失われ、蝦夷地開発計画は頓挫し』、『平助の蝦夷奉行内定の話も沙汰止みとなった。林子平』の「海国兵談」も『版木を没収されて発禁処分となり、子平自身も幕府より仙台蟄居を命じられた』のであった。
「徹山樣」平助が藩医を務めた仙台藩の第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)のこと。彼の戒名は「叡明院殿徹山玄機大居士」。当該ウィキはこちら。]