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2023/07/18

梅崎春生「つむじ風」(その14) 「おぼろ月」

[やぶちゃん注:本篇の初出・底本・凡例その他は初回を見られたい。]

 

     お ぼ ろ 月

 

 黄昏(たそがれ)の泉宅のくぐり戸を、陣太郎はあたりを見廻しながら、そっとくぐった。

 すぐ玄関に行くことはせず、立てかけたバーベルを横眼で見ながら、勝手知ったる他人の家といったおもむきで、のそのそと家の裏手に廻った。廻り切ったところに窓があって、陣太郎の指がその曇りガラスをこつこつとたたいた。

「誰だ?」

 内部から声がした。

「おれだよ」

 陣太郎はおうような調子で答えた。

「陣太郎だよ」

「ああ、陣内さんですか」

 ガラス窓ががらりとあいて、泉竜之助が顔を出した。長いこと頰杖をついていたらしく、顎から頰にかけて、くっきりと指のあとが残っていた。

「まあ上りませんか」

「いや、ここでいいよ」

 陣太郎は窓枠に肱(ひじ)を乗せ、薄暗い部屋の中をじろじろと見廻した。黄昏だというのに、まだ電燈もつけていない。陣太郎は竜之助の顔を見た。

「一体何を考えごとしてたんだね?」

「え?」

 考えごとをしていたことが、どうして判ったのかと、竜之助はいぶかしげな表情になった。

「いろいろと、われわれゲイジュツに志す者は、考えることがあるんですよ」

 陣太郎が泉湯で貧血をおこしてぶったおれた時、陣太郎と竜之助の会話は対等の言葉使いだったが、いつの間にか竜之助の用語がていねいになったのも、陣太郎が陰に陽にひけらかす『松平家』の効用に違いない。

「アッ。そうそう」

 竜之助は膝をぽんとたたいて言った。

「浅利家へ電話かけて置きましたよ。ソバ屋に呼出して貰って」

「何と言ってた?」

 陣太郎は無表情に反問した。

「ランコおばはん、出て来たか?」

「こちらは松平の家令ですが、と言ったら、おばはんはちょっと言葉使いがかわって、警戒的になりましたよ」

「おれのこと、何と言ってた?」

「若様は時々やってくるし、また泊ることもあるが、しょっちゅうこちらにいるというわけじゃない。そう言ってましたよ」

「ほんとにぬけぬけと嘘(うそ)を言いやがるなあ。だから女というのは、こわいんだ」

 どちらがぬけぬけとしているのか、とにかく陣太郎は空を仰いで長嘆息した。その空にはおぼろ月が出ていた。

「ああいう女の亭主だからこそ、うちでもクビになったんだ」

「亭主というのも嘘つきですか?」

「いや。亭主の方はそれほど悪者じゃない。善良な男なんだが、女ぐせが悪くってね、女中に手を出したりしたもんだから、とうとうおれんちから追い出されたんだ。つまり俗物だよ」

 圭介がくしゃみしそうなことを、陣太郎は平然として言った。

「おれは、俗物ってやつが、大きらいだ。ほんとに大きらいなんだ」

「僕も大きらいです」

「折角浅利のやつを、復職させてやろうと思ってたんだが、これじゃあ当分ダメだな。全くあいつもバカな女房を持ったもんだよ」

 

「バカなやつですなあ。その浅利ってやつは」

 何も知らないくせに、泉竜之助は相槌を打った。

「僕の周囲も、ごく例外をのぞいては、俗物ばかりですよ。俗物がうようよ、まるで大腸菌みたい」

「それで今も思い悩んでたのかね」

 竜之助の頰に残る頰杖のあとを、じろじろと観察しながら言った。

「そんなにくよくよしないで、おれと一緒に、焼鳥キャバレーにでも行かないか」

「そ、それがダメなんですよ」

 竜之助はしょげた顔になり、掌を振った。

「なぜダメなんだい?」

「僕、無一文になっちゃったんですよ」

「へえ。一昨日までたくさん持ってたじゃないか」

「おやじにすっかり取り上げられたんですよ」

「おやじに取り上げられた? あの恵之助老にか?」

 他人のおやじをつかまえて、平気で老呼ばわりを陣太郎はした。

「息子のはした金を捲き上げるほど、恵之助老は貧乏してるのかね?」

「今のところ、それほど貧乏はしてないんですよ」

 竜之助は舌打ちをした。

「長期戦にそなえるために、在り金全部を集めて、銀行に預けるつもりらしいです」

「長期戦?」

「ええ。つまり三吉湯との長期戦ですな。長期戦にそなえて、蓄えて置こうというつもりらしいですな」

 竜之助は情なさそうに顛を垂れた。

「俗物同士の喧嘩ですよ。息子の立場から言いにくいことだけど。どうもあの喧嘩は、高尚と言いかねる。しかも昨日から、食事の内容が大変化した。今朝は味噌汁にタクアンだけ、お昼はメザシだけですよ。栄養がとれなくて、僕はふらふらです。飯だって、米麦半々の麦飯ですよ」

「バクシャリとは倹約したもんだね。なんでそんなにけちけちするんだい?」

「つまり、将来の耐乏生活を見越して、今から身体を訓練して、粗食に慣らしておこうと言うんですな。おやじの見通しでは、これはどうしても値下げ合戦にまで発展すると言うんです。湯銭の値下げですね。採算を無視して、値下げに値下げをつづける。そして早く音(ね)を上げた方が、負けという算段です。だから、音を上げないために、今から貧乏生活をやって行こうというわけですよ」

「ふうん。それはたいへんな覚悟だな」

 陣太郎はうなった。

「それじゃ三吉おやじも、それに対抗するための、生活切下げはたいへんだろうなあ。ウナギは好きだし、自動車は持ってるし、メカケは囲ってるし――」

「え? 何をどうしてるんだって?」

「いや。これはこっちのひとりごとだ」

 そして陣太郎は胸をどんと叩いた。

「いつもいつも君におごらせてばかりでは悪い。今日は、おれがおごろう。ついて来なさい」

「おや。お金を持ってるんですか」

「そうだ。今日分家の家令をゆすぶって、一万円ほど提供させたんだ」

「そうですか」

 竜之助は顔に喜色を浮べて、いそいそと外出準備にとりかかった。

 

 二人を乗せたタクシーは、焼鳥キャバレーの前でがたぴしととまった。竜之助が先に車を出た。

「千円でおつりあるか」

 猿沢三吉からまき上げた十枚の千円紙幣の、その一枚を運転手にわたし、おつりを握って悠々と陣太郎は車を出た。

 日も暮れた丁度(ちょうど)いい時刻だから、盛り場の人の往き来も繁く、赤や青や黄のネオンサインが、てんでに勝手な明滅をつづけている。

「さあ、入るか」

 今度は陣太郎が先に立ち、焼鳥キャバレーの階段をとことこ登った。いつもはおごっている身であるのに、今夜はおごられる方に転落したのだから、竜之助はやや面目なさそうに、長身の背を曲げて、陣太郎のあとにつづいた。

 キャバレーはほとんど満員であった。

 何列にも並んだ細長い卓の片隅に、やっと空席を見出して、両人は向い合って腰をかけることが出来た。

 むらがるお客たちの話声、楽隊の響き、その他もろもろの雑音が一緒くたになって、まるで数万のカナブンブンを一部屋に閉じこめたようなにぎやかさである。

 近寄って来た女の子に、陣太郎は指を立て、ハイボールとヤキトリを注文した。

「ハイボールはダブルにして呉れ」

 竜之助はハンカチで顔を拭きながら、ふと気がついたように、自分の頰骨を指で押さえた。

「おや。おそろしいもんだなあ。栄養不足がてきめんに頰骨に出ている」

「いくらなんでも大げさな」

 陣太郎がたしなめた。

「君の頰骨は元から出てるんだよ」

「そんなものですかな」

 竜之助は不服そうに頰骨から指を離した。

「でも、僕はデリケートだから――」

「いくらデリケートでも、二日ぐらいで頰骨が出るほど瘦せるわけがない」

 やがてハイボールとヤキトリが運ばれてきた。

 ヤキトリの皿を見ると、竜之助の眼はぱっとかがやき、ハイボールには見向きもせず、ヤキトリの串にむしゃぶりついた。よほど栄養に飢えていたものと見える。陣太郎はまた低声[やぶちゃん注:「ひきごえ」。]でたしなめた。

「いずれは松平陣太郎の秘書にもなろうという男が、そんなにがつがつするんじゃない」

 先ほどは三吉のおごりのウナ重を、欠食児童さながらにむさぼり食ったくせに、ここでは陣太郎は大きく出た。

 しかし竜之助はそのたしなめも聞かず、またたく間に一皿をぺろりと平らげ、やっと人心地ついたらしく、ハイボールに手を伸ばした。

「ああ。やっと力が出た」

 ハイボールをあおり、竜之助は慨嘆した。

「明日もまたバクシャリにメザシか。うんざりするなあ」

「長期戦をやろうと言うのに、そんなにひょろひょろした状態で、勝てるもんか。闘争には、まず栄養、健全なる身体が大切だ」

「僕もそう思うし、そう言うんだけど、おやじは聞き入れて呉れない。どうも明治生れの人間のわからずやには、手を焼くですな」

 竜之助は指を立てて、またヤキトリを注文しながら、

「昨日、おやじは茶の間に貼り紙をした。見ると、ゼイタクハ敵ダ、と書いてありましたよ。今朝はそれに並べて、欲シガリマセン勝ツマデハ、と貼りつけた」

 

「欲シガリマセソ勝ツマデハ、か」

 陣太郎はグラスを傾けながら、にが笑いをした。

「そいつは君もつらかろう。同情するよ」

「それだけなら、まだいいんですよ」

 竜之助はますます悲観的な表情になった。

「おやじは僕に、ゲイジュツをやめろと言うんですよ。ゲイジュツをやめて、せっせと風呂屋稼業にせいを出せという。ああ、僕はどうしたらいいんだ」

「文化に対するおそるべき圧迫だな」

「実際無理解なおやじを持つと、息子は迷惑をしますよ。一(かず)ちゃんだって同じく――」

「一ちゃん? 一ちゃんって、誰のことだね?」

「いや、なに、これはこちらのひとりごとでした」

 竜之助は口の辷(すべ)りをごまかした。

「陣太郎さんのおやじはどうですか。理解ありますか?」

「父上か。そうだな。中くらいだったな。この間死んじまったけれども」

「とにかく三吉湯と泉湯の喧嘩に、子供の僕らがまきこまれるなんて、そんな不合理な話はない!」

 竜之助の声は少々激してきた。

「僕らは自主性を確立して、このおそるべき無理解と戦わねばならぬ」

「そんなにむつかしく力まないでも、おやじたちの喧嘩をやめさせりゃいいじゃないか」

 そして陣太郎はまた指を立てて、ハイボールを注文した。

「ことのおこりは、将棋だろう。将棋と鮨(すし)の食い方だろう。原因がかんたんだから、とりなしようによっては、すぐに元のさやに戻るよ」

「そ、そんなかんたんに行くもんですか」

 竜之助は口をとがらせた。

「それにもう、第四・三吉湯というやつが、現実に建ちつつある。払いが悪いと見えて、遅々として進まないが、とにかくそれは建ちつつある。原因はかんたんでも、こういう形になってきたからには、衝突は必至ですよ。オマンマの食い上げに関係してくるんだから」

「うん。あの建物がガンだな。今更取りこわすわけにも行くまいし」

 陣太郎は頭を上げて、舞台の方に眼をうつした。今しも舞台上では、裸女が二人、楽隊に合わせて、腰をくねらせながら、蠅のような手付きで脇腹をこすり上げている。陣太郎はしばらくぼんやりと、その腰の動きを眺めていたが、突然顔を竜之助に戻して、もの憂(う)げな声で言った。

「うん。あの第四・三吉湯の処分は、何でもないよ。かんたんに解決がつくよ」

「まさか放火して、燃しちまおうというんじゃないでしょうね」

 竜之助は声を低くした。

「それなら実は僕も考えた。が、これはいい思いつきじゃない」

「放火なんて、そんなバカなことをおれが考えるものか」

「では、どういう方法です?」

「あれを劇場にするんだよ」

「劇場?」

 ゲイジュツ好きの竜之助は、ぱっと眼をかがやかして、身体を乗り出した。

「うん。劇場だ」

 陣太郎はもの憂げにうなずいた。

「今、東京には、良心的な劇を上演する劇場が足りない」

 

「劇場の数がすくないに反して、公演をしたがっている劇団はわんさとある」

 陣太郎はしずかにハイボールのコップをとり上げた。

「しかも劇愛好者、芝居を見るだけじゃなくて、自分でやりたがっている連中、この数は年々歳々増加の煩向がある」

「そ、それはいい考えだ」

 泉竜之助は膝をぽんとたたいて、眼をかがやかせた。

「さすがは陣内陣太郎さんだ」

「まだ中途半端にしか出来上っていないから、そのまま転用出来るよ。ボイラー部屋を楽屋に、そして――」

 陣太郎は手を上げて、七彩の色にくるめく舞台の方を指差した。

「舞台はつまり風呂場だね。板の間が客席ということになる」

「それじゃあ舞台にくらべて客席が狭過ぎやしませんか」

「客席なんか狭くってもいいんだよ。あいつ等は、芝居をやってさえいれば満足なんだからな。落語の寝床の旦那と同じようなものだ。近頃のお客は利口だから、そんなもの、見に行きゃしないよ」

[やぶちゃん注:「落語の寝床」落語の演目「寝床」。当該ウィキを参照されたい。]

「ううん」

 竜之助はうなって腕を組んだ。

「それは面白い思いつぎだけれど、三吉おじさんがうんと言うかしら、お客が来なきゃ、経営がなり立たないというのに」

「バカだな。お客が来ようと来まいと、三吉おやじとは関係ない。三吉おやじは、劇団に舞台を貸して、貸し賃をとるのだ。つまり貸し劇場だね」

「三吉おじさんに、風呂屋をやめて、貸し劇場経営を思い立たせるためには――」

「利をもって誘うんだよ。貸し劇場がいかに有利な事業であるか」

 陣太郎はハイボールをぐっと干した。

「それと同時にだね、泉湯の方から大攻勢に出て、第四・三吉湯をつくるのは不利だということを、三吉おやじに悟らせる必要がある。だから、テレビ攻勢もいいが、更に一歩進んで、湯賃値下げ攻勢をやるんだな。早いとこやった方がいい。そうすると三吉おやじもあきらめて、劇場に転向するだろう」

「でも、二吉おじさんも、相当に意地っぱりだから、なおのこと態度が硬化しやしませんか」

「うん。その可能性もあるな」

 陣太郎は竜之助の前に、ぐっと人差指を立てて見せた。

「最後の手段としては、オドシという手がある!」

「オドシ?」

「そうだ。脅迫だ」

 陣太郎は大きくうなずいた。

「人間は誰も弱味を持っている。弱味を持たない人間はない。触られるとギョッとするようなものを人間は誰しも持っているものなのだ」

「そんなものですかな」

「ですかな、とは何だい」

 陣太郎はちょっと気分を害して竜之助をにらみつけた。

「たとえば君だって、さっき、何とか言ったな、ああ、一(かず)ちゃんか、一ちゃんとは一体何者であるか、おれは恵之助老に――」

「じょ、じょうだんじゃありませんよ」

 竜之助はたちまち狼狽した。

「おやじにそんなことを聞かれちゃ、たちまち僕は勘当されてしまう」

 

「それ見なさい」

 陣太郎は得意そうに指をぱちんと鳴らした。

「君だって、ちょっとつつけば、直ぐに弱味が出る。生活の表面の弱味、精神の深部の弱味、人間はいろいろの弱味を持っている。君だって、恵之助老だって――」

「はて、おやじにも弱味があるかな?」

「あるさ、もちろん」

 陣太郎は言葉に力をこめた。

「弱味があるのに、自分に弱味はひとつもないといった顔で生きているのが、一般の人間だ。つまり俗物というやつの生き方だね。そうしないと、俗物は生きて行けない。たとえばあの三吉おやじも、むこう意気は強そうだが、実のところ、中途半端な弱味人間だ」

「しかし」

 竜之助は口をはさんだ。

「三吉おじさんの弱味を、どうして見つけ出すか。見つけ出したとしても、どういう具合にそれをつつくか」

「それは君自身、やればいいだろう」

 陣太郎はそっけなくつっぱねた。

「おれは君に、人間の原則を示してやっただけだ」

「人間は誰も弱味があるというけれど」

 つっぱねられたものだから竜之助は少しいきり立った。

「では、陣内さん、あなたにも弱味があるわけですね」

「うん。おれにあるのは、弱味というもんじゃない」

「じゃあ、なんというんですか?」

「この間まで、おれは皆と同じように、中途半端な弱味人間だった」

 ハイボールが廻ってきたのか、陣太郎の眼はきらきらと光り始めた。

「そしておれは、自分の弱味をかくそうと、あるいはなくそうと、毎日あがいていた。しかしそれはムダだと、ある日のある時、おれは忽然(こつぜん)として気がついたのだ。そして、おれは自分の強味を全部ふりすてて、弱味だけの人間になろうと決心した。その瞬間に、おれは俗物でなくなった。おれは弱味のかたまり、弱味そのものになった」

「でも、お見受けしたところ、あなたはずいぶん強そうな性格に見えるんだがなあ」

「それはそうだ」

 陣太郎は自分の唇をなめた。

「トランプのある遊びで、マイナスを全部集めたら、とたんにそれがプラスになるやつがある。日本の花札にもあるな。素(す)十六というのがそれだ」

「素十六?」

「そうだ。カス札ばかりを十六枚集めると、それを素十六といって、とたんに強力な役になるのだ。だから、おれの弱さは、素十六だよ。すなわちおれは、素十六の陣太郎だ!」

 酔いのせいか、陣太郎はぺらぺらと早口になり、魚眼のような双の眼は、あやしい艶をたたえてぎらぎらと光った。

「人間も、思い切って素十六になれば、もうこわいものはない」

「素十五というのはないんですか?」

「そ、そんなものはない」

 陣太郎はなぜかぎょっとした風(ふう)に身を慄わせた。

「カス札を十五枚集めて、あと一枚というところで勝負が終ることほど、みじめなことはないよ。おれも度々その経験があるが、あれはほんとに泣き出したくなる」

[やぶちゃん注:「素十六」花札の出来役の一つ。素札(すふだ:花札で動物や短冊などの描かれていない札。一点に数える札。素物(すもの)。スベタ)ばかりを、十六枚揃えること。この場合、柳(雨)の札は二十点・十点・五点のものも素札として数えることが出来る(私は勝負事に全く冥いので、小学館「日本国語大辞典」を参照した)。]

 

「劇場はいいなあ。三吉劇場!」

 酔いが廻ってくるにつれ、泉竜之助の思いはすぐにそこに飛ぶらしく、しきりにそれをくり返した。毎日麦飯とメザシでげっそりしていた竜之助も、ハイボールの刺戟とヤキトリ数十本の摂取により、すっかり元気を取り戻したようである。

「こけらおとしには、誰を呼ぼうかなあ」

 まるで自分が経営者であるようなことを竜之助は口走った。

「僕が司会をやって、一人一人に祝辞を読んで貰うんだ」

「うん。お前さんなら司会者に遭当だ。背高ノッポだし」

 竜之助が浮き浮きしてきたに反し、陣太郎の方は、妙に酔いが沈んでくる様子で、言葉使いも陰鬱な調子を帯びた。素十六談義の反動で、酔いが沈んできたものらしい。

「おれも、誰か、連れてきてやろうか。加納明治なんか、どうだい?」

「え? 加納明治を知ってるんですか?」

「知ってるにも知らないにも、あれはおれの家来みたいなもんだ」

 加納明治にまだ会ったこともないくせに、陣太郎は低い声で大口をたたいた。

「ほう。家来ですか?」

「そっくりそのまま家来というわけでもないが――」

 柄になく気がさしたか、陣太郎はごまかした。

「何なら紹介してやってもいいよ。二三日中に」

「是非そう願います」

「一両日中に、おれは加納に会う用事がある」

 そして陣太郎は腕を組み、少時[やぶちゃん注:「しばらく」と当て訓しておく。]首をかしげた。

「うん。その時はちょっと都合がわるいな。その次の時としよう。遅くとも四五日中に会わせてやるよ」

「それはありがたい」

 竜之助は掌をもみ合わせた。

「それまでに、加納の作品をどっさり読んで、研究して置こう」

「なに、それほどまでしなくてもいいよ。あれにろくな作品はない」

 陣太郎は鼻の先でせせら笑った。

「そうだな。その時お前さんを、おれの秘書として紹介しよう。その方が便利だし、事がスムーズに行く」

「秘書でも何でもいいですよ。加納明治。ああ、三吉創場!」

「そんなに浮かれるな」

 陣太郎は眉をひそめてたしなめた。

「この計画は、誰にも口外してはいけないよ。胸にたたんで置くんだ。恵之助老にもだぞ」

「判ってます」

「さっきの、何とか言ったな、一ちゃんにもだぞ」

 陣太郎は釘をさした。

「君はどうも、酔っぱらうと、軽佻浮薄になる傾きがあるようだな。当分酒をつつしむんだね。そして対三吉戦にいそしむんだ」

「判ってます」

「湯銭値下げも、早いとこやった方がいいよ」

 最後のハイボールを飲み干して陣太郎はふらふらと立ち上った。

「どうして俗物ってやつは、つまらないことで、あんなにいがみ合うんだろうなあ。まったく退屈な話だ」

 

 泉宅の夜の茶の間に、泉恵之助はチャブ台の前にあぐらをかき、メザシを肴(さかな)にして焼酎を飲みながら、紙に鉛筆で何かしきりに計算していた。

 この間までは、マグロの中トロか何かを刺身にして、特級酒の盃を傾けていたのであるから、メザシに焼酎とはずいぶん下落したものである。

「うん。大体この位の線か」

 恵之助は鉛筆を置き、そうひとりごとを言いながら、不味(まず)そうにコップの焼酎をすすった。

「ここらが最低線ということにして、作戦を立てて見よう」

 恵之助の坐っている位置から、窓を通して月が見えた。月はおぼろにかすみ、そのおぼろな光線を、あまねく地上に降らしていた。泉宅のくぐり戸にも、そのおぼろな光は落ちていた。今しも伜(せがれ)の竜之助は、背を曲げてそのくぐり戸から忍び入った。

「もう親爺のやつ、寝たかな?」

 ほとんど毎夜のことなので、竜之助の忍び入り方は堂に入っている。

 音もなく玄関に忍び入り、扉をしめてかけ金をおろす。そっと靴を脱ぎ、土間に置く。まるで無声映画の人物のように音を立てない。廊下に上る。伊賀の忍者みたいに巧妙に歩く。どの板のどの部分を踏めば、どんな音を発するか、ということまで熟知しているのだが、今夜は少しハイボールを過したので、そこらをちょいと踏みそこねて、茶の間の前のところで、不覚にも廊下の板をギイと鳴らした。

「誰だ!」

 障子の向うから恵之助の声が飛んできた。

「竜之助か?」

「はい。ただいま」

 声をかけられては仕方がない。余義なく竜之助はあいさつをした。

「少々遅くなりました」

「なにが少々だ。今何時だと思ってる」

 恵之助は舌打ちをした。

「こちらに入って来なさい」

「はい」

 度胸を定めて障子をあけ、竜之助は茶の間に入った。

「おや。もう十二時過ぎですね。僕はまだ十一時頃かと思ってた」

「なにが十二時過ぎだ。時計を見ろ。十二時五十二分じゃねえか。一時前というもんだ」

 恵之助は上目使いに、じろりと伜をにらみつけた。

「おや。お前、酔っぱらってるな。お前には、たしか金はない筈だが、どこでくすねた?」

「くすねた? じょ、じょうだんでしょう。人聞きの悪いことを言わないで下さいよ」

 竜之助は不服げに口をとがらせた。

「おごって貰ったんだよ」

「おごって貰った? 誰に?」

「陣太郎さんという人にだよ。そら、この間、うちの板の間でぶったおれた――」

「あんまりへんな男と遊ぶんじゃねえよ」

「へんな男じゃないですよ。あれでもれっきとした――」

「お種さんの話じゃ、あんまりいい服装をしてなかったというじゃないか」

 恵之助はまた伜をにらんだ。

「そんな風来坊に、豚カツなんかをごちそうしやがって」

「いや。あの陣太郎さんは、あれでもれっきとした松平家の御曹子なんだよ」

 

「なに。松平の御曹子だと?」

 泉恵之助は膝を立てた。

「そんな御曹子ともあろうものが、どうしてきたない服装で、ここらをうろうろしてるんだ? それに銭湯でぶったおれるような醜態を――」

「あ、あの人は猫舌なんだよ。全身猫舌だもんだから、泉湯の熱湯に辛抱出来なかったんだ。身分の高い人は、いろんな関係で、たいてい猫舌になるんだってさ」

 竜之助は掌を交互に振って、懸命に陣太郎を弁護した。

「服装があまり良くないのは、あの人、この頃、家出をしたんだって」

「家出? 何で家出したんだ?」

「相続問題がこじれて、面白くないからだってさ。それに、京都の十一条家の娘と見合いさせられそうなんで、たまりかねて飛び出したんだよ。やはりあんな家柄になると、僕らには判らないようなことが、いろいろあるらしいよ」

「ふうん」

 恵之助は半信半疑の面もちで焼酎のコップを口に持って行った。泉湯は代々のしにせで、江戸時代からつづいているのだから、その血をうけた恵之助老は、松平とか徳川などの家柄には、人並以上の関心を保有しているのである。焼酎を不味そうに飲み下しながら、恵之助はつぶやいた。

「ふん。松平の御曹子ねえ」

「お父さんの焼酎の飲み方は、実に不味そうだねえ」

 竜之助はチャブ台の上の計算紙をのぞき込んだ。

「それは何? 肴がないもんだから、算数の練習でもしてたの?」

「ばか。肴はここにあるぞ」

 恵之助はメザシをつまみ上げてこれ見よがしに、頭からがりがりとかじった。

「生活の計算をしてたんだ」

「生活の計算?」

「うん。そうだ。風呂の水道料、燃料費、人件費、それにわしらの生活費をにらみ合わせてだな、泉湯の湯銭を最低いくらにまで値下げ出来るか、それを計算して見たんだ。計算するのに、一時間余りかかったよ。算数なんてものじゃなく、高等数学だからな」

「高等数学?」

 竜之助はあわてて口を押さえた。

「それで、いくらにまで値下げ出来るの?」

「十二円だ!」

 恵之助は昂然(こうぜん)と言い放った。

「特級酒を焼酎に、中トロ刺身をメザシに切換えて、つまり生活費をぎりぎりに絞っての計算だ」

「メ、メザシ?」

 竜之助はたちまち悲痛な声を発した。

「も、も少し絞りをゆるめて、湯銭を十三円ぐらいにして、メザシだけはかんべんして貰えないかなあ」

「ダメだ! 中途半端なことじゃあ、とても戦[やぶちゃん注:「いくさ」。]には勝てない。わしはメザシから梅干への切下げも考慮している!」

「梅干?」

 竜之助は泣きべそ顔になった。

「そ、それで、いつから値下げをするの?」

 早急に値下げをしろと、あれほど陣太郎から慫慂(しょうよう)されたのも忘れて、竜之助は情ない声で嘆願した。

「実施は出来るだけ遅い方がいいなあ。でないと、僕は栄養失調になっちまうもの」

 

「なに。栄養失調になる?」

 泉恵之助は伜の竜之助をにらみつけた。焼酎の酔いで、恵之助の顔もかなり赤くなっている。

「冗談を言うな。メザシなんて、大した栄養食品だぞ。あれはもとは鰯(いわし)で、鰯という魚は、魚の中で一番栄養価が高いって、この聞の新聞の家庭欄に出ていた」

「しかしナマの鰯とメザシとでは――」

「いや。それはメザシの方が上だ」

 自信ありげに恵之助は断言した。

「メザシというやつは天日に乾された関係上、日光からたくさんビタミンAを吸い込んでいる。それに骨や頭までガリガリ食えるから、カルシュームの補給にはもってこいだ」

「でも、メザシはかさかさしていて――」

 竜之助は必死に抗弁した。

「あぶらっ気が全然ないもの。あれじゃあ、とても元気が出ないよ」

「あぶらっ気というのは、脂訪分のことだ」

 どこで勉強したのか、栄養学にかけては、忠之助老はなかなかあとに退かない。

「脂肪というのは、人間の身体には大敵だ。ことにわしのように、心臓の弱いものにとっては、脂肪分は非常に悪い。心臓のまわりに脂訪がくっついて、心臓の働きが鈍るのだ」

「お父さんは心臓が悪いから、脂肪分は悪いかも知れないけど、僕は心臓は悪くないんだよ。それにボディビルをやっている関係上――」

「ボディビルなんか、止めればいいじゃないか。実際あんなムダな精力の浪費はない」

 恵之助はあっさりと断定した。

「それに、お前は心臓は悪くないと言ってるが、よく考えてみなさい、お前はわしの一人息子だよ。お前のおじいさんは、狭心症で死んだ。お前のお父さん、つまりこのわしのことだな、これも心臓が非常に弱い。だから血筋として、お前も心臓が悪くなるにきまっている。だから今から用心して――」

「でもお父さんは、この間まで、毎日マグロのトロを――」

「だから、その非を悟って、メザシに転向したのだ!」

 恵之助はどしんとチャブ台をたたいた。

「それ以上つべこべと言うなら、メザシをやめて、梅干にしてしまうぞ」

 竜之助はしぶしぶと沈黙した。これ以上言いつのって、梅干に切り下げられてはかなわない。

「時にお前に、是非行って貰いたいところがある」

 焼酎を口に含んで、恵之助は本題を切り出した。

「行くだけじゃなくて、偵察(ていさつ)だな」

「偵察? どこへ?」

「三吉湯だよ、もちろん」

 三吉湯という言葉を口にしただけで、竜之助の額にはもりもりと青筋が立った。

「三軒ともだよ。一日で三軒廻ってもよろしいが、一日一軒、三日がかりでもいい」

 メザシの頭を、さも憎しげに、恵之助はガシガシと嚙んだ。

「情報によると、あの三吉のくそ爺、板の間に縁台を置き、将棋盤の設備をしたそうだ。これは明かに組合の申し合せ違反だ」

「だって、お父さんもテレビを――」

「うちのテレビは、正当防衛だ」

 恵之助は伜をきめつけた。

「法律でも、正当防衛は、罪にならない。テレビでもつけねば、たちまちお客が減って、わしたちはオマンマの食い上げとなる。立派な正当防衛だ」

 

「テレビに対抗するに将棋盤とは、何としみったれた奴だろうなあ」

 泉恵之助は、わざとらしい憫笑(びんしょう)の色を頰に浮べ、コップの焼酎をぐっと飲んだ。

「といっても、将棋だってバカにならない。世の中には、将棋好きも多いからな。だからお前は三吉湯を廻って、どのくらいお客が将棋盤にとりついているか、それを偵察してきて貰いたいのだ」

「いやだなあ、そんな役目」

 竜之助は掌で空気を押し戻すようにした。

「だってお父さんは、先だって、三吉おじさんはもちろん、その家族に対しても、口を一切きいちゃいけない、そっぽ向けって、そう厳命したじゃないの」

「債察するのに、口をきく必要はない!」

 恵之助はきめつけた。

「偵察といっても、のぞきじゃないよ。うっかりのぞいてると、交番に連れて行かれるからな。堂々と十五円を出して、お客として入るんだ」

「三吉おじさんが拒否したら?」

「拒否は出来ない。わるい病気とか酔っぱらいなら、入湯拒否は出来るが、正常で健康な人に対しては拒否出来ないのだ。いくら三吉がくやしがっても、出来ないんだ。だからそっぽを向いて、十五円払い、堂々と入湯して来い。何なら浴槽の中で、そっとウンチをしてもいいよ。臭いから、たちまち三吉湯のお客は減るだろう」

 特級酒とちがって、焼酎は悪酔いするらしく、恵之助老はとんでもない発言をした。

「そんなムチャな――」

 竜之助もさすがに呆れて嘆息した。

「うん。それはちょっと行き過ぎかも知れないな。それは最後の手段に取っとこう」

 恵之助はあっさりと前言を撤回した。

「そして、将棋の情況をよく偵察してこい。出来たら油断を見すまして、王様の駒をかすめ取って来い。王様がなけりゃ、将棋は出来ないからな」

 相当酔いが廻ったと見えて、恵之助は大口をあけてばか笑いをした。

「三軒廻って、王様を六個集めて来い。王様じゃなくても、飛車や銀でもいい。歩はいけないよ。あれは予備があるから」

「そんなに三吉湯の将棋を敵視しないでも――」

 息子としての忠告を竜之助はこころみた。

「うちのテレビで、相当お客が増加したらしいじゃないの。お種さんがそう言ってた」

「うん。いくらか殖えたのは事実だが」

 恵之助は嘆息の表情になった。

「一面その弊害もあるのだ」

「どんな弊害?」

「お客の平均入湯時間が、ぐんと長くなった。その結果、混み方がひどくなったんだ」

「そう言えば、前よりもずいぶん混んでいるようだねえ」

「入湯時間といっても、浴槽につかっている時間じゃない。板の間で休んでいる時間も含まれる。つまりその、板の間の時間が長くなったのだ。この間のプロレスの時なんか――」

 慨嘆にたえぬ表情を恵之助はつくった。

「上ってはプロレスを見、また入り、また上ってはプロレスと、合計六回も入湯したのがいる。出て行く時みたら、掌なんかすっかり白くふやけていた。それでタダの十五円だよ。ひき合った話か?」

 

 浅利家の納戸(なんど)で、浅利圭介は机の前に坐り、古本屋から買ってきた探偵小説を読みふけっていた。最後の一頁を読み終り、ばたんと巻を閉じると、両手を上に伸ばしてあくびをしながら、ひとりごとを言った。

「ふん。こいつが犯人とは、気がつかなかったな。でも、組立てが、ちょっとインチキだぞ」

 その探偵小説をぽんと部屋のすみにほうり、机上の腕時計に眼を走らせた。針は零時五十二分を指していた。

「まだ戻って来ない。一体何をしてるんだろう。泊ってくるつもりかな。こんな遅いところを見ると、あいつ、対猿沢工作に失敗したんだな」

 圭介はにやにやと妙な笑い方をしながら、書棚の前から 一升瓶を引き寄せ、栓をあけた。書棚の前には、まだ二本の一升瓶が残っていた。いずれも特級酒である。

「あいつ、えらそうなことを言ってたが、やっぱり失敗したに違いない。今日もおれは失敗したが、これでアイコだ」

 湯吞に特級酒をどくどくと注ぎ、一息にあおり、圭介は旨そうにタンと舌打ちをした。冷酒はたちまちにして、空腹の圭介の五臓六腑にしみわたった。圭介はまた二杯目をどくどくと注いだ。

 それを口に持って行こうとしたとたん、玄関の方から、扉をあけるがたぴし音が聞えてきた。

「ふん。帰って来やがったな」

 茶碗を元に戻し、圭介は立ち上った。足音を忍ばせて、廊下を歩いた。陣太郎は玄関で靴を脱いでいた。

「おい。どうだった?」

 圭介はその背に小声で話しかけた。大声を出すと、茶の間のランコに目を覚まされるおそれがある。

「やっぱり風呂屋が犯人だったかね」

「ああ、おっさんか。ただいま」

 靴を脱ぎ終え、陣太郎はひょろひょろと玄関に上った。

「まあ部屋に行きましょう」

「おや。君はまた今夜も酔っぱらってるな」

 廊下を先に立ちながら、圭介は腹立たしげに言った。

「僕は寝ないで待ってたんだぞ。やけ酒でも飲んだのか」

「どうしておれが、やけ酒を飲むんです?」

「だって、やりそこなったんだろう」

 圭介は納戸に入り、机の前の元の座に戻った。陣太郎も圭介に相対して坐った。

「おれのことを、やりそこなったなんて、勝手なことを言ってるが、おっさんはどうだったんです?」

 圭介はとたんに面目なさそうに頭を垂れ、茶碗を陣太郎の方に押しやった。

「まあ一杯やって呉れ」

「加納明治に会えたんですか?」

 陣太郎は当然のことのように、茶碗を口に持って行きながら、声を大きくした。

「それとも、また酒一本で、追い返されたんですか?」

「一本じゃなく、三本だ」

 圭介は頭を垂れたまま、小さな声で言った。

「しかし、これは、特級酒だから――」

「特級酒でも二級酒でも、追い返されたにかわりはない!」

 陣太郎はきめつけた。

「今度は、おれが、加納に会う!」

 

「そ、それは――」

 浅利圭介はどもった。

「何が、それはです!」

 陣太郎はおっかぶせるように、更に声を大きくした。

「今日訪問して、それで会えなきゃ、おれにゆずると、約束したじゃないですか。男と男の約束を、おっさんは反古(ほご)にしようとでも言うのですか!」

「そ、そんな大声を出して呉れるな」

 圭介は片手おがみに嘆願した。

「おばはんが眼を覚ますじゃないか」

「眼が覚めたって、おれは平気です」

 陣太郎はいくらか声を低くした。

「おれ、おばはんに、一切を告白して、この家を立ち去ります」

「わ、わかった。加納明治のことは、君にまかせるよ。も少し声を小さくして呉れ」

「よろしい」

 陣太郎の声は圭介の声と同じくらいに、小さくなった。

「おっさんも初めから、我を張らなきゃいいんですよ」

「ああ」

 圭介は両手を顛のうしろに組み、低くうなって、畳にどさりとあおむけになった。ずいぶん奮闘努力したものを、その中途にして、あっさり陣太郎にうばい取られ、絶望したのであろう。

「ああ、おれは一体、この十数日、何のためにかけずり廻ったのか」

「そんなにがっかりしなさんな。がっかりすると、身体に悪いですよ」

 さすがに陣太郎も惻隠(そくいん)の情を起したと見え、やさしく声をかけた。

「今日、猿訳三吉に会って、おっさんのことをよく頼んで置きましたよ」

「え? なに?」

 圭介はむっくりと身体を起した。

「何を頼んだんだ?」

「おっさんの身柄をですよ。つまり、就職――」

「誰が君にそんなことを頼んだ? 余計なさしで口をするな!」

「ランコおばはんから頼まれたんですよ」

 陣太郎もむっとした口ぶりになった。

「そんなに怒るんなら、おれは引きさがります。そして、ことの一切を、ランコおばはんに――」

「わ、わかった。わかったよ」

 圭介は忌々しそうに、また片手おがみをした。

「わかったけれども、どうもその君のやり口は、気に食わんぞ。それだけは、おれははっきり言って置く」

「気に食っても食わないでも、この単純率直が、おれの流儀です」

 陣太郎は昂然と茶碗の酒をあおった。

「おれは、ぐにゃぐにゃしたもの、うそうそしたもの、ねちねちしたものが、大きらいです。世の中がどう変ろうと、一足す一は二です!」

「一体僕の身柄を、何と頼んだんだい?」

「猿訳三吉はですね、今三軒銭湯を持ってるが、更にもう一軒新築中なのです。その新築の銭湯の、つまり、何と言えばいいのかな、支配人です。マネージャーですな」

「こ、この僕に――」

 圭介にはもうどもり癖がついた。

「銭湯のマネージャーになれと言うのか?」

 

「ちょっとおことわりして置くけれど、次の二つのことだけは心得て置いて下さい」

 陣太郎は空(から)の茶碗を圭介の前に戻し、特級酒をとくとくと注いでやった。

「第一は、おっさんは何も知らないと言うことです。つまり、見ざる聞かざる言わざるですな」

「何も知らない?」

「ええ。猿沢の自動車のナンバーのことなんかもですな。ただおれの紹介で就職する、それだけで、あとは何も知らないということにして置いて下さい」

「へんな条件だな」

 圭介は首をかしげた。

「まあよかろう。どうせ一時つなぎの就職だ。もう一つは何だ?」

「お、おれとおっさんの関係ですがね」

 陣太郎はさすがに言いにくそうに、言葉をもつらせた。

「おっさんのことをね、おれは猿沢三吉に、おれんちの元家令だとふれ込んだんですよ」

「元家令? 僕がいつ君の家の家令をやった? でたらめもほどほどに――」

 圭介は憤然たる面もちで、そう言いかけたが、すぐに怒り顔をゆるめて、投げ出すように言った。

「まあどうにでも言って呉れ。どうせ僕が怒っても、君はランコおばはんを持ち出すにきまっている」

「よく気が廻りますな」

 陣太郎はにやにやと笑った。

「でもおれは、おっさんのためを思ってやったんですよ。おっさんは家令だったが、思うところあってそれを辞め、浮世の風に当りたいと、そうおれはふれ込んだ」

「元家令や元家従でなくて、しあわせだ」

 圭介はやけっぱちに、茶碗酒を一息に飲み干した。

「風呂屋のマネージャーだなんてえらそうに聞えるが、つまり番台に坐って金をとるんだね?」

「番台。けっこうじゃないですか。特等席で、女の裸をおおっぴらに眺められるし――」

 圭介の空茶碗を、陣太郎は自分の前に引き戻した。

「かま焚きよりはいいでしょう」

「そうだな。そう言えば、風呂屋には、女湯というものがあるな」

 多少心を動かした風で、圭介は陣太郎の茶碗に酒を充たしてやった。

「退屈しのぎに、勤めてみることにするか、どうせ一時つなぎの就職だ」

「一時つなぎということを、やけに強調するんですな」

 また陣太郎はにやにやと笑った。

「それで、おれ、一両日中に、ここから引越しますよ」

「引越す? なぜ?」

「だってここを、下島がかぎつけたからですよ」

「行き先はあるのかい?」

「ありますよ。富士見アパートと言うんです」

 そして陣太郎は、首をかたむけ、ひとりごとの口調になった。

「富士見アパートって、どこにあるんだろうなあ。電話帳ででも調べて見るか」

「そんなケチなアパートに行くことは止めて、屋敷に戻ったらどうだい」

 圭介は最後の忠告をこころみた。

「君がそこらをうろちょろすると、その度に、そこらに波紋がおこって、あぶなくて仕様かない。まるで君は春先のつむじ風みたいだ」

 

 小説家加納明治は、書斎の仕事机の前に大あぐらをかき、特級酒の一升瓶をでんと据え、たいへん険悪な表情で、ぐびぐびと茶碗酒をあおっていた。

 違い棚の上の置時計は、午前零時五十二分を指していた。

 酒の看としては、ワサビ漬、辛子茄子(からしなす)、佐賀名産のガンヅケなど、刺戟の強いのが四五品並び、加納は茶碗をあおる間の手に、それをつまんでは口に放り込んだ。時には刺戟が強過ぎて涙腺(るいせん)を剌戟し、加納は険悪な表情のままほろほろと涙を流し、あわてて鼻をつまんだりした。

[やぶちゃん注:「ガンヅケ」」甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目スナガニ上科スナガニ科スナガニ亜科シオマネキ属シオマネキ Uca arcuata の肥大した鋏脚を塩漬けにした有明海沿岸地方の珍味。但し、現在は同種は本邦では絶滅危惧II類(VU)となり、販売されている「がん漬(づけ)」の原材料は総て中国産である。それでも結構、酒の肴としては、いける。福岡生まれの梅崎春生のエッセイ「三好十郎」(昭和二七(一九五二)年八月号『群像』初出)にも出てくる。]

 ふだんの加納なら、塙女史の指示の通り、十二時にはおとなしく就寝している筈なのであるが、こんな時刻に大あぐらをかき、禁制の刺戟物を看にして、茶碗酒をあおっているというのも、今日彼が秘書の塙女史と大衝突をしたからである。

 ことのおこりは、押入れの奥深く隠匿した一升瓶三本を、加納の留守中に塙女史が摘発、折柄来訪した浅利圭介にやってしまったことに発する。

 午後、所用から自動車で帰宅した加納明治は、書斎の机の上に置かれたメモ用紙を一読、かっと額に青筋を立てた。メモ用紙には、こう書いてあった。

 

 押入れを整理していたら、一升瓶が三本も見つかりま

 した。こんなところにお酒をかくすなんて、何という

 卑劣な所業でしょう。先生の中に住むアクマを、あた

 しは心から憎悪します。

                   塙佐和子

 

「何という不逞(ふてい)な女だろう!」

 加納は血走った眼で、ぎろりと部屋の中を見廻した。

「あれほど言っておいたのに、押入れに手をつけやがって!」

 書斎のすみの半間の押入れ、ここだけは私物入れだから絶対にあけてはならぬと、加納が塙女史に申入れたのは、つい四五日前のことである。近頃本棚のうしろの隠匿物資が、ひんぴんと塙女史によって摘発されるので、別のかくし場所を設ける必要上、加納はそんな申入れをしたのだ。

「はい。かしこまりました。先生」

 その時は、塙女史は、はなはだ殊勝な返事をした。

「作品をつくるには、やはり作家の秘密というものが、必要でございますわねえ」

 そんな物分りのいい返答をしたくせに、五日も経たないうちに、約束を破ってお酒を持ち去った。加納明治が青筋を立てるのも、当然であろう。

「よし。もう許しては置けぬ!」

 加納明治は書斎を飛び出し、足音も荒く、廊下を踏み鳴らして、玄関脇の塙女史の居室の前に立った。拳固で力まかせに扉をどんどんとたたいた。

「塙女史。おい、塙女史」

 応答はなかった。加納はノブを廻して、扉を引きあけた。秘書であるとはいえ、淑女の塙女史の居室の扉を、ことわりなしに引きあけることは、ふだん加納は遠慮しているのであるが、勢の余るところいたし方ない。

 扉から首をつっこんで、加納は部屋内をぐるりと見廻した。

 女史の姿はなかった。女のにおいだけがあった。

「ふん」

 加納は扉をがちゃんとしめると、今度はリヴィングキチンに突進した。

 リヴィングキチンにも、塙女史の姿は見当らなかった。買物か何かに外出したのであろう。

 加納明治は拍子(ひょうし)抜けがしたように、ぺたんと椅子に腰をおろしたが、すぐに憤然と立ち上り、つかつかと調理台の方へ歩いた。流しや冷蔵庫や戸棚などをにらみつけた。

「なんだい、こんなもの」

 加納は戸棚の方を力まかせに引きあけて、そこにならんでいた小麦胚芽、脱脂粉乳、醸造酵母のたぐいを、ひとつひとつ取りおろした。それらをまとめて小脇にかかえた。

「ハウザー流がなんでえ。ひとをバカにしやがって!」

 小脇にかかえたまま、加納は玄関に戻り、下駄をつっかけて表に出た。裏木戸の前のコンクリ製の塵芥箱(ごみばこ)の蓋をあけ、彼はそのひとつひとつを、エイエイとかけ声をかけながら、力いっぱいたたき込んだ。

「ざまあみろ」

 やっとせいせいした表情になり、加納は家に戻った。書斎に入り、座蒲団を二つ折りにして、ごろりと横になった。あんまり怒って行動したので、その反動で、全身がぐにゃりと弛緩(しかん)していた。はあはあとあえぎながら、やがて加納はそのまま、うとうとと眠りに入った。

 やがて彼は、リヴィングキチンの方角からの銅鑼(どら)の音で目を覚ました。銅鑼は夕食の合図なのである。加納はむっくりと起き直った。

 帯をしめ直して、加納は書斎を出、大風に逆らうような表情になり、廊下を食堂の方に歩いた。

 食卓の上に、夕食の用意が出来ていた。コールミートの皿、サラダの皿、その傍にいつもの如く、強化パンとヨーグルトが置かれていた。

[やぶちゃん注:「コールミート」cold meat。コールド・ミート。ローストした牛・豚・鶏の肉を冷やしたもの。薄切りにして食する。]

 調理台を背にして、塙女史が立っていた。その顔はつめたく険を帯びて、まるである種の能面を思わせた。

 加納はぶすっとした表情で、椅子についた。そしてちらりと視線を戸棚の方に走らせた。戸棚には新品の小麦胚芽、脱脂粉乳、醸造酵母が、ちゃんと補充されてあった。

 その加納の視線の動きを、塙女史はながめながら、氷のようにつめたい声で言った。

「やっぱり犯人は、先生でしたのね。栄養食品をゴミ箱に捨てた犯人は!」

「犯人とは何だ!」

 加納の眉の根はぐっとふくらんだ。

「あの食品は、僕のかせいだ金で買ったものだ。僕のものを、僕が捨てるのに、何が悪い。それよりも、僕の押入れから酒を盗んだ犯人はどいつだ!」

「盗んだ?」

 塙女史もきりりと柳眉(りゅうび)を逆立てた。

「盗んだとは、何という言い草でございますか。先生こそ、あんな場所に酒をかくすなんて、卑劣なことをなさったくせに」

「押入れは絶対にあけないという約束じゃなかったか」

 加納はフォークの柄で、食卓をコチンとたたいた。

「なぜあけた?」

「酒が入ってたからでございますわ」

「ウソつくな。あけない前に、酒が入ってることが判るわけがない」

「においで判りますわ」

 塙女史も負けてはいなかった。

「酒にはにおいがあるんですよ。においが!」

 

「僕はこれでも人間だぞ。犬なんかじゃないぞ」

 十数分間にわたる大論争ののち加納明治はついに怒号した。

「ドッグ・トレイェング・スクールの要領で、僕を仕込もうなんて、人間冒瀆(ぼうとく)もはなはだしいぞ!」

 大論争というよりは、大水掛論というべきであって、加納明治は人間として嗜好の自由を主張し、塙女史は小説家としての健康保持を主張するのだから、これは永遠の平行線であって、妥協の余地はないのである。加納が怒号するのもムリはない。

「いいえ。先生の心性の中の一部分は、たしかに犬です」

 塙女史も金切声を上げた。

「その犬みたいに卑しい部分を退治することが、あたしの任務です!」

「おれの中に犬なんかいない!」

 そして加納は食卓に手をかけ、かけ声と共にそれをひっくり返した。コールミートやサラダやヨーグルトなどが、めちゃくちゃに床に散乱した。

「こんなものが食えるか。おれは日本人だぞ。おれは今から街へ出て、おれの好きなものを食ってくる!」

「そんなことはさせません」

「する!」

「させません!」

「する。お前はクビだ!」

「まあ。お前だなんて――」

 愕然としたように、塙女史は顔色を変えた。お前呼ばわりをされたのは、これが初めてであったのだ。

「あたしのことをお前だなんて、先生はそれでいいのですか」

「女史があんまりワカラズヤだからだ」

 加納はわめいた。

「僕はワカラズヤを秘書にしたくない。よく判って、献身的な秘書が欲しいのだ」

「あたしは献身的です」

 まっさおになったまま、塙女史は宜言をした。

「先生がクビにしても、あたしはクビになりません。あたしは先生が反省をなさるまで、頑張ります。一歩もあとにはひきませんわ!」

「勝手にしろ」

 加納は立ち上った。

「僕の三本のお酒は、どこにしまった? 出せ。書斎で一杯やる」

「あれはやりましたわ」

「やった? 誰に?」

「浅利圭介という男にです」

「誰だ。その浅利圭介というやつは? 女史の情夫か?」

「情夫? 何て失礼な言い方でしょう」

 塙女史はまたきりきりと眉を逆立てた。

「あたしは清純な処女ですよ。あんまり無礼なことは言わないで下さい。誰があんな男と。浅利というのは、この頃しつこく訪ねてくる、へんな男ですよ」

「今度から、僕を訪ねてくる男に僕は会う。今後来客を、勝手に女史はことわるな!」

 加納は床を踏みならして食堂を出ようとしたが、床のサラダに足をとられて、すってんころりんところがるところを、辛うじて傍の柱に抱きついて事なきを得た。

「おほほほほ」

 塙女史は大口をあけて、あてつけがましく嘲笑した。

 

 塙女史の嘲笑の声をあとにして加納明治は書斎にとって返し、はだかの紙幣を四五枚たもとにつっこみ、憤然たる面もちで玄関を出た。車庫から自動車を引き出し、ハンドルを切って、見る見るその姿は遠ざかって行った。

 調理台を背にして、塙女史はまださっきと同じ姿勢で、つっ立っていた。顔にはもはや嘲笑の色はなかった。

 自動車の音が完全に彼女の耳から消えてしまうと、塙女史の端麗な顔はぐしゃっとゆがみ、美しい眼から大粒の涙が三つ四つ、ほろほろと流れ出た。

「あんまりだわ」

 塙女史はハンカチをとり出して顔に押しあてた。勝気で理知的な塙女史にして、落涙とはめずらしいことである。

「あんなに先生のためを思って、尽して上げてるのに、なんてワカラズヤだろう」

 ハンカチを顔から外(はず)すと、もうすっかり涙はハンカチに吸い取られていた。

 理知的な塙女史のことであるから、もうそれ以上余分の涙は出すことはせず、雑巾を持ってきて、直ちにせっせと床の掃除にとりかかった。

 掃除が終ると、さすがに食欲も出ないらしく、玄関だけ残してあと全部を戸締りして、彼女は自分の居室に閉じこもった。

 加納明治の自動車が戻ってきたのは、もう十二時に近かった。

 玄関の扉をあけて、加納明治がいろんな形の包みを持って入って来たが、玄関脇の居室の扉はぴたりと閉ざされたままで、ふだんなら出迎えに出る塙女史も、今夜は全然姿をあらわさなかった。

「帰ったぞ!」

 加納明治は下駄を土間にはね飛ばし、わざと足音荒く、廊下を書斎の方に歩いた。

 塙女史が出迎えても腹が立っただろうが、出迎えなくても腹が立つのである。

 書斎に入り、いろいろな包みを机の上にひろげた。清酒一升瓶、ウィスキー、ワサビ漬その他の刺戟性食品、洋モク。どれもこれもかねてから塙女史に、口にすることを厳禁されている禁制品ばかりである。あちこちかけ廻って買い求めてきたものらしい。

 それらをすっかり机上に並べ、一升瓶の栓を技き、茶碗を盃のかわりにして、加納明治は盛大にして孤独なる深夜の酒宴を開始した。

 冷酒はこころよく咽喉(のど)をくすぐり、ワサビ漬その他の刺戟性サカナは、こころよく舌の根を刺戟し、あるいは度が過ぎて涙をほろほろと流れ出させたりした。

「ああ。何という旨(うま)さ。何という自由!」

 しかししだいに酔いが廻るにつれて、忿懣(ふんまん)もようやく風船玉みたいにふくれ上ってきた。

 レジスタンスもけっこうであるが、そのレジスタンスの現状、自分が自由に好きなものを飲み食いしている現状を、誰も見て呉れないことに、加納はいらだってきたのである。誰も見て呉れなきゃ、縁の下の力持ち同然だ。

「ちくしょうめ。ふたこと目には、先生の健康のためだと言いやがる。健康だけで小説が書けてたまるか!」

 孤独の宴だから、どうしてもひとりごとになってしまう。

「生意気ばかり言ってると、今から部屋に押しかけて、押さえつけてやるぞ!」

 

「生意気ばかり言ってると、今から部屋に押しかけて、押さえつけてやるぞ」

 これは本心の声でなく、単なる憎たれ口であったのだが、実際にそう呟(つぶや)いてみると、突然ある種のリアリティが加納明治の身体に湧きおこって来た。

 塙女史は八頭身の美人ではあるが、陶器のようにコチコチの、マネキン人形の如き美しさであるから、いつもなら押さえつけてやろうという気は全然起きないのだけれど、今夜はしたたか酒が廻っているし、忿懣がそれに拍車をかけた。

「あんな生意気なコチコチの合理主義者を打ちひしぐには、非合理主義のバーバリズムを用うる他はないではないか。ぐしゃっと押さえつけてやれば、この世は理窟ばかりで通るものでないことを、塙女史は悟るだろう」

 そう考えながら、加納は違い棚の置時計を見た。針は丁度午前零時五十二分を指している。

「ひとつやってやるか!」

 彼は出窓の方に視線を移した。窓ガラスを通して、月が見えた。月はおぼろにかすんでいた。なにか狂暴なものが、加納の身内にあふれてきた。月の色には妖気がただよっていたのだ。

「よし。やってやる」

 塙女史のけたたましい嘲笑の声を、幻覚として耳に再現しながら、加納はふらふらと立ち上った。

「おれが悪いんじゃない。塙女史が悪いんでもない。悪いのは、あの月の色だ!」

 とうとう責任を月のせいにして、加納は眼を血走らせ、足音を忍ばせて廊下を歩き、玄関に出た。塙女史の居室の扉のノブをそっと握って廻した。鍵はかかっていなかった。

 そこは八畳ほどの広さの洋室で、一隅にベッドがあり、スタンドの燈に照らされて、塙女史が眠っていた。

 心臓が咽喉もとまでのぼってきたような気持で、加納は扉をしめ、はあはああえぎながら、抜き足さし足、ペッドに近づいた。蒲団を胸までしかかけていないので、塙女史がピンクの薄いパジャマを着ていることが、加納には判った。

 塙女史の寝顔は、クリスマスカードに刷られた天使みたいで、起きている時のコチコチの憎たらしさはなかった。

(よし。こいつを押しつぶしてやるぞ!)

 加納はいきなりそこに顔を近づけた。加納の肩がそこに触れるか触れない瞬間に、塙女史はその気配で眼を覚ました。

「だ、だれです?」

 塙女史は海老(えび)のようにはずんでベッドの上に飛び起きた。

「な、なにをなさるんです!」

「女史の合理主義を、今夜はぶっこわしてやるのだ!」

 加納は脅迫的に、声にすご味を持たした。

「人間というものは、男というものは、どういう動物であるか、思い知らせてやる。女史の思想改造をしてやるのだ!」

「けだもの!」

 加納が飛びかかってきたものだから、塙女史は金切声を出した。

 次の瞬間、加納はぎょっとしてベッドから飛び離れた。枕の下にでもかくしてあったのか、塙女史の手には、ギラギラ光る白鞘(しろざや)の短刀が握られていたのである。

 塙女史はそれを加納につきつけ呼吸をはずませながら言った。

「いくら先生でも、非合法は許せません!」

 

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