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2023/07/06

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「『鄕土硏究』一至三號を讀む」パート「四」 の「磐城荒濱町の萬町步節」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 なお、大物だった「鷲石考」(リンク先はサイト一括版)で私は、正直、かなり疲弊してしまった。されば、残りは、今までのようには――読者諸君が感じてきたであろうところの、あれもこれもの大きなお世話的な――注は、もう附さないことにする。悪しからず。

 本篇は、実際には底本では、既に電子化した「野生食用果實」と、「お月樣の子守唄」の間にある。全四章からなるが、そもそも、これは異なった多数の論考に対する、熊楠先生の例のブイブイ型の、単発の独立した論考の寄せ集めであって、一つの章の中にあっても、特に連関性があるわけでも何でもない。されば、ブログでは、底本の電子化注の最後に回し、各章の中で「○」を頭に標題立てがなされているものをソリッドな一回分として、以下、分割公開することとする。

 なお、底本では冒頭の「三」の四字下げで初出書誌が載るが、引き上げた。

 また、本篇の対象論考は「選集」の編者注によれば、匿名の『愛読者「磐城荒浜町の万町歩節」』であるとある。]

 

      (大正二年十一月鄕土硏究第一巻第九號)

 

○磐城荒濱町の萬町步節(三號一七六頁)明治十八年、予、東京大學予備門に在《あつ》た時、「柳屋つばめ」と云ふ人、諸處の寄席で、「奧州仙臺節」を唄ひ、予と同級生だつた秋山眞之氏や、故正岡子規等、夢中に成《なつ》て稽古し居《を》つた。其内に「妾《わたし》お○○○[やぶちゃん注:伏字。]播磨の名所、緣《ふち》は高砂、中明石、邊に舞子の松林云々」と云《いふ》のが有《あつ》た。程なく渡米して、沙翁《シエキスピア》の全集を買ひ、眼を通すと、是は、したり、文明國の士女が、文章にも行儀志操にも、典型と尊崇すると聞《きい》て居《をつ》た沙翁著作中の敍事詩「ヴナス・エンド・アドニス」に、婬女神ヴィナスが、無情少年アドニスを、鹿、自分を園に比べて、他《かれ》を口說《くど》く、其園の光景を、丁度、件の播磨名所同前に述有《のべあつ》た。驚《おどろい》て、沙翁學專門の學者に問ふと、「如何《いか》にも如何《いかが》はしい所が多いから、此詩斗りは表立《おもてだつ》た所で、讀まぬものだ。」と誨《おし》へられた。其は兎《と》まれ、エリザベス女皇時代には、無双の好色本として、男女俱に賞翫したとハーフォードが書《かい》た(一八九九年板「沙翁全集」卷十、二五四頁)。吾邦には、今も、耳食《じしよく》の徒、多く、實相を知《しら》ずに、沙翁の著作抔は、悉く、淸淨な物と呑込《のみこ》み、無闇に其を定規《ぢやうき》にして、我國の俗謠抔を、不埒極《きはま》る樣に罵る人が多いから、一言し置く。

[やぶちゃん注:「磐城荒濱町」現在の宮城県亘理(わたり)郡亘理町(わたりちょう)荒浜(グーグル・マップ・データ)。

「萬町步節」不詳だが、以上の熊楠の解説から、女性の生殖器の各部を風景に擬えた、極めて猥褻な艶歌・民謡の替え歌と推定される。

「柳屋つばめ」初代柳つばめ(安政五(一八五七)年~明治四五(一九一二)年は落語家。本名は岡谷喜代松。当該ウィキによれば、『生地は諸説あって、一つは紀州和歌山市小野町の材木商、一説は大坂難波新地揚屋「西村」、また大坂下西成郡の出生、さらにもう一説は深川木場の材木屋の倅。または大坂で生まれ深川木場育ちとも』される。十七『歳から道楽が高じていろいろな音曲に手を出し』、二十三『歳頃の』明治一二(一八七九)年頃、『初代談洲楼燕枝』(だんしゅうろう んし)『の門で楽枝、その後』、『性格が無口で』、『むずむずする行動から動物の狢』(むじな)『に似ていたことから』、『初代春風亭柳枝の門で燕枝に春風亭?[やぶちゃん注:「?」はママ。]むじなと名付けられる。明治一六(一八八二)年から翌年頃に、『柳家つばめとなる。つばめになってからは仙台節を唄い』(☜)『花柳界、市中で大流行した』。明治二七(一八九四)年六月に『春の家柳舛と改名』し、二年後の二月に『つばめに復名し』、『真打昇進』をした。明治三五(一九〇二)年一月には、『音曲師の由緒ある名前』五『代目都々一坊扇歌』(どどいつぼうせんか)『を襲名』したが、『病気がちになり』、『高座を勤められないことが多かったが』、『縁起を担いで』、明治四三(一九一〇)年二月、『三度』めの『柳家つばめを名乗った。第一次落語研究会が発足した際』、『扇歌も声がかかったが「ナニ、落語を研究する会? 俺の落語は研究ずみだよ! いまさら研究でもあるまい」とコメントし』、『参加しなかった。本人は』三『代目柳亭燕路』、三『代目春風亭柳朝らと』ともに、既に『「昔噺洗濯会」を創り』、明治三九(一九〇六)年一月七日より、『下谷広小路鈴本亭で第一回を開き』、『後進の指導に勤めた』。『「昔噺洗濯会」は』、『つばめ』の『死後』、『廃会したが、門下の』八『代目入船亭扇橋が震災後』に『復活させている』。最晩年の彼は『「善光寺行李詰め殺人事件」』で命を縮めた。彼の『実の妹おこうが』、『夫に殺害され』、『行李詰めになったセンセーショナルな事件が』発生し、『扇歌は痛く』、『気に病み、そのためか』、『病勢が悪化し』、『肺炎になり』、『静養中に腹膜炎を併発』、『「束の間に土となりけり春の雪」の辞世の句を残し』、『この世を去っ』ている、とあった。

「予、東京大學予備門に在た時」南方熊楠は明治一六(一八八三)年に和歌山中学校(現在の和歌山県立桐蔭高校)を卒業し、上京、神田の共立学校(現在の開成高校。当時は大学予備門(東京大学の前身)入学を目指して、主として英語によって教授する受験予備校の一校であった)に入学、翌明治十七年九月に大学予備門に入学した。参照した当該ウィキによれば、『同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)』、『芳賀矢一、山田美妙』『などがいた。学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れる』日々を送ったが、翌明治十八年十二月二十九日、『期末試験で代数』一『課目だけが合格点に達しなかったため』、『落第』となり、そのまま『予備門を中退』している。先の注に出た通り、柳家つばめが「仙台節」(現行、残るそれは、仙台名所尽くしの唄であるが、思うに、彼のそれは、恐らく先に述べた性的なミミクリーが巧妙に施されたものであったものと私は思う)なるものを唄って大流行した時期と一致する。なお、熊楠は大学予備門を中退した翌年の、明治一九(一八八六)年十二月二十二日に横浜港を出航して渡米している。

「耳食」「聞いただけでその物の味を判断する」の意から、「人の言うことを是非を判断せずに、無批判にそのまま信用することを言う。]

 何の宗敎も、陰陽の祕事が、多少、其根本に參入《まぢりいつ》て成《なつ》た如く、何國《いづく》の文學にも、彼事《かのこと》の、多少、入《い》らぬは無い。吾邦にも、「古事記」や「神代卷」などは、姑《しばら》く措《お》く、「堤中納言物語」、「蟲愛づる姬君」の卷、ある人々は、心付《こころづき》たる有《ある》べし。流石に糸惜《いとほ》しとて、『人に似ぬ心のうちはかはむしの、名を問《とひ》てこそいはまほしけれ』、右馬佐《むまのすけ》、『かは蟲に紛るゝ前の毛の末に、當《あた》る許りの人は無き哉《かな》』云々。「和名抄」、『「兼名宛」云、髯蟲一名烏毛蟲。』。和名加波無之。〔「兼名宛」に云はく、『髯蟲(かはむし)、一名は「烏毛蟲(うまうちゆう)」と名づく、和名「加波無之(かはむし)」。〕と見えて、今、云ふ毛蟲也。彼《かの》姬君の陰毛を毛蟲に擬《なすら》へて嘲《あなど》りたる也(「嬉遊笑覽」附錄)。又、「玉造小野」で、小町の髑髏《どくろ》に生《はへ》たる薄が、「秋風の吹くに付《つけ》てもあなめあなめ」と聲するに、業平が「小野とは言《いは》じ。薄、生《おひ》たり」と付《つけ》たと「無名祕抄」に見ゆるを、實は女陰《ぢよいん》を詠んだに相違無いと、物徂徠《ぶつそらい》の說だつたと記憶する。今は知《しら》ぬが、明治十八、九年迄、和歌山抔で、三線稽古の手解《てほどき》に、必ず「齋藤太郞左衞門、一寸《ちよつと》ツテチン、一寸ツテチン、會《あひ》たい事ぢやとなあ」と云《いふ》のを敎へた。西澤一鳳の「傳奇作書」附錄上に、享保七年[やぶちゃん注:一七二二年。]興行せし「井筒屋源六戀寒晒《ゐづつやげんろくこひのかんざらし》」に、『「東がねの茂右衞門、サア來た來た。」(これは予は一向聞かぬ)、また、「齋藤太郞左衞門、一寸逢度《あひたい》事ぢや。」との唱歌を唄ふ事、有り。此二つの歌、最《もつとも》古き物と思はる。』と有る。又、明治十九年頃、上方で「所詮女房に持ちやしやんすまい、せめてお側の下女なりと」てふ唄、行《おこなは》れた。長々、洋行して歸つて、三十四年冬、熊野へ來ると、勝浦港抔で、盛んに唄ひ居《をつ》た。是も、元祿十五年[やぶちゃん注:一七〇二年。]、近松門左衞門作「曾根崎心中」、「道行血死期の霜」に、德兵衞とお初と、梅田橋を渡り乍ら、情死唄《しんぢゆううた》を聞き、自分らも頓《やが》て、「噂の數に入り、世に唄はれん、唄はば唄へ、唄ふを聞《きけ》ば、どうで女房にや持《もち》やさんすまい、入《いら》ぬ者ぢやと思へども」と有るを見ると、「所詮、女房に持《もちや》しやんすまい。」てふ冒頭で作つた俗謠は、元祿の昔し、既に有《あつ》たのだ。是等から推すと、上に述《のべ》た播磨の名所の文句も、荒濱町の萬町步節の趣向も、ずつと古く世に出て居《をつ》た事と惟《おも》はれる。〔(增)「爲愚痴物語《ゐぐちものがたり》」六の「女は佛菩薩出生の本懷なること」參照すべし。〕

[やぶちゃん注:『「堤中納言物語」、「蟲愛づる姬君」の卷、ある人々は、心付《こころづき》たる有《ある》べし。……』以下の「嬉遊笑覽」附錄の引用に私は激しく賛同すものであるる。眉毛を剃らずに毛虫のような眉を残したままの気味の悪い少女を見、右馬佐は、その眉の忌まわしさを、即座に、女の秘所に生える陰毛の茂るそれにミミクリーして、この奇体な少女を嘲ってかく詠じ捨てたのである。私は大学時分に同話の国文学者の講義を聴いたが、当然、こうした肝心の裏の意味を感じていたであろうに、それを授業で指摘するには、当時の多くの国文学者連中は、甚だシャイであって、そこまで述べなかったのには、寧ろ、お笑いとして、私はその教師を嘲って、それ以降、講義を完全にサボったのを思い出すのである(試験論文では「優」を頂戴したが)。

「和名抄」の当該部は巻十九の「虫豸部第三十一」の「虫豸類第二百四十」の「烏毛虫」であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年の版本の当該部で校合した。

国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の下巻(正字)の右の頭書「陰毛を毛虫になずらふ」が当該部。

『「玉造小野」で、小町の髑髏に生たる薄が、……』これは「玉造小町子壯衰書」ではなくて、江戸中・後期の国学者尾崎雅嘉の「百人一首一夕話」(ひゃくにんいっしゅひとよがたり:「百人一首」の作者に関して和歌や様々な文献資料により詳細に記された解説書。没後の天保三(一八三三)年刊。私は岩波文庫版で所持する)の巻之二の「小野小町」に依拠したものである。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの活字本のここ(画像中央附近の右左前後)で視認出来る。

「西澤一風」(寛文五(一六六五)年~享保一六(一七三一)年)は江戸中期の浮世草子・浄瑠璃作者。大坂の書肆正本(しょうほん)屋主人。本名は義教。「新色五巻書」の発表以来、「御前義経記」などの浮世草子が好評を博し、西鶴没後の浮世草子界で活躍した。享保八(一七二三)年頃からは、豊竹座の座付作者として浄瑠璃を執筆。作品に「北条時頼記」、浄瑠璃の歴史・故実を記した「今昔操年代記」(いまむかしあやつりねんだいき)等がある(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「井筒屋源六戀寒晒」国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで活字本が視認出来る。当該部を探す気になれない。悪しからず。

「曾根崎心中」これは知り過ぎているほど、文楽で何度も見た作品であるので、私には注は必要ない。一応、当該ウィキをリンクはさせておく。

「爲愚痴物語」仮名草子。曾我休自(そがきゅうじ)作。寛文二(一六六二)年刊の随筆。全八巻。作者については伝記不明であるが、作中に、独身であったこと,朝鮮に行ったことなどが告白されてある。全巻で百四十二段あり、神・儒・仏の教訓を語りつつ、また、故事や見聞等をも書き記している。織田信長の家来野間藤六の話、一休和尚の話、大福長者の教えなど、雑多なものが含まれている。「可笑記」に始まる仮名草子の随筆系統の作品である(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

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