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2023/07/19

ブログ1,980,000アクセス突破記念 南方熊楠「南方閑話」正規表現版 始動 / 扉・本文標題・「傳吉お六の話」(その「一」・「二」・「三」・「四」)

[やぶちゃん注:本電子化注は、既にこのブログ・カテゴリ「南方熊楠」他(一部はサイト「鬼火」の「心朽窩旧館」PDF縦書一括版有り)で完遂した正規表現版オリジナル注附「南方隨筆」・「續南方隨筆」に続けて始動する。

 「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 なお私は、本書に含まれている、「人柱の話」は、発展的決定稿としてのそれである「續南方隨筆」版を、ブログ版で全六回で完遂しており、それ以外に、先行して、古くに「選集」版を底本にしたサイト版「人柱の話」(新字新仮名)を電子化しており(「徳川家と外国医者」とのカップリング版)、さらに、『「人柱の話」(上)・(下) 南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』もその後に電子化している。その関係上、この際、過渡期的中間稿として、本書のものも電子化することで、南方熊楠の思考の過程の全貌を見渡せるものとした思い、性懲りもなく電子化注することとした。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、 南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。但し、私が強い生理的嫌悪感を持った内容(というか、南方熊楠特有の、わざと不快な性的内容をセンセーショナルに丸出しにしたり、奇妙な造語で示唆して喜んだり、それを掲げて「どうじゃい!」とほくそ笑むような露悪的傾向部分を指す)に就いては、向後、意識的に注を附さない場合があるとお断りしておく。また、本書の掲載論考は全部で八篇であるが、長いものは分割して示す。今回も全七回であるが、二分割する。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日早朝、1,980,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年七月十九日 藪野直史】]

 

南 方 閑 話

 

 

南 方 熊 楠 著

 

[やぶちゃん注:扉の標題

 なお、次の次の左ページのここから、序文のようなものが載るのだが、どうも言葉遣い(敬体)や、その語り口は、どう考えても、南方熊楠の文章とは思えない。可能性として編者の民俗学者で文筆家としても知られる本山桂川の認めた序文のように思われてならない。本山は逝去が昭和四九(一九七四)年であることから、もし、本山の文であるとなると、著作権法に抵触するため、電子化しないことにした。

 その後のここに「目次」が載るが(一ページ分で収まっている)、それは全部の電子化注が終わってから、附すこととする。

 以下は、その次の次の左ページにある、本文前の標題。]

 

南 方 閑 話

 

南 方 熊 楠

 

 

      傳 吉 お 六 の 話

 

[やぶちゃん注:以下の『「譚海」卷七』の話は、事前に原話をフライングして電子化しておいたので、読みは最小限に留めたから、まずそちらを読まれたい。「譚海」は津村正恭(まさゆき)淙庵(そうあん)の著わした江戸後期の随筆。寛政七(一七九五)年自序。全十五巻。津村淙庵(元文元(一七三六)年?~文化三(一八〇六)年)は町人で歌人・国学者。名は教定。正恭は字で、号は他に三郎兵衛・藍川など。「津村」の代わりに「員」「圓」と記した。京都生。後に江戸の伝馬町に移り住んで久保田藩(秋田藩)佐竹侯の御用達を勤めたが、細かい経歴は伝わらない。「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞奇譚をとり纏めたもので、内容は公家・武家の逸事から政治・文学・名所・地誌・物産・社寺・天災・医学・珍物・衣服・諸道具・民俗・怪異など広範囲に及び,雑纂的に記述されてある。平賀源内・池大雅・石田梅岩・英一蝶・本阿弥光悦・尾形光琳などの人物についての記述も見える。多くの文人と交流のあった彼の本領は雅文和歌であったが、今、彼の名は専らこの「譚海」のみで残る(以上は、ウィキの「津村淙庵」及び平凡社「世界大百科事典」と底本解説を参照した)。読み易さを考えて「一」は多量に改行を用いた。]

 

       

 津村正恭の「譚海」卷七に次の話を出す。

 武州熊谷の農夫、母妻三人住んだが、身代不如意となり、

「江戸に出で、三、四年、奉公して金を蓄へ、歸つて質地をも取還《とりかへ》し安堵すべし。」

とて、母の孝養を妻に賴みて出立す。其夜、桶川に宿らうとするに、一人旅故、驛に宿るを得ず、宿外れの小農家に就て、次第を語り歎くと、憐んで宿《と》めてくれた。其家夫婦と、十三、四の少女子の三人暮しで、其女子、誠に怜悧で、よく世話してくれたから、此男、殊に愛憐を覺え、翌朝、懇ろに、其厚意を謝し、特に錢二百文を紙に包んで、强《しい》て渡して打立《うちた》つた。それより江戶に着して、新吉原の妓館「丁子屋」の米舂《こめつ》き男に採用され、一年、給金二兩で居付《ゐつ》き、金を受《うく》る每に、故鄕へ送り、萬事律義に働くにより、追々、轉職・增給され、妓女・嫖客《へうかく》[やぶちゃん注:遊廓で遊ぶ者を言う。]よりの氣付けも多く、六年許りに、金百七十兩を儲けたから、

「一先《ひとまづ》、歸鄕して、質に入れた田地等を取返し、母・妻に安堵させた上、又、歸參して奉公したい。」

と望み、主人に許容された。因つて、其旨、鄕里へ告げやり、荷物も先立《さきだつ》て送り、例の金子を、肌に着けて、故鄕に向かうと、板橋の邊より、怪しい男子、離れず附き來たる。

『これ、盜人《ぬすつと》。』

と知つて、一計を案じ、酒屋に入《はい》つて、錢を拂ひ、酒を暖めしむると、盜人も亦、然《しか》する。用足しと見せ懸けて、背戶に往くに、外に通ふ道有り。其を一走りに遁れて、漸く、桶川に到り、日、猶ほ、高けれど、新設の驛舍に着き、草鞋も脫ぎ肯《あへ》ず、一室に潜まり臥す。初夜過《すぐ》る頃、門の戶、けわしく敲《たた》き、

「今宵、爰に宿つた一人旅の男に、用あれば、ここ、明けよ。」

と云つて、内に入るを、襖の𨻶より窺へば、晝、吾に付き纏ひし盜人で、頓《やが》て竈の側に臥した樣《やう》也。

 ところが、此處に、二十一、二の優しい女、有つて、宵より賄ひしたが、此時、來つて、「御方は何とやらん見た樣也。六年前、此宿外れの家に宿つた方で無いか。」

と問ふ。

「さては。其時、十三、四で、吾を懇待された娘か、何して此家に在《ある》や。」

と云へば、

「兩親も歿したので、緣に觸れて、爰に奉公す。」と答ふ。

「扨は。緣あらば、不思議の再會もぞする。就ては、今夜、一大難儀に逢ひ居る。そもじの働きで、救ひ玉はれ。」

とて、盜賊に付けられた仔細を語ると、「彼《か》の盜人は、此街道、著名の兇漢で、其れを厭ふて追出《おひいだ》さば、此家に仇《あだ》をするから、止むを得ず宿し置いた。所詮、金を持居《もちをつ》ては、命も危うし。妾《わらは》に一策あれど、申し難し。」

と云ふに、此男、嬉しく、

「萬事、其方の敎へに隨ふべし。」

と云ふ。女、

「如何《いかが》なる申し事《ごと》だが、其金を、暫く、妾に預け、夜更けて、脫れ走り玉へ。金を預つた印《しる》しは、此外に、なし。」

とて、髮にさした櫛を取つて、

「この櫛だに、持來《もちきた》らば、金を渡さう。」

と言つた。男、悅んで、肌《はだへ》の金を、女に渡し、其櫛を懷中し、女の敎へのまゝに、

「明朝、六つ時に立つべし。」

と勝手へ告げ、寅の刻迄、俟つと、女、竊《ひそ》かに、來て、戶を開いて、押し出す。其より、敎へられた道をしるべに、遁れて、早く、己《おの》が在所へ着いた。

 村人、交々《こもごも》、來たつて、無事を悅ぶ事、大方ならず。夜更け、人も來らず成つて、此男、母・妻に、櫛を示し、仔細を語り、

「明朝、親しき人に持たせ遣《つかは》して、金子と引き替へ來らしめん。」

とて、神棚へ納めて臥《ふし》た。翌朝、起きて、神棚を開くに、櫛が無い。百方、搜索しても、彌々《いよいよ》見えず。已むを得ず、知人、二、三輩、同道して、其日の暮方、桶川の驛舍に着し、

「櫛は紛失したれど、自分、對談せば、疑はずに、金を渡さるべしと、思ふて來た。」

と言うに、

「先刻、あなたの使《つかひ》とて、精《くは》しく、口上あつた故、金を渡した。乃《すなは》ち、櫛は、是《これ》に在り。」

とて、頭より取つて示すに、男、大いに驚き、失望す。女、熟考して、

「一先づ、村に歸り、必ず、騷ぎ惑ふ體《てい》を見せず、暫《しば》し程《ほど》へて、久々で江戶より還つた祝ひに、村人、殘らず、饗應に招き玉へ。金を渡した人の顏を、よく覺え居れば、饗應の日、定まらば、窺《ひそ》かに知らせ玉へ。妾、往きて、偷《ひそ》かに覗《うかが》はば、其人を見出だす事も有るべし。これ、必ず、遠方の人の所業でなく、村中《むらうち》の者が騙《かた》つたので有らう。」

と云つた。

 男、理に服し、歸村し、一、二日あつて、村中へ、禮に廻り、

「一同を、招請したし。」

と述べた。其後、村人、申し合せて、

「何の日、參るべし。」

と申し來たり、當日、名主以下、悉く、來會した。宴半ばなる頃、彼《かの》女、窺《ひそ》かに、勝手へ來り覗ふて、

「彼《か》の上客の、次の男こそ、前日、金、受取つた人なれ。」

と云ふを見れば、名主の子也。

「さもあれ、今、此場で、申し出《いで》んも、いかが。」

と躊躇する。此女、

「否《いな》。此席を過ぎなば、後に糺さん證據、なし。唯今、其人を捉えて[やぶちゃん注:ママ。]その由を言ひ玉へ。其人、承服せずば、妾、自《みづか》ら出《いで》て斷《ことわ》り申すべし。」

と云ふ。男、敎へのまゝ、名主の子を捉へて、

「此人、我《わが》金子を騙り取つた。」

と、委細、話すと、名主、大いに怒り、

「確かなる證據、有りや。」

と問ふた。男、廼《すなは》ち、女を呼ぶと、女、進み出《いで》て、

「この人に違ひ無し。」

と言ふ。名主も、

「斯《か》く確かな證人有る上は、一先《ひとまづ》、立ち歸り、忰《せがれ》が器物を穿鑿すべし。夫迄《それまで》、此忰を動かさぬ樣《やう》。」

と云つて、家に歸り、暫く有つて、立ち歸り、

「さてさて、面目なき次第。この忰が簞笥の底に、此金子、言はるゝ如く、百七十兩あり。不屆き至極なる事。」

とて、財布を亭主に渡す。頓《やが》て、名主の子、其座を立《たつ》て跡を晦《くら》まし、其家の妻、亦、行方《ゆくへ》知れず。そこで村人一同、申しけるは、

「是迄《これまで》は包んだが、斯くある上は、述ぶる也。亭主、江戶へ行き、不在六年の間に、名主の息、此家の妻女と、懇ろ、眼に餘る次第、誰《たれ》知らぬ者も無かつたが、今日迄、知らせず。さればこそ、櫛の一條も起つた。」

と云ひ續けた。かくて、人々、歸りて後、此男も獨身なり。老母を介抱すべき人もなければ、

「幸ひ、桶川の彼《かの》女、發明な上、是迄まで、再宿の奇緣もあり。年は、餘程、違ふが、妻として、然るべし。」

と、人々が取り持つて、夫婦とした、とある。

 

       

 

 右の話は「大岡仁政錄《おほおかにんせいろく》」の内、「越後孝子傳」の中にもあり、男を傳吉、女をお六と云ふ。それを仕組んだ芝居が、予等《よら》の幼時、上方で屢《しばし》が演ぜられ、又、チヨンガレ、乃《すなは》ち、「浮れ節」にも語られた。お六は、平素、父母に孝行な上、この俠氣《けふき》[やぶちゃん注:弱い者を助けようとする気性。]な行ひが有つたので、大岡忠相が賞讃して傳吉に添はしたのだつた、と覺えてゐる。「守貞漫稿」九編に、『今世、木曾路《きそぢ》藪原《やぶはら》驛邊にて木製の麁《そ》なる指し櫛を製し、專ら賣之《これをうる》也。號《なづ》けて「於六櫛《おろくぐし》」と云ふ。古《いにし》へお六と云ふ孝女、始之《これをはじむ》。故に名とす、と云傳《いひつた》へり。又、東海道土山《つちやま》驛にても、似之《これにに》る櫛を賣る。多くは「素《そ》」に非ず、「粗《そ》」なる朱塗又は藍《あゐ》色のちやん塗り等にて、鍮粉《ちゆうふん》の蒔繪等ある物也。三都の人は用ひず、專ら鄙用《ひよう》なり。」とあり、文化元年成つた「木曾路名所圖會」三に、『「名造《めいざう》お六櫛」、宮腰、藪原、奈良井《ならゐ》等《とう》に、此店、多し。抑《そもそ》も此《この》お六櫛は、木曾の山中の名造にして、山間に、田圃、少なければ、多く、諸品を造り、之を貨《うり》て業《なりはひ》とす。特《こと》に近年、「お六櫛」と銘して諸州に商ふ。木は「棟梁(ムネハラ)」[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]と云ふを製す。」と記《しる》す。「ムネハラ」は「ミネバリ」の木を指すものか。拙妻の話しに、「以前は、厚く丈夫な櫛の棟側《むねがは》に「お六」と銘したのが、熊野邊迄も弘《ひろ》まり居《をつ》たが、昨今、更に見受けず。」と。他國には今も行はるゝにや。木曾の孝女と、桶川の俠女と、別人ながら、何《いづ》れも櫛に緣有る故、孝女の名を採つて俠女に付けたと見える。

[やぶちゃん注:『「大岡仁政錄」の内、「越後孝子傳」』この二つのタイトルでは、国立国会図書館デジタルコレクションでは、当該話がかかってこない。内容的に最も酷似したものなら、作者不詳の「大岡仁政錄越後傳吉之傳 古今實錄」(明一八(一八八五)年鶴声社刊)があるが(リンクさせた「目錄」の章題だけみてもそれが判る)、主人公は確かに「傳吉」であるが、ヒロインは「お專」である。

『チヨンガレ、乃ち「浮れ節」』とあるが、「チヨンガレ」は「浮れ節」とはイコールではない。ウィキの「チョンガレ」によれば、『ちょんがれは、ちょぼくれとも呼ばれる門付芸である。詞章の頭に「ちょんがれちょぼくれ」と連続する部分があり、主に上方では「ちょんがれ」と、江戸・東京では「ちょぼくれ」と呼ばれた。しばしば阿呆陀羅経とも極めて近い芸能とされる』とあり、『江戸時代後期の大坂を発祥とする。江戸に下って「ちょぼくれ」と呼ばれるようになった』し、『「ちょんがれ」は、のちの浮かれ節や浪曲(浪花節)につながる芸能である』(下線太字は私が附した)とあるのに対し、「浮れ節」というのは、「浪曲節」の『大阪から西の地方で』の言い方であると、ウィキの「浪曲」「浮かれ節」から転送されいる)にあった。

「守貞漫稿」は所持する同一書(別書名)の所持する岩波文庫「近世風俗志」で校合した。

『「木曾路名所圖會」三に、『「名造《めいざう》お六櫛」、……』同書は各所の名所図絵のベストセラーを流行らせた秋里籬島の中でも代表的なもので、安永九(一七八〇)年に刊行されたもので、中山道だけでなく、日光までの道程も書かれてある。以上の当該部分は、国立国会図書館デジタルコレクションの「大日本名所圖會」第二輯第一編(大正八(一九一九)年刊)の当該部(「信濃」「藪原」の「名造お六櫛」)のルビを参考にした。但し、そこでは「ムネハラ」ではなく『棟梁(むねはり)』とある。「藪原驛」は中山道三十五番目の宿場で、現在の長野県木曽郡木祖(きそ)村のここ(グーグル・マップ・データ)。

「麁なる」大雑把な。粗末な。「精密な細工や凝った飾りなどをしない素朴な」の意でとっておくが、後の方では、相応な細工がなされたものもあるようである。

「於六櫛」現在も長野県木曽郡木祖村薮原の名産品である。当該ウィキによれば、『お六櫛の始まりについては、次のような伝説がある』。『持病の頭痛に悩んでいた村娘お六が、治癒を祈って御嶽山に願いをかけたところ、ミネバリで櫛を作り、髪をとかしなさいというお告げを受けた。お告げのとおりに櫛を作り』、『髪を梳いたところ、これが治った。ミネバリの櫛の名は広まり、享保の頃になると、中山道藪原宿の名物として作られるようになった』。『太田蜀山人』の「壬戌紀行」(じんじゅつきこう:享和二(一八〇二)年)や、『山東京伝』の「於六櫛木曽仇討」(おろくぐしきそのあだうち:文化四(一八〇七)年)に『その名が見られるなど、江戸時代から知名度は高かった』。『弘化年間』『には、藪原宿の』七十八『%の家が櫛に関する仕事に就いていた』とあった。

「棟梁(ムネハラ)」『は「ミネバリ」の木を指すものか』同前のウィキに、『お六櫛の主要な原材料はカバノキ科のミネバリやイスである』。『ミネバリは硬いだけでなく』、『粘りがあり、狂いも出ないことから、最適の素材とされる』。『イスは耐朽性に優れて割れにくく、肌目は極めて緻密で表面仕上がりは良好とされる』とある。「ミネバリ」はブナ目カバノキ科ハンノキ属ヤシャブシ Alnus firma の異名当該ウィキによれば、『ヤシャブシ(夜叉五倍子)の名の由来は、熟した果穂が夜叉にも似ていることから。また果穂はタンニンを多く含み、五倍子(フシ)の代用(タンニンを多く含有する五倍子は古来、黒色の顔料、お歯黒などに使われてきた)としたためといわれる。オハグロノキとも呼ばれる』とあった。また、「イス」はユキノシタ目マンサク科イスノキ属イスノキ Distylium racemosum のこと。当該ウィキによれば、『材は本州や四国に自生する木の中では』『非常に堅く重い部類となる』ともあった。

「土山驛」当該ウィキによれば、『近江国甲賀郡にあった東海道五十三次の』四十九『番目の宿場で』、『現在の滋賀県甲賀市土山町北土山』及び『土山町南土山にあたる』とあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「ちやん塗り」松やにを塗ったもの。

「鍮粉」真鍮を細かい粉にしたもの。

 なお、以下の「本朝藤陰比事」の一話は、「一」同様に、読み易さを狙って、改行し、段落を成形した。]

 上に長く引いた「譚海」は、安永四、五年[やぶちゃん注:一七七五年から一七七六年頃。]の交[やぶちゃん注:ママ。「頃(ころ)」の意らしいが、「交」には、その意味はない。]、筆を起した書といふ。然らば、「譚海」より少なくとも六十年前の出板、「本朝藤陰比事《ほんてうとういんひじ》」一に、次の話ありて、疑いなく、お六・傳吉の話は、之から化出《ばけだ》したと思はれる。云《いは》く、

 城州鷺坂《さぎさか》村の大工彥六、妻を思ひ置《おき》て關東へ下り、五年間、稼いで、金子百兩三分拵《こしら》へ、故鄕へ還る途中、「宮の渡し」邊より、二人の大男に附かれ、甚だ困り、水口《みなくち》宿で、人定《ひとさだま》まつて後[やぶちゃん注:「夜中、人々が、皆、寝静まって」後(のち)の意であろう。]、竊《ひそ》かに古い片手拭に金を包んで、宿後《やどうしろ》の藪に埋《うず》め、印《しる》しに箸《はし》一本を立置《たてお》いた。

 翌朝、宿を出て、町外れの松原で、大男どもに捕へられ、金を强求《がうきゆう》された。

 彥六、裸に成つて、唯《ただ》、卅文を出すと、盜賊、憫《あは》れんで、二百文、呉れた。

 在所へ歸つて、此事を妻に語り、明日《あくるひ》、早々、水口の籔[やぶちゃん注:ママ。]に往き、掘つて見るに、金、なければ、家に歸つて、自殺を圖る。

 所へ、隣人、來《きた》つて、地頭へ訴へさせた。

 地頭、

「汝、家内は。」

と問ふに、

「吾等夫婦と、妻が愛育せる猫一疋。」

と答ふ。

 地頭、命じて、「急ぎ、酒を調へ、『無事歸鄕』を祝ひて、村中一同を饗《きやう》し、其席へ、猫を放つて、猫が誰かの膝の上に登らば、その者の名を申出《まうしい》でよ。」

と云つた。

[やぶちゃん注:「本朝藤陰比事」江戸時代作者不詳の裁判物。当該話は巻之一の巻頭を飾る「失ひたる金子再」(ふたたび)「手に入」(いる)「大工」。国立国会図書館デジタルコレクションの『近世文藝叢書』第五(明治四四(一九一一)年國書刊行會刊)のこちらから読める。

「城州鷺坂村」旧村名としては見当たらないが、京都府城陽(じょうよう)市富野鷺坂山(とのさぎさかやま:グーグル・マップ・データ)附近と考えてよかろう。

「宮の渡し」現在の愛知県名古屋市熱田区神戸町にある「七里(しちり)の渡し跡」(グーグル・マップ・データ)。熱田神宮の南直近にあったことからの、より知られた通称の一つ。

「水口宿」近江国甲賀郡にあった東海道五十三次の五十番目の宿場。現在の滋賀県甲賀市水口町旧市街で、この附近(グーグル・マップ・データ)。]

 扨《さて》、宴席で猫を放つに、誰の膝へも上らず。

 日傭《ひやとひ》の與五八《よごはち》、後《おく》れ到《いた》るに、猫、忽ち、其膝に上る。

 因つて、翌朝、申し出る。

「與五八、老母と、只、二人貧しく暮らし、母に孝なり。」

と聞き、老母のみ、御前《ごぜん》へ召し、問はるゝに、

「わが子、頃日《このごろ》、『少々、仕合せしたる初穗。』とて、錢五百文、『參詣の散錢《さんせん》[やぶちゃん注:「賽錢(さいせん)」に同じ。]に。』とて、くれし。」

と申す。

 一時《いつとき》許り、門前に控へさせた後、彥六に、

「古片手拭《ふるかたてぬぐひ》の土《つち》付きたるに、包みながら下さるゝ百兩のうち、一兩は、拾ひたる者、早《はや》、遣《つかひ》ひたり、と思ふ。村中の者ども、馳走された禮に、償《つぐな》ひやるべし。彥六が女房は、思案の上にて、離別するとも、勝手次第。與五八は、今後も孝行し、其孝行の志《こころざし》を以て、他人に難儀を掛《かく》る樣《やう》なる、非道の心を、改むべし。」

と言渡《いひわた》された。

 實は、門前に控へさせた間に、役人を、與五八方へ、遣はされ、諸道具を改めしめしに、金子一包を、古き片手拭に、土附きながら包んだのを、古長持《ふるながもち》の底より見出《みいだ》し、持歸《もちかへ》つたのだ、と。

 此話には、櫛のこと、一切、見えぬ。然し、姦夫が、姦婦から、本夫《ほんぷ》の祕事を聞き取り、本夫よりも、手𢌞《てまは》[やぶちゃん注:底本では「手廼」であるが、「選集」を参考にして、かく訂した。]しよく、金を手に入れた趣きは、全くお六・傳吉譚と同型だ。畜生が、日頃、愛し吳れる主婦と、心安い男子に狎《な》れ親しんで、其姦慝《かんとく》を露顯せしめた譚は外國にも有る。

[やぶちゃん注:「姦慝」邪(よこし)まで悪いこと。邪心を隠し持つこと。隠れた罪悪。

 なお、次の「三」の話も読み易さを考慮して、盛んに改行し、段落を成形した。]

 

       

 

 古印度の鞞提醯國《びだいけいこく》の重興王《ちやうこうわう》が賢相大藥《たいやく》に國政を委ねた時、一婆羅門、早く書論に閑《なら》ひ、妻を娶る爲に、多く、財賄《ざいわい》[やぶちゃん注:「財」「賄」共に「宝(たから)」の意で、金銭と品物。]を費やした。

「是では、ならぬ。」

と氣が付《つい》て、金儲けの爲め、旅行し、漸く、五百金錢を獲《え》、還《かへ》つて、自村《じそん》、近く成つて、考へたは、

『自分の妻は、年、若く、貌《すがた》、美しい。久々の留守中に、吾褄《わがつま》ならぬ褄を重ね居《を》るも知れねば、無闇に此金を見せるは、禍ひの本《もと》。』

と合點して、林中に趣き、多根樹下《たこんじゆか》に埋《うづ》めて、宅へ歸つた。

 其艷妻(えんさい)は、

「夫《をつと》の不在に、『洗濯』。」

と、「善聽」と名づくる婆羅門《バラモン》と情を通じ、「洗濯の仕合ひ」を續け居《をつ》た。

 當夜も、盛んに、芳饌《はうせん》[やぶちゃん注:「佳肴」(かこう)に同じ。]を設け、食ひ訖《をわ》つて、一夜を千夜と、いちやつく内、突然、夫が歸つて門を敲く。

「誰《た》ぞ。」

と問ふに、亭主也。

 妻、忙《いそ》ぎ、善聽を、臥牀下《ぐわしやうか》[やぶちゃん注:ベッドの下。]に隱し、門を開き、夫を見て、大悅の體《てい》を現じ、房内に入《いれ》て、餘饌を振れ舞ひ[やぶちゃん注:ママ。]、飽滿《はうまん》せしめた。

 夫、

『是は、妻が他の男と私通し居るらしい。左無《さな》くば、夜中、斯《かか》る美食を設《まう》くる筈、なし。』

と考へ、

「今日は、吉日でも節句でも無きに、何故《なにゆゑ》、こんな上等な食事をするか。」

と問ふと、妻、

「最近、天神より、『汝の夫は、歸り來たるべし。』と夢の告《つげ》が有つたから、特に馳走を設けて待つて居《をり》ました。」

と答へた。

 夫、聞いて、

「我、誠に福力あり。豪《すご》い物だ。家に歸らうとすれば、天神が、妻に、夢で、知らす。」

と言つた。

 食を濟ませ、身を洗ふて、久し振りに、妻と同寢《ともね》して、不在中の事共を問ふ中《うち》、妻、夫に、

「君、われに離れて、久しく求めた財錢《ざいせん》は、手に入《はい》つて歸つたか。」

[やぶちゃん注:「と」が欲しい。]問ふと、

「少々は、持ち歸つた。」

と答へた。

 其時、妻、牀下に隱れ居る善聽に、合圖で、謹聽《きんちやう》を促《うな》がし、夫に、

「幾許《いくばく》、金錢を持つて來たか。」

と尋ねると、

「五百。」

と答ふ。

「何處《どこ》に置いたか。」

と問ふと、

「明日、見せよう。」

と云つた。

 妻曰く、

「われと、君と、同一體なるに、何故《なにゆゑ》、祕するや。」

と。

 夫曰く、

「城外に隱した。」

と。

 妻、又、合圖で、情夫の留意を促がし、

「城外の、何處へ隱したか。」

と問ふに、

「某《ぼう》林中、多根樹下に。」

と答へた。

「隨分、旅行と私の身の心配とで勞れたでせう。速く、息《やす》みなさい。」

と言はれて、夫は眠つて了《しま》ふ。

 善聽は、情婦の勸めに、早速、其宅を出て、件《くだん》の樹下を掘《ほつ》て、五百金錢を盜み、自宅へ還つた。

 翌曉《よくあかつき》、婆羅門、林下へ往つて見ると、金錢、なし。

 自《みづか》ら、頭を拍《う》ち、胸をたゝき、大《おほい》に哭《な》いて、還る。

 親類・朋友らの勸めに隨ひ、泣いて、賢相大藥に訴へると、大藥、暫時、無言の後、

「何時《いつ》、何處へ、其錢《ぜに》を隱したか、誰か、見て居《をつ》たか。誰かに、話したか。」

と問はるゝまま、一々、答へた。大藥、

『是は、妻が情夫を持ち、其男の所爲《しわざ》だ。』

と察したが、先づ、婆羅門を慰めて、

「其金錢の見當らない日には、自分、償《つぐな》ひやるべし。」

と語り、

「扨、汝が宅に、犬、有りや。」

と問ふに、

「有る。」

と答へた。

「然らば、宅に歸り、斯《か》く斯くせよ。」

と計《けい》を授けた。

 婆羅門、其敎《をしへ》の儘に、歸宅し、妻に向つて、

「我、旅へ立つ時、『この旅、成功せば、八人の婆羅門を供養すべし。』と大自在天に立願《りふぐわん》した。今度、無事に還つたから、左樣せにや成らぬ。付《つい》ては、婆羅門、八人の内、四人を、予が招待するから、汝も、四人を招待せよ。」

と云つた。

 其から、又、大藥の所に至ると、大藥、其家來一人を、婆羅門に副《そ》えて[やぶちゃん注:ママ。]、

「其宅へ、八客人、來たる時、門側《もんがは》に、此男を立たしめ、彼ら、飮食中、此者を戶内《こない》に立たしめよ。」

と敎へ、其男には、

「何ごとによれ、注意を怠らず、八客人の内、誰に犬が吠え懸り、誰に尾を掉(ふ)り向ふかを、審《つまびら》かに視よ。」

と命じ、さらに婆羅門に敎へて、

「每客に饌を据《すゑ》る事を、自分《おのづから》爲《なさ》ずに、妻に任せおけ。」

と言ひ、家來に命じて、

「饗應中、妻の動作に注意せしめ、誰に向かつて合圖をなし、誰と言《こと》いふに、顏色、變《へん》ぜず、誰と語るに、笑顏、よく、誰に最好の饌を据える[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]かを、よく覺えてわれに報ぜよ。」

と言ひ含めた。

 其より、婆羅門、其家來を連れ、歸宅し、門口《かどぐち》に立番せしめ、自分と妻とが、各《おのおの》四人の客を招くに、七客、前後して到る每《ごと》に、犬、吠《ほえ》た。

 其に引換《ひきか》へ、善聽、入り來《きた》ると、犬、吠ず。

 その面を、眺め、耳を垂れ、尾を掉つて、後《あと》に隨ひ行つた。

 座、定まつて、諸客に膳を据える[やぶちゃん注:ママ。]時、主婦、眉を搖《ゆる》かして、善聽に相圖し、又、微笑し、又、注視し、一番好い饌を、彼に据えた。かく、見屆けて、家來は、大藥に、注進した。

 大藥、聞き已《をは》つて、善聽、果たして、五百金錢を盜んだ、と、知り、召し、責むれど、服せず[やぶちゃん注:底本「せず」。「選集」で訂した。]。

「死ぬまで、禁獄すべし。」

と脅《おびやか》されて、遂に、白狀した。

 善聽、乃《すなは》ち、歸宅し、包みの儘に、五百金錢、持ち來つて、大藥に渡せば、大藥、之を、婆羅門に渡し、婆羅門、謝恩の爲に、其半ばを、大藥に寄せたのを、一先づ、受けて、直ちに、之を、返戾《へんれい》した。

 この報、城内に聞ゆると、王・相《しやう》・臣・民、擧《こぞ》つて、大藥の智を稱せざる無く、孰れも、斯《かか》る名人を得て、政事を任せたるを相賀《さうが》した。(「根本說一切有部毘奈耶雜事」二七。シェフネル譯「西藏《チベット》諸譚」八章)

[やぶちゃん注:「鞞提醯國」「ヴィデーハ国」で、古代インドの国名で、現在のビハール州(グーグル・マップ・データ)北部にいたヴィデーハ族の国名らしい。

「重興王」不詳。読みはあてずっぽ。

「大藥」不詳。同前。

『シェフネル譯「西藏《チベット》諸譚」八章』エストニア(当時はロシア帝国)生まれのドイツ系の言語学者でチベット学者のフランツ・アントン・シーフナー(Franz Anton Schiefner 一八一七 年~一八七九年)の著書Tibetan tales, derived from Indian sources(「インドの情報に由来する、チベットの物語」)。「Internet archive」のこちらが当該章。]

 

       

 

 此に因《よつ》て彼《かれ》を惜しむを、漢語に「屋(をく)を愛して、烏(からす)に及ぼす。」と云ふ。上に述べた猫と犬は、奧樣を愛して、其情夫に及ぼし、却《かへ》つて恩人の密事を暴露したのだ。然し、數多《あまた》の畜生の中には、相應に、よい謀《はかりごと》を運《めぐ》らして、恩人の情事を遂げさせた例も有る。西鶴の「好色二代男」六に、『伏見の廓《くるわ》「桔梗屋」の遊女「最中(もなか)」と云ふ者、京役者山川《やまかは》てふ美男に心を移し、浮名を立《たて》て、自《おのづか》ら勤め淋しく成るを、親方、折檻して、春雨《はるさめ》の夜《よ》、桃林《とうりん》に追出《おひだ》せば、惜しまぬ曙《あけぼの》は深く、尙、頻りに車軸《しやじく》して、泡沫《うたかた》の、今にも命《いのち》の消えるに、「山川の、音《おと》も、せぬか。」と歎く。世に情《なさけ》は掛けて置くまじき者には非ず。犬さへ、我を悲しみ、宵より俱《とも》に濡れて、物こそ言はね、伽《とぎ》とも、なれり。竹垣を、潜りて行方《ゆくへ》知らず、見えねば、是も、うたてかりしに、常の別れに跡を慕ひて、京の道筋を覺へて[やぶちゃん注:ママ。]、山川が住家《すみか》の板戶《いたど》に近く、聲の忙《せは》しきに、寢覺《ねざ》めを驚き、門に立出《たちいで》て見れば、彼《かの》里の犬也。「如何樣《いかさま》にも、心得難し。」と、其夜を籠《こめ》て、一番鷄《いちばんとり》の二の橋で鳴く時、漸く驅着《かけつ》け、揚屋《あげや》の淸右衞門に樣子を聞いて、兎角は命が有る故に、『由無《よしな》き思ひ』と、心底《しんてい》、極むるを、色々、異見申し盡《つく》して、親方にも内證《ないしやう》申して、又、昔の如く、逢はせけるに、尙、「二世《にせ》まで。」と申し交《かは》し、互ひに、小指の先に燈心を、束《つか》ねて油《あぶら》に浸《した》し、自づと、消ゆる迄、顏、見合せて、固めけるは、例《ためし》なき事也。後には、見るも怖ろしく、何《いづ》れも、親方に殘る年《ねん》を貰ひて、山川を請出《うけだ》して、日ごろの思ひ出、是ぞかし。と有る。

[やぶちゃん注:「屋(をく)を愛して、烏(からす)に及ぼす」「愛(あい)、屋烏(をくう)に及ぶ」「屋烏の愛」とも言う。「人を愛すれば、その人の住む家の屋根にいる烏(からす)まで好きになる」で、「愛する人の関係するすべてのものが好きになること」の喩え。

『「好色二代男」六に、伏見の廓「桔梗屋」の遊女「最中」という者、……』「小指は戀の燒付(やきつけ)」。国立国会図書館デジタルコレクションの『定本西鶴全集』第一巻(潁原退蔵他編一九五一年中央公論社刊)のここから読める。但し、歴史的仮名遣は原本自体が不全である。熊楠の引用は、概ね、本文に即している。当該部は、ここの見開き部分である。]

 ハラムやヒユームが言つた通り、中古から歐人が喋々《てうてう》する艶道《えんだう》(ガラントリー)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]は、本邦の平安朝に盛えた其れと等しく、姦通・私奔《しほん》[やぶちゃん注:「駆け落ち」のこと。]、十の七、八に居《をつ》たれば、美名で非行を葢《おほ》ふたのだ。其に引替《ひきか》え[やぶちゃん注:ママ。]、一雙《いつさう》の朱唇、萬客、嘗《な》め次第と定まつた近古の日本遊女に、義理を立て、節操を守り、身を黃白に任せなんだ者、西洋に比して、格段、多かつたは、其志《こころざし》、例の武士道を立て通した武士にも劣らず、東海姬氏國《とうかいきしこく》の精英は、男子に存せずして、妓女に存すとも謂ふべし。勸學院の雀は「蒙求」を囀り、スパルタの豕《ぶた》は鈴音を聞けば隊伍を正《ただ》して立つた。其から、南方先生方の錢龜《ぜにがめ》・ヒキガイルは斗酒《としゆ》だも、辭せぬ。道理で、遊女道の壯《さか》んだつた世には、犬迄も、義理を知り居《をつ》た事と惟《おも》ふ。

[やぶちゃん注:「ハラム」イギリスの歴史家ヘンリー・ハラム(Henry Hallam 一七七七年~一八五九年)か。一七九九年、オックスフォード大学を卒業し、弁護士を開業したが、その後は歴史研究に専念し、「中世ヨーロッパ観」(The View of the State of Europe during the Middle Ages:一八一八年)・「イギリス国制史」(Constitutional History of England:一八二七年)・「十五世紀から十七世紀に至るヨーロッパ文学序説」(Introduction to the Literature of Europe in the 15th16th and 17th Centuries:一八三七年~一八三九年)等を著わした。終生、「ホイッグ党」の支持者として、奴隷貿易廃止を擁護した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「ヒユーム」スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒューム(David Hume 一七一一年~一七七六年)か。ロック・ベーコン・ホッブズと並ぶ英語圏の代表的な経験論者であり、生得観念を否定し、経験論・懐疑論・自然主義哲学に絶大な影響を及ぼした。歴史家・政治思想家・経済思想家・随筆家としても知られ、啓蒙思想家としても名高い(当該ウィキに拠った)。

「艶道(ガラントリー)」gallantry。ギャラントリィ。ここは、一般に言われる西洋の「騎士道」、精神や行為の気高さ・勇敢さ、特に、女性に対する騎士道的気遣い・礼儀正しさを指す語である。

「東海姬氏國」梁の高僧宝誌和尚が、文字を交錯させて作り、吉備真備が観音の助けによって読んだという伝説のある「耶馬台詩」の句「東海姬氏國、百世代天工」に拠るもので、「東方の海上にある、女性が首長である国」の意。則ち、「日本國」のこと。

『勸學院の雀は「蒙求」を囀り』諺。平安時代、藤原氏の子弟教育のために創建された学校勧学院に巣を作る雀は、身近な学生たちが、朝夕、朗読する「蒙求」を覚えて、声を合わせて囀る、というもので、「身近に見たり、聞いたりすることは、自然に習い覚えてしまうこと」の喩えとされて使われる。「蒙求」(もうぎゅう)は、唐の李瀚(りかん)の撰になる、年少者向けの歴史上の教訓を記した啓蒙書。

「スパルタの豕は鈴音を聞けば隊伍を正して立つた」出典を知らないが、古代ギリシア世界で最強の重装歩兵軍を誇った、かのスパルタの豚ならば、判らぬではない。なお、スパルタの兵士養成訓練では、豚の血をベースとした真っ黒な臭くて不味い「ブラック・スープ」が食事とされたらしい。]

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