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2023/07/01

「奇異雜談集」巻第一 ㊅作善の齋會に僧衆中酒をのめる時位牌の靈魂の喝食形を現じて火炎に燒し事 / 巻第一~了

[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

   ㊅作善(さぜん)の齋會(さいゑ)に僧衆中(そうしゆちう)酒(しゆ)をのめる時《とき》位牌の靈魂の喝食(かつしき)形(かたち)を現じて火炎(くわゑん[やぶちゃん注:ママ。]以下同じ。)に燒(やけ)し事

 ある人のざうたんにいはく、田舍の事なるに、一人のしゆぎやうじや、人家の邊(へん)を行《ゆく》に、喝食一人《ひとり》、ふと、來りていはく、

「客僧、きたりて、齋を喫せよ。」

とあり。

[やぶちゃん注:「喝食」「喝」は「唱えること」の意で、禅宗で、大衆(だいしゅ)に食事を知らせ、食事に就いて、「湯」・「飯」などの名を唱えること。また、その役を務める僧。後には、専ら、有髪(うはつ)の少童が務め、「稚児」或いは「喝食行者」(かっしきあんじゃ)と呼んだ。しばしば、成人僧らの男色の対象となった。]

 客僧、うけごひ、よろこびて、したがひゆけば、すなはち、寺の門に入《いり》ぬ。

 喝食、ざうりを、ぬいで、緣にあがりて、みかへりて、

「客僧、這裏(こち)へ。」

と、いひて、おくへ行《ゆき》て、見え給はず。

[やぶちゃん注:「這裏」通常は「しやり(しゃり)」と読む。「這」は中国語の俗語で「此」の意。「ここ・このうち・この・こちら」。「者裏」とも書く。]

 客僧、緣にあがりて、茶堂(さだう)のきわ[やぶちゃん注:ママ。]に居す。

[やぶちゃん注:「茶堂」茶室。但し、底本の挿絵を見ると判る通り、独立した堂ではなく、寺院中の相当に大きな仏壇のある間(ま)であることが判る。]

 客殿には、僧衆、れきれきとして、齋(とき)のさいちうなり。

 客僧にも、おなじく、膳を供(そなへ)て喫(きつ)せしむ。

 客僧、はるかに、仏檀をみれば、喝食、だんのうへに、靈供(りやうぐ)にむかつて居《きよ》す。

[やぶちゃん注:「仏檀」ママ(というより、実は底本では、どう見ても、私には崩し字としても「擅」にしか見えないのだが、これでは完全な誤字(「擅」には「壇」や「檀」に通ずる意味は全くない)となって話にならないので、国立国会図書館デジタルコレクションの活字本の「近世怪異小説」のそれで(右ページ七行目)、「檀」とした)。しばしば見られる表記だが、正確には誤りである。この「仏檀」は仏教では専ら「布施」の意で用いられる。]

 是は、喝食の御影(ごゑい)[やぶちゃん注:ママ。]なり。

 よく、さきの喝食に、にたり。

 座敷中(さしきちう)、酒(しゆ)の時分になりて、給仕人(きうじにん[やぶちゃん注:ママ。「きふじにん」が正しい。])、てうし[やぶちゃん注:「銚子」。]を持(もち)きたりて、ざしきに入れば、喝食の御影、あをき火に、全体、もゆるなり。

 あやしんで、つくづくみれば、僧衆、みな、酒を、うけて、のむとき、火炎、あかくなりて、はなはだ、もゆるなり。

 茶堂の僧に、

「仏だんのうちを、見たまへ。」

と、いへば、みて、おどろき、たつて、ゆきて、消さんと、おもへば、火、すなはち、きえて、あと、なし。

 その目には、喝食、見えず。

 客僧の目にも、

「火(ひ)、消(きえ)て、喝食の御影、なし。」

と、いヘば、茶堂の僧のいはく、

「なんぞ、喝食の御影あるべきや。喝食は、年(とし)十三なるが。此ほど、やみ給ひて、死去(しきよ)あつて、今日《けふ》、初七日の作善なり。いまに、御影の、ようい、なし。」

と、いふ。

 客僧、すなはち、心えたり。

『さきに、みちにて、我をよびしは、喝食の魂魄なり。いまの、御影とみえしも、こんぱくなり。作善に飮酒破戒(をんじゆはかい[やぶちゃん注:ママ。「をん」は「おん」が正しい。])のとが、たちまちに、火ゑんとなりて、もえたり。奇異の事なり。これを、院主(ゐんしゆ)につげ、かたらむ。』

と、おもふて、齋、おはる[やぶちゃん注:ママ。]を、まちてゐたり。

 僧衆、かへり散んじてのち、院主、茶堂にきたりて、

「客僧は、いづかたよりぞ。」

と、とへば、客僧のいはく、

「諸国一見のしゆぎやうじやにて候が、奇異なる事あつて、まいりて、囉齋(ろさい)を申候。」[やぶちゃん注:「囉齋」一般には「僧が四方を巡って托鉢して歩いては供養を請うこと」を指すが、ここはその「供養(喝食へのそれ)を院主に請うこと」を言っている。]

と、いへば、院主、

「何事ぞ。」

と、とふ。

 客僧、

「けさ、みちにて、喝食の、我を、よぴし。」

より、このかたの事を、つぶさにかたれば、院主は、ふしんの氣色(けしき)あり。

 客僧、また、いはく、

「喝食、ざうりをぬいで、緣にあがり給ひし。そのざうり、ありや、いなや。」

と、いへば、院主、たちてみるに、まことに、そのざうり、あり。

 見れば、喝食のざうり、燒繪紋(やきゑもん)、まぎれざるなり。[やぶちゃん注:「燒繪紋」不詳だが、紋を彫った鏝(こて)を当てて草履を飾ったものであろう。]

「此《この》城履(ざうり)は、病中より、くつだな[やぶちゃん注:「履棚」。]にありつるに、けさ、誰(た)が、とりいだすぞ。」

と、とへば、誰(たれ)も、とりいだすもの、さらに、なし。[やぶちゃん注:「城履」「草履」は「じやうり」とも読んだので、それに当て字したものと思われる。]

 これにて、院主、すこし、信ず。

 茶堂の僧も、また、いはく、

「仏檀のうち、やくるをみて、たつて、けさんと思ひつれば、火、きえて、あと、なし。」と、いへば、院主、

「さては。うたがひ、なし。」

と、いへり。

「客僧は、下戶(げこ)か、上戶(じやうご)か。」

と、とひ給へば、客僧のいはく、

「一盃(《いつ》ばい[やぶちゃん注:ママ。])はのみ候といへども、今の儀に、さかづきも、とらざるなり。」

と、いふ。

 院主のいはく、

「しよせん、中陰の間、酒(さけ)を禁斷(きんだん)すべし。」

と、いへり。

「客僧は、しんじん[やぶちゃん注:「信心」。]の道人(だうにん)、大修行底(《だい》しゆぎやうてい)の僧なり。」

とて、嚫金(しんきん)を、ほどこしあたふ。

 客僧、拜受して、さると云〻。

 

竒異雜談集巻第一終

[やぶちゃん注:「大修行底の僧」只管打坐(しかんたざ:余念を交えず、ただひたすら座禅すること。特に禅宗の語で、「只管」は「ひたすら」、「ただ一筋に一つのことに専念すること」で、「打坐」は「座禅をすること」を言う)のただ中にある優れた修行者のこと。

「嚫金」布施。但し、通常は「檀信徒から施される金品」を指す。]

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