梅崎春生「つむじ風」(その7) 「作戦」
[やぶちゃん注:本篇の初出・底本・凡例その他は初回を見られたい。]
作 戦
そろそろ日も暮れかかる頃、浅利圭介はソバ屋の卓で、ザルソバをさかなにして、お酒を飲んでいた。
家にもどって食事をしてもいいのだが、家で食べても食費は取られるし、それに家には酒はないし、ついふらふらとソバ屋に足を踏み入れてしまったのだ。
酒を飲もうと思い立ったのは、今日あちこちにかけ廻ったねぎらいの意味もあった。
「うん。今日は割にうまく行った」
二本目のちょうしを傾けながら、圭介はひとりごとを言った。
今日は割にお客が立てこんでいて、ソバ屋のおやじや小女(こおんな)もいそがしく、それにテレビで間の伸びたような顔の男が、マドロス歌などを歌っていたので、誰もその圭介のつぶやきに耳をとめる者はなかった。
そして圭介は、わざわざ席をかえてテレビに背を向けた。圭介はあのマドロス歌のようなコジキ節は大きらいなのである。
「あの歌い手は、何てえ面(つら)をしてやがるんだろう。まるで伸び切ったソバみたいじゃないか」
その頃、ランコは圭一を寝かしつけながら、物思いにふけっていた。今日という日は、ランコにとっで、近来になく物思いにふけった日であった。
「さて。おつもりとするか」
圭介は代金を卓に置き、ふらふらと立ち上った。のれんをわけて外に出た。
圭一がかるい寝息を立て、すっかり寝ついたころ、玄関の扉ががたごとと引きあけられた。そして濁った声がした。
「ただいま」
「どなた?」
「僕だよ。おばはん」
「ああ、おっさんか。お帰りなさい。御飯は?」
「ソバを食べて来たよ」
上り框(がまち)を踏む、ぎいという音がした。
「おっさん。ここに入りなさい」
ランコはやや命令的に言った。
「お茶をいれますよ」
廊下の足音は、ちょっとためらう風だったが、そのまま障子をあけて、茶の間にのそのそと入って来た。ランコは上目使いにじろりと圭介を見た。
「お酒を飲んでるんですね」
「ああ、飲んだよ」
圭介はチャブ台の前にあぐらをかいた。
「あちこちかけ廻って、たいへん疲れたんだ。飲んだって、あたり前でしょう」
「どこをかけ廻ったの?」
圭介はそれに答えずに、親指を立てて、納戸の方向を指した。
「あれは? 陣内君は?」
「いますよ」
「今日一日、うちにじっとしていたのかね」
「昼から、圭一を連れて、映両を見に行きました」
「ふん」
注がれた番茶を、圭介はすすった。
「何か話したか。何も話さなかっただろうね」
「あたしが?」
「おばはんじゃないよ。陣内君だよ」
「いろいろ話しましたよ」
ランコは用心深く、圭介の態度を観察しながら答えた。
「いろいろ、さまざまの話をね」
「そうかね。そりゃよかったね」
浅利圭介はあっさり答えて、そ知らぬ顔で茶をすすった。
陣太郎がどんなことをしゃべったのか、まだ見当がつかないし、うっかりした受け答えをすれば、ヤブヘビになるおそれがある。圭介は茶を飲み乾して、二杯目を請求した。
「あの人と一緒に、事業をやるんですってね」
圭介がそ知らぬ顔をしているものだから、ランコは切りこんだ。
「うん」
事業とは大げさなことを言いやがったな、と内心では考えながら、圭介はおうようにうなずいた。
「まだはっきりした内容のものじゃないがね」
「あの人、戦争中は、海軍兵学校にいたんですって。生徒としてよ」
「そうなんだ。でも、在学中に、田淵という教官をぶんなぐって、それが問題になって追い出されたんだ」
「教官をぶんなぐったんだって?」
はてなという表情で、ランコは首をかたむけた。
「違いますよ。何となくふらふらと脱走して、東京で憲兵につかまり、刑務所に入れられたんですよ。海軍の大津刑務所」
今度は圭介の方が、はてな、という表情になった。
「なかなか反抗心の強い人ねえ。おっさんにもそのくらいの気概があって、早く逃げ帰って呉れれば、あたしもカツギ屋なんかになって、苦労しないで済んだのに」
「ムチャ言って呉れるな」
圭介は嘆息した。
「僕の部隊は外地だよ。外地で脱走して、どうやって日本に逃げ帰れる? 海があるんだよ、海が」
「そりゃそうね。それにおっさんは、あまり動作が早くないからね。直ぐつかまってしまうわね」
「僕だけがとっつかまるように、おばはんは言うけれど、誰だってつかまるよ。なにしろあの頃の軍隊機構というのは、たいへんなものだったからな。陣内君だって、つかまったじゃないか。もっともあの男も、あまり動作が敏活という方じゃないが。で、大津刑務所に入れられて、それから何と言ってた?」
「軍法会議にかけられないように、家の方で圧力をかけたんだって」
ランコも自分でお茶を入れ、旨そうにすすった。
「大したものねえ。軍法会議に圧力をかけるなんて。松平家って、徳川もそれに入るんですってね」
「松平? おばはんは一体、何の話をしてるんだい?」
「松平よ。松平陣太郎さんのことよ」
ランコはいぶかしげに圭介を見た。
「おっさんは自分の友達の名も知らないの?」
「あっ、そうだ。そうだ。松平だ」
圭介は大げさにうなずいて見せた。心の中では、圭介には通告せずに、ランコにそんなことを打明けた陣太郎に、かんかんに腹を立てながら、
「つい陣内と呼び慣れているから、ど忘れをしていたよ」
「なかなかしっかりした人のようね」
ランコの追求をあれこれとごまかして、浅利圭介が納戸に戻ってくると、陣太郎は部屋の真中に肱(ひじ)枕して、ぐうぐう大いびきを立てて眠っていた。
(何というのんきな奴だ。おれの苦労も知らないで)
音を立てないように、そっと納戸に入り込み、隅の机の前に坐ると、陣太郎はいびきを中止して、パッと眼を開いた。
「どうでした?」
「どうでしたもくそもないよ」
圭介は投げ出すように言った。
「僕があちこちかけ廻り、さんざん苦労しているのに、大いびきで寝ていたりして。起きて来なさい」
「だって、あなたがそう言ったんでしょう」
陣太郎は不服そうに、のそのそと身体を起した。
「自分は出かけるが、君は家にじっとしておれって」
「じっとしていなかったじゃないか。圭一を連れて、映画なんか見に行ったそうじゃないか」
圭介は口をとがらせ、ポケットから煙草を取り出した。
「一体君は何という名前だね。松平だというのは、ほんとか?」
「そうですよ」
「じゃ陣内というのは阿だ?」
「ペンネームです」
「それならそうと前もって、僕に知らせとかなくちゃ、ダメじゃないか。ランコからそこをつっかれて、僕は大汗をかいた」
圭介はハンカチをひっぱり出して、額をごしごし拭いた。
「おかげで、酔いがいっぺんに醒めたわい」
「おや、酒を飲んだんですか?」
「飲んだっていいだろう。あちこち廻って疲れたし、それに僕の金だ。他人のお世話にはならん」
「昨日失業保険金がおりたんでしょう」
陣太郎は当然のように、机上の圭介の煙草に手を伸ばし、一本をつまみ出した。
「でも、酒なんか、あんまり飲まない方がいいんじゃないですか。事業の運動費も要るし、それに毎日の食費を、おばはんに払わなくてはいけないでしょう」
「誰に聞いた?」
圭介はぎろりと眼を剝(む)いた。
「おばはんがそんなことまでしゃべったのか?」
「おばはんからではありません。坊主からです」
「坊主? あんまり慣れ慣れしく言って呉れるな。圭一君と言いなさい」
圭介は上半身をねじ向け、手を伸ばして、書棚からウィスキーの瓶とグラス二つを取り出した。醒めた酔いを取り戻そうというつもりらしい。
「実際、圭一の奴、小学一年生だというのに、そんな告げ口をする。これもランコの教育が悪いんだ。おやじをバカにするなんて、飛んでもない息子だ」
「で、持主は何者でした?」
陣太郎が話題を転じた。
「三・一三一〇七の持主」
「まあ待ちなさい」
圭介は二つのグラスに、とくとくと液体を充たした。
「おどろいたことにはね、三・一三〇七という番号の自動車が、東京には二台あるのだ。一台は自家用、一台は営業用」
「三・一二〇七番の自動車は、東京に二台ある」
浅利圭介はそう繰り返して、グラスをぐっとあおった。陣太郎もそれにならった。
「一台、自家用車だな、これは加納明治という著述業者が持っている。加納明治、知っているかね?」
「小説家ですよ」
二つのグラスに充たしながら、陣太郎は答えた。
「ヘボ小説家です」
「そうか」
圭介は胸のポケットから、小さな革手帳を取り出してひろげた。
「もう一台、営業用だな、これは上風(かみかぜ)タクシー会社の車だ。名前からして全く速そうな感じがするな」
「すると、おれを轢(ひ)こうとしたのは、そいつかな?」
陣太郎はきらりと眼を光らせてグラスに手をやった。
「僕もそう思った。だから僕は、早速上風タクシー会社に出かけて行った」
「もう出かけたんですか。それはまずかったなあ」
「何故まずい?」
「いや、やはりこんなことは、充分に計画を立ててやるべきですよ」
陣太郎はまたグラスをあおった。
「ぶっつかる前に、向うの状況をよく調べなくては。それではまるで、日本海軍のミッドウエイ攻撃みたいだ。猪突盲進(ちょとつもうしん)というやつです」
「君は、海軍兵学校を――」
圭介はそう言いかけたが、それでは話がこんぐらかると思ったのだろう、話を元に戻した。
「僕は上風タクシー会社におもむき、社長に面会を申し込んだ。社長は上風徳行という男だ。僕は応接室に通された。応接室には標語が書いてあった。《スピードこそ最上のサービス》大へんなもんだねえ。街の中を気違いのように走り廻っている車があったら、それはきっと上風タクシーの所属だよ。もっともたいていの車が、気違いみたいに走り廻ってるがね」
圭介の長広舌のすきをねらって、また陣太郎はグラスをあおった。
「上風徳行という男は、そうだな齢は僕と同じくらいかな、いい体格をしていて、顎髭なんかを生やしている。よくよく聞いてみるとやはり海軍出身で、潜水艦に乗っていたそうだ」
「それで」
陣太郎はいらいらしたらしく、うながした。
「どう切り出しました? いきなり貴社の車が、人を轢いただなんて、切り出しはしなかったでしょうね」
「もちろんだよ。僕だっていろいろ策略を考えている」
圭介はちょっと気を悪くしたらしく、鼻翼をふくらませた。
「いきなりそう切り出せば、向うはしらを切るかも知れない。だから、おだやかに、三・一三一〇七という車は、お宅の所属ですかと訊ねてみた。すると上風社長の答は、その車はすでに他人にゆずったというんだ」
「誰に?」
「猿沢三吉。銭湯の経営者だ」
「つまりだね、この加納というヘボ小説家、猿沢という風呂屋、そのどちらかの自動車が君をはね飛ばしたのだ」
そう言って浅利圭介は、ウィスキー瓶に手を伸ばしたが、それをすぐにダラスに注ぐことはせず、いぶかしげにことことと振ってみた。そしで呟いた。
「ずいぶん減りが早いウィスキーだな」
「なるほどね。天に二日なしと言うが」
[やぶちゃん注:「天(てん)に二日(にじつ)無(な)し」天に二つの太陽がないように、一国に二人の君主があってはならない。「礼記」(らいき)の「曽子問」(そうしもん)の第七が出典。]
陣太郎はごまかすように、早口で相槌を打った。
「同じ番号の車が二台あろうとは、予想もつきませんでしたな」
「うん。そうなんだ」
圭介はたちまちごまかされて、ウィスキー瓶を下に置いた。
「番号の車さえ突きとめればと、かんたんに考えていたが、そうすらすらとは行かないらしい」
「それで、どうするつもりです?」
「仕方がないよ。一軒ずつ訪ねて見るつもりだ」
「つもりだ?」
陣太郎はまたもや圭介の眼をぬすんで、自分のグラスにちょろちょろと液体を充たした。
「じゃ、おっさんが、いや、浅利さんが、ひとりでそれをやろうと言うのですか?」
「もちろんそうだよ」
何を言っているのか、という表情で、圭介は陣太郎を見た。
「僕の他に、誰がそれをやると言うんだね?」
「おれ、ですよ」
陣太郎は自分の顔を指差した。
「おれだってやりたい。やる権利がある」
「君が?」
圭介は失笑した。
「何を言ってるんだね。いいかい。君は被害者なんだよ。はね飛ばされて、傷ついたのは君なんだよ。それがのこのこと、加害者のところに出頭すれば、一目で傷ついてないことが見破られるじゃないか」
「だから、両家の訪問を、十日ばかり延ばせばいいじゃないですか」
陣太郎も負けてはいなかった。
「そうすれば、おれも一口乗れる」
「そう膝を乗り出すな」
圭介はたしなめ、猫撫で声になった。
「いいかね。こういう交渉というのは、実にむつかしいもんだよ。綿密な頭脳と達者な弁舌、これがなくては成功しないもんだ。ところが、君はだね、自動車ではね飛ばされたショックから、まだ充分に回復していない。十日の期間を置いたとて、頭のネジが元に戻るかどうか――」
「まだそれを言うのですか!」
陣太郎は色をなした。
「おっさんはあくまで、おれの頭のゼンマイが狂っていると――」
「いやいや、そんなに言うのなら、それは取消す[やぶちゃん注:ママ。]。僕の失言だった」
圭介は形式的に頭をぺこりと下げた。
「しかしだね、やはりその仕事は、君には不適任だ。なぜかと言うと、君はもともと高貴の生れで、いっこうに下情[やぶちゃん注:「かじょう」。民間の事情。]に通じていない。しもじものことを、あまり卸存じでない。御存じでないことで、うまく行くわけがない。ね、判るだろ。だからこんな仕事は、しもじもの僕にまかせて置きなさい」
下情に通じないと浅利圭介に指摘されて、陣太郎は実に複雑な、あいまいな笑いを頰にうかべた。なるほど陣太郎は昨夜、たしかにそんな意味のことを言った。圭介はしめたとばかり、たたみかけた。
「この事件において、君は立役者なんだよ。立役者は立役者らしく、おっとりとかまえて、ちょこまか動き廻らないように心がけるんだね。それが肝腎(かんじん)だ。ちょこまか動きは、僕が引受ける」
「そういうわけには行かないですよ」
「なぜ?」
「だって、おれが、はね飛ばされた当人だからですよ」
陣太郎はけろりとした顔で言った。
「当人を抜きにして、事を運ぶことはできない」
「君はそう言うけれども――」
圭介はじれったそうに、自分の耳の穴に小指を入れて、ごしごしとほじくった。
「あの自動車の番号を見たのは、僕なんだぜ。君はヘッドライトに眼がくらんで、何も見なかったじゃないか。すなわち、僕という人間がいたからこそ、事が成立したんだ。僕がいなければ、何も始まらないんだ」
「そうおっしゃいますけれどね」
陣太郎も頑張った。
「番号を見た、番号を見たとえらそうにおっしゃるけれど、その自動車がおれをはね飛ばしたからこそ、番号を見るということに価値を生じたんですよ。おれがはね飛ばされなければ、つまりおれという人間がいなければ、おっさんがいくら番号を見たって、何にもならないじゃないですか」
「そりゃそうだが、しかし――」
「いいですか。よく考えてみなさい」
陣太郎はえたりとばかり、たたみかけた。
「今、おっさんがいなくなっても、事は運ぶんですよ。おれがいなくなったら、おれがこの家を出て姿をくらましたら、どうします? この家を出て、直接加害者に交渉することも、おれにはできるんですよ」
「僕だって――」
圭介は苦しげな表情になり、抵抗をこころみた。
「僕だって、架空の被害者を仕立てて、交渉することが、できないでもない」
「そうですか」
ぐっと低い、ドスのきいた声を陣太郎は出した。
「では、そうして下さい。おれは身を引きます。そして、一宿一飯の義理合い上、今までのいきさつを洗いざらい、おれはランコおばはんに報告して、それから退去します」
「そ、それは、待って呉れ」
たちまち圭介は狼狽の色を示した。
「一宿一飯だなんて、そんな古風な、マタタビ的なことを、言い出さなくてもいいじゃないか」
「義理ということは、大切です」
陣太郎はゆったりと答え、またウィスキーをどくどくと注いだ。
「おれを無視するか、おれのいい分を聞き入れるか、おっさんの取るべきは、その二つの中の一つです。一分間だけ、おれは待ちましょう。いいですか。一分間!」
陣太郎は腕時計を外して、二人の間に置いた。
圭介は苦悶の表情をうかべて、腕を組んだ。秒針がカチカチと動く。やがて陣太郎が言った。
「あと、三十秒!」
「あと、五秒!」
時計を見詰めながら、陣太郎は切迫した声で秒を読んだ。
「あと三秒。二秒。一秒――」
「わ、わかったよ」
浅利圭介は悲鳴に似た声を出した。
「き、きみの言い分を吞む!」
「そうですか」
陣太郎はふつうの声音に立ち戻って、無造作に腕時計をつまみ上げ手首に巻きつけた。ついでにグラスに手を伸ばし、中身をぽいと口の中にほうり込んだ。
「それが当然というものです」
「し、しかし、君の言い分を吞むということは、何もかも君にまかせるということじゃない。君の参加を半分ぐらい認めるという意味だぞ!」
圭介は言葉に力をこめた。圭介としても、今までの行きがかり上、どこかの政府代表みたいに、一方的に相手がたに吞まれっ放しというわけには行かないのである。
「そうですか。それでいいでしょう」
陣太郎は涼しい声で答えた。
「半分というと、相手が二軒だから、一軒ずつというわけですね」
「そ、そんな意味で言ったんじゃない。半分というのは――」
「半分は半分ですよ。あなたが半分、おれが半分、合わせて一になるわけです。さあ、では、おれがクジをつくりましょう」
「クジ?」
「そうです」
陣太郎は小机の上から、れいの用箋を一枚引き剝がし、二本の線を鉛筆で引いた。そして圭介には見せないようにして、その二本の線の下端に、素早く何かくしゃくしゃと書き込んだ。
「さあ、これです」
用箋の下半分をくるくると折り陣太郎は圭介の前につきつけた。
「ヘボ小説家を受持つか、風呂屋を受持つか。どちらかの線をえらんで下さい」
さっきからばたばたと一方的に取りきめられて、圭介はいささか逆上、落着きをうしなっていた。でも、クジをつきつけられた以上、話を元に戻すわけにも行かなかった。圭介は気持を沈めるために、ウィスキー瓶に手を伸ばした。
「おや、すごく減ったもんだな」
圭介はウィスキー瓶を電燈に透かして見た。
「わあ、いつの間にか、こんなに滅っている。おい、陣太郎君。君は一体さっきから、これをグラスで何杯飲んだ?」
「何杯というほどじゃありません。せいぜい十杯前後です」
「十杯前後? ムチャを言うな。誰も君に飲んで呉れと頼みゃしなかったぞ」
圭介は気分をこわして、自分のグラスだけに充たし、瓶はごそごそと背後の書棚にしまい込んだ。
「まったく、油断もすきもありゃしない。これは寝酒用にと、乏しい失業保険金をさいて買い込んだ貴重なウィスキーだぞ」
「それは失礼しました。つい眼の前にあったもんですから」
陣太郎はおとなしくあやまった。
「さあ、クジを引いて下さい」
圭介はグラスをきゅっとあおって、二本の線をにらみつけた。やがて意を決したものの如く、その一本の端をぴたりと指で押さえつけた。
「これだ」
圭介の指で線が押さえられたまま、用僕の下半分は、陣太郎によってするすると拡げられた。線の終りには、何か細長いものの形が書いてあった。
「小説家だ」
陣太郎がいくらか残念そうに叫んだ。
「おっさんは、小説家の係りです」
「これが何で小説家なんだね?」
細長いものの形を、圭介は指差した。
「これ、象形(しょうけい)文字か?」
「象形文字じゃありませんよ。ペンの絵です」
「ふん。するとこちらは――」
圭介は別の線の終りに視線をうつした。そこには、クラゲを逆さにした絵が書き入れられていた。
「温泉マークか。なるほどね。でも、何故文字にしなくて、記号にしたんだい?」
「文字だと時間がかかって、その間におっさんがクジはいやだと、言い出しはしないかとおもんぱかって――」
そして陣太郎は残念そうに、自分の膝をぽんとたたいた。
「実はおれが、加納明治の係りになりたかったんだ」
圭介はむっとした顔をしていたが、陣太郎のその言葉で機嫌を直したらしく、むずむずと頰の筋肉をゆるめた。
「そうだろう。実は僕も、この二人の中では、加納明治じゃなかろうかとにらんでいたんだ。小説なんかを書こうという連中は、大体において手先が不器用で、運動神経もにぶいにきまっている。自動車の運転をやりそこなったのは、この加納にちがいない」
「おれだって、小説を書こうと思っているんですよ」
陣太郎が口をとがらせた。
「小説?」
圭介はいくらか軽蔑したような声を出した。
「今朝がた、はやばやと起きて、何か書いていたようだが、あれが小説かね?」
「そうですよ」
「ふん。だから、加納明治の係りになりたかったのか。でも、クジできまったんだから、仕方がない。あきらめるんだな」
圭介は得意げににやりと笑った。
「そんなに口をとがらせることはなかろう。君だって、あんまり器用じゃないぞ。車にはね飛ばされたりして」
「おっさんだって、同じですよ」
「そう。僕もあまり器用じゃないな。軍隊ではそれで大ヘん苦労した」
自分の不器用を、圭介もあっさりと自認した。
「さて。そろそろ寝るか。明日は小説家訪問だ」
「ダメですよ。それは」
陣太郎は声を高くした。
「十日間の余裕を置くという約束じゃなかったですか」
「十日間の余裕って、君、そりゃ君にとって必要かも知れないが、僕には必要じゃないよ。明日行っても差支えない」
「ダメですよ。それはダメ!」
陣太郎は必死の頑張りの気配を示した。
「いくらなんでも、おっさんは、準備がなさ過ぎますよ。いきなりぶっつかろうなんて、それは無謀です。図上作戦というやつが必要だ」
「図上作戦?」
「図上作戦を知らないんですか?」
陣太郎は呆れたような口をきいた。
「もっともおっさんは、士官や将校でなく、陸軍上等兵なんだからなあ。仕方がないや」
「おっさんは止せ。おっさんと呼ぶなと、あれほど言ったのに、何時の間にかまたおっさん呼ばわりをしている」
浅利圭介は陣太郎をにらみつけた。
「それに、僕が陸軍上等兵だったことを、どうして知ってる? 誰に聞いたんだ?」
「おっさんでいいじゃないですか。おっさん」
グラス十杯のウィスキーが、ようやく全身に廻ってきたらしく、陣太郎の顔はあかくなり、舌もいささかもつれて来た。
「で、図上作戦。図上作戦というのは、戦闘の始まる前に、あらかじめ地図や海図やその他を用意して、作戦を練ることですよ。戦闘を図上でやって、結論を出す。今度の場合も、それをやらねばならない」
「どういう具合にやるんだね?」
圭介も興をもよおしたらしく、背後の書棚からウィスキー瓶を取出し、また自分のグラスにとくとくと注(つ)いだ。陣太郎はすかさず、自分のグラスをにゅっと突き出したが、圭介がそれに目もくれず、瓶をまた書棚に戻したので、さすがの陣太郎もシュンとした顔になった。
「飲ませて呉れんのですか?」
「あたりまえだよ。もう十杯も飲んだじゃないか」
圭介はウィスキーを口に含み、さも旨そうにタンと舌を鳴らした。
「さあこれから、図上作戦をやろうじゃないか」
「まだやれませんよ」
陣太郎はつっけんどんに答えた。
「何もデータがない」
「データ?」
「そうですよ。データが必要です。つまり、おっさんはこの度、加納明治の係りになった。ところがその加納明治について、おっさんはほとんど知ることがない。何も予備知識を持っていない。そうでしょう?」
「うん」
「それでぶっつかろうなんて、無茶もはなはだしい」
陣太郎は腰に手をあてて、反(そ)り身になった。
「加納明治がどんな作品を言いているか、どの程度の収入があるか、家族は何人か、仕事は何時やるか。また性格として、たとえばケチンボであるかないか、大胆か臆病か、気が荒いかやさしいか、腕力が強いか弱いか、さまざまなことがあるでしょう。それによって、おっさんの切り出し方もちがって来るわけだ。そうでしょう?」
「なるほどね」
圭介はほとほと感心したらしく、また書棚から瓶を取出して、今度は進んで陣太郎のグラスに注いでやった。
「海軍兵学校では、そんなことまで教えるのか。さあ、注いでやったよ。飲みなさい。ただし、これ一杯きりだよ」
「いただきます」
陣太郎はグラスをぐっと一息に乾して、よろよろと立ち上った。
「おれ、すっかりねむくなっちゃった。寝ることにします」
「なんだ。もう寝るのか」
圭介はがっかりした声で言った。陣太郎はそれもかまわず、不器用な物腰で、ばたんばたんと蒲団をしき始めた。
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